聖霊とは何か
キリスト教の神は、三位一体の神として知られている。父なる神、子なるイエス・キリスト、そして、聖霊である。この三者は本質的には同じものであり、それぞれとして現象として異なっているにすぎないとされる。
父である神とは、天地万物を創造された主体である。子であるイエス・キリストとは、言うまでもなく、新約聖書に記録されている神としての人であり、その精神は言葉・理性(ロゴス)としてとらえられている(ヨハネ書第一章)。イエスは父なる神と性質を同じくする。
そして、イエスの「死後」に、私たちにイエスの「精神」を告げ知らせ、教えるものが、いわゆる「聖霊」であるとされる(ヨハネ書14:16)。また、この「聖霊」とは、私たちに真理とは何かを悟らせるものでもある(ヨハネ書16:13)。同じキリスト教でも正教会においては、「聖霊」は「聖神」と訳されている。
使徒言行録には、イエスが使徒たちに、まもなく「聖霊」が降って力を受けることを告げられた後に、天に昇られたことが記録されている(使徒言行録1:8)。また、使徒言行録の同じ章には、「聖霊がダビデの口を通して預言している」(使徒言行録1:16)とも書かれている。この「使徒言行録」は「聖霊」の働きを受けた初期のキリスト教徒たちの活動の記録である。
もともと聖書で「霊」と訳されている言葉は、原語では「ルアハ」である。父なる神が土から人間を形作られたあと、その鼻から吹き込まれたものが「ルアハ」である。(創世記2:7)それによって人は生き(息)るものになった。ルアハには「息」とか「風」の意味がある。
英語では「スピリット」に相当する語である。そして、息を吹き込み、ふるいたたせるのは、「インスパイアー」である。芸術家が創作する原動力となるものが「インスピレーション」であり「霊感」である。ドイツ語では「ガイスト」に相当する。
もともと漢字の「霊」には、「雨の水玉のように清らかな、形や質量をもたない精気」を指すらしい(漢字源)。それは、目に見える形ある肉体に対して、目には見えない精神を指している。それはまた、目には見えない力であり、やがて、生きている人間に幸いや災いをもたらす、神や死者などの眼にはとらえることのできない主体を指すようになった。とくに、中国や日本では、この意味合いに使われる場合が多い。
しかし、「聖霊」の「霊」とは、ヘブライ語聖書の「ルアハ」や「吹く」という意味を持つギリシャ語の「プネウマ」の訳語であり、漢語や日本語の「死者の霊」や「怨霊」などに残っている死者の魂というような意味合いはもともとない。
イエスの死後は、イエスの精神は「聖霊」として働き、「信仰」によってその働きを受けた(インスパイアーされた)人々は教団を形成する。だから「聖霊」とはいわば、教団や教会などの共同体の精神でもあり、「ハギオ・プネウマ」「HOLY SPIRIT」「Der Heilige Geist」とは、むしろ、個人の観点からすれば「良心」としてとらえた方が、事柄をより的確に捉えることになるかもしれない。しかし、いずれにせよ、この「聖霊」の概念は、倫理的な存在である人間の精神に由来するものである。