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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

2025年05月15日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

Erläuterung.

説明:

Die Logik enthält das System des reinen Denkens. (※5)
Das  Sein  ist  1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denk­bestimmungen gehen wieder in sich zurück. (※6)Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott, wodurch die verschiedenen metaphysischen Wis­senschaften, Ontologie, Kosmologie, Pneumatologie und Theo­logie entstehen.(※7)

論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。「存在」とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。;ここで思考の規定はふたたび自己の内へと戻ってくる。伝統的な形而上学の対象は物であり、世界であり、精神、および神であって、そこから存在論、宇宙論、精神論、神学といった形而上学のさまざま分野が生じてくる。

3. Was der  Begriff  darstellt, ist ein  Seiendes,  aber auch ein  We­sentliches.  Das Sein verhält sich als das unmittelbare zum We­sen als dem mittelbaren. Die Dinge sind überhaupt, allein ihr Sein besteht darin, ihr Wesen zu zeigen. Das Sein macht sich zum Wesen, was man auch so ausdrücken kann: das Sein setzt das Wesen voraus. (※8)

概念 が示すものは、存在するもの( Seiendes )であり、同時に本質的なもの( Wesentliches )でもある。存在は、間接的なものである本質に対して、それ自体は直接的なものである。物は一般に存在するものであるが、ただ、その存在によって自らの本質を示すものである。存在は自らを本質へと高めるが、また同じく、存在は本質を前提としているということもできる。

Aber wenn auch das Wesen in Verhältnis zum Sein als das vermittelte erscheint, so ist doch das Wesen das ursprüngliche.  Das Sein geht in ihm in seinen Grund zu­rück; das Sein hebt sich in dem Wesen auf.(※9)

しかし、たとえ本質が存在との関係において媒介されたものとして現れるとしても、本質こそがやはり根源的なもの である。存在はその本質においてその根拠に回帰する。存在は本質において自己を止揚するのである。

Sein Wesen ist auf diese Weise ein gewordenes oder hervorgebrachtes, aber viel­mehr, was als Gewordenes erscheint, ist auch das Ursprüng­liche. Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage und wird aus demselben.(※10)

このようにして、その本質は生成されるものであり、また生み出されるものでもあるが、しかしそれ以上に、生成されたものとして現れる本質もまた根源的なものである。移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

Wir machen Begriffe. Diese sind etwas von uns  Gesetztes,  aber der Begriff enthält auch die Sache an und für sich selbst. In Verhältnis zu ihm ist das Wesen wieder das gesetzte, aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr. (※11)

私たちは概念を作る。この概念は私たちによって「定立されたもの」であるが、しかし、また概念はもともと事物それ自体をも含んでいる。その概念に対して、本質はあらためて定立されたものであるが、しかし、定立されたものは、それでもなお真理である。

Der  Begriff  ist teils der  subjektive,  teils der  objektive.  Die  Idee  ist die Vereinigung von Subjektivem und Objektivem. Wenn wir sagen, es ist ein bloßer Begriff, so vermissen wir darin die Realität. Die bloße Objekti­vität hingegen ist ein Begriffloses. Die Idee aber gibt an, wie die Realität durch den Begriff bestimmt ist. Alles Wirkliche ist eine Idee.(※12)

概念 は一面においては 主観的 であり、一面においては 客観的 である。 理念 とは主観的なものと客観的なものの統一である。 もし私たちが、それは単なる概念にすぎない、と言うときには、そこには現実性が欠けていることを示している。それに対して、単なる客観性は概念を欠いている。しかし理念は、現実が概念によってどのように規定されるかを示すものである。すべての現実的なものは理念である。

 

※5
Die Logik enthält das System des reinen Denkens.
論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。

ヘーゲルにおける「論理学(Logik)」は、通常の形式論理学とは異なって、存在そのものの根底にある「純粋思考(das reine Denken)」を、すなわち、「思考の概念的運動」そのものを問題にしている。「純粋」というのは、思考そのものの内在的な自己展開には、経験的な、感性的な要素は関わらないからである。
ヘーゲルの全哲学体系はこの「論理学」に始まり、それは「概念の自己運動としての実在」が、つまり「理念(Idee)」への発展過程として示されている。
たとえば「存在」→「本質」→「概念」と進む弁証法的展開は、現実世界のすべてを根底で支える論理的な構造であって、それが「純粋思考の体系」として捉えられている。

※6
Das Sein ist 1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denkbestimmungen gehen wieder in sich zurück.
存在とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。思考の規定は再び自己の内に戻ってくる。

ここでは「存在(Sein)」のもつ二重の性格が述べられる。
まず、unmittelbar(直接的な)というのは、何の媒介もなく、ただそこに「ある」ものとしての存在であり、それはもっとも抽象的な起点であり、感覚的な「ある」である。
innerlich(内的な)というのは、この存在が、たんに外部に感覚的に現れるだけでなく、思考によって反省(反射)的に捉えられたときには、内面性をもつものとして、存在はその内に折り返して、自己反省して、本質(Wesen)を洞察する。

思考の運動としては、「思考の規定(Denkbestimmungen)」がただ他者を規定するだけではなく、自らに戻ってくる(内面化する)という動きである。思考は、存在のたんなる外面を超えて、存在するものの中へと進んでいく。これは「自己への反射(Reflexion in sich selbst)」でもあり、ここから本質論へ入る。

※7
Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott ...
伝統的な形而上学の対象は物、世界、精神、神である。

