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穿つ者 4: マンデラ 2

2015年02月14日 | 連載中 穿つ者

< 1. 1994年の選挙 >

前回、マンデラは味方の黒人に向かって耐えることを訴えた。
その一方で、マンデラは最強の敵と対峙していた。


< 2.1985年、マンデラ釈放を願うデモ >

最後の敵が出現した
1993年5月、白人の極右勢力からなる武力組織が地下から現れた。
この組織は重装備をした10万の軍人からなり、ヒトラーを信奉する分派やクー・クラックス・クランの支部など、数多くの集団からなっていた。
彼らはマンデラを共産主義者でテロリストとみなし、黒人を蔑視することで共通していた。
彼らは、指導者の命令ならばテロ攻撃や暗殺も厭わないプロ集団だった。

彼らの指導者に迎えられた将軍は、陸海空軍の元最高司令官であり、かつて国内の武力制圧も指揮していた。
彼は選んでくれた民兵達に叫んだ。
「・・他に誰も守ってくれる人はいないのだから、自分を守らなければならない。・・農場も学校もすべて狙われている。・・自衛能力を奪われれば、我々は破壊されてしまう。・・我々の大義は正しいのだから、喜んで犠牲となろう!」

彼らは、純血白人国家「アフリカーナーのイスラエル」の建設を目指し戦うと誓った。
(アフリカーナーとは、主にオランダ移民の子孫からなる白人)


< 3.1994年、選挙の行列 >

マンデラの一手
マンデラは情報収集をすればするほど、敵の破壊力の大きいことを知った。
敵の将軍は「武装蜂起の日は近い」「南アフリカの政情は収拾がつかなくなるだろう」と言いつのっていた。
マンデラは、例え国家治安部隊を派遣し,この将軍を逮捕しても、彼を英雄と慕う軍部が反旗を翻す可能性が高いと考えた。
その9月、マンデラはその将軍との秘密会談にこぎつけた。

マンデラは将軍に概ね以下のように語った。
「戦いの道を選ぶことは可能だし、あなたの支持者たちの恐れや不安は良く理解している。この戦争は誰も勝利することのないもので、南アフリカにとっては得るものは何もなく失うばかりだ。あなたの軍は軍事に熟練しているが、私の方は数で勝っていて国際社会からは文句なしに支援が得られる。結局は『墓場の平和』になるのが落ちではないか」

会談を重ねて6ヶ月後、その将軍は武力攻撃の中止を命令した。
1994年3月、さらに全人種参加の総選挙に参加することを表明した。
こうして最大の敵は、雲散霧消し民主化への道が成った。


< 4. マンデラが27年間入っていた監獄 >

マンデラはなぜ将軍を説得出来たのだろうか
その将軍は後に語っている。
「敵と交渉するとき、最も重要なのは、テーブルの向こう側にいる人間の品格と、その人物が支持者の信頼を得ているかどうかだ。マンデラは両方を備えていた」
マンデラは多くの敵側の白人を魅了した。

しかしこれだけではない。
マンデラは獄中、アフリカーナーが話すアフリカーンス語を通信教育で学び、彼らの歴史や有名な詩などを独学していた。
将軍との会談で、彼は黒人の言葉ではなくアフリカーンス語で話した。
「アフリカーナーは黒人に酷いことをしたが、それでも、私はその人間らしさに大きな敬意を持っている」と彼は言った。

後に将軍は語っている。
「マンデラと話していると、アフリカーナー達の罪悪感や恐怖感は間違いなく薄らいでいった」

そして最後の詰めがやって来た
1994年初め、マンデラ率いる最大政党は、国歌を白人のものから黒人解放の歌に変えるべきだとした。
これをマンデラは猛烈に反対し、その二つの国歌を共に斉唱することにした。
これを聞いて、将軍は軍隊解散を決意した。

次回は、マンデラ氏の前人未到の功績を分析します。




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