夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

聖霊とは何か

2007年11月15日 | 宗教・文化

聖霊とは何か

キリスト教の神は、三位一体の神として知られている。父なる神、子なるイエス・キリスト、そして、聖霊である。この三者は本質的には同じものであり、それぞれとして現象として異なっているにすぎないとされる。

父である神とは、天地万物を創造された主体である。子であるイエス・キリストとは、言うまでもなく、新約聖書に記録されている神としての人であり、その精神は言葉・理性(ロゴス)としてとらえられている(ヨハネ書第一章)。イエスは父なる神と性質を同じくする。

そして、イエスの「死後」に、私たちにイエスの「精神」を告げ知らせ、教えるものが、いわゆる「聖霊」であるとされる(ヨハネ書14:16)。また、この「聖霊」とは、私たちに真理とは何かを悟らせるものでもある(ヨハネ書16:13)。同じキリスト教でも正教会においては、「聖霊」は「聖神」と訳されている。

使徒言行録には、イエスが使徒たちに、まもなく「聖霊」が降って力を受けることを告げられた後に、天に昇られたことが記録されている(使徒言行録1:8)。また、使徒言行録の同じ章には、「聖霊がダビデの口を通して預言している」(使徒言行録1:16)とも書かれている。この「使徒言行録」は「聖霊」の働きを受けた初期のキリスト教徒たちの活動の記録である。

もともと聖書で「霊」と訳されている言葉は、原語では「ルアハ」である。父なる神が土から人間を形作られたあと、その鼻から吹き込まれたものが「ルアハ」である。(創世記2:7)それによって人は生き(息)るものになった。ルアハには「息」とか「風」の意味がある。

英語では「スピリット」に相当する語である。そして、息を吹き込み、ふるいたたせるのは、「インスパイアー」である。芸術家が創作する原動力となるものが「インスピレーション」であり「霊感」である。ドイツ語では「ガイスト」に相当する。

もともと漢字の「霊」には、「雨の水玉のように清らかな、形や質量をもたない精気」を指すらしい(漢字源)。それは、目に見える形ある肉体に対して、目には見えない精神を指している。それはまた、目には見えない力であり、やがて、生きている人間に幸いや災いをもたらす、神や死者などの眼にはとらえることのできない主体を指すようになった。とくに、中国や日本では、この意味合いに使われる場合が多い。

しかし、「聖霊」の「霊」とは、ヘブライ語聖書の「ルアハ」や「吹く」という意味を持つギリシャ語の「プネウマ」の訳語であり、漢語や日本語の「死者の霊」や「怨霊」などに残っている死者の魂というような意味合いはもともとない。

イエスの死後は、イエスの精神は「聖霊」として働き、「信仰」によってその働きを受けた(インスパイアーされた)人々は教団を形成する。だから「聖霊」とはいわば、教団や教会などの共同体の精神でもあり、「ハギオ・プネウマ」「HOLY SPIRIT」「Der Heilige Geist」とは、むしろ、個人の観点からすれば「良心」としてとらえた方が、事柄をより的確に捉えることになるかもしれない。しかし、いずれにせよ、この「聖霊」の概念は、倫理的な存在である人間の精神に由来するものである。

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ユダヤ人、プロテスタントそしてカトリック

2007年11月11日 | 宗教・文化

ユダヤ人、プロテスタントそしてカトリック

イエスはカトリック教徒ではなかった。また、必ずしもユダヤ人でもなかった。
イエスはキリスト教徒そのものである。イエスはキリスト教徒の初心であり概念である。

それではカトリックでもないプロテスタントは、ユダヤ教にもどるのか。確かに、ユダヤ人とプロテスタントの間には共通項は多い。プロテスタントとユダヤ人は似ている。プロテスタントは現代のユダヤ人と言ってもよい。

しかし、本当のプロテスタントは、ユダヤ人に還るのではない。ユダヤ人でもないカトリックでもない、イエス・キリストそのものに還るのである。


神と私の間に、誰をも介在させることなく、神に私が直ちに接する。父なる神、聖霊、イエスのみが唯一の権威である三位一体の神に還るのである。そこに自由と独立がある。

 

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戦後民主主義の人間群像

2007年11月06日 | 宗教・文化
 

協栄ジム、亀田家処分を発表…興毅は「反則指示」認め謝罪(読売新聞) - goo ニュース

戦後民主主義の人間群像

少し前に、亀田一家兄弟がボクシング界に華々しくデビューしたとき、この一家と兄弟に戦後民主主義の新しい日本人像の典型を見るような気がして、この兄弟や一家についての感想を書いたことがある。

戦後日本人の、その品格のなさ、モラルの退廃をこの兄弟に象徴的に見るような気がして、新しい戦後日本人像として、こうした人格が生まれてくる日本の「文化的」背景について考察してみようと思ったからである。

悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る日本人像

一年ほど前に、数学者、藤原正彦氏の新書『国家の品格』が大ベストセラーになったけれど、その背景には、日本社会から事実として品格が失われつつあるという本能的な自覚が日本国民の間にも感じられているからだろうと思う。

心配していたとおり、今回の件でも亀田興毅君は一連の汚い反則行為について謝罪はしたけれども、人間は仮面を脱ぐように、そんなにはすぐに人格を取り替えられるものではない。

この一人の亀田興毅君の背後には、何十万人の小興毅君、何百万人の小大毅君の存在があるはずである。そして、こうした一人一人の日本人の累積が日本人像となって映る。彼に戦後民主主義の日本人像の典型を見るのは、偏見にすぎるだろうか。

そこには幸福な人間関係に必要な文化的な潤いや、芸術的な香気とか、高い道徳性とかは薬にしたくともない気がする。かって諸外国から礼賛されもした伝統的な礼儀正しさや慎ましやかさといった面影はない。

二十一世紀の日本人は、こうして無数の小亀田興毅君のような人格を自分たちの身近な隣人として、付き合いながら生きてゆかなければならないのである。果たしてそんな社会が暖かく幸福感にひたれるものになるだろうか。

 2007年10月27日

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日々の聖書(15)――神の裁き

2007年06月12日 | 宗教・文化

日々の聖書(15)――神の裁き

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象としていることは、宗教と同じである。

そして、神が世界を裁くという聖書の世界観は、歴史において理性が働いているという哲学の認識と本質的には同じである。聖書においては、神が天地を創造したとされるのであるから、そこに、自然や人類の歴史に、神の意思が貫かれていると見るのは当然である。かって老子も「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で同じ事柄を表現している。

路傍のあやめの花にも、空の鶯の囀りにも、神の働きを感じることもできる。そこにも神の摂理が働いている。時には、何の罪のない幼児がさまざまな事故に遭遇して、命を失うこともある。それも、ある意味では「神の意思」であるというほかない。それは、われわれ人間の想像を超えている。人類の歴史的な産物である国家もまた同じである。国家もその働きから言って、概念的には神の意思を担っている。

政治の世界も同じである。そこにも、また何らかの必然性が、宗教的に言えば、神の裁きが貫かれているとしか言いようがない。国家も国民も個人も、絶対的な神の意思によって裁かれるのであり、その裁きの網の目から漏れることのできるものはいない。

エレミヤの言葉にもまた、彼が生きた当時の人々、国民に対する神の裁きが告げられている。彼と同時代人の、彼の生きた社会の様相を、エレミアは記録しているが、それも、ただ記録するだけではなく、その「裁き」についても預言している。

エレミアは言う。

民衆は愚かで、分別もなく、
悪には知恵が働くが、善きことを行うことを知らない。(同書4:22)

エルサレムの通りを巡って人々をよく見るがいい。
市場に行って探してみよ。正義を行い、真理を求める者を一人でも探し出せるか。
もしいれば、主はエルサレムを許されるだろう。(同書5:1)

十分に食べ物を与えたのに、彼らは姦通し、
遊女とともに時を過ごす。
そして、太った種馬のように、情欲に燃え、
隣人の妻を慕い、いななく。(同書5:7~8)

預言者は嘘ばかり言い、
祭司は好き勝手なことをおこない、
人々はそれを喜んでいる。
お前たちは最後にはどんな目にあうか。(同書5:30)

エレミアとともにこうした時代を生きたエルサレムのユダヤ人たちは、紀元前587年ごろ、バビロニアの王ネブカドネザルによって、バビロニア(現在のイラク)に奴隷として囚われていった。ユダの王は目をつぶされ鎖につながれ、神殿も破壊された。そのときの悲惨な様子は、続篇のエレミアの「哀歌」の中に克明に描写されている。エレミアは明らかにそこに神の裁きを見ている。

こうした歴史的な事件は、何もエルサレムだけの出来事ではない。小ながらも、現代の日本においても、独立行政法人「緑資源機構」の汚職容疑で、関係者が三人、自ら命を絶っている。

その一人は、現職の農林水産大臣の松岡利勝氏だった。自らの命と引き換えにしなければならないほど、この事件が深刻なものになっていたということである。安部晋三内閣は、現職大臣の自殺によって守られたともいえる。農林水産行政で辣腕を振るった、松岡利勝氏が、そこまで追い詰められたということである。そこに働いていた過酷な必然性を、哲学もまた洞察せざるを得ない。個人の運命も、内閣の運命も、国家国民の運命も、神の御手からまぬかれることはできない。

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

 2007年06月05日

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