ヘーゲルはここで伝統的な「形而上学(Metaphysik)」の四つの主要な対象領域をあげる。
Ding(物):存在の最小単位、物理的対象。ー→ Ontologie(存在論)
Welt(世界):物の全体構造としての宇宙。ー→ Kosmologie(宇宙論)
Geist(精神):人間の自己意識的活動、自由をもつ存在。ー→ Pneumatologie(精神論)
Gott(神):絶対的存在としての究極者。ー→ Theologie(神学)
しかしヘーゲルにとって、これらはすべて論理的に一つの体系の中で発展するもの、理念の自己展開として説明される。

※8
Was der Begriff darstellt, ist ein Seiendes, aber auch ein Wesentliches ...
概念が示すものは、存在するものであり、同時に本質的なものである。
「概念(Begriff)」は単なる言葉や定義ではなく、存在を自己運動によって本質化する動的な論理的な構造のことである。

Seiendes(存在するもの)とは、現実にそこに「ある」もの。
Wesentliches(本質的なもの)とは、そこに「あること」に内在している根拠や意味のこと。

たとえば、「レモン」という存在の本質は、リンゴやバナナといった他の果物と比較され関係付けられて、反省(Reflexion)され、柑橘類としてその酸っぱさや、黄色という色彩や、絵画や文学の素材などとしてレモンの本質が認識される。また、たとえば「国家」という存在は、ただ制度として存在するのではなく、その存在を通じて「自由」や「理念の実現」といった国家の「本質」を現すような論理的な構造をもっていることが洞察される。

 

※9
Das Sein hebt sich in dem Wesen auf.
存在は本質において自己を止揚する。

存在(Sein)はそのままでは感覚的に抽象的で空虚なものであり、それを思考の媒介を経て内面化、深化させたものが本質(Wesen)である。したがって、存在が本質へと移行する過程は、単なる否定ではなく、より深い真理としての「本質」のうちに、「存在」が保存され、止揚される運動ととして捉えられる。これは論理学において「存在論」から「本質論」への必然的な発展の論理として、「止揚(Aufhebung)」の具体的な事例として説明されている。

※10
Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage 
移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

「万物は流転する」というヘラクレイトスの立場を引き継いだヘーゲルは、「生成(Werden)」という動的過程を強調する。移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、移り行くものの生成には、その事物の本質が現象してくる。一見「生成された(Gewordenes)」もの、つまり変化したもの、結果のように見える存在も、実は「根源的(ursprünglich)」な本質が自己展開したものにほかならない。
  たとえば、一つの国家制度が変化・崩壊したとしても、その現象の背後には「自由」や「理念国家」といった根本理念が本質が変容しながら働いている。
移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、その生成を通して、理念の必然的な運動がそこに貫かれていると見る。

※11
aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr.
定立されたものは、それでもなお真理である。

 本質も概念も思考主体によって主観的に「定立された(gesetzt)」ものであるが、しかし、
それは単なる主観の任意な思いつきではなく、対象そのものの真理を含んでいる。
つまり、本質(Wesen)も概念(Begriff)も私たちが「作る」ものであると同時に、そこには「客観的真理」が保存されている。そこでは主観と客観が止揚され統合されている。

※12
Alles Wirkliche ist eine Idee.
すべての現実的なものは理念である。

ヘーゲル哲学においては、Begriff(概念)は単なる主観的な思考の産物、観念ではなくて、主観的・客観的側面を統合したものである。その統合とされたものとしての、Idee(理念)は、現実(Wirklichkeit)を構成する原理である。
ここで言う「理念(Idee)」は、単なる理想や観念ではなく、概念によって貫かれた現実そのものであり、たとえば、「国家」という現実も、「法」や「自由」「倫理」といった概念によって規定され、そうである限りにおいて、国家は「理念的な実在」である。
逆に言えば、理念を欠いた現実(たとえば、倫理なき法、理念なき制度)は「真の現実」とは言えない。つまり真の「現実性(Wirklichkeit)」を持たない。

だから、理念を欠いた日本国憲法の上に立つ日本国家は「真の現実」ではなく、ヘーゲル哲学的な観点からみれば「現実性(Wirklichkeit)」を持たないということになる。

 

 

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牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

2025年05月10日 | 哲学一般

 


牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

 

以前に、ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

と言う論考の中で、かって東京都立大においてマルクス主義哲学者であった寺沢恒信の指導のもとでヘーゲル哲学研究の研鑽を積んだ許萬元と牧野紀之の二人の弟子が、あくでもマルクス主義の立場からですが、論理学や弁証法の研究において傑出した業績を残していることについて述べました。

寺沢恒信をはじめとするマルクス主義者たちは「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱をヘーゲル哲学研究の出発点としましたから、ヘーゲル論理学の研究分野において、あくまで「唯物論」という立場からそれなりの業績を残しています。


寺沢恒信氏の指導のもとでヘーゲル哲学研究に従事した許萬元と牧野紀之の2人を中心とするこの学派について「寺沢学派」と私は呼びましたが、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という問題意識からとはいえ、ヘーゲル研究において優れた業績をあげているからです。

牧野紀之氏自身は、六十年安保闘争世代の思潮の影響を受けて、当時は、ソビエト・ロシアや毛沢東の中国が「東風が西風を圧する」という、興隆しつつあった共産主義諸国に夢と共感を抱いたらしく、牧野紀之氏も20歳前後に、共産主義運動に参画するという目的をもって彼の哲学研究の動機としました。


