夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ

2010年06月10日 | 哲学一般

 

ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ

たまたま入った喫茶店で、そこにおいてあった新聞に目を通していたとき、「現代のことば」というコラムがあった。そこに、同志社大学教授で国際経済学を専攻する浜 矩子(のりこ)氏が、「再び黄昏か、ポスト鳩山の日本政治」と題する小文を書いておられた。

浜氏は詩篇第百二十六篇から「涙のうちに種蒔くものは、歓びのうちに刈り取る」という一文とオペラ「ナブッコ」の中の一節「行けよ、我が思い。黄金の翼に乗って」を挙げた後、ヘーゲルがその著『法の哲学』の序文に語って以来、しばしば誰にでも引用されるようになった、「夕暮れ時になってはじめて飛び立つミネルヴァのフクロウ」について、次のように述べられていた。少し冗長になるが引用する。

>>

「翼といえば、もう一文。「ミネルバの梟(ふくろう)は黄昏時(たそがれどき)に飛び立つ」というのがある。これは、かの大哲学者ヘーゲルの言葉だ。彼の「法の哲学」の序文の中に登場する。
ミネルバは知恵の女神。フクロウはその使者である。古い知恵の黄昏の中から、新しい知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立ってゆく。そのようにして、人類は歴史の中を前へ前へと進んでゆく。そうヘーゲルは言いたかったのである。

<< 引用終わり。

確かに、①「ミネルヴァの梟はまず、迫りくる黄昏とともにその飛翔を始める。」とヘーゲルは書いているが、この一文は、その前文の比喩的なまとめとして述べられているのものである。その前には次のような文がある。

②「哲学が、その灰色に灰色を重ねてさらに塗り重ねるとき、そのとき生命の姿はすでに年老いたものになってしまっている。そして、灰色の中に灰色を塗ることによっては生命の姿は自らを若返らせることはできず、むしろそうではなく、ただ認識されるのみである。」

そして、②→①と続くこれらの文自体は、さらにその前に以下のパラグラフを受けて述べられたものである。

③「なお、世界はいかにあるべきかを教えることについて、一言言うなら、いずれにせよ、哲学は、そのためにはいつも遅すぎるのである。哲学が世界についての思想を時代の中にまず現すときには、すでに現実はその形成過程を仕上げており、自らを完成させてしまっている。概念が教えることは、必然的に同様に、歴史も教えている。すなわち、現実の成熟することのうちに、観念的なものが、まず現実的なものに対して互いに現れ始め、そして、前者(観念的なもの)は自らを、現実的な世界をその実体において把握して、知的な王国の形に築き上げるのである。」

だから、③→②→①とつながってゆく文脈のなかで、「ミネルヴァの梟はまず、迫りくる黄昏とともにその飛翔を始める。」という一文の示す意味は、哲学が現実の成熟のあとに遅れてやってくるものであるということ、現実が完成されてのちに、はじめて観念の王国、知の王国、哲学の王国が建設されるということを言おうとしているのであって、浜氏の言うように、

>>

「古い知恵の黄昏の中から、新しい知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立ってゆく。そのようにして、人類は歴史の中を前へ前へと進んでゆく。そうヘーゲルは言いたかった」

<<

ということなどではない。浜教授がここで推測しているように、フクロウは「新しい知恵の到来を告げる」ようなもの、ではまったくなく、フクロウに象徴される哲学というものは、現実が成熟した後に、その現実の中にひそむ実体を、知の王国として、観念の形態で、認識するに過ぎないということを言おうとしているのである。だから、ここで浜教授は、ヘーゲルが『法の哲学』の序文で言おうとしていることとはむしろ逆のことを言っている。

たまたま、この「夕暮れに飛び立つフクロウ」は、私のブログのタイトルでもあり、この標語の言葉の正しい真意が伝わらないとすれば、残念なことである。ヘーゲル哲学についてほとんど何の知識も持たない、多くの人々の誤解を避けるために一言しておかなければならないと思った。

このように正しい認識ではなく誤った認識を、大学教授が世間に流布するのも問題であるし、また、京都新聞の編集部には、あまりにも自明なこのヘーゲルの言葉の正しい真意を、浜教授に伝えるものが実際に誰もいなかったのだろうかとも思う。

ミネルヴァのフクロウは、すなわち哲学は、世界がいかにあるべきか、について教訓をたれようとするものではない。そうではなく、哲学は実在する現実の中に理性的なものを探求することであり、事柄の必然性という、現実的なものを把握することである。同じ序文でヘーゲルが言っているように、国家学は――哲学も――国家がいかにあるべきか教えることにあるのではなく、国家という倫理的な世界が認識されるあるがままを教えるものである。

これまでにも何度も繰り返し語ってきたように、国家や国民、民族の文化学術水準というものは、大学や大学院の水準に、それもとりわけ「哲学」の水準に規定されるものである。大学院で学者たちの提供する理論水準以上に、優れた国家を形成することはできないのである。

逆に言えば、国民は自らの民度にふさわしい程度の大学、大学院しかもてないということである。

菅直人首相も、安部晋三元首相も、麻生太郎元首相も鳩山由紀夫前首相も、大学や大学院で教授され教養を積んでから、市民社会に出て、ときには一国の首相の地位に就いたりするのである。だから、彼らが大学や大学院でどのような学問修行を積み重ねてきたのか、大学教授たちが、学生時代の彼らに、いかなる教育訓練の修行をさせてきたのか、それによって、国家や社会の各分野の指導者の資質も規定されるのである。政治においても劣悪な指導者しかもてないとすれば、それは、彼ら「指導者」たちが受けてきた大学、大学院での教育訓練が、事実として劣悪であったということを証明しているにほかならない。

新聞記者も学校教師も政治家も企業家も医師もスポーツ選手も、すべて大学、大学院で教育訓練されて社会に出る。やがて各分野で指導的な地位について行くにしても。だから、国家、国民、民族の運命を決するのは、大学、大学院での教育訓練の実際の内容である。劣化し堕落した大学、大学院での教育改革こそが、国家・国民・民族の死命を制することになるのはそのためである。

現在の多くの大学の憲法学者たちのように、自ら妄想する憲法第九条の「理想」を教え垂れるのではなく、まず、現実の世界史の中にある諸国家の実相をまず学生たちに教えなければならない。

ヘーゲルによれば、過酷な現実の中に見出すことのできる理性の与える満足というものは、憲法九条のような枯れた尾花のように拙く浅いものではない。それは生きたみずみずしい薔薇の花であり、その美しさに歓び踊り心より満たされるものであるという。

 

 

 

 

 
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概念と種子

2010年02月17日 | 哲学一般

 

概念と種子

この論考が、「概念の概念」について研究することを根本的な目的にしていることは言うまでもありませんが、これまでも、「概念」については、その本質を「種子」との類比でたびたび説明してきたところです。一種のアナロジーですが、「概念」が「観念的な種子」でもあるということです。(もちろん、アナロジーによって説明することは哲学することではありませんが。)

しかし、こうした観点から「概念」について説明しているのは、私の知るかぎり大学のいわゆる講壇哲学者にも、在野の哲学者にもいないと思います。従来の概念理解の典型は、「概念」を「事物の何らかの普遍性を反映した観念形成物である」(ヘーゲル用語事典)とするといった理解の仕方です。一般にはそうした抽象的な単なる形式論理学的なレベルの理解にとどまっていると思います。初期の青年マルクスの概念理解もそうしたものでした。

また古在由重氏など唯物論者らの編纂になる「岩波哲学小辞典」などにおける「概念」の項目についての説明も、ほとんどこのレベルの理解にとどまっていて、ヘーゲルの概念論などは無視されているか、無理解のままにとどまっています。

そして実際にもまた多くの人がこのような「概念」の「常識的」な理解にとどまって、ヘーゲルの「概念論」についての本質的な、あるいは概念的な理解にまで進もうとせず、その豊かな富、その本質的な意義を理解し継承し発展させようとしてきた哲学者は誰もいなかったように思います。

「精神」の客観的な実在を認められない「唯物論者」は、事物に内在する主体的な、能動的な運動、発展の原理としての「概念」の客観的な実在を認めることも洞察することもできませんでした。それを認めることは「概念」を神秘化するものとして批判されてきました。その結果として、ヘーゲル哲学の「概念論」のもつ科学研究における豊かな富、貴重な遺産への洞察の道が閉ざされてしまったのではないでしょうか。

ヘーゲルのいう「科学的に」(Wissenshaftlich)に「事物」を理解するということは、その事物を概念から理解するということですのに、そうした一般の浅薄な概念理解のために、真実に事物を「科学的」に研究するということの方法論を理解し活用する道が閉ざされてしまうことになったといえます。

