あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

蜿蜒の乳

2018-09-08 06:23:55 | 物語(小説)

彼は、目を細めて微笑うと言った。
「ご安心ください。わたしは、貴女の知る者ではありません。」
加菜恵は静かに、彼が後の言葉を発するのを待っていた。
彼はもう一度困ったような顔で微笑んで、キッチンに紅茶を淹れに行くとそこから彼女に向かって、
「お金はほんと、いつでも構いません。厳しい月には分割の支払いも無しで、翌月の後払いで大丈夫です。無理はしないでください。」と言って彼独自の、複雑な営業スマイルで微笑む。
加菜恵は彼と、あるSNSアプリで知り合った。
彼は自分のことを、『何でも屋』と称し、加菜恵のゴミ屋敷寸前のこのマンションの部屋の片付け、掃除、ゴミと不要物の処分を、月々三千円の分割払いで引き受けると言って今日の午後に遣ってきたのだった。
彼とはこれまでチャットと通話で三ヶ月ほど、色んな相談に乗って貰っては良いアドバイスを聴いてきたので、多分大大丈夫だろうと、彼のことを信用してはいたが、それでも一縷の不安を取り除くことはできなかった。
しかしドアを開けた瞬間、そこに立っていたのは想像以上の繊細で優しげな風貌の好青年であった。
とても華奢で観るからに、草食系男子といった感じで、何かにつけて控え目で、上品な彼の存在を、加菜恵はとても安心してかれこれ、三時間以上、一緒にいる。
年齢は二十七歳、加菜恵の十五歳下だ。
「まずは、要るものと要らないものに、分けて袋に入れていきましょう。」と彼が言っても、加菜恵はなかなかそれが決められないのだった。
例えばこのリュック、兄が住む実家に四年前に行ったとき、その様子があまりに酷かったことから、自分一人で掃除用具を持って電車を乗り継ぎして片付けに行くために買ったものだが、その後、兄からの承諾のメールの返事は来なかった為、未だにタグが着いたままで埃を被ってずっとそこにある。
これを捨てるか、捨てないか。その一つに、加菜恵はもう十五分以上悩んでいるという始末だ。
値段は二千幾らとかだった、大して高くない。
彼はちゃんと使えそうなものはリサイクルショップに持って行くと言ってくれた。
勿体無いという気持ちはこの際棄てましょうと彼は何度も違う言い方で加菜恵に伝える。
しかし加菜恵は、鬱症状が酷いため、決断能力を人の何倍も、喪ってしまっている。
横殴りの雨が、突然遣ってきて、この部屋のドアに当たり続ける音と、雨の降り頻る音、その時、彼が加菜恵に言った。
「では、わたしが決めます。これは、リサイクルショップに売っちゃいましょう。売値が付いたら、その分は御返済致します。物が多すぎるので、いつか使えるかもしれないと想って何でも取っておくとなかなか片付けて行くことが難しいです。」
彼はまた、加菜恵を見つめてどこか寂しげな営業スマイルで微笑んだ。
加菜恵は、彼の目を見つめ返し、こくりと頷いた。
そうして三時間以上経って、なんとかゴミ袋一つ分の物を、捨てる決断を二人で出来たことに、紅茶の入ったマグカップを持って祝い、加菜恵は溜め息を深くつき、彼は窓を見やって「疲れたでしょう。今日はここまでにしましょうか。外の雨がもう少し小降りになったら帰ります。」と言って紅茶を啜った。
加菜恵は蚊の鳴くような声で訊ねる。
「本当に後払いで良いんですか。」
彼は頭の中で想った。
あれ...これ何度目だろう...。
彼は目の前の加菜恵を見つめて「ははは」と力なく笑うと言った。
「ぼくのこと、まだ信用できませんか。」
加菜恵は彼がそう言い終わる前に言った。
「後でいかついヤクザを数人連れて来さして、おい姉ちゃん、身体で払ってもらうでぇ、んなもん、ははは、そんなうまい話、この世界にあるわきゃあらひんでっしゃろ、馬鹿正直のアホは損するて、覚えとっきゃ。って言われて...」
「ありません。そんなこと。」
彼は少し怒った顔をしてすぐさま答えた。
「ごめんなさい...」加菜恵は気まずくなり顔を伏せた。
「加菜恵さん、どうしたらぼくのこと信用できますか?」
彼は悲しい顔でそう問い掛けた。
加菜恵は頚を傾げ半笑いで「さあ...だって今日会ったばっかりですし...」
「ね?」
「ね...?」
「そのあと、"ね"を付けたら、"今日会ったばっかりです。死ね。"ってぼくに言ってることになります。」
加菜恵はドキドキした。何を言ってるのかしら、この人...
加菜恵は怖くなって、なんと言い返したら良いかわからなくなった。
気づくと雨は、もうすっかりやんで虫の音が、涼やかに聴こえている。
「雨...止みましたね。」
彼は寂しそうに窓を見て言った。
加菜恵は黙って、彼の横顔を眺めている。
「蛙とか...好きですか、爬虫類とかは...」
出し抜けにそんなことを訊ねられ、彼は困惑の顔を隠さず答えた。
「いえ、特には...何故そんなことを訊いたんですか?」
加菜恵は半笑いの顔のまま、小さな木目塗装のテーブルの右端を目で固定し、何も返さなかった。
彼はそんな加菜恵を、半分泣きそうな顔で見つめることしかできなかむた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
気づけば午前、三時半を過ぎていた。
あのあと加菜恵は、おもむろに立ち上がると一人で赤ワインの瓶に残っていた半分を飲み干し、万年床の上に無言でダウンした。