この間の事情については、牧野紀之訳『精神現象学』の「訳者まえがき」の中で牧野氏自身が次のように述べています。

「では三浦氏自身の問題は何だったのでしょうか。氏はこう言っています。「少し分かり易く説明しますとね、僕たちの世代、あるいは次の世代もそうですが、一方では連合軍による占領と、他方で中国革命があって、また米ソの対立図式のなかで社会主義に対する憧れを持っている。しかしスターリニズムの実態がハンガリー事件やチェコ事件などを通じて明らかになると、次第に憧れが失望に変わっていって、既成の社会主義をそのまま受入れることができなくなる。」(四三ページ)


氏の心情を推察してかみ砕きますと、二十世紀の最大の社会問題であった資本主義か社会主義かの問題に最大の関心があり、その対立において社会主義に好感を持っていたということです。それは中国革命の道徳的な高さによって強められたということです。しかしソ連の社会主義(及び革命後の中国の社会主義) の実態を知るに及んでどう考えたらいいか迷うようになったということです。

思うに、この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います。私もここまでは三浦氏と同じです。しかしこの総論をどれだけ具体化して考え進めたか、これがその人の哲学を決定したのだと思います。前衛党の問題、その規律としての民主集中制をどう考えるか、理論と実践の統一をどう考えるか、政治と学問・芸術の関係をどう考えるか、こういった問題にまで具体化して考えたか。それを考える時にヘーゲルを参考にして考えたか、これが決定的だったと思います。」

(※ちなみにここで言う「三浦氏」とは、1995年に、出版社「未知谷」から、牧野紀之氏と同じように、ヘーゲルの『精神現象学』を翻訳、出版した三浦和男氏のことです。)

 

ここで牧野紀之氏 が「この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います」と書いているように、日本のヘーゲル哲学研究者の99%はマルクス主義者であって、彼らは自らの拠り所であった共産主義に対する夢が敗れた後に、マルクスが自らの思想の拠り所にしたヘーゲル哲学そのものにさかのぼって、「マルクス主義」の検証に取り組もうとしたのだ思います。

悪くいえば、マルクス主義の歴史的な政治的な破産に直面したマルクス主義者たち、この三浦和男氏をはじめ牧野紀之氏自身もそうだと思いますが、そうした破産に直面して、「マルクス主義」を再検証するという口実で、「ヘーゲル哲学研究」の中に逃げ込んだのだと思います。

市民社会の、いわゆる「資本主義社会」の中では、マルクス主義者たちは実際に使い者になりませんでしたから、彼らは「大学」や「アカデミズム」の世界に逃げ込んで、そこで「食い扶持」を見出すことになったともいえます。今日の「大学」「アカデミズム」の世界がほとんど「赤一色」「左翼一色」である理由もここにあるのではないでしょうか。

しかし、牧野紀之氏自身は、自身の初心に忠実に、自らの哲学研究において共産主義そのものを実践しようとしました。だから牧野氏自身はサラリーマンとしての「大学教授」という職に満足できませんでした。自から「鶏鳴学園」という私塾を作って、寺沢恒信から受け継ぎ、その上に自らの創意工夫を加えて発展させたヘーゲルのテキストの「読解技術」を── 具体的には「文脈を読む」とか「形式を読む」といった読解の技術を、自らの私塾「鶏鳴学園」に学びにきた生徒たちに伝授しました。また、自らも共産主義の実践として、「共同体」の創出などにも取り組みました。

鶏鳴学園で行われた牧野氏のヘーゲル哲学の原典購読は、たとえば一般のいわゆる「大学」「アカデミズム」におけるヘーゲルの原典購読の水準をはるかに超えるものでした。それが評判をよび定評を得ましたから、難解な「ヘーゲル哲学」を何とかものにしたいという若者、社会人などが集い、牧野氏からヘーゲル・テキストの「読解の技術」を学びました。

牧野氏自身は、「自分の哲学を作って生きる」という課題に忠実でしたが、牧野氏の生徒たちの中には「大学教授」として生活するという目的のために、牧野氏からヘーゲル哲学の読解の技術だけを、悪くいえば盗んで「大学教授」になるための「飯の種」として、ヘーゲル哲学の訓詁注釈のみに従事しました。ヘーゲル哲学研究を「自らの哲学を作る」という課題の手段とすることなく、ヘーゲル哲学を「談論風発」することだけが目的の、そうした風潮について牧野紀之氏は「サラリーマン弁証法」と揶揄しました。

少し論点が逸れてしまいましたが、この「寺沢学派」のもう一つ著しい偏向があるとすれば、この「寺沢学派」には、ヘーゲルの「法の哲学」に関連する研究業績が皆無であるということです。マルクス自身はヘーゲルの「法の哲学批判」を彼の「共産主義思想」の基礎にしましたが、この「寺沢学派」は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という動機にみずから限定しましたから、そのヘーゲル哲学研究が、ヘーゲルの「大小論理学」に集中したのは当然の帰結だとも言えます。その結果として、ヘーゲル「法の哲学」の国家理念に基づいた、新日本国憲法を構想できる者が、この「寺沢学派」には、誰一人としていなかった、ということにも現れています。

 

 

 

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牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

2025年05月06日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

 

牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。

マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。

かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。

牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。

ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。

もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。

とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。

どうしてそれが可能になったか。牧野氏は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱に生涯忠実であったが、その研究の実際はヘーゲル論理学の「現実的な意味を考え抜く」ことに徹することであった。そのために、唯物論とか観念論とかいった枠を超えて、大学教授や講壇哲学者たちが達し得なかった水準において、「ヘーゲル論理学の現実的な意義」を明らかにすることができた。