事物を概念から理解するということはどういうことか、もちろん、その見本は言うまでもなく、ヘーゲル自身がすでに実行して見せています。たとえば、国家の概念については、彼の「法の哲学」が国家について「概念的に理解」するということの具体的な事例ですし、彼の「論理学」は「概念」について概念的に理解することの見本になっています。

さらに国家についていえば、概念としての「自由な意思」がはじめの抽象的で普遍的な段階から、「特殊」な段階をへて、さらに「個別」の具体的な段階へと進展し発展してゆくという、その「国家の概念」の論理を明らかにすることによって、国家を科学的に理解すること、「概念的に理解する」ということがどういうことであるかを示す見本になっています。事物を「科学的に理解する」ということは、ヘーゲルの哲学的な意味では、そうしたことでした。

ですから、「種子」を具体的で個別的な生命の概念として、その具体的な普遍として理解することは、ヘーゲルの概念観を大きく誤って理解することにならないと思います。

さらに、私たちの「概念論」を深め、科学の精神と方法を深めるための議論を期待したいものです。

 

 

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ヘーゲルの東洋哲学観

2009年05月25日 | 哲学一般

ヘーゲルの東洋哲学観

ヘーゲルの東洋哲学に対する批判の核心は、東洋哲学には「普遍」のみ存在して「個別」がないということ、「無限」のみ存在して「有限」がないということにある。この事実の奥には、東洋人が「自由」を知らないでいることがある。これに起因している。真の自由を知らないがゆえに、東洋は個別と有限を確立することが出来ないでいる。これがヘーゲルの東洋哲学批判の核心である。

それに対して、ギリシャ哲学やゲルマン哲学は自由を知る。そして、真の哲学は自由のうえにのみ花開く。それがゆえに真の哲学史は古代ギリシャとゲルマン民族のうえにのみ展開される。

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西尾幹二氏論(1)

2009年05月01日 | 哲学一般

 

 

西尾幹二氏を論ず(1)

 

Ⅰ.西尾幹二氏の飢餓感

現代の思想家、評論家で、私にとって興味と関心の持てる一人に西尾幹二氏がいる。西尾氏の思想や言論には教えられる点や共感できる点も多く、おこがましくも私も同じくするテーマで折に触れて論じてきたこともある。

至高の国家型態

「朝まで生テレビ」を見る

そして、最近になって西尾氏の2009年4月26日 日曜日のブログ記事「私の飢餓感」を読んで、ここで今一度、断片的ではなく、人間としての西尾幹二氏について全面的に、それも出来うるかぎり深く論考して行きたいと考えるようになった。もし神のお許しあれば、二年あるいは三年、可能であれば五年十年の歳月を掛けてでも、少しずつでも私の人間研究の一環として西尾幹二氏について論じてゆきたいという希望をもっている。

思想家、評論家としての西尾氏の印象をはじめて私に残したのは、多くの団塊の世代の人たちがそうであるように、講談社新書の『ヨーロッパの個人主義』という本によってである。 もう昔に読んだ本で、今も探せば見つかると思うが、若き西尾幹二氏がドイツに留学した時のヨーロッパの印象や感想を記録した本である。内容はおおかた忘れてしまっているが、西尾氏の著作家としての思想的な出発点がここにあるらしい。

西尾氏は学生時代にニーチェ研究を専攻しており翻訳や研究書も多い。また、最近になって知ったことであるが西尾幹二氏は学生時代に内村鑑三に連なる無教会のキリスト教徒学者の小池辰雄氏に学び、その薫陶も少なくなかったようである。それらが西尾幹二氏の思想的な核になっているように思われる。

その意味でニーチェがヨーロッパの伝統的な精神に対して批判的であったように、もともと西尾氏にはヨーロッパの思想や個人主義を崇拝する精神はなかったし、西洋のキリスト教的な精神に対する西尾氏自身の批判のみならず、戦後日本人の精神的な風潮についても批判的なスタンスをとっていた。この出発点がやがて「新しい教科書を作る会」の運動やさらに現在の「GHQの焚書」による「戦後日本の思想統制」批判などの言論活動につながっているのだと思う。

戦後の日本人が戦争の敗北によるコンプレックスのゆえの反動もあって、戦前の日本の集団主義や「全体主義」、その滅私奉公の「封建的な」意識に日本人は自虐的なほどに批判的で、その一方において、西洋の個人主義や自由主義に対する日本人の無批判で盲目的な表面的な模倣と崇拝の傾向がある。

そうした西尾氏の現在に至る旺盛な言論活動のなかにあって、西尾氏が「私の飢餓感」 を表明されておられることに私は興味と関心を引かれた。思想家、著作家としての華々しいご活躍のなかでの西尾氏の「飢餓感」の実体とはいったい何なのだろうかと。

西尾氏ご自身は、この「飢餓感」については次のように告白せられている。

>>

「何か本当のことをまだ書き了えていないという飢餓感がつねに私の内部に宿っている。それは若い頃からずっとそうだった。心の中の叫びが表現を求めてもがいている。表現の対象がはっきり見えない。そのためつい世界の中の日本をめぐる諸問題が表現の対象になるのは安易であり、遺憾である。何か別の対象があるはずである。ずっとそう思ってきた。そして、そう思って書きつづけてきた。
 結局対象がうまく見つからないで終わるのかもしれない。私は自分がなぜたえず飢えを覚えて生きているのか、自分でもじつは分らないのである。」

>>引用終わり

およそ誰であれ、その人の本質を知るためには、その人が自覚しているか否かを問わず、その人の人生観、世界観がどのようなものであるかを問う必要があるだろう。もっと簡潔にいえば、その人間は何をもって人生の目的としているか。西尾幹二氏はご自身の人生において何を究極的な目的とされておられるか。

西尾幹二氏は思想家であり著作家である。決して政治家でもなければ、企業家でも経営者でもない。思想家、著作家として、あるいは文学者、評論家として生きることがさしあたっての西尾幹二氏の人生の目的である。もちろん、さらにその奥には、「国家の概念」を明らかにしようとする衝動が氏にはあるように思われるが、西尾幹二氏はそのことを明確には自覚されてはおられないように思われる。

また、氏にはこれらの目的が十分に達成されていないという感覚、意識があって、そのことが現在の氏には「飢餓感」として半自覚的な危機意識として現れている。西尾幹二氏には国家や人間や世界についての絶対的な必然性についての自覚がなく、それが生まれるまでは、とくにニーチェ研究家に終始した西尾幹二氏には、この飢餓感はおそらく充足されることはないのだと思う。

 

 

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批判とは何か

2009年03月09日 | 哲学一般

 

批判とは何か

ブログ上に公表している私の前回の論考「自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)」に対するコメント(批判?)を、「らくだ」さんという方からいただきました。

>>

コメントhttp://blog.goo.ne.jp/aowls/e/1db60e8258c871213b90b9fd5173cc54

 

 
 (らくだ)

2009-03-09 01:02:11

日本という国は、文化的に言えば、輸入によって成立し、成立している雑種文化です。

漢字は中国から輸入されたものでした。仏教もその発祥の地からではなく、中国経由で取り入れ、今ではまったく独自な発展を遂げています。江戸時代には蘭学が最先端の学問とされ、明治維新後は食文化から服装に至るまで洋風化されました。

現行の日本国憲法はGHQによって押しつけられたものにすぎず、よってこれは日本という国家の脆弱さを示すと言われます。
外から何かを取り入れることは、いつも必ずそのものの独自性や自主性をそぐことになるのでしょうか?

漢字や仏教にはじまり、食文化・服装ですら、元来は輸入したものでありながら、今では日本独自の様態を見せているように思われます。
現行の日本国憲法がたとえ輸入・翻訳になるとしても、日本人が日本人の心性に従って運用し、日本という国の方向性を自らの手で開拓する限り、一国の尊厳を脅かすほどの脅威にはなり得ないように思います。
そもそもあなたが依って立つ「憲法」の概念や、「国家」の概念、ヘーゲル哲学ですら、輸入学問ではありませんか。
輸入された道具で輸入した道具を批判しても、日本国という現実の存在を相手にしては、何らの生産性ももたないように思います。

>>引用終わり

この方からはこれまでにもいくどかコメント(批判?)をいただいています。
[らくだ様のこれまでのコメント]

なに言ってんだか。 (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/f6080648dcbe0b12c4372bd8d3ca9541

Unknown (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/ba94f15e685a356ad9563ba8dc47249b

普遍論争と数学基礎論 (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/52fcb4146ad5bf03f7b13be8ff405863

これまでにもブログ上での記事、論考に対する相互批判のあり方について、考えたことがありますが(「ブログでの討論の仕方」)、今回らくだ様のコメントに対するお返事を記事にして、この問題についてさらに考えて見たいと思いました。

 

らくだ様、いつもご批評ありがとうございます。これまでもあなたから何度か私の記事や論考に対するご批判をいただいております。先般もコメントをいただいていることは存じ上げていましたけれども、ご回答するだけの意義もないと思い、あなたのコメント「批判」についてお返事をしませんでした。

