大ヒット上映中の『ゴジラ-1.0』ですが、当然ながら「賛」もあれば「否」もあるようです。
この人は「否」だろうな、と思う人がやっぱり「否」だったり、へ~、この方が「賛」なんだ!?と、意外な人が大絶賛していたりと、SNSで展開されているゴジラ評を見ていると、なかなか面白いものがあります。
保守の論客で経済学者の高橋洋一先生。この方の映画評は素直で、映画は基本、面白ければいいという姿勢の的確さが、共感できて好きですね。高橋先生が大絶賛しているというのが、とても嬉しかった。
その他、松崎健夫さん、切通理作さん、岡田斗司夫さん等々が「賛」の側なのが嬉しいし、一方で、やっぱりな、という方々が「否」だったり、それぞれの批評を見ているだけで、大変面白い。
賛否両方あるのは健全なこと。賛であるにせよ否であるにせよ、これだけ沢山の評論が上げられているというのは、単に「ゴジラ」だからというだけではなく、やはりなにか、人の心を惹きつけるものが、この作品にあるからなんだろう。
ゴジラとは何なのか、色々な意味が考えられるけど、つまりは人類がこの世に成した「負」の総体、なのだろう。
ゴジラとは、すべての人類の心の中にある「負」の側面と繋がっている。だから
ゴジラは、人を惹きつけずには措かないのかも
知れませんねえ。
ゴジラは人の「負」の側面が生み出した、いわば「禍津神」、「祟り神」です。
「祟り神」は鎮めなければならない。
「鎮魂」、「神鎮め」が出来るのは、世界広しと言えどもおそらくは
日本人だけ。
先進国の中で日本だけに残された「自然信仰」。大自然の中に「神」を視る自然観、神観念こそが鍵となる。
だから、ゴジラは日本にやってくる。
鎮めて欲しいから。祓って欲しいから。
今回の作品は戦後まもない日本が舞台。にもかかわらず米軍、米兵の姿がまったく見られない。一人も出てこないのはおかしい。という意見があるし、私も観ていてそれは思いました。しかしね
今回のゴジラは、神木くん演じる敷島のパーソナルな部分に直結している存在なので、そこに米軍が出てこられると邪魔でしょうがないんですね。
敷島だけじゃない。このゴジラは日本人一人一人の心、「想い」に直結している存在だから、米軍はいらない。日本人自身の手で「鎮め」なければならない。
大体アメリカ人に、大自然の祟り神を鎮めることなど、出来るとは思えないし(笑)。
日本人でなければ、神鎮めは出来ないんです。米軍はいらない。邪魔なだけ。
いらない要素は切る。これはエンタテインメントにはよくあることです。
米軍はいらない。だから切った。それだけの事と言ってしまうのは語弊があるかもしれませんが、要するに
それだけの事です。
日本人、元軍人さんたちによって、ゴジラは見事(一時的に?)鎮められます。ゴジラに敬礼を捧げる元軍人さんたち。
消えゆくゴジラの姿に、彼らは「何」を見たのだろう…。
人類の心に「負」の側面がある限り、ゴジラはまた来ることでしょう。つまり
ゴジラが完全に消え去ることなどあり得ない。そうしてゴジラが現れるたび、日本人の手によって鎮められる。その繰り返し。
そういう意味では、ゴジラ映画はやはり、わが国日本でこそ作り続けなければならない。
ハリウッドでどれだけ制作されようとも、日本人はゴジラを手放してはならない。
そういうことだぜ東宝さん!ゴジラを絶対手放すな!
ゴジラ映画を作り続けてくれよ、頼んだぜ!
なんだかスピリチュアルな方向に傾き過ぎた感もありますが、要するにエンタテインメントですから、面白ければ良いんです。楽しければ良いんです。
日本人の皆さん。ゴジラを大いに楽しみましょう。大いに盛り上げましょう。
目指せ!興収100億越え!
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