それゆえに現在のところ、ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用できる。

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

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牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

2025年05月04日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

 

日記ブログ「作雨作晴」でも哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」でも、多くヘーゲル哲学について論及しています。こうした私の「ヘーゲル哲学研究」は、哲学者の牧野紀之氏の「ヘーゲル哲学研究」を媒介にしていますから、私があらためて牧野紀之氏の「思想と哲学」について、批判的に考察することは、必要なことであり課題でもあるのですが、なかなか時間的に能力的にも実際に具体的に着手できませんでした。

しかし、この問題は「私の思想や哲学の立場」を明確するためにも、いつまでも先送りできることでもないので、少しずつでも着手していくつもりで、今日の記事になりました。こうした感想や考察を断片的にでも蓄積していって、それを手がかりとして、時がくればそれらを整理しまとめて、一つの必然的で体系的なまとまった考察としていきたいと考えています。

牧野紀之氏については、牧野氏自身がご自身のブログの中で明らかにされています。

牧野紀之 - マキペディア(発行人・牧野紀之) https://is.gd/89Z4qs

牧野紀之


2008年08月01日 | マ行

1、経歴等

1939年、東京に生まれる。
 1963年、東大文学部哲学科を卒業。
 1970年、東京都立大学博士課程を卒業。
 1971年、鶏鳴出版を始める。
 1973年、哲学私塾「鶏鳴学園」を始める。
 1976年、雑誌「鶏鳴」を創刊。
1990年、引佐郡引佐町(現在の浜松市北区引佐町)に移住。
 1991年、04月から哲学の共同生活を始めるが失敗。
2006年、ブログ百科事典「マキペディア」(創刊時の名は「マキシコン」)を創刊

2、思想遍歴等

 大学院卒業までの経歴については「勉強の思い出」を参照。

 60年安保闘争の中で直面した問題と取り組み、ヘーゲル哲学を介して考える中で、生活を哲学する方法を確立した。「生活のなかの哲学」「哲学夜話」(鶏鳴出版)。

 ヘーゲル研究の成果は訳書「精神現象学」(未知谷)「小論理学」(上下巻、鶏鳴出版)など。

 又、社会主義の根源的反省の中で、唯物史観の論理的再構成を目指す。「労働と社会」「ヘーゲルの目的論」(鶏鳴出版)など。

 それの延長線上で、マルクスとエンゲルスの自称「科学的社会主義」を再検討して、その証明の不十分性を指摘する。つまり、それは実際には「空想的社会主義」の1種でしかないことを証明。「マルクスの〈空想的〉社会主義」(論創社)。

 社会運動のあり方としては「本質論主義」を提唱し、具体化している。これと関連して、従来の社会主義運動で理論的検討の加えられなかった諸問題を解明。「理論と実践の統一」(論創社)。

 ドイツ語教師としての活動の中で、関口存男(つぎお)氏のドイツ語学を学ぶ。「関口ドイツ語学の研究」(鶏鳴出版)。

 教育活動では、初めは学校を低く見て私塾を目指してきたが、失敗してからは、学校の可能性を追求するようになる。

 哲学教育の目的を「各自が自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と定式化したこと、その中心的な手段としての教科通信を最大限に利用するようになったことで、新境地を開拓。「哲学の授業」「哲学の演習」(未知谷)。教科通信「天タマ」。

 ドイツ語の授業については、教科通信「ユーゲント」。

 2003年09~11月、浜松市積志公民館で哲学講座。「松の木」

 2004年04月~05年03月、地元の自治会長を務める。

 2010年04月~11年03月、地元の組長(事実上は自治会長に近い。隣の自治会と合併したために「組」になっただけ)を務める。「私の自治会長」を参照。

 2010年3月末をもって静岡大学情報学部でのドイツ語非常勤講師の仕事を終える。教科通信「ユーゲント」。

 70歳ころから「学問は一代、思想も一代」と考えるようになり、かつての間違いの根本は「生徒を集めよう」と考えたこと自体にあった、と考えるようになる。

2012年10月、最後の仕事と考える「大論理学」の翻訳に向けて舵を切る。
2012年11月、ヘーゲル「自然哲学」(序論)を訳し、pdf鶏鳴双書として出版。

2013年03月、pdf鶏鳴双書として「ヘーゲルの始原論」を出す。
2013年04月、「大論理学」の翻訳の前に、「小論理学」を見直して出す事とし、見直しを始める。
2013年06月、「関口ドイツ文法」を未知谷から出版。

3、直近の活動報告

 2013年04月から『小論理学』(鶏鳴版)の見直しを始める。同(未知谷版)を出すためである。
 原文のドイツ語を文法的に読むことがしやすくなったのを感ずる。「関口ドイツ文法」を出したためである。
 「ヘーゲルを読んで哲学する」点でも以前よりは前進したと思います。
 2014年7月現在、「現実性」論に入りました。
 2014年9月1日、「本質論」を終えて、暫時小休憩に入る。

 ☆ 「私の研究生活」(2014年10月24日)

 
4、業績一覧

5,社会的活動

 社会的発言は、主として、ブログ「マキペディア」「静岡県庁の真ホームページ」(2010年10月で終える)「浜松市役所の真ホームページ」を中心としている。
→私のブログ体験
私のブログ体験、その2
私のブログ体験(その3)

 社会は官と民から成り立つが、両者は並立しているのではなく、官の運営する枠組みの中で民が活動する、という関係にある。だから、その枠組み(法律で決まっている)と運営(担当者の考えと力量で決まる)を国民は監視し検討すべきであるという考えに基づいて、役所のカウンター・ホームページを作ることを提唱し、実行している。〔その後、「マキペディア」に集中)

2011年02月15日、浜松市長選挙への仮立候補宣言を発表。→「仮立候補関係の記事」
 同、03月25日、正式立候補は出来ず→「報告と御礼」

 (2008年08月01日現在。その後適宜加筆)

 

 

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今日は憲法記念日。

2025年05月03日 | 国家論

 

2025(令和7)年05月03日(土)晴れ。憲法記念日.