その根本的な理由は、私の記事や論考に対するあなたのコメント批判を読んでも、ただそこからうける印象は、批判のための批判にすぎないか、さらにはそこに悪意や中傷の底意すら感じたからです。

思想や哲学上の問題について議論し、批判してゆくうえで根本的に大切な前提は、議論の間の当事者に、少なくとも「ただひたすらに真理のみを目的とする人格」の存在していることだろうと思います。この前提の無いところでの議論や批判は、結局は「我意の充足」だけが自己目的になってしまうと思います。

もちろん、「人間の性悪説」からすれば、それは神ならぬ人間に実現不可能な理想を求めるようなものです。ですから、表面的には学問や科学上の論争を騙っていても、その実際は単なる「我意の応酬」にすぎなかったり、事実上その本質は他者への「誹謗中傷」かあるいは「嫉妬や偏見」である場合がほとんどであるようです。

らくだ氏が、「ヘーゲル哲学」が「輸入品だから何らの生産性ももたない」と独断的に断定するとしても、それはせめてヘーゲルの「小論理学」の「序文」だけでも読み通してから(岩波文庫版の翻訳があります)、そして、その論拠をもっと説得的に説明してほしいと思います。そうでなければ、私たちの議論は、一般に多くのブログ「炎上」などに見られるように、それこそ非生産的な「議論のための議論」「批判のための批判」 に終わってしまうと思うのです。

また、残念ながら「らくだ」様ご自身のブログを開設しておられないようなので、らくだ氏の「思想」や「哲学」についての最小限の輪郭すら私にはつかむことができません。ですから、そのために私の側からは、らくだ氏の「思想」や「哲学」についての根本的な相互批判の交換も、全面的な批判もできません。

その一方に、私の論考に対する「らくだ」氏のコメントについては、どうでもよいような部分末梢的な細部についての、実証的な些細な知識についての「批判」にとどまっていると思います。そのために、私の論考に対するらくだ氏の「批判」のその根本的な意図に疑念を懐かせることになっています。

おそらく、らくだ氏は、多くの日本の批判的論者のように「本当の批判」がどういうものかをご理解されていないこともあるように思います。本当の批判というのは、――それはカント、ヘーゲルの流れを引くドイツ観念論哲学における「批判」概念を踏まえているものですが、――まず批判の対象についての意義と限界を明らかにして、その上で、自己の思想と哲学の中にそれを「アウフヘーベン」してしまうことです。

たしかに、私のよって立とうとしているヘーゲル哲学は、この哲学者の国籍、民族の出自からいえばドイツ人のものです。また「国家」や「憲法」という概念そのものも、らくださんが言われるように、その出自は西洋にあります。したがって、たしかにそれらは日本人のオリジナルなものではなく、「輸入したもの」であることは事実でしょう。

しかし、ヘーゲルの哲学は、単にドイツ民族という狭い特殊な領域にとどまるものではありません。その哲学は人類の哲学史を踏まえた普遍的な性格を持っています。それを「輸入品」だと言うことによってすでに、らくだ氏にはこの哲学について何らの見識の無いことを言明していることになると思います。らくだ氏には議論の前提となるものがないのです。

しかし、たとえもし「輸入したもの」であっても、それらは明治の開国以来一世紀以上を経過し、すでに「日本国の現実の存在」に成りきっています。それは単に「国家」や「憲法」といった概念に限らず、「自由」や「民主主義」「人権」などと言ったその他の概念とともに、日本国の国家や社会の運営上にも不可欠な観念、イデオロギーとして存在しています。今日ではこれらの観念、概念なくしてどのような国民も現代国家の経営はできないのです。

らくださんのおっしゃるように「「憲法」や「国家」の概念やヘーゲル哲学」が輸入された「概念」であり「学問」であるとしても、それは日本という日本人の構成する国家機構の中に、西洋文化の移入以来すっかり定着し「日本国の現実」の一部に成りきり、血肉と化してしまっています。

ただ、日本におけるその「輸入の仕方」「血肉と化すその仕方」にこそ問題があると感じるからこそ――とくに、その主体性などについて―――私たちが「批判」しようとするのです。

私たちはこの「批判」が、日本国における真理の実現において、その国家の姿をあるべき正しいものに改革してゆくうえで決して「生産性」がないとも思いません。もし「生産性がない」と思われるとすれば、それはその人に国家社会における真理を求めようとする気も、よりよき国家や社会の形成について問題意識もやる気も、また認識能力もないからではないかと思います。

「国家」や「憲法」という概念と同じく「ヘーゲル哲学」についても、それはたしかに「輸入品」ではありますが、ちょうど同じ輸入品である「議員内閣制」や「三権分立」などの思想は、日本民族の自由の実現においてわが国社会にきわめて重要な貢献をしています。それと同じように出自が同じ輸入品であるとしても、科学理論である素粒子理論などについては、日本人によって消化されて、物理学や原子力発電などに活用されています。

このことは哲学であると同時に何よりも科学そのものであることをめざしたヘーゲル哲学についても同じことが言えると思います。日本人においてもこの哲学がさらに深く消化されて民族の血肉と化すことによって、より完成された国家の形成に寄与してゆくべきものであると思います。それはヨーロッパ諸国家が、古代ギリシャ哲学を伝統として引き継ぎ消化発展させることによって、みずからの国家や民族の精神文化を豊かにしたようにです。

ですから、「ヘーゲル哲学が、輸入学問で」あるから「何らの生産性ももたない」と説明もなく断定的に否定するのは、それは「輸入品」である「ヘーゲル哲学」を消化する能力もなく、また、それをみずからの能力とすべく、ヘーゲル哲学の修行もやる気のない人が「イヌの遠吠え」のような「批判」で吠えているにすぎないのではないでしょうか。

 

 

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悟性的思考と理性的思考

2008年11月12日 | 哲学一般
 
悟性的思考と理性的思考
 


hishikaiさん、懇切なご返事ありがとうございます。現在話題になっていて、昨日も参議院の外交委に参考人として招致されて意見を述べていた田母神前空幕長の懸賞論文問題について、今ちょうど私も論じようと思っていたところでした。

今回のあなたの文章を読んで、あなたの問題意識がさらによくわかったように思います。いくつかの興味ある論点がありますが、時間も限られていますので、とくに気にかかった二三の点に絞って私の考えを述べさせてもらおうと思います。

一つはキリスト教の問題です。これは今回のテーマである「グローバリズムと伝統」の問題とは少し外れています。それにもかかわらず、あなたがご返事の中でかなりのウェイトをもって語られているのが印象的でした。この問題についても、もう少し補足して述べておいた方がよいかもしれません。

その中であなたはカルヴァンの予定説を取りあげられていました。それについて私はよく知らないので断定はできないのですが、「人間倫理の最終的な課題は絶対者に預けておくことができる」というその言説は、何か現実回避の、あるいは勝手な人間の現実逃避のような印象を持ちます。

いずれにせよ、有限な人間に、肉体を背負った人間に完全な倫理をそもそも求めることはできないのだと思います。自然的な人間は「悪」であることを宿命づけられていると思うからです。あの大金持ちの青年に対してだけではなく、すべて人間に完全な徳を、完全な倫理を求めるのは、昔のユダヤ人のように律法主義に陥るのではないでしょうか。

人間が自力で自分を救うことができるなら、何もイエスが十字架で死ぬことはなかったのではありませんか。「律法によっては罪の自覚しか生まれない。神の前には誰一人として正しい者はいない」とも書かれてあります。(ロマ書3:20)

先の論考で引用した「持ち物を売り払って貧しい人に施し、私に付いて従え」というイエスの言葉を、「律法」のように受け取られているのではないかと気になりました。新約聖書以後の今日に生きる私たちには、そうした律法主義からは解放されているのではなかったでしょうか。「人が義しいとされるのは律法の行いにではなく、信仰による」とも書かれてあるのではないですか。(ロマ書3:26)

また、hishikaiさんがおっしゃるように、「世間」が最終的な価値基準であるような伝統の私たちの社会で、仏教の「無の哲学」や、あるいは儒教のような「有の哲学」に終始するときは、前者おいてはすべてが「虚無」の中に解消され、後者においてはすべてが政治主義に陥ってしまうのではないでしょうか。

そして、もう一つの問題、これが私たちが今回のテーマにしていることだと思いますが、「袋小路の設問」の問題があります。

「袋小路の設問」とはあなたの文脈でいえば

①「西欧化の不可避」と「伝統文化の防衛」、
②「全体の状況(グローバリズム)」と「伝統の縮約である諸基準(ナショナリズム)」

などのそれぞれ二者が「一体不可分であるディレンマ」にある中で懊悩している事態です。

hishikaiさんは、私の論考のなかに「アメリカグローバリズムの悪しき申し子竹中平蔵や堀江貴文」と「日本の古き良き伝統文化」の対立設定による衝突、あるいはその優先順位を巡るディレンマを発見され、そしてその懊悩の捌け口を反米に、あるいは反日の憤激の中に(またその反動としての媚米と自惚れ愛国心に)解消しようとする傾向を社会に見て、その解決の理路を探らんとされておられるようです。

