「みんなおはよう。ってもう終了時間まであまり時間はないが」
先生がしんどそうにそう言うと静かに席についているベンジャミンが真っ直ぐに先生を見つめて言った。
「先生、もしかして今日も、二日酔いですか?」
先生は恥ずかしがる素振りも見せずベンジャミンの透き通った眼差しを見つめ返し堂々と答えた。
「そうだ」
ベンジャミンは口角を上げてにやついたが何も言わなかった。
教室はしんと静まり返っている。
「なんだこの沈黙は」
先生がそう言うとベンジャミンが幼児のように笑って無邪気に訊ねた。
「先生、昨日は何を飲まれたんですか?」
「ベンジャミン、授業と関係のない話は放課後にしなさい」
先生がすかさずそう応えるとベンジャミンはまたいつものようにふてくされ、”屁を90日間我慢し続けたこの誇り”、私はこれからも、がんばるつもりです。とでも言いたげな表情で先生を無言で見つめ、先生はついその重圧に負け、本当のことを明かした。
「昨夜は、あれだよ、あれ、”イエガーマイスター”という実に56種類ものハーブが使われているアルコール度数は35度の濃い赤色をしたドイツ産のリキュールを水と氷で割って結構何倍も飲んでしまったんだ。しかも酒のあては焦げたさつまいもだ。何故焦がしたかというと先生はあのときすでにかなり酔っ払っていて先生のブログに読者登録をしてくれている方のブログにいちゃもんをつけるようなコメントを連投するのに必死で、鍋の水がなくなっていることに気付かず、さつまいもが焦げてしまったのだよ。なんだかすべてが悲しくて、そのコメントに今日返事が来ていたようだが、先生はまだ返す気になれない。お酒は本当に、恐ろしい。一体先生はこれからのこの気まずさをどうやって切り抜けたらいいんだ。イエガーマイスターは本当に先生は合わない。あれを飲むといつも悪い酔いをするんだよ。おまえたちも成人になったら気をつけるように」
ベンジャミンは笑いをこらえていますという風な顔を作って先生に問い質した。
「先生なんで悪い酔いをいつもするとわかってまたイエガーハウスマイスターを飲んだんですか?」
「ハウスは余計だ。おまえハウスマイスターというドイツの音楽家を知っているのか。ってそんな話は今関係ない。こんな話してたら授業時間が終るぞ。単純に他のお酒が切れて、何故か随分まえに酔っ払ってまたネット注文してしまったイエガーマイスターを仕方なく飲んだんだよ」
先生がそう言うとまた教室内がしんと静まった。
「だからなんなんだこの沈黙は」
ベンジャミンは目をぱちぱちさせて口をもごもごさせて言った。
「先生、今日の授業はなんですか?」
「今日は」先生はそう言うと、教卓に右の肘を付き、ふうと一息ついて続けた。
「今から本当におまえたちに大事な授業をしたいと先生は想っている。先生は今日、起きたときからずっとベッドの上にいたんだが、先生はずっと考えていたんだよ」
「何を考えていたんですか?」
「ベンジャミン、おまえもきっと知っているだろう”オオカミ少年”というイソップ寓話の話についてだ。先生はこの話の教訓は、本当のところ、一体なんなんだとここに来るまでずっと考えていた。が、答えはまだ、そう簡単に出せるものではない。それほどこの話とは面白いと先生は感じたんだよ。この物語について、みんなと一緒に先生は答えを探して行きたいんだよ。丁度この話が教科書にも載っているから、誰か朗読したい人間、ベンジャミンが一番手を上げるのが早かったな、それじゃベンジャミン、このオオカミ少年という物語を、今から、朗読しなさい」
「はい!」
ベンジャミンは椅子から静かに立ち上がると口をひょっとこのように尖らせ、目を細くし、眼鏡を右中指でくっと持ち上げると厳かな口調でゆっくりと朗読し始めた。
「オオカミ少年」
(またの題名を、”嘘をつく子供”、”オオカミと羊飼い”、”羊飼い少年とオオカミ”