今日は憲法記念日。

今日は憲法記念日だそうです。ここ最近になって日本国憲法について触れた私の論考を再録しておきます。

現在の日本国で行われているような、「護憲・改憲論議」の現状では、今日の日本国に見られるような、国家の解体的な現象、政治家や国民の「漂流化」は防げないと思います。


こうした現象はいずれも「現行日本国憲法」の存在が日本の国家、国民に及ぼすところの論理的な帰結だと思います。

 

令和日本国憲法草案3

2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。 #「令和日本国憲法草案」について2

  「令和日本国憲法草案」について2   ...

「令和日本国憲法草案」について

【令和日本国憲法草案2】

【令和日本国憲法草案】

拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

赤尾秀一の思想研究

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

2025年04月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

2025年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

唯物論者で経験論者のマルクスは、①「概念」が対象の内側に働いており、「概念に即して存在している」ことが対象の真の現実性(Wirklichkeit)であるということを理解せず、②「概念」は主観によって抽象された観念に過ぎないと誤解しました。また、③「概念」の運動は、常に自己否定とその止揚を通じて発展するという内在的な自己発展の論理を理解せず、社会の発展についても、マルクスは「階級闘争史観」から発展の論理を一面的に悟性的に理解して、概念の理性的な内在的な発展を否定しました。

 

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令和日本国憲法草案3

2025年04月26日 | 国家論


令和日本国憲法草案3

憲法草案の第3条(国民の義務と権利)の項に、「国民は、人間としての尊厳を侵してはならない。」の一文を付け加えました。

 

【令和日本国憲法草案3】

【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。


【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)

日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。
第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、人間としての尊厳を侵してはならない。また、国民は自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。
第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。
第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。
第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。
第9条(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。
第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。
第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。
第14条(施行法の制定)本憲法に規定された国家機構、国民の権利義務、司法制度その他の統治機能の実施に関して必要な事項は、憲法施行法として別に法律で定める。これらの施行法は、本憲法の精神と条文に適合するものでなければならない。

 

 

 

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2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。 #「令和日本国憲法草案」について2

2025年04月25日 | 国家論

 

2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。#「令和日本国憲法草案」について2

 

昨日ブログに公開した「令和日本国憲法草案」は基本的には、明治の大日本帝国憲法下の日本を「テーゼ」、そして、戦後の現行日本国憲法下の日本を「アンチテーゼ」として捉え、いわば、正(テーゼ)ー→ 反(アンチテーゼ)ー→ 合(ジンテーゼ)という認識論、発展論を踏まえて合(ジンテーゼ)として「令和日本国憲法草案」は構想されたものです。

ですから、戦後80年と一世紀にも及ばんとする現行日本国憲法下の日本で生まれ、そのもとで教育され生きてきた大多数の日本国民には、一見したところ懐古趣味がすぎると思われるかもしれません。

とはいえ、敗戦後のGHQ の統治下に制定された現行日本国憲法には、日本国の国家概念が、理念と言ってもいいかもしれませんが、十分に明確にはなっていないと思います。それが、政治家たちや日本国民自身のアデンティティー形成や日本国民の自己確立に深刻な影響をおよぼし、愛国心の歪みや無国籍人的性格の日本人の蔓延やスパイへの売国的もしくは融和的な態度として現象していると思います。また、それらが保守的な多くの一般日本国民の危機意識の根源にあるのではないでしょうか。

そうした現象について、枝葉末節のモグラ叩き的な対応ではなくて、根本的な原因である現行憲法の欠陥への批判と、その改正にまで遡って根本からの改革は可能だろうか、私なりにその方策を模索したものでもあります。もちろん、その根本に共通した問題意識がない場合は、おそらく議論にはならないだろうと思います。

この「令和日本国憲法草案」はまだきわめて粗い試案に過ぎませんが、この改正草案の意図するその根本については洞察していただきたいと思います。

こうした憲法改正論議を通してさらに、自分とは何であるのか、日本人とは何であるのか、歴史と伝統の上に立つ日本国とはどのようなものであるのかなど、みずからの自己意識と国家意識をさらに深めていければいいと思います。

 

 

 

 
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「令和日本国憲法草案」について2

2025年04月24日 | 国家論

 

「令和日本国憲法草案」について2

 

※まず、「令和日本国憲法草案」に目を通してみてください。

 

【令和日本国憲法草案2】 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/76WnJq

その上で、感想、ご批判などをコメント欄にでもいただければさいわいです、


明治憲法以来、日本は成文憲法を中心に法秩序を築いてきました。条文の体系化、法典整備、形式的正統性の尊重は、確かに近代国家の形成において有効に機能しました。しかし、この成文という形式性は、ときに現実の文化・歴史・伝統との乖離を生み、制度の柔軟性と有機性を損なう要因ともなりました。
こうした背景から、先に、提示した「令和日本国憲法草案」は、成文法的な体系を維持しつつも、英国型の不文憲法に見られる運用性の柔軟さや伝統との親和性、さらには伝統的な生活根拠との結合を模索しようとしたものです。