こうした問題提起で感じるのは、いわゆる「悟性的思考」の限界であるように思います。二律背反する二者の矛盾関係を、「悟性的な思考」が解決することができず、ニッチもサッチも行かずに懊悩し破綻して自暴自棄に陥る有様です。

問題の核心は、悟性的な思考による「袋小路の設問」ではなく、理性的な思考(弁証法的な問題認識)による「出口の見える設問の仕方」ができるかどうか、その能力にあると思います。

hishikaiさんが述べられたような「二律背反」する矛盾関係の問題解決のためには、どうしても理性的思考(弁証法的思考)が必要であると思います。それら相互に対立し矛盾する二者を否定し去ることなく、それぞれを契機として含む新しい状況にアウフヘーベンする方向で問題解決をはかるべきでしょう。

その能力を育成すること、弁証法的な問題解決能力を日本人も修得すること、これが核心的な課題であると思います。私が以前に「国家指導者論」で、大学や大学院教育の中心課題が、弁証法的能力の育成にあると主張した根拠もここにあります。

以前にブログ上で議論のあり方について考えたことがあります。

「ブログでの討論の仕方」


そして、「伝統とグローバリズム」を巡る議論は、私の方は取りあえずここまでにしたいと思います。さらに興味あるテーマで、議論、討論のできることを楽しみにしています。
 
 
 
 
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福岡正信氏の自然農法

2008年08月21日 | 哲学一般

                                        オクラの花


福岡正信氏の自然農法

福岡正信氏は「自然農法」と呼ばれる独自の農法の実践者、主唱者として知られている。自然農法とは、「耕さず、田植えをせず、直接モミや種を蒔いて、米と麦の二毛作をし、化学肥料も施さず、除草作業もせず、農薬も使わない」という極めて簡単な農法である。肥料の代わりにワラを敷き、耕作する代わりにクローバーの種を蒔く。

もちろん福岡正信氏もはじめから自然農法の実践家であったわけではない。氏は岐阜の高等農業学校を卒業し、植物病理の研究から出発して、税関で植物防疫に従事している。だから福岡氏の自然農法にはその前提に植物学という近代科学の素養があるといえる。しかし、若いころ自身の病気をきっかけに現代の科学について根本的な不審を抱くようになった。

おそらくこの頃に、福岡氏は、荘子の「無為自然」、「無用の用」の境地を直観的に体得されたのだろうと思う。自然は無為にして完全であるから、荘子が指摘したように、ひとたび人間が道具を作り、井戸水を汲み上げるのに滑車を使うように、分別智を働かせて道具を使うようになるともはや元には戻れない。もともと完全なものを一度分断、分析し始めると、すべての肯定の裏に否定が現れて、パラドックスに陥る。福岡氏はこのことを直観的に悟られたのだろう。

福岡氏は、若いときに体験した自身のその直観の正しさを証明すべく、人為を加えない農法を、自然農法を生涯に追求しようとしたのだ。無為自然こそが絶対的な真理であることを直観した若き福岡氏は、「何もしない農法」はいったいどのようにして可能か、という問題を生涯をかけて追求したのである。それが氏の自然農法だった。そして、やがて到達したのが、冒頭に述べたような、米麦不耕起連続直播、無肥料、無農薬、無除草の農法である。しかし、この自然農法も永遠に研鑽途上にあって、完成されたわけではない。

現代の石油エネルギーを使って行われる現代農業が多くの問題を抱えていることは語られはじめてすでに久しい。それらは温暖化や砂漠化を招いている。現代農業は商業的な大量生産を目的とするから、そのために農薬や化学肥料を使わざるをえない。そこには多くの矛盾が生じている。また、これまで日本の農政は、国際分業論に立って減反政策を進めてきたが、そのため食料自給率の低下を招く結果になった。そして今、世界的な食糧危機の到来を予感してあわてふためくことになっている。肯定の裏にかならず否定が生まれてくる。これは何も現代の農業だけに限られない。現代物理化学の粋を集めて応用される原子力発電においても、また、遺伝子工学の応用によって遺伝子の改造から治療をはかろうとする現代最先端医学の領域においても同じである。すでに人類はやがてそれらの行き着く先に漠然とした不安を感じている。悟性科学には矛盾を克服できないことを予感しているからである。

要するに、そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。「無の哲学」の見地からこうした近現代科学の将来を福岡氏ほど明確に予見していた人はいないかもしれない。それは、人為は自然に必ず劣るという福岡氏の確信であり世界観によるものである。福岡氏においては、自然は神と同等と見なされている。氏にとって、自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。

一切無用として出来うる限り人為を廃し、自然の豊かさにしたがって自己を生かそうとする福岡氏の自然農法は、やがて、とくにその搾取によって土壌が疲弊しきった欧米の農業家の着目するところとなったようである。日本はそれでも自然がまだ豊かであるから、行き着くところまで行き着いておらず、福岡氏の自然農法に対して切実な欲求をもつに至ってはいないのかもしれない。その点でも、福岡氏の農法は日本よりも欧米で受け継がれてゆくのだろう。

福岡氏の自然農法は「無の哲学」に基づいたものである。それは人間の知識や科学を本質的に否定するものである。氏の思想と哲学は、物や人智の価値を否定する。だから現代人や現代社会の立脚点とは根本的に相容れないものである。それはちょうど、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合はいかに育つかを見よ。労せず、紡がず。さらば、汝ら何を喰い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな」と命じたイエスの生き方と同じく、現代人は厳しく重荷に感じて、もはや誰一人として実行できないでいるのと同じである。おそらく、福岡氏の自然農法の真の継承者はいないのだろうと思う。

しかし、現代科学が、そして現代農業が行くところまで行き着いて行き詰まったとき、無の哲学から現代文明を批判した福岡氏の自然農法は、未来の農法として復活するかもしれない。そのとき福岡氏の自然農法は未来のあるべき農法として、人々にとって灯台の役割を果たすだろう。しかし、それは現代人の価値観が根本的に転換するときである。

福岡氏は理想の生活を次のように描いている。

「無智、無学で平凡な生活に終始する、それでよかった。哲学をするために哲学をするヒマなどは百姓にはなかった。しかし農村に哲学がなかったわけではない。むしろ、たいへんな哲学があったというべきだろう。それは哲学は無用であるという哲学であった。哲学無用の哲人社会、それが農村の真の姿であり、百姓の土性骨を永くささえてきたのは、いっさい無用であるという無の思想であり、哲学であったと思うのである。」   (『自然に還る』P204)
「小さな地域で独立独歩の生活をする。家庭農園ですべての事柄が片づいてしまう。
自然農園づくりが、外人にとっては、もう理想郷(ユートピア)づくりになっている。・・オランダの牧師さんが、家庭の芝生を掘り返し、家庭菜園を作り、そこにエデンの園を見出す。」     (P297)
「一人10アール・一反ずつの面積はあるわけだから、みんなが分けて作って、機械を使わずに、そのなかに家も建て、野菜から、果物、五穀を作って、周囲の防風林代わりに、モリシマアカシアの種子を毎年一粒ずつ播くか、苗を一本植えておけば、十年後は石油が一滴もなくても、年間の家庭用燃料は十分間に合う。
ですから、自然農法は、どちらかというと、過去の農法ではなくて、未来の農法だとも言えるんです。田毎の月を見て、悠々自適ができるような楽しめる百姓になる。家庭菜園即自然農法即真人生活になるのが、私の理想です。」    (P291)

このような福岡氏の理想は確かに共感できる点は多い。しかし、福岡氏に接した多くの人が語るように、とくに西洋人が多く語るように、氏の自然農法には共感できるけれども、氏の「無の哲学」に共感できないと言われる。私も同じである。なぜなら、福岡氏の「無の哲学」にかならずしも同意しないからである。あえて言うなら、私の立場は「無の哲学」でもなければ「有の哲学」でもなく、「成(WERDEN)の哲学」であるから。これはヘラクレイトスの万物は流転するという世界観でもある。

本当の自然とは何か。私は福岡氏の自然農法自体をかならずしも自然とは見ない。逆説的に言えば、福岡氏の「自然農法」自体が不自然農法である。むしろ、深耕、農薬、化学肥料などの人為、不自然こそが自然であるとみる立場もある。