原題は”The Boy Who Cried Wolf”(オオカミと叫んだ少年))
昔、ある深い森のなかはいつも暗く、その山麓にもオオカミの群れがいました。
夏のあいだはオオカミたちは涼しい木々のなかで家族と共に暮らし子育てをしました。
しかし冬になると真っ白で冷たい雪に森は覆われオオカミたちは獲物が見つけることが困難になり、幾度か丘まで下りてきてそこにたくさんいる農家に飼われている羊たちを襲いました。
彼らを見つけるとき、いつも一匹ではなく何匹かで狩りをしているようでした。
この小さな村には、羊飼いが三人いました。
一人はオオカミを狩ることに命を懸けているWolf(ウォルフ)と呼ばれる男です。
ウォルフは外にいるときはいつでも猟銃を手放さず、オオカミを狩れないときは鹿や兎を狩ってその毛皮と肉を売り、なんとか生活している一匹狼の孤独な男でした。
ウォルフは人と群れることを嫌い、人と一緒に仕事をすることを嫌いましたが獲物が狩れないときは酷く貧しかったものですから若い頃、羊飼いの家の娘にある夜、大事の羊たちを護るためにオオカミを狩ってくれないかと頼まれました。
男は悩んだ挙句、それを一度断りました。
すると娘は、こう言いました。
「そうですか。それではぼくにも考えがあります。あなたはぼくの親が経営している酒場でいつもお酒をツケで飲んで、そのツケがだいぶと溜まっていますよね。本当に払ってくれるのでしょうか?払うなら、一体いつ払えますか?具体的な支払日を言ってください」
男は口籠り、娘の責めるような目から目を背け、俯いて答えました。
「いや…払うつもりは勿論あるとも。だが具体的に、いつ払えるというのは、今はちょっと…言うことはできない。すまない。でも近いうちに必ず払うから。そこは安心してくれ」
娘は男の手をそっと手に取ると、「明日」と言いました。
男は「ん?」と娘に向き直ると娘は咎めたてるような目で言いました。
「明日、明日必ず払ってください。お金がどうしても必要なのです。それが無理だと言うのなら、明日、あの暗い森のなかで羊たちを襲うオオカミたちを三匹、必ず殺してください。きっとそのオオカミたちは家族のオオカミでしょう。一匹は母オオカミ、一匹は父オオカミ、一匹はまだ幼い子オオカミです。その三匹を、ぼくの羊たちを護るために殺してください。その証拠をぼくが知るために明日、あの森のなかにぼくを連れてってください。いいですね」
男は深い溜め息をつき、誰もいない薄暗い路地裏で娘の手を優しく払い除けると首を横に振って言った。
「そうかい、あんたの言いたいことは良くわかったよ。これは脅迫だ。俺は今まとまった金がないんだ。俺はそのためにあんたの言い分を逆らうことが出来ない立場に立たされている。俺はどうしたって逃げられない。逃げてもあんたは俺を追い駆けてきっとこう言うんだろう。”金を払うか、オオカミの家族を殺すか、どっちかにしてくれ”と。もっとも、あんたの言ってることが間違ってると言ってない。しかしこれは脅迫だ。俺には逃げ場がない。俺はあんたに帰伏し、あんたの言うことを聴こうじゃないか。明日、あの森にあんたを連れて行って、あんたの目の前でオオカミの家族を撃ち殺して遣ろう。これで俺は助かるし、あんたも助かるんだ。その代わり、俺のツケはもう少し待ってくれ。これで手を打とうじゃないか」
その晩、男はなかなか寝付けなかった。
それにしてもあの娘の執念というものは恐ろしいな。今の暖かい季節に、オオカミが村まで下りてきて羊を襲うことは滅多にない。それなのにあの娘は、冬に殺された羊の家族の仇(あだ)を取るため、ああしてオオカミの家族を殺すまで苦しんでいるようだ。もし子供のオオカミを一匹でも逃すなら、その子供のオオカミはやがて親になり、子供にこう話すとでも想っているようだ。自分の親の仇(かたき)を討つため、あの村の羊たちを全員、今度襲いに行こう。
