あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「おわらない物語 アビバの場合」 YESとNOを待ち受ける罠のような人間の危機

2018-01-10 18:39:30 | 映画

トッド・ソロンズ監督の2004年の映画「おわらない物語 アビバの場合」を観た。

 

 

 

 

 

『ウェルカム・ドールハウス』『ハピネス』『ストーリーテリング』で知られ、ブラックなユーモアとスタイリッシュな切り口でファンを増やしているトッド・ソロンズ監督の最新作。
主人公の少女アビバを、ジェニファー・ジェイソン・リーをはじめとした8人の俳優が演じたことでも話題になった。
ガス・ヴァン・サント、ギャスパー・ノエの両監督が絶賛した作品。

 

🌟あらすじ🌟

レイプされ自殺した従姉を見て、「自分は絶対幸せになって子供を産んで母親になる」と誓ったアビバ。
しかし12歳で妊娠した彼女は中絶をして子供を産めない体になってしまう。
だが両親はこのことをアビバに話さず、アビバは母親になるために旅に出る。

 

 

 

この映画は数々の社会的な問題に対して、強くも浅くも賛成・反対し続ける人たちが深く考えさせ続けられるような映画。と言っても良いのではないか。

 

 

 

 

例えばここで扱われている一つの問題が「中絶(堕胎)問題」である。

12歳の少女主人公アビバが妊娠したとき、母親も父親も中絶を強く薦めて、挙句の果てには半強制的な形で中絶手術をさせる。

 

 そして母親も父親もその選択によって絶望に暮れることが待ち受けているのだが、それを娘アビバには黙っている。

 

 

 

 

娘アビバは、中絶をして赤ちゃんを喪ってしまったことの悲しみから放浪の旅へ出る。

そして出会った行きずりのおっさんに×××され、あっさりと×××れてしまう。

 

 

傷心で死に掛けていたところに助けてくれたのはキリスト教系の慈善団体であり、その一つの血の繋がらない人間たちで作られた家族のような人たちはキリスト教の教えから中絶に強く反対し続ける団体だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、

その団体は、実は裏で中絶手術を行う医師を×××計画をしているような法に触れることもいとわない過激な人間のいる団体(全員がそうではない)であった。

 

この映画はアビバという一人の主人公の少女を8人もの人物が演じている。
肌の色や体格や年齢も違えば性別まで違う。
誰が演じてもアビバはアビバ以外の何者でもないし、中身は何一つ変わらない。
ただアビバの願いは、自分の赤ちゃんが欲しいという切実な願いである。
またアビバの望むように愛されたいという純真な望みである。

アビバの母親も父親も、アビバのためを想って中絶を薦めたはずが、アビバの人生で一番の喜びを実は奪ってしまったのだという後悔に苛まれる。

何故なら、アビバは中絶手術によって、もう二度と子供を産めない身体となってしまったからだ。

 


 

『おわらない物語 アビバの場合』トッド・ソロンズ監督インタビュー

 

「(ことの是非が問われる問題について)意見を言うのは簡単ですが、実際に危機に面したときにどう対応するのか…この作品を観て自分の価値観を再評価し、見つめ直して欲しいと思います」と、作品への思いを語ってくれたソロンズ監督。

 


 


中絶を強く賛成する側も、強く反対する側も、確かに監督の言うとおりに、一つの大きな”危機”に接していて、その判断がどれだけ危うい判断であるかということを見る側に見詰めてもらいたいという意図が感じられる。

 

 

 

 

自分は中絶問題にも死刑制度問題にも肉食や毛皮や動物実験などの動物の権利を無視する問題にも強く反対し続けている一人だ。

わたしは自分でもかなり過激派ではないかと想える。団体などには一切入らずにたった一人でずっと反対し続けているんだが、時に、一線を越えるような感情を覚えるときも多い。

人間を救いたくて発言し続けているのに、時に、その人間の都合の良さっぷりにぶちギレて、わたしの言い分にまったく共感さえ示さない人間に対して殺意めいた感情が芽生えるときも在るのである。

 

 

 

 