当然のことながら多くの欠陥を抱えた現代農業は、いずれ克服されてゆくべきもので、それは現在の科学が発展途上にある未完成品であるというにすぎない。それは悟性的科学であって、理性的科学ではない。ただ理性的科学は、ゲーテのいう「緑の自然科学」に近く、この観点からは、福岡氏の自然農法は高く評価すべき点をもっている。理想は近くあるとしても、しかし、福岡氏の「無の哲学」は、否定を媒介にしない。この点に根本的な差異がある。福岡氏の「無の哲学」は直観的で、何より否定という媒介がない。

また、福岡氏の思想と哲学の限界としては、氏の自然農法には国家や地域社会、市民社会との関係を論じ考察することがあまりにも少なかったと思われることであ。要するに媒介がなかった。個人的には私は福岡氏が理想としたような皆農制を基本的には支持する立場である。しかし福岡氏は、民主国家日本において、皆兵制については論じることはなかった。しかしいずれにせよ皆兵制や皆農制などの問題は、すでに国家論や憲法論に属する議論である。それらの問題はまたの機会に論じることがあると思う。

ここ十年ほど、福岡正信氏の動向はほとんどわからないままだった。と言うのも私は氏の「自然農法」や「無の哲学」のそれほど熱狂的な支持者でも何でもなかったからで、長い間忘れ去ってしまっていたのである。ただ、昨年の秋の暮れくらいから、たまたま縁があって山で家庭菜園のような真似事を始めることになった。それはたとえままごと遊びにすぎないとしても、農に、土や野菜や果物と直接にかかわり始めているといえる。それこそ各個人の価値観の問題で、何に価値や歓びを見出すかは人それぞれであるとしても、自分で作った野菜や果物を食べるのは、それなりに楽しい点もある。また、「自然」により深くかかわる歓びもある。自然や農業についてよく知るためにも、今にして思えば、一度くらい機会を作って、福岡正信氏を訪問しておくべきだったのかも知れない。

クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える「不耕起、無化学肥料、無消毒」の自然農法は見向きもされず、農業には無縁の都市生活者の素人にしか関心を引き起こさない。しかしだからと言って、そこにまったく可能性がないわけではない。福岡氏の「自然農法」はむしろ「プロ」の農業者を無くす試みとも言えるからである。現代日本のプロの農業生活者の基盤である農村の多くが崩壊の危機にあると言われる。おそらくそれは、現代人や現代社会が福岡氏の「無の哲学」へと価値観を根本的に変換できないためである。しかし、もしこの前提が崩れれば、福岡氏の自然農法の実行は可能となるかもしれない。問題は、この「不可能」な前提が崩れる要件はあるか、あるとすればそれは何か、である。

去る十六日、私にとっては長い間動静が途絶えていた福岡正信氏の訃報が伝えられていた。享年九十五歳。また日本人らしい日本人が失われてゆく。福岡氏の自然農法は、「無の哲学」そのものから生まれたものである。それゆえにこそ、氏の農法は、おそらくこの日本でよりも、欧米においてこそ真に受け継がれ開花して行く宿命にあるのかもしれない。
 

6/6 自然農法60年の歩み「粘土団子世界の旅」 福岡正信

自然農法を提唱 福岡正信さんが死去

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哲学の伝統

2008年07月31日 | 哲学一般

哲学の伝統ということを考える。哲学という語彙を手近にある辞書で調べてみると次のようにある。

【哲学】
      ①世界や人生の究極の根本原理を理論的に追求する学問。
         「哲学者」「 哲学的」
      ②自分自身の経験などから作りあげた人生観、世界観。理念。「彼は哲学を持っている」 ▼ギリシャ語PHILOSOPHIA「愛智」から出た英PHILOSOPHYの訳語。(現代国語例解辞典)

言うまでもなく、哲学という概念が問題になるのは、日本においては明治維新以降になって、欧米からその文化と文明が流入してきてからの話である。哲学という用語が明治の哲学者、西周らによって翻訳されたのがはじめである。最近ではカテゴリーも狭まり、世界の究極の原理として、単に弁証法の論理を研究する科学のように扱われるようにもなってきているけれど、かっては万学の女王だった。

それはとにかく、哲学の祖国といえばやはり古代ギリシャがすぐに思い浮かぶ。有史以来の有名無名の多くの存在の中でも、ソクラテスをはじめその弟子プラトンは哲学の父として人類の歴史に燦然と栄光を担ってきた。プラトンは、理想国家を探求して『国家』や『法律』などの本を書き、いわゆる「哲人政治」という概念を確立したが、彼やアリストテレスに始まるそうした哲学の伝統は西洋文化において、今日に至るまで何千年にわたって脈々と受け継がれている。近代において社会科学が、西洋に起源をもつことになった根拠もそこにある。

その一方において、キリスト教の伝統からは、トマス ・アクィナスの『神学大全』やアウグスチヌスの『神の国』に連なる思想的な系譜もある。

そこには哲学者の重要な使命として、国家の概念を追求するということが含まれている。西洋におけるそうした哲学の伝統の流れにあって、近代に至ってカントは民主主義の世界政府を構想し、その後を批判的に継いだヘーゲルは彼の『法哲学』において立憲君主制の意義を論証した。現代に至ってマルクスの『プロレタリア独裁政府』のような鬼子が生まれたりもしたけれども、人類の歴史は、カントの言ったように、自由の拡大の歴史であるといってもあながちまちがいではないようにも思われる。

普遍、特殊、個別の三段階の発展の論理もどきに言えば、はじめはただ一人の人間だけが自由であったのに、やがては幾人かが自由になり、そして、究極には万人が自由に解放されるという。歴史の発展の論理である。

その一方で、中国をはじめとするアジア諸国の民衆は、その長い歴史的な時間を、家父長的な専制君主の強圧的な統治の下で、抑圧的で過酷な不自由な生活に甘んじてきた。とくに圧倒的な伝統の重さをもった中国の異民族王朝。しかし、アジアの民衆も近現代になってようやく自由へと解放され始めた。

自由がどれほどに貴重なものであるかは、現在の北朝鮮をはじめ、かって東欧の過酷な独裁政治の歴史の体験からもわかることである。国家の形態や政治はそれほど民衆の日常生活の幸福に影響する。

自由と民主主義をかならずしも自国民の実力で獲得できなかったとはいえ、曲がりなりにもこれほど自由を享受することのできている日本国民は、世界的に見ても恩恵を受けている方だといえる。比較相対の問題で、最悪の劣悪政治とまでは言い切れない。現代でもなおスーダンや北朝鮮その他貧困と飢餓にあえぐ似たような国は多い。上を見ても下を見てもキリがないということか。

人類の歴史を総括的に見ても、自由と民主主義が充実するほど、国民生活は「幸福」なものになるようである。現代の日本の政治や社会の不幸も、多くの場面で「自由」と「民主主義」が正しく機能していないためであると考えられる場合が多い。その意味でも、「自由と民主主義」は政治の概念であるといえるのではないか。

そうした事実と観点をこれまで誰も言わないので、何度か繰り返し述べてきたが、現在の日本の政党政治を、「選挙談合利権型政治」から脱却して、それぞれ党是を自由主義と民主主義におく自由党と民主党を中心に再編成してゆくことである。そして、この二つの政党が交替しながら、国民ために自由と民主主義を理念として追求してゆく「理念追求型政党政治」に転換してゆかねばならない。

永年の間に利権利欲がらみで混沌としてからみ合ってしまった日本の政党政治で、それぞれの政党の理念をすっきり論理的なものにさせて行くことだ。政治家や国民がまず、この「政治の概念」をはっきりと自覚してゆくべきであると思う。そして、この概念を具体化し、深めてゆくことによってしか、政治家も国家、国民もその品位を取り戻すことはできないと思う。

アメリカでクリントン氏と民主党の大統領候補者指名を激しく争って勝利を得たオバマ氏がヨーロッパを歴訪し、かってのケネディやレーガンにひそみ、ベルリンのブランデンブルク門の前で20万人の聴衆を前に演説を行ったという。日本の政治家たちもいつの日か、彼のように「哲学者」としても、大聴衆を前に演説する日の来ることを願いたいものである。

当然のことながら、政治家が政治に従事するのと、哲学者が政治に関与するのとでは立場も違えば観点も違う。しかし、少なくとも西洋では、ソクラテスやプラトン以来、哲学が政治を指導するというのは自明の伝統だった。その伝統の差異は、欧米の政治家の演説や議論と日本の政治家のそれとを比較して見れば一目瞭然である。

 

John F. Kennedy's speech in Berlin”Ich Bin Ein Berliner”

President Ronald Reagan "Tear Down This Wall" Speech at Berlin Wall

Highlights: President Obama's Berlin Speech
 

 

 

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hishikaiさん

2008年07月10日 | 哲学一般

hishikaiさん、あなたに頂いたコメントにお礼とお返事をしようと思ったら、「内容が多すぎますので、946文字以上を減らした後、もう一度行ってください」という表示が出てしまいました。面倒なので新しい投稿記事にしました。


hishikaiさん

今日は暑かったですね。hishikaiさんのお住まいの地方はどうでしたでしょう。
とは言え暑いからこそ夏なのでしょうが。あなたのブログも折に触れ訪問させて頂いています。