彼はじっと座って、加菜恵の寝顔を見つめていた。
加菜恵は喉の渇きに目が覚め、寝返りを打って屁をこくと、そこに彼が、まだ座って居たので、ぎょっと目を見開いた。
「なんでまだ、居るんですか。」
加菜恵が恐怖の内にそう言うと、彼は傷ついた顔をして言った。
「黙って帰って、加菜恵さんが、ぼくがいないことに寂しがるとダメですから...」
この言葉に、加菜恵はグッと来るものを覚えたのだった。
しかし同時に、こうも想ったのだった。
「俺やなくて、おまえが寂しいんやろ。」
「来いよ。こっち。来いよ。来てえんだろ?」
加菜恵はハッとしたが、時既に遅し。脳内でだけの、言語であったはずが、酒を飲みすぎたからであろうか、その言葉を加菜恵は、はっきりと発声してしまっていたのであった。
彼はその言葉を素直に受け止めたのか、もじもじとし出した。
加菜恵はずっとその様子を冷静に見つめていた。
蛇の脱皮を観察するように。
「ちんこ立ってるのか。」
「えっ...?」
「ちんこ、立ってんのか。」
加菜恵は最早、後戻りは出来ないと想った。
もう終りだ。御仕舞いだ。せっかく好都合で便益、便利で利便性に優れた能率的で機能的な重宝な道具、いや人を見つけられたと想ったのに...
加菜恵は悲しくなって涙を音もなく流し、枕を濡らした。
「何故...泣いているのですか...?」
彼の問いに、加菜恵は答えなかった。
彼は呼吸を荒くして、「お水持ってきます。」と言い、立ち上がった、その時である。
「待って!」
加菜恵は叫んだ。
吃驚して彼が振り返る。
「子、子、子、子、子、子、子、子、子、子...」
「加菜恵さん、お、落ち着いてください。どうしたんですか...?」
「子、子、子、子、子だ、子種...い、一億、積みますから...きみの子種を、わたしに、どうか売ってください。」
彼は強い眼差しを光らせて加菜恵を見つめ、そのまま水を汲みに行って戻ってきた。
そして加菜恵の身体を起こし、水を飲ませた。
「ありがとおおきに。ほんまにきみは、気が利く子だこと...」
加菜恵は感心して素直に言った。
彼は加菜恵の肩を支え、小さく言った。
「それはつまり、ぼくと子作りに励む為の一億を積む、ということですか。」
加菜恵は頚を振った。
「いいえ、どのような方法でも良いのです。わたしが子供を授かるならば...」
「人工授精や体外受精でも構わないということですか。」
「ええ。」
彼は一瞬、顔を翳らせたが、いつもの複雑極まりない営業スマイルに戻り、加菜恵に向かって微笑んだ。
「わかりました。ぼくで良ければ、ぼくの子供を産んでください。一億円は、後払いの分割払いでOKです。」
加菜恵はホッとし、彼の胸に頭を預けて目を瞑った。
寝息が聴こえている...
彼は彼女の耳に、まるで母親が子に、絵本を読み聴かせるように囁き始める。
お母さん...ぼくのこの...苦しみが、痛みが、貴女に伝わりますか。貴女は十五歳でぼくを産み落とし、流したのです。厠へ...ぼくはそこから、独りで這い上がってきた。貴女の糞尿と羊水と胎盤まみれの汚水槽が、ぼくの揺り籠でした。貴女の新しい糞尿と経血が、ぼくの大切な栄養分だったのです。あたたかかった。貴女の汚物は何より、ぼくを安らかにしました。ぼくは誓ったんです。一生を、貴女の汚物にまみれて生きたいと。貴女の中にある穢いすべてが、ぼくを育ててくれたのです。紛れもなく、わたしだけの貴女の愛は、貴女の汚物、そして貴女の汚水。貴女の穢いすべてこそ、美しい...ぼくを何より苦しめる貴女は、貴女の排泄する糞尿より、血より、穢く、おぞましい...わたしの子供が、そんなに欲しいですか?貴女が便所に、雪隠に、堕として糞便と共に流したわたしと貴女の子供が、貴女は欲しいとわたしに言った。もし、わたしの子供を貴女が産んでくださるなら、その子供は、貴女はわたし以上に可愛がる御積りですか。わたしはもう、用の無い、排泄物と変わりはありませんか。貴女の中から、出てきたのです。わたしは貴女の中から、生まれ堕ち、今、貴女はわたしを、自らの排泄物以下としています。貴女はいつもわたしに相談していましたね。男など、信用できない。どのような男も。だからわたしは、わたしの愛する子供がいればそれでいい。男など、子種を着けるだけの価値しかない。どのように、わたしは望む赤ん坊を産めるのでしょう。どのように、わたしの可愛い可愛い赤ちゃんの父親の遺伝子として認める男に出逢えるのでしょう。子種だけ貰えれば、あとは何も、必要ありません。男など、皆、馬鹿ですから。母親の代わりを探しているに過ぎません。母親に似た女しか、愛さない男を、わたしは探しています。その男の母親はきっと、わたしでしょう。例え息子のようにしか想えない男でも、わたしが認めるなら、わたしのたった一人の愛する我が子の父親の遺伝子として相応しい。わたしはどうすれば彼と、出逢えるのでしょう。
わたしは愛しています。今はまだ、どこにも存在しないわたしの子供だけを。わたしは彼だけを愛するのです。まるで、母親のように...

気づけば彼の目からは白濁と、涙は母乳となって、彼の胸に抱かれる小さな母親の口許に垂れ落ちた。
彼の母乳は、それから蜿蜒と、垂れ落ち続けて渇くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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