自分はその危険さを自分で分っているから、自分が陥ってしまっているこの深い穴から這い上がろうと必死である。

しかしこれは誰しもが陥りやすい危機であるはずだ。誰もが何かを肯定(賛成)し続け、何かを否定(反対)し続けて生きているからだ。

深刻な社会問題は幾つもあるが中でも自分が最も深刻だと感じ続けている問題に、

①死刑制度問題

②人工妊娠中絶問題

③畜産業の大量生産問題

がある。

③番目の畜産業の大量生産問題は、これは環境破壊、気候変動、飢餓、水不足問題に関わる非常に緊急を要する人類にとって深刻な問題である。

そして、この三つの問題はどれも”倫理”という人類が決して無視してはならない是非を問う問題としても深刻な問題である。

死刑も畜産業の大量生産も、これは肯定し続けている人間が世界で多数派である。

中絶に関してはどちらとも言えないという人間も多いと感じる。

人工妊娠中絶は行なうことにも行なわないことにも、母親(手術を受ける女性)の命を喪う危険性があるからだろう。だから当事者たちで判断するべきとして、周りが口を挟むべきではないという考えが広がっているように感じられる。

自分が中絶の絶対反対派に付く理由の一つは、一つは胎児が感じている可能性のある肉体的苦痛の重さである。

そこには精神的苦痛も科せられているかもしれないと考える。

「科す(刑罰を負わせる)」という表現をしたのは、中絶手術はまるで胎児に対して行なわれる拷問の末の死刑囚に対する処刑のように想えてならないからだ。

一秒間に換算すると、世界中で1.3人の胎児が中絶され続けている。

全世界では、毎年約4500万人、一日で11万人以上もの胎児が中絶され続けている。

ちなみに家畜は1秒間に 牛3頭、豚5頭、 鶏1100羽分が食肉として屠畜(殺)されている。と言われている。

わたしとしては、この問題を深刻に捉えない多数の人間に、恐ろしさや薄ら寒さを覚えないではいられないのである。

毎日毎日、寝ても覚めてもこれらの問題について考えている。世界中の阿鼻叫喚地獄が、毎秒毎秒自分の脳内で繰り広げられているような状態なので緊張が抜けることもなければ生きた心地もしない。

自分はこのまま行くと、この「おわらない物語 アビバの場合」という映画のなかの狂信的な中絶反対者による××みたいな、最悪な行為すら肯定する狂人になるのではないかという自分に対する恐れも感じている。

まあゆうたら、人間の一つの発狂の地点が、そこなんじゃないかと感じるわけです。

でもこれは中絶とかの命に関する深刻な問題を肯定し続けている人たちにも、同じく言えることだとわたしは想うわけです。

このトッド・ソロンズ監督もそういう想いをずっと抱えて生きている人なのかもしれない。

「それって、大丈夫なのか?」っていう疑問を自分自身に対して全く持たない人たちに対するある種の危惧感です。

わたしみたいな過激な反対派の人間と、過激ではないが社会問題に対して賛成し続けている人間、ここにある”危うさ”っていうものが、同じ程度の危険性を孕んでいるのではないのか?ということをこの映画を通して、改めて感じさせられたのです。

どちらが”より”危険だ、ということを監督も感じてはいないんだろうなと想ったのです。

でも言えるのは、自分はその自分自身の陥っているこの破壊的な情熱みたいな心理状態の危険性を常に感じ取っている人間ですが、わたしの意見に反感を覚える人たちのなかにも、同じく自分自身を省みるような心理状態があるのかどうか?そこが「見えない」ことが、また恐ろしく感じるのです。

だから監督も、そこ(自分自身が反対・賛成している事柄)を見詰めて欲しい想い(同時に監督自身のなかにあるものを見詰める想い)で、この映画を撮ったのではないか、とも感じたのです。

すごく素晴らしい監督だと想います。あんまり、ここまで深いテーマで考えさせられる映画もなかなかありません。

まあ自分も実は、言葉の表現の場で、それをずっとこつこつと遣り続けて自分自身の感じ方や考えのすべてと常に奮闘し続けて生きている人間です。

どれだけそこにある自分自身の矛盾や、葛藤を小説(や詩)によって昇華できるかは、自分の腕(感性)次第なのです。

で、この映画の最大と感じるテーマ、「本質とは何か?」みたいなテーマは、わたしの崇拝し続ける作家、町田康の小説のテーマであると感じていますし、わたし自身の小説のテーマでもあります。

 このトッド・ソロンズ監督のほかの映画も全部観てみたいです。