ところで私のブログも少し真面目すぎるかなと感じています。もう少し、ユーモアや冗句もあってもいいかなという反省もあります。「哲学のユーモア」か「ユーモアの哲学」も気にかけて行こうと思うのですが、どうしても地が出てしまうようです。

hishikaiさんにコメント頂いたのですが、今回の記事で、戦後半世紀以上も、この日本国を支えてきた「平和」憲法の核心を根本的に批判しているはずですのに、ほとんど何の反響もないのも少しは寂しく残念な気がします。無名で平凡な一市井人のつぶやきには、誰も真剣に耳を傾けないのでしょう。

無視を決め込んでいるか、問題提起にも意識が掘り起こされるということもないのでしょう。本当は「平和」憲法を養護する憲法学者たちの意見を聴きたいのですが、皆さん、政府の審議委員などのお偉方できっとお忙しいのでしょう。非哲学的な国民のことですから、このあたりが妥当だろうと思っています。

hishikaiさんはコメントで「本文では「非哲学的な日本国民」を平和主義者を自認する人々に絞って用いているように読めます」とありますが、そんなことはありません。

哲学における国民性の資質と能力に――それは、宗教などに規定される面も大きいと思うのですが、私は希望は持ってはいませんから。どんな国民にも得手不得手はあるから仕方はありません。ただ、国民と国家の哲学が深まらないかぎり、国家や国民に本当の「品格」は生まれて来るはずはないとは思いますが。

また、hishikaiさんは「これからの我国では左右両翼の対立に代えて、真に対立軸とすべきは、この哲学的思考の有無でなければならない」ともおっしゃられていますが、この認識をもう少し具体的に進めて言えば、この「哲学的思考の有無」は「ヘーゲル哲学に対して自分はどういうスタンスを取るか」、あるいは、とくに国家論で言えば、「ヘーゲルの「法の哲学」に対して自分はどのような立場を取るか」、ということになるだろうと思います。

しかし、残念ながら国立大学の憲法学者たちですらこの教養の前提がなく、したがってそうした問題意識すら生まれてこないのが現状であるようです。そうして、こうした憲法学者が、日本国民に憲法を「教授」しているのです。

       2008年07月07日

 

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日本の裁判の悲喜劇

2008年06月16日 | 哲学一般


最近の「せいろん談話室」で「この判決おかしい!」がテーマになっていた。以前に私も裁判官の判決のいくつかに疑問を感じて、それを文章にしていたことがある。その時の感想が今も有効であると思い、「せいろん談話室」にあらためて投稿して、その是非を問うてみた。(ハンドル名トンボ)

裁判官の人間観(http://www8.plala.or.jp/ws/e8.html)
法律家と精神分析家の貧しい哲学―――光市母子殺害事件(1)
法律家と精神分析家の貧しい哲学―――光市母子殺害事件 (2)
 (http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070805)


せいろん談話室に今回のようなテーマが取りあげられるのは、裁判における今日一般の判決内容や裁判制度、さらには裁判官そのものに国民が不信感を持っているからだろう。先にも裁判官によるストーカー行為がニュースになっていた。もちろん、裁判官も神ならぬ人間だから、そうした過失や悪行があったとしても論理的にはまったくおかしくはないのだけれども。

それよりも何よりも、最高裁で展開される判決にも奇妙な判決が認められる。とくに靖国神社裁判で「政教分離」をめぐる判決について問題を感じる。宗教や自由の問題について、判決の中に示されている歴史的な思想的な本質理解に欠陥を感じるときがある。とくに国家機関による宗教的行為かどうかについての判断で「目的効果基準」などという欠陥ある法律理論を、最高裁の裁判官がそのまま無批判に踏襲するような認識不足がある。そこには法律以前の裁判官の教養の水準に、哲学的な理解能力に問題があるように思える。

浅薄で哀れな哲学しか持ち得ない裁判官によって裁かれる日本国民は何より不幸である。残念ながら今日最新の流行の法学理論や刑罰理論は法律家ならぬ私には皆目わからない。しかし、古い苔むしたヘーゲルの法理論なら多少は聞きかじっている。問題は、現代法学が、ほんとうにヘーゲルの『法の哲学』における「フォイエルバッハの刑罰論」批判や「ベッカリアの死刑廃止論」批判を克服し得たのかどうかである。私はこのヘーゲルの批判は今日なお有効であると思う。(ヘーゲル『法の哲学』第99節、第100節など参考のこと)

日本の今日の法曹界の問題も小さくない。とくに弁護士の『利権団体化』や独占的ギルド化によって、彼らは法律の大衆化の方向に反対し、正確なわかりやすさに背を向けている。また、裁判官の専門集団化と純血化による意識の奇形化も心配である。ただ、検察だけは少しはまっとうな仕事をしているのかもしれない。

いずれにしても、裁判官の判決や弁護士などの問題の根源は、今日の大学、大学院における法学教育そのものの欠陥にある。すべては彼ら法律家の「法の哲学」の貧困に、さらには、法律家の『哲学』そのものの能力水準の低下による。国家と国民の哲学的教養の劣化こそが問題である。哲学的教養の水源であるべき大学、大学院が枯渇し始めているのである。

「国家指導者論」 http://anowl.exblog.jp/7671044/

国民の宗教的意識の改革や日本の大学、大学院における『哲学教育』の充実と深化に期待するしかないが、これは奇跡を願うようなものかもしれない。

 

 

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「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

2007年11月20日 | 哲学一般

 

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

 

年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html

映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。

この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。

それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。

古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。

ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。

それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。

ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。


近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。

地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。

人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。

 

 

 

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『私は貝になりたい』

2007年08月28日 | 哲学一般

『私は貝になりたい』

先日の23日の夜に、おそい晩食をとりながら何気なくチャンネルを回すと、俳優の中村獅童氏が旧日本軍の陸軍兵士の姿で演じていました。はじめは、それがどういうドラマであるのよくわかりませんでしたが、見ているうちに、このドラマが、はるか昔にフランキー堺と新珠三千代らの主演で映画化されて評判になっていた『私は貝になりたい』のテレビドラマ・バージョンであることが分かりました。映画は昭和59年に製作され、当時にも多くの人の話題に上っていた記憶があります。ただ当時まだ子供でしたから、その映画の内容にまでは思い及びませんでした。


残念ながら最近のテレビ番組では面白いドラマに行き当たることは少なくなったと思います。多くのテレビ局は、知恵も手間もかからない安易なグルメ番組やエロ・グロドラマでお茶を濁しているからです。面白い本格的なドラマを制作するだけの労をとることを、テレビ局の制作者たちは厭っているからです。だからテレビを見るのも、ニュース番組かドキュメント番組が主にになりつつありますが、さきに女優の竹内結子との離婚話で話題になっていた中村獅童の主演するこのドラマはなかなか面白くて、珍しく最後まで見ました。

途中から見始めたので、しかも、はじめのうちは漠然と見ていて、それほど集中もしていなかったので、内容は良く分かりませんでした。それで、日本テレビの番組紹介や『ウィキペディア(Wikipedia)』などを見てみると、この原作の作者である加藤哲太郎氏の生涯の概略などもすぐに分かります。それによると加藤哲太郎氏の父である加藤一夫氏は春秋社の創設にもかかわったアナーキストだったということです。そうした知識や情報を部屋にいながらにして瞬時に手にできるのですから、インターネットが普及して本当に便利になったものです。

映画では、主人公の加藤哲太郎をフランキー堺が、妻となる倉沢澄子を新珠三千代らが演じていたようです。これらの俳優の名前は私たちの世代には懐かしいものですが、この映画『私は貝になりたい』は加藤哲太郎氏の書いた小説の「原作」に比較的に忠実であるそうです。今回のテレビドラマの場合は、小説の原作の内容よりも、加藤哲太郎氏本人の実際の人生の体験により忠実に脚色されているようです。

加藤哲太郎氏の書いた小説では、主人公は上官の絶対的な命令にしたがって捕虜を殺害し、その罪を理由に絞首刑にされることになっています。しかし、実際には加藤哲太郎氏は捕虜を殺すことはなかったし、絞首刑にされることなく、英語塾を開きながら戦後も生き延びたそうです。だから映画よりもテレビドラマのほうが、処刑をまぬかれた加藤哲太郎氏個人の実際の体験に忠実なドラマ構成になっています。


加藤哲太郎氏が自分の体験をもとに書いた小説に忠実か、あるいは、加藤哲太郎氏自身の実際の「個人史」に忠実かという違いはあっても、フランキー堺の映画にも、中村獅童のドラマにも伝えられている基本的なメッセージは同じものです。

