マカロニ・ウェスタンの典型的パターンは、主人公が超絶的な”技”と驚異的な身体能力の持ち主で、一度は必ず敵に捕まって、激しい拷問にあったりしますが、これまた驚異的な”運の良さ”で危機を脱し、最終的には悪党どもをやっつける!というパターンなわけですが
この映画にはそれがない。以下ネタバレ含みます。
舞台は冬。雪原の中にポツンとある田舎町スノーヒル。銀行家でもある悪徳判事の策略で、無実の罪を着せられた農民たちに賞金を懸け、賞金稼ぎたちに殺させて賞金の手数料をせしめ、金もうけをしている。
そんな町にやってきた”サイレンス”と呼ばれる男(ジャン=ルイ・トランティニアン)。彼は幼ないころに目の前で両親を殺され、その際喉を切られて声帯を失い、声を出せなくなった。
彼”サイレンス”は、賞金稼ぎロコ(クラウス・キンスキー)に夫を殺された黒人女性から、その復讐を依頼されます。サイレンスは賞金稼ぎたちを次々と斃し、ついにロコと対峙しますが…。
マカロニの常道ならば、サイレンスは一度は敵に捕まって拷問を受けたりするわけですが、そこから逆転して最終的にはロコを斃す、となるはずなのですが、
この映画は、そうならない!
確かに凄腕のガンマンではあるけれども、特別な超絶技を持っているわけでもなく、特別身体能力が高いわけでもなく、特別”運”が良いわけでもない。
あっさり撃たれて大けがをして動けなくなって、そんな身体をおしてロコとの対決の場へ向かいますが…。
最後はもう、多くの観客の期待を裏切る最悪の展開に、唖然としてしまいます。こんなんあり?みたいな。
その時、観客は気付くわけです。この映画の主人公はサイレンスのように見せかけて、実はロコだったのだと。
ロコを演じるクラウス・キンスキーの佇まい。冷静沈着で悪事を成す時も淡々と行い、無表情とも違う、喜んでいるような悲しんでいるような、どう捉えるべきか戸惑うような表情を浮かべながら、淡々と人を殺す。
サイレンスと対峙したときの立ち姿は、ある意味”魔王”とも呼ぶべき恐ろしい威厳を放っており、これは勝てるわけがないと思わせる圧力を感じ、
それに比べてサイレンスは、イケメンだしそれなりに強いけれども、ロコに比べたら”普通の人”なんですね。魔王と普通の人とどっちが強いかといったら、そりゃ魔王の方に決まってる。
かくして善なる人々は斃され、悪は栄える。まあなんとも、後味の悪い映画です。
監督はセルジオ・コルブッチ。この方、共産党員だったそうですが、それが映画にどのような影響を及ぼしているのかは、よくわかりませんが、監督の”世界観”の現れではあるのでしょうね。
現実世界では善は滅び、悪が栄える。
でもだからこそ、せめてエンタテインメントの世界では「悪の栄えた試しはない」ところを観たいのが、普通の観客の要望だと思うのですが、
この監督、エンタテインメントという体裁を取りつつ、「世の中そんなあまくねーよ!」とやっちゃった。
ある意味「意欲作」、「野心作」といえるかもしれませんが、
これを面白いと思うかどうかは、それこそ
人それぞれ、かなと。
ただね、この映画の時代設定は、政権が変わり、新たな法が制定されて、人の命が金になる、賞金稼ぎが跋扈する時代が終わりを告げようとしている時代なんです。
つまり、ロコをはじめとする賞金稼ぎたちはいずれ淘汰され、滅びて行く。そんな過渡期の時代の物語なんです。
蝋燭は燃え尽きる寸前が最も輝く。この映画はそんな悪党どもの最後のあがきを描いたとも言えるわけで、
新しい時代は必ず来る。悪はいつか必ず滅びる。そんな監督の密かな希望が、この時代設定に表されているような
そんな気もします。
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ジャン=ルイ・トランティ二アン
クラウス・キンスキー