男はうとうととしながら夢とうつつの間のなかで夜の暗い森のなかにいた。
夜の真っ暗な森のなかでひとり、酒を飲んで朦朧としていた。
あまりに暗いので、男はランタンに火を点け、その火で煙草を吸った。
すると何やら、ぴちゃ、ぴちゃ、と水の音が聞えてきた。
渇ききったこの森の地面のどこに、そんな水があるのだろうと男は不思議に想って静かにその音に耳を傾け聴いていた。
男はランタンを手に持ち、立ち上がって水音の聴こえるほうを覗いた。
そこには小さな泉があり、そのなかであの娘が裸で入浴していた。
男はまるで夢でも見ているようだと想った。
何故こんな夜の森でひとり、あの娘は水に浸かっているのだろう。
いつも変わった娘だと想っていたが、在り得ないではないか。
いつ狼や熊に襲われるかわかったものじゃないこの森のなか。
いったいあの娘はなにを考えているのだろう。
男はじっと娘の入浴する姿を打ち眺め、腹の下に鈍痛を覚えた。
娘は泉から上がると灰色の衣を羽織、家へ帰ろうと辺りを見回した。
しかし戻る道がてんでわからず、膝を抱えてしくしく泣きだした。
男はじりじりと娘に近寄り、娘の小さな白い耳もとに荒い息をかけた。
娘は男に気付き顔を上げて男の手にそっと触れ、囁くように言った。
明日、必ずオオカミの家族を三匹、撃ち殺してくださいね。
そして最後はどうか、母オオカミを撃ってください。
あなたの、この猟銃で。
そう言うと娘は男の下腹部に触れ、硬くなって熱を帯びたそれを握り緊め、自分の腹の下に宛がい、微笑して言った。
「此処を、必ず撃って、殺してくださいね」
男は今夜も、いつもの酒場で酒を飲んでいた。
そして帰ると羊飼いの少年が、男の家のドアの前に座り、頭をドアに凭せ目を瞑って待っていた。
男は少年を起こし、引き摺るように部屋のなかに入れ、椅子に座らせた。
酔い潰れ、目は真っ赤に腫れている。
「いったい何があったんだ」
男は優しく少年に問い掛けた。
少年はうっすら目を開け、男の姿にほっとすると涙を止め処なく流し、震えながら言った。
「もしかしてまだ知らないのですか。昨夜、母さんが死にました」
男はその言葉を信じられず、忙然として訊き返した。
「昨夜って、一体いつのことだ」
少年は壁時計を見上げ、答えた。
「たった、日付の変わる3時間ほど前です」
男は時計を見詰め、息を呑んで黙っていた。
「オオカミに、殺されたんです」
男は少年の、そのそっくりな目を見詰め返し、何も言えなかった。
あの時まだ、少年は14歳ほどだった。
あれから三年もの月日が経った。
少年の母親を埋葬した、三ヵ月後だった。
「Wolf!(オオカミ!)Wolf!(オオカミ!)Wolf!(オオカミ!)」
と何度も、夜に叫び、男のドアを叩いて家に上がりこんでは喚き、「オオカミが丘に下りてきた。銃で撃ち殺してほしい」と、嘘の報告をするようになったのは。
男は少年を落ち着かせるため、いつもグラス一杯のハーブ酒を飲ませた。
その嘘の報告を少年はほぼ毎晩のように続け、三年が経ち、少年は今は17歳になった。
男は嘘だと解ってはいても銃を持ち、その都度あの森のなかで酔い潰れて眠っている少年を抱きかかえて連れて帰ってきた。
少年は次の朝、必ずけろっとした顔でこう言う。
「いったいいつまでぼくに嘘を突き通すつもりなんですか?ウォルフさん、あなたは」
男は毎朝、羊飼いの少年に言った。
「俺は嘘なんかついちゃいないよ」
「でも母さんはいつもあなたのことを話していました」
「それも嘘だ」
「母さんはいつもぼくに話していたんです。あなたとぼくと、三人で暮らせるならどんなにか幸せだろうと」
男は溜め息交りに言った。
