愛によって打ち砕かれる鏡、エホバ。
愛は知識によって、育まれない。
わたしが聖書を知るのはあなたを愛する為ではない。
わたしは人間の底のない愚かさを知る為に、聖書を手にし、人間の下らなさを学ぼうとしている。
イエスのように愛に生き、イエスのように死ねないのならば、だれもが下らないのだと、想い知る為に。
巷に溢れる愛に、何処が愛なんだと嘲る為に。
そんな下らないものを愛だと喜ぶ者たちを心から憐れむ為に。
一人の若い浮浪者のような元神父が、真剣な表情で芸術家たちの前で告白する。
「わたしは不特定多数の女とセックスすることを、真の愛だと感じます。」
するとすべてのその場にいた芸術家たちは彼に異を唱えた。
わたしは彼が、この場にいるどの人間よりも深刻に母親の愛を求める人間であることを知っていた。
彼はだれより、母の愛に飢え渇き、それを満たす存在はこの世に存在しないことを知っていた。
わたしがその場にいたならば、彼にこう言っただろう。
「あなたは正しい。神だけが、あなたの愛を御存知である。女は、あなたに愛を与えられることだろう。その女達は、穢れることはない。愛だけが、人を穢さない。」
集会の終りに、彼はわたしに声を掛けた。
壁に掛けられたラファエロの大公の聖母をバックに、彼は立って、わたしに乞い求むような目で言った。
「貴女だけが、わたしを穢れた者を見る目で見なかった。わたしは、自分を知る女と、これまで出会えなかった。貴女は…自分を知っている。闇が光を包み込む日も…知っているかのようだ。木の葉一枚に移った火が、すべての民族を燃やし尽くし、最後に湖のみなもに聳える黄金の剣で首を打ち落される娼婦のことも…貴女は知っている。わたしは貴女が檻のなかにいる間に過ちを犯しつづけた。」
男は美しい薄い翡翠色の両目から涙を流して言った。
「まさか…貴女がこの地上でわたしの前に現れるとは…想像もしていなかった…。」
わたしは痺れる両の瞼を閉じ、目尻から愛液の入り混じった経血を流しながら言った。
「あなたこそ、メシアである…。わたしはあなたほどに、美しい者を知らない。あなたの愛が、多くの民を救ってきたことを知ってください。あなたの愛こそ、この世を照らす光。人はあなたを忌み嫌い、迫害し、拷問にかけて見せしめの磔にして殺すだろう。でもあなたの愛は終わらない。あなたの母を求めるあなたの愛が、あなたを絶望させつづけるだろう。あなたの母は、あなたの神、エホバ、その御方です。あなたが愛で在る限り、あなたは決して満たされる日は来ない。メシア…エリヤの生まれ変わりよ…あなたが天地を治める日が早く来ますように…。」
そう言ってわたしは彼の足元に跪き、その汚れた爪先に口付けした。
わたしの両目から止まることのない愛液と経血は大理石の白い床の隙間に染み込み、地下に眠る異型の者の瞼の上に滴り落ちた。
彼は屈んでわたしの頭を優しく撫でると身体を起こし悲しげでありながら、勇ましい声で言った。
「時が来たようだ…。」
そしてドアを開け、西日の逆光で眩しく反射した世界へと、彼は歩いて行った。