それは、大きくいえば、戦争の残酷さと不条理さであり、また、人間そのものが持っている深い闇です。平和な時代においては、そうした人間の原罪とでもいうべき傾向は隠れていて表面に現れてくることはありません。しかし、戦争などという極限状況で、人間の悪やエゴイズムをとことん体験した人々は、ときに絶対的な人間不信の絶望に陥り、「生まれ変わるなら『貝』になって生まれ変わりたい」とまで主張するようになります。おそらく、この言葉も加藤氏が実際に獄中かで「戦犯」の誰かから実際に聞いた言葉なのかも知れません。


こうしたドラマを見てあらためて、現代の国家が巻き込まれる戦争の本質を問うこともできます。「イラク戦争」やビン・ラーディンとの対「テロ戦争」、北朝鮮やイランとの核兵器所有をめぐる現代史の特殊な問題など、今なお、人類は戦争の呪縛からは完全には解放されていません。

また、ドラマとは直接関係はありませんが、靖国神社に祭られている「A級戦犯」をめぐって、中国や韓国からの抗議によって、事実上現在の日本の首相に靖国神社参拝の自由は失われています。さきにアメリカの下院でも、いわゆる「従軍慰安婦問題」をめぐる決議もあったばかりです。

そもそも、「A級戦犯」という言葉、概念自体が、世界大戦の戦勝国であるアメリカや連合国の政治的な立場にたつた価値観であり、この概念はそうした歴史観とは切り離せません。「A級戦犯」として絞首刑にされた人々ばかりではなく、捕虜収容所やバターン行軍などにおいて捕虜を連行し、虐待した罪で多くの人々がBC級戦犯として処刑されました。このドラマの主人公のような「BC級戦犯」など処刑した、いわゆる東京裁判の正当性については、インドのパール判事もかって主張したように、さまざまな批判と論争があります。BC級戦犯の中には、当時の日本軍人が軍事関係の国際法に無知で捕虜の取り扱い方なども教育されてもいなかったことも被害を大きくしたとも思われます。

いずれにせよ、旧満州国からの開拓民たちの逃避行で、ロシア兵や中国人の略奪、暴行、強姦などの極限状況を体験した者や、とくに戦争などの極限状況を経験することによって、人間性について絶対的に絶望し、このドラマの主人公のように、人間にではなく「貝に生まれ変わりたい」というほどの人間不信が生まれるのもやむを得ないのかも知れません。またそれは、とくに日本人だけが残虐であるといったことではなく、特定の個人や国家、国民の問題ではなく、一定の状況下においてはほとんど必然的に発生する、人類に本質的で普遍的な犯罪性の問題であるともいえます。

そうした体験からさらに、人間の眼から見て「不条理」な現実をそのまま放置する神への絶望や、その事実に絶望して信仰すら失い、そこから無神論を自己の信念に転向するということも当然に起こりえます。

それに万が一にも先の世界大戦に日本が勝利していれば、マッカーサーやトルーマンはまぎれもなく日本軍によって処刑されたでしょう。彼らも「人道に反する罪」によって裁かれ、彼らも首をくくられることになったに違いない。そうしてお互いの裁判官席と被告席とを入れ代えることとなったでしょう。

アメリカ空軍による東京大空襲のような、じゅうたん爆撃によって老若男女の一般市民たち非戦闘員に対する焼殺や、広島、長崎の原爆投下にみるように、病院、学校などを含む非軍事施設と非戦闘員の一般市民に対する大量殺戮が当時の国際法規に照らしても「犯罪」であることは明らかでです。それなのに裁かれたのは、敗戦国日本の軍人たちだけです。
マッカーサーら勝利国の指導者たちは裁かれてもいない。少なくとも原則においては旧日本国軍の攻撃目標は、軍人と軍事施設に限られていた。そして当時にあっては、戦争をはじめること自体は犯罪でも何でもなかった。

旧日本軍の軍隊そのものが本質的にもっていた封建的で事大的で暴力的な組織機構とくらべて、アメリカ軍の組織体制のほうが、より「民主的」で開放的かつ人間的であったことは事実かも知れません。旧大日本帝国の軍隊組織には多くの欠陥や問題の存在していたのは事実でしょう。しかしそれも、質量ともに圧倒的に軍事力に劣っている日本軍がアメリカ軍との対抗上、精神主義を強調せざるを得なかったという側面もなかったとは言えません。

また、ドラマとは直接関係はありませんが、その延長線上の問題として、「戦争や核兵器は、絶対的無条件に「悪」として否定されるべきものであるか」とか、その一方で、「人間の生命と生存は、いかなる場合にも絶対的に無条件に肯定され確保されなければならないものなのか」といった根本的な問いは残ります。イランや北朝鮮などの核兵器所有など現代史の問題にもつながります。

ドラマでは加藤哲太郎の妻になる倉沢澄子役を飯島直子さんが演じていた。澄子の夫哲太郎に対する献身的な夫婦愛や、優香さんが演じていた妹の不二子の兄に対する兄妹愛は深く一途で、ともに人間性に対する救いと希望を残してくれたようにも思えます。

ただ、こうした現代のドラマを見ていても、戦前の昔から生き抜いた当時の俳優たちの面影を記憶に持つ私たちのような世代の眼には、現代の若い俳優たちが演じる戦前の「日本兵」や「日本の母」になんとなく違和感を感じます。日本人という全体的な「類型」としての「印象」が戦後60年を経てすっかり変質したからかもしれません。現代の日本人には、戦前の教育を受けて育った俳優たちが演じた「日本兵」や「日本の母」たちが持っていた「らしさ」は失われてすでにないからです。アメリカ文化に浸された「戦後」六十余年の長い時間の流れと堆積はどうしようもないようです。

2007年08月26日  

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ジーコとオシム

2007年07月22日 | 哲学一般

ジーコとオシム            

         

昨年のワールド・カップでジーコ監督に率いられた日本サッカーが対オーストラリア戦で惨めな敗北を喫してから一年が経過した。

日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの

その後日本サッカーの監督は、ジーコからオシムに交代した。そうして現在新しい監督の下で、日本サッカーは新しい戦術を確立し始めているようである。

サッカーに限らず、野球でも、バレーボールでも、そして企業においても、さらには国家においても、すべて戦闘に従事する組織というものにおいては、その戦力は監督、指導者の力量に大きく規定される。チームの戦闘能力の6~7割は監督・指導者の力量によって決まるのではないだろうか。時には、勝つも負けるも監督しだい、指導者しだいという場合もあるだろう。

ジーコ監督からオシム監督に代わって、確かに日本チームのサッカーに戦術の型ができ始めたといえる。トルシエであれジーコであれ、戦術に「型」がなかった。最近のいくつかの日本チームの対外試合を見ても、素人目にもそれはわかる。監督としての資質、力量の優れているのは、その選手時代の力量はとにかく、いうまでもなくジーコではなくオシム監督のほうだろう。ジーコ監督はサッカー選手個々人の技量に頼って、チームとしての組織的な戦術と呼べるほどのものはとにかく確立できていなかった。またその必要についての問題意識自体がこの監督には希薄だった。その前のトルシエ監督にもそれほど明確に攻撃の型を追求しているようにも見えなかった。日本選手たちにそれを目的意識的に練習させてはいなかった。

だから、かっての対オーストラリア戦などでも、チームが勢いに乗って攻め続けているときはよいが、ひとたび選手たちの疲れがひどくなってきたり、攻め込まれて日本の陣形が崩れ始めたりすると、専攻の型を失って総崩れになった。

しかしオシム監督になって、専攻のための陣形が確立し始めているようにも見える。また、オシムのサッカーは基本に忠実であるようにも思える。日本選手たちもそれを守って、オシムの目指す日本型サッカーを確立し始めている。これまでの日本代表チームには明確には見られなかったものである。やはりオシム監督はこれまでに日本チームを任された外国人監督の中ではもっとも優れているのではないだろうか。オシム監督には、「オシム語録」などのいくつかの著書もあるという。まだそうした本を眼にしたことはないが、本来の監督であれば、サッカーに関する理論書、指導書を数冊でもものにしているだけの理論的な力量が当然の資格として何よりも求められるべきものである。

それでもなお、現在なお日本人チームに欠けていると思えるのは、サッカーの勝負の構造を論理的に分析し把握できる選手一人ひとりの能力ではないだろうか。体力と練習量だけでもある程度までは強くなることはできる。しかし、ワールドカップで優勝できるくらいになるためには、戦略と戦術を構想できる高度の論理的能力が、監督選手ともに必要である。アンダー20の若い選手には、その面に優れた能力を持った選手も見られはじめているようだけれども、まだ、現在のワールドカップ代表選手クラスの選手の多くは、本能的な才能と、ひたすらのがんばりだけの盲目的な練習に依存しても、理論によって自己の能力を開発して行くことのできるレベルの選手は少ないように思える。しかし、それでは本当に強いサッカーチームはできないと思う。オシム監督にはそれが分かっていても、日本の選手たちがオシム監督の要請に十分に応えきれず、オシム監督をイラつかせている。