英国における法秩序は、「憲法典」を持ってはいませんが、判例や慣習、制度的伝統などによって支えられています。その柔軟性は、例えば王室と議会、判例と政治慣行、政党制度と慣例などとの調和に顕著であり、書かれたルールに縛られない通融性のある「国家の連続性」と「文化の適応力」を維持してきました。
「令和日本国憲法草案」は、日本においてもこのような「不文的な法制度の柔軟性」を部分的に導入することにより、伝統文化と現代の制度とのあいだの離反や距離を少しでも埋めようという目的をもっています。


「令和日本国憲法草案」の大きな特徴は、成文憲法としての理念的な骨格と、その理念を具体的に展開する「憲法施行法」の制度的な設計との二層構造です。これは、憲法においては抽象的な理念の定式化にとどめ、その具体的な運用や社会制度の設計に関しては、時代・慣習・文化に即した法律によって柔軟に対応する余地をもたせようとしたものです。
この点において、「憲法=理念」「憲法施行法=制度・慣行」という区分は、まさに英米法的な「コモンローと慣習 common law and convention」の思想を日本的に翻案しようとしたものです。


現行日本国憲法の抽象的な「個人主義」は、しばしば伝統的な家族制度や地域共同体との緊張をはらみがちです。「令和日本国憲法草案」は、個人の自由を否定することなく、その自由の前提としての「共同体的基盤」の価値を再発見し、それを制度的に保護し、あるいは再構成しようとするものです。
たとえば、家族に関する規定においては、個人の尊厳と親族的な連帯との調和が求められ、地域においては「市民社会」としての公共性の回復が意図されています。これはいわばヘーゲル的な「人倫(Sittlichkeit)」の回復へと通じるものです。


日本の近代化の過程において、宗教や伝統的慣習は「私的領域」に閉じ込められ、制度的な保護の対象外とされてきました。しかし、精神的で伝統的な共同性は国家の統合原理の一部でもあります。「令和日本国憲法草案」は、これらを「文化的な公共財」として明確に保護し、制度的な承認の枠組みを与えようとするものです。
そのためには、「国家宗教」ではなく、「民族的文化的遺産」としての宗教・儀礼・慣習を、国家が支援する新たな法的な枠組みが求められます。これは「信教の自由」ともちろん矛盾するものではありません。むしろ文化の多様性とその尊厳の尊重を目的とするものです。


「令和日本国憲法草案」の本質は、「理念としての国家(Staat als Idee)」の回復にあります。理念国家とは、もちろん単なる制度の集合体ではなく、文化・伝統・宗教・人倫を制度的に媒介しながら、国民の自己意識を形成するその実体でもあります。ここにおいて、成文憲法の硬直性を超えていくために、不文的な慣習や文化的な実践を「理念国家の現実的な契機」として認識し、それを制度化していくものです。


日本は、明治以来の法典主義を経て、とくに戦後憲法下において今日では国家理念の抽象化と伝統的な民族的な宗教・儀礼・慣習などの制度との乖離がいっそう深刻化しています。「令和日本国憲法草案」は、成文憲法の枠内において不文法的な運用を可能にし、柔軟かつ理念的な国家の再編を目指すものです。
この構想は、単なる制度改革にとどまらず、「文化の自己再生」と「国家の自己意識の再編」をも伴った根源的な国家哲学の刷新を含んでいます。それはまさに、ヘーゲルが『法の哲学』において語った「現実的な理念としての国家」の、 21世紀日本における現代的な再構成の試みでもあります。

 

「令和日本国憲法草案」について1 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/sauO8A

 

 

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こころあらむ 人に見せばや    能因法師

2025年04月11日 | 芸術・文化

 

こころあらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを
       能因法師   

春の理念、精神の風景としての難波 ── ヘーゲル哲学の立場による和歌の註解


津の国、難波は、もちろん地理的に実在する場所です。しかし和歌においてそれは単なる地名ではなく、象徴的な空間として表現されています。摂津という国にある難波という場所が春という季節を迎え、そこに自然の生成と再生が象徴的に現れています。ヘーゲルの自然哲学においては、春とは「理念が自然界において再び生成しようとする運動」であり、冬の死をのり超えて生命がふたたび躍動を始める時期でもあります。

この景色を前にして能因法師は、それをただ自己のうちに留めるのではなく、誰か他の者へと伝えようとしています。「見せばや」と言うことで、この理念の外化=美の他者への媒介を試みています。自然の風景はこのとき、もはや単なる物理的な対象ではなく、精神的な実在としての「春の理念」と化しています。風景は精神の自画像となり、能因法師の抒情は単なる感傷ではなく、「理念の他者への提示」という哲学的な運動と原理的には同じ展開をしています。

「こころあらむ人に見せばや」とは、自然を誰に見せるか、対象を選別する行為です。これは単なる好悪の選別ではなく、能因法師がここで探し求めているのは、春の「気色」を、すなわち感覚的な現象の背後にある美の理念を、おなじ心のうちに感じ取ることのできる精神的な兄弟です。「こころある」とは「風情を解する」とか、「趣を感じ取る感性をもつ」ということですが、ヘーゲル美学においては「理性(Vernunft)」をもつ者のことです。

この歌は、精神が自然に出会い、それを自己の理念として再把握しようとする過程を詠ったものです。この難波の春の風景は、能因にとっては理念の顕現であり、それに感応できる者だけが「こころある人」です。