「何度も言うがおまえの母親は、俺と暮らしたいなんて言ったことはないよ。おまえの母親と俺は、本当になにひとつ関係がなかった。ただおまえの祖父母の経営していた酒場の常連客で、そこの娘であるおまえの母親に俺は羊を護るようにと頼まれ、それを引き受け続けて来ただけなんだ」
「でもぼくは嘘をついていない。あなたが本当のことをぼくに言わないから、母さんはオオカミに殺されてしまったんだ」
「それも俺は信じちゃいない。おまえの母親は、酒とドラッグが身に祟って、死んでしまったんだ。オオカミに殺されたというのは、おまえだけの妄想だ」
「本当かしら」
と少年はぼんやりと中空を見て静かに言うと立ち上がり、壁に立てて置いていた猟銃を手に持って言った。
「銃の撃ち方をぼくに教えてください。もう十七歳になったんです。良いでしょう?」
男は素早くその銃を少年から奪うと鍵つきの箱の中に入れて鍵を閉め、振り返らずに言った。
「おまえにいま銃を渡したら、何をしでかすか心配でならないんだよ。おまえがオオカミを撃つとしても、しっかりと急所を狙えるようになるまでには何年と掛かる。でもおまえは今すぐにでもオオカミを殺したがっているじゃないか。そんな人間には渡すことは出来ないし、教えることも出来ない」
少年は後ろから、男の背に近寄ると手のひらの上にあるものを男の前に差し出して言った。
「ぼくが殺したいのはオオカミじゃありませんよ。ぼくが殺したいのは、あなたと離れることができるものたち、子羊たちです」
男は少年の手のひらの上に乗った十字架のペンダントを見つめ、その十字架があの夜、少年の母親が欲しいと言ったので自分の首に掛かった十字架を少年の母親の胸に付けてやったことを想いだした。
あの夜、少年の母親は男に最後の言葉を言った。
「ぼくは今まで大切な子羊たちを護るのに必死だったけど、ぼくが本当に護りたかったのは子羊たちでもなければぼくでもなく、きみでもない、ぼくの今、このぼくのなかに存在しているひとつの存在であったんだ。ぼくはあの夜、森のなかできみに撃たれて死んだ母オオカミを抱いて心底想ったんだ。もう本当に戻れないって。戻れない場所までやっと来ただろう。ぼくに必要だったこの場所は、オオカミの森だ。ぼくの子羊たちをすべて食べて、そして飢えるオオカミの森で、きっとぼくも死ぬのだろう。さようなら、ぼくのオオカミさん」
「生きているのが本当に嬉しいのに、ぼくはどうしてこんな風なんだろう」
少年はまるで独り言を言うように話し、その十字架のペンダントを、思い切り力を要れてぱきっと二つに折ると片方のチェーンのついたほうを男の首に掛け、もう片方を持って部屋を出て行った。
男は割れて不完全な十字架を眺め、少年の母親を、あの娘が戻ってくるならと想い、自分の銃を慰んで森へ行った。
在る夜、少年はいつものように「Wolf! Wolf! Wolf!」と叫び男と共に森のなかへ入った。
そして一匹の、まだ若いオオカミを撃った。
男が近づくと、若いオオカミは哀れにも既に息絶えていた。
その側には少年の持っていたあの十字架の片方が落ちていた。
男はその夜を最後に、少年には会っていない。
一体何処へ行ってしまったかもわからないが、少年と会えなくなっても、男の耳には毎夜、少年の叫ぶ声が谺(こだま)するかのように聴こえて来る。
村の者は皆、消えてしまった少年のことを嘘をついてばかりの「オオカミ少年」と呼んだが、少年はただ自分の名を叫んでいたに過ぎない、そして本当のことを言えなかったのは、自分のほうであると、男は毎晩のように夢とうつつのなかであの娘の子宮に銃を突きつけ、娘(母親)も少年も一緒くたに愛そうとするのだった。
先生が目をうっすら開けると、教室には誰もいなかった。
たったひとり、自分の膝を枕代わりにして眠っているベンジャミンひとりを除いては。
先生はベンジャミンの望む答えが、本当に懐かしいと感じて一体何処へ、戻りたがっているのかと一つのその場所を、信じようとした。