日本チームが本当に強くなるためには、日本の学校教育から、とくに国語教育から変えてゆかなければだめだ。もっとサッカー選手たちにも哲学教育を訓練し、彼ら一人ひとりの論理的思考力を高度のものにしてゆかなければ、日本チームは世界最強の仲間入りは本当にはできない。オシム監督になって改善されてきてはいるとはいえ、だから日本サッカーはまだ子供の、理論なき戦術にとどまっている。そして、この日本チームの弱点は、いうまでもなく、今なお国民や国家の弱点でもある。

それにしても日本の一部のサッカー選手たちにやめてほしいと思うのは、試合の最中に彼らがエヘラエヘラ笑い顔を折々見せることである。間抜けたように気が抜けるし、本当に真剣に戦っているのか疑わせもするからだ。それは選手たちにも不本意なことだろう。

日本、PK戦を4―3で制し準決勝へ…アジアカップ(読売新聞) - goo ニュース

 

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教育の再生、国家の再生

2007年05月09日 | 哲学一般

教育の再生、国家の再生

今の安倍内閣においても、教育改革は内閣の最重要課題に位置づけられている。それは現在の安倍内閣ばかりではなく、歴代の内閣においても教育の問題は最重施策として取り上げられてきた。前の小泉首相は、郵政改革で頭がいっぱいだったから、教育の問題はそれほど自覚されなかったかもしれないが、その前の森喜朗元首相の内閣でも、文部科学省に教育諮問委員会を作って教育改革を目指していた。森喜朗氏でさえそうだった。森喜朗氏は文教族の国会議員としても知られている。

確かに国家の再生には教育の再生が前提になるだろう。しかし、教育の再生には何が必要なのか。教育の再生には、国語教育の再生が必要であり、国語教育の再生には、なにより哲学の確立が必要であると思う。だから、少なくとも国家の再生といった問題に関心をもつ者は、まず哲学の確立によって国語教育の再生をめざし、国語教育の再生によって教育の改革を、そして教育の改革を通じて国家の再生を計るということになる。教育の再生は国語教育から、ということではないだろうか。


江戸時代から、日本には「読み書き、ソロバン」という教育上の標語があって、この標語の教育の核心をついた普遍的な真理は、今日においても意義があるだろうと思う。読み書く力を十分に育てることが教育の根本的な課題であることは今日でも同じだと思う。


読む能力は、知識や情報を外部から吸収するのに不可欠であるし、書くことによって、自らの意思を社会や他者に向って発信することができる。この二つの能力は、個人が充実した社会生活を営んでゆく上で不可欠のものであるし、また、どれだけ高いレベルでそれらの能力を育成できるかが、個人の生涯を意義のあるものにできるかどうかも左右するのではないだろうか。


確かに、現在の学校教育でも国語教育がおろそかにされているとは思わないし、生徒たちの国語能力の向上に向けて、それなりの努力は行われていると思う。朝の授業前の読書の時間は多くの学校で普及しているようであるし、作文の時間などで文章を書くトレーニングもそれなりに行われている。


ただ、それでもなお、日本の国語教育における「読書の訓練」は生徒たちの自然発生的な意欲や努力に任せられたままで、読書の技術などは、まだ学校の現場では洗練されも高められもせず、充実してはいないようだ。もちろん日本の教育の伝統としても確立されてはいない。それは、多くの人々から指摘されるように、今日の大学生がまともな論文を書けないということにもなっている。

だから日本で世界的に通用する学術論文を書くことができるのは、リテラシーという言葉で「言語による読み書きできる能力」が長年の伝統の中に確立されている欧米などの海外に留学して、そこで教授などから専門的な論文教育を受けて、論文の書き方に「開眼した」という留学体験のある、大学の修士か博士課程の卒業者に多いのではないだろうか。この点で今日なおわが国の普通一般教育や大学や大学院での論文教育は充実していないようにも思われる。


この事実は、かなり高名な日本の学者、教育者の文章が実際に拙劣であるという印象からも証明されるのではないだろうか。論文教育はいわば科学研究の方法論の一環として行われるべきものであり、その核心は、論理的思考力であり、哲学的な能力の問題である。自然科学系の有名な学者であっても、その文章に現われた認識や論理の展開で、正確さや論証力に劣っている場合も少なくないように思われる。


いずれにしても、これだけ学校教育の普及した国民であるのに、果たして、それにふさわしいだけの国語能力が確立されているだろうかという問題は残っていると思う。実際の問題として、一般的に国民における読み書きの力は、(自分を棚にあげて)まだまだ不十分だと思う。


それでも、今日のように、とくにインターネットが発達し、ブログなどで比較的に簡単に個人が情報を発信できるようになったので、なおいっそうそうした能力は求められると思うし、また、その能力育成のための機会も容易に得られるようになったと思う。多くの優れた学者の論説文もネット上で容易に読めるようになったし、また、語学力さえあれば、自室にいながらにして世界中の著名な科学者、学者の論文も読むことができるようになった。一昔に比べれば、翻訳ソフトなども充実して、語学能力の育成もやりやすくなったと思う。


蛇足ながら、私自身は文章を書くときに注意すべきこととしては、次のようなことを心がけるようにしている。それは、思考の三要素として、「概念」「判断」「推理」の三つの項目にできうるかぎり注意して書くことである。


「概念」とは、一つ一つの用語を正確にして、それぞれの言葉の意味をはっきりさせることであり、

「判断」とは、一文一文の「主語=述語」の対応が正確であるか「何が何だ」をはっきり自覚することであり、

「推理」とは要するに、文と文のつながりのことであり、接続詞や副詞などが正確に使われて、一文一文に示された判断が、論理的な飛躍や誤りがなく、必然的に展開されているか確認することである。

そんなことを検討し反省しながら書くようにしている。しかし、文章を書く上でこんな基本的なことも今の学校では教えられていないのではないだろうか。

なかなか、理想どおりにそれを十二分に実行できずに、現実にはご覧のような悪文、駄文になってしまっているのは残念であるにしても、これからも引き続き改善してゆくべき課題であると思っている。

今日の記事も、また、「教育の再生」や「国家の再生」といった大げさな標題を掲げてしまったけれども、多くの人がブログなどを書いてゆくなかで、「言語による読み書きできる能力」、、、いわゆるリテラシーを高めてゆくのに、こんなブログの記事でも、少しでも役に立てば幸いだと思っている。

 

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個別・特殊・普遍の論理⑤  心と身体

2007年04月22日 | 哲学一般

個別・特殊・普遍の論理⑤  心と身体

概念論の研究

これらの概念としての精神、普遍的な精神は、さまざまな人種の精神として特殊化されてゆく。アフリカ大陸や赤道直下という地理的な気候的な制約を受けて、アフリカ人種には、無邪気な快活性と同時に激しい興奮性といった特有な精神的な特徴を形成することになったし、シベリアやモンゴル平原に生活するモンゴル人種は、その実利的な精神に強固な家族制度と家長的な国家制度を発達させてきた。一方、同じアジア人としても、人種的にはコーカサス人種であり、赤道直下の熱帯、亜熱帯地方に暮らすインド人は、途方もない空想力と抽象的な精神を発達させて、数学や天文学に秀でるとともに、また一方で、カースト制度という政治国家を形成するという精神的な特徴を備えている。

近代において、世界史的に大きな意義をもちえたのは、ユーラシア大陸の西部に位置するコーカサス人種であり、特にヨーロッパ人である。これらの人種が近代現代世界において果たした精神的な意義は、国家制度や法律、宗教、芸術などから科学技術にいたるまで、人類の歴史に及ぼしたその影響は他の人種とは比較にならないものがある。それらは現代世界を実際に観察すれば、自明の事実として認められるだろう。

彼らの精神的な特徴は、何といっても、精神を精神として局限まで発展させることにより、精神の自然からの完全な自立を果たしたことである。そして、それによって、人類にはじめて、自由という観念に明確な自覚をもたらした。

精神の区別はこのように特殊な区別へと進展してゆくが、それら人種や民族の特殊な精神は、さらに職業や家族の生活様式を通じて、さまざまな個人の気質や性格、才能へと個別具体的な個人の精神へと無限に形成されてゆく。そして、すべて個人の個別的な精神には、人種や民族の精神的な特徴が刻印されおり、その影響から免れることはできない。この意味で、すべての個人は民族と時代の子なのである。人類の精神の発達過程の領域においても、宗教や国家の領域と同じように、この個別――特殊――普遍の三重の論理は、貫かれているといえる。この弁証法的な過程を通じて、精神の生は自己の認識を発展させてゆく。

 

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