能因法師のこの一首は、単なる春の叙景歌ではありません。それは、自己の内面と外界との一致を美として、すなわち理念としての風景を提示することであり、また精神の他者への呼びかけを含んだ深い哲学的な詩でもあります。

能因法師のこの和歌は、自然の描写を通じて、精神が他者と理念を共有しようとする運動を詩の形式で表現したものといえます。ヘーゲルは「芸術とは理念を感性的に現在させることである」と言いましたが、この歌はまさしくその定義にかなう作品です。

 

こころあらむ 人に見せばや  能因法師 - 作雨作晴 https://is.gd/1QNsU9

2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師 - 作雨作晴 https://is.gd/3SxZ23

 

 

 

 
 

2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師 - 作雨作晴 https://is.gd/3SxZ23

 

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言論の自由と権力の倫理 ― 日本保守党の飯山陽氏提訴で考えること 

2025年04月06日 | 教育・文化

 

言論の自由と権力の倫理 ― 日本保守党の飯山陽氏提訴で考えること 


冬が去り、春を迎えようとする最近になって、日本保守党がイスラム思想研究者・飯山陽氏を相手取って、合計約1000万円の損害賠償を請求する民事訴訟を起こしたことがYOUTUBEなどで知られています。訴因は、飯山氏による日本保守党に対するさまざまな言論上の批判が理由とされています。
一私人が名誉毀損を理由に提訴されることは決して稀ではないですが、この件は明らかに性質の異なる問題です。というのも訴訟の原告は公党である日本保守党であり、被告はイスラム研究者で、一個人で私人という立場にあるからです。ここには、「政党といった公共性の高い存在が、一私人の言論に対して司法を使って応答する」という、民主社会の根本原則が問われるという深刻な構図があるからです。

言論の自由とは、もちろん、ただ何でも好き勝手に発言する権利ではありませんが、言論の自由は、近代市民社会において、公権力から個人の思想や表現活動を守る防波堤として制度としても確立されています。現行の日本国憲法においても、第二十一条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 「2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定されています。

J.S.ミルが『自由論』のなかで述べたように、たとえ間違っていると思われる意見であっても、それを抑圧するのではなく自由に議論の場に置くことで、真理が明らかになってきます。真理とは与えられるものではなく、多様な意見の議論の中で研鑽され、浮かび上がってくるものです。

政党や政治家が自らに対する批判的な発言を「ただ、たんに自らに不都合である」として合理的な、客観的な根拠も十分な説明もなく、そのまま訴訟で排除しようとする行為は、歴史的にもまがりなりにも成立している「言論の自由」の制度的な意義そのものを否定することになりかねません。

今回の提訴は、近年国際的に問題視される「SLAPP訴訟(Strategic Lawsuit Against Public Participation)」に典型的にみられるものに近いと思われます。SLAPP訴訟とは、公共の問題について意見を述べる個人に対し、法的手段で経済的・心理的圧力をかけ、意見の表明を萎縮させることを目的とした訴訟です。
民主主義社会において最も重要なのは、国民一人ひとりが公共の問題について自由に意見を述べ、議論に参加できる環境です。もし政党が自らに対する批判的意見に対して司法権力を用いて威圧的に応じるのであれば、それは権力者による自由の抑圧にほかなりません。

公党には、民意を代表し、公共政策を立案・遂行するという大きな責任があります。その言動や政策が批判されることは、むしろ健全な民主主義にとって必要不可欠なものです。政党が「名誉を毀損された」という理由で批判を司法を手段として封じようとするのは、自らの説明責任を放棄する行為であり、倫理的にも問題は大きいと思います。
ここには、「政治に携わる者はいかなる批判に耐えるべきか」という問題もあります。政党のような公共的な存在、機関はその普遍性ゆえに、さまざまな個人の個別的な自由な思考、言論と対立する場面が多いですが、そのとき重要なのは「反論」や「説明」であって、決して「抑圧」や「弾圧」であるべきではありません。

このような訴訟は、直接の被告だけでなく、広く社会全体に「発言すれば訴えられるかもしれない」という萎縮効果を与えてしまいます。とくに日本社会では、「空気を読む」とか「波風を立てない」といった文化的傾向が強く、その結果として自己検閲が日常化しやすい土壌もあります。
このような状況で言論を訴訟によって抑えようとする動きによって、市民社会の活力が削がれ、「異論なき社会」や「死に絶えた民主主義」がもたらされることが深刻に懸念されます。私たちの望む社会の平和で安全な秩序が、国民の、無批判な沈黙によってもたらされたものであってはなりません。

民主主義とは、多様な立場や意見がぶつかり合いながらも、互いの存在を認めあい、議論によって合意を形成していこうという考え方です。批判を排除することは、民主主義を自己否定することにほかならないと思います。
飯山陽氏の発言がどれほど厳しいものであったとしても、それに対して政党がとるべき行動は、「論理的に言論で反論すること」であるべきはずです。訴訟という形で沈黙を強制するやり方は、自由や知性にふさわしいとは思えません。

私たちは、飯山陽さんが日本保守党から訴えられるという深刻な事件が生じた今、あらためて「言論には言論で応じる」という民主社会の基本原則を改めて確認し、その価値を守り抜くことが大切だと思います。新しくできた日本保守党には、島田洋一氏や河村たかし氏や小坂英二氏といったすぐれた活動家がいます。しかし、彼らの政治的な主張がどのようなものであれ、飯山陽氏の批判に対して日本保守党が司法という手段によって言論を事実上抑圧するようなことはあってはならないと思います。「言論の自由」の価値を理解しない、「保守」を自称する百田尚樹党首のもとで彼らが活動することになるのは日本の「悲劇」と言えるかもしれません。またそうした手段を取る日本保守党の現状に、内部の日本保守党員のなかから批判の声が上がらないのもおかしいと思います。もし日本保守党が開かれた民主的な政党でないとすれば、民主主義を尊重する日本国民は日本保守党を支持しないだけのことでしょう。

 

 

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「令和日本国憲法草案」について

2025年04月01日 | 国家論

 

「令和日本国憲法草案」について

 

先に私は日本の憲法改正論議に一石を投じるために、「令和日本国憲法草案」を提示しました。あまり多くの人の注目も引かなかったようですが、そこで私が提起した問題は、現代の日本のおける憲法論議に、英国のような不文憲法の可能性はないか、もしないとすれば、次善の方策としてどのような憲法が可能か、また不文憲法に代わる成文憲法の可能性としては、どういうものがあり得るかということです。

現在の日本における憲法論議も、護憲か「現行憲法の改正」かといった二項対立的な議論に集約されてしまって、肝心の憲法が表現すべき国家理念とは何か、といった議論はきわめて不足しているし、その内容においてもきわめて貧弱だと思います。

近代の国家においては、憲法とはただ制度的な規範のみではなく、国家の理念を、その自由や人権、伝統、文化、教育、さらに皇室における共同体的統合といった価値理念を形象化し、定式化したものであるべきです。しかし、現行の日本国憲法は、敗戦後のGHQの統治下において制定されたということもあって、個人の尊厳、民主主義、平和主義といった抽象的な、つまり非歴史的、非伝統的な理念については明確ですが、民族の歴史や固有の伝統文化、慣習などといった個別具体的な歴史的な伝統的な理念的要素は希薄です。

そしてまた、一つの憲法の中にさまざまな制度的な規範規定が盛り込まれているために、憲法の理念についての輪郭も明確でなくなっています。また、憲法の改正が柔軟にできないために、時代の変遷や変化に応じた国会議員の定数削減といった具体的な制度改正も困難になっています。

英国の不文憲法は、理念と制度が慣習的・経験的に融合している典型としてしばしば言及されます。英国は王権と議会の長い対立と均衡を経て、慣習法・判例法・政治倫理が憲法秩序を構成する国家を形成してきました。これに対し、日本は明治憲法成立以降、法典主義と成文憲法を基軸とした国家発展を遂げており、法秩序の安定を慣習や判例に委ねる基盤をもちません。

政治エリートの成熟とか、市民社会の自律、王権と議会の均衡といった英国の歴史的条件は、日本とはまったく異なっています。したがって、日本が英国のような不文憲法国家に転換しうる可能性は極めて低いです。しかし、英国の憲法精神──その柔軟性・伝統尊重・理念と制度の調和など──は今日の日本にとっても重要な示唆を与えるものです。

先に掲げた「令和日本国憲法案」は、成文憲法を基本としながら、英国型の柔軟性・理念尊重・伝統との調和という精神を、日本の成文憲法の枠組みの中で再構成する可能性を追求しようとするものです。そして、憲法においては国家の理念を簡素かつ明確に記述しつつ、制度の具体化についてはその下位法である「憲法施行(執行)法」に委ねるという構造を採用しています。それによって、いわば「成文憲法でありながら不文憲法的精神を宿す」という独自の憲法体制を新しい日本国憲法において追求しようとするものです。

 


【令和日本国憲法草案2】 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/76WnJq

 

 

 

 
 

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【令和日本国憲法草案2】

2025年03月26日 | 国家論

 

先に提起した【令和日本国憲法草案】の第六章末尾に、第14条(施行法の制定)を付け加えました。

 

【令和日本国憲法草案2】


【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。


【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)
日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。
第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。
第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。
第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。
第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。
第9条(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。
第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。
第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。
第14条(施行法の制定)本憲法に規定された国家機構、国民の権利義務、司法制度その他の統治機能の実施に関して必要な事項は、憲法施行法として別に法律で定める。これらの施行法は、本憲法の精神と条文に適合するものでなければならない。

 

 

 

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【令和日本国憲法草案】

2025年03月22日 | 国家論

 

これまでヘーゲル哲学の研究者としての立場から、とくにその「法の哲学」の立場から、戦後GHQによって制定された現行日本国憲法や、護憲論者である樋口陽一氏らの憲法観、国家観に疑義を呈し、また批判してきました。

ここにあらためて、「法の哲学」の立場を踏まえた「令和改正憲法草案」の骨格を提示して、そして、それを踏み台にして、さらにより良き憲法改正ができるように、微力ながらもこれからも提案していきたいと思います。

日本国民が総力をあげて、こうした憲法草案に対する批判や提言など議論をつみかさね、さらにより多くの人が議論に参加することで、より良き憲法改正につなげていければと思います。そうして現在、中南米のバナナ国家並みに劣化した日本国の政治や経済、文化状況の行き詰まりを打開していかなければなりません。

 

【令和日本国憲法草案】

【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。

【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)
日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。

第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。

第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。

第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。

第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。

第9条(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。

第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。

第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。

 

※追記

憲法や国家のありかたなどについて興味や関心、問題意識をおもちの方があれば(皇室の存在に否定的な考えをおもちの方も含めて)、上記の【令和日本国憲法草案】に対する批判、批評などがあればをコメント欄でもお知らせください。よりよき憲法改正をめざして、日本の憲法問題についても考察を深めていきましょう。

 

 

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