あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「イディオッツ」感想 愚かでいることは素晴らしい

2016-12-29 15:15:56 | 映画
今日の朝方にかけて、たぶん前に観たのは2001年から2003年くらいのころにビデオで観てすごく感動したラース・フォン・トリアー監督の98年の作品「イディオッツ」という映画をもう一度観た。












「Idiots(イディオッツ)」とは、「白痴たち」という意味です。

内容は、知的障害者を装って人々を騙したり、お金を稼いだりと社会そのものを挑発する行為を繰り返すサークルに集う人間たちを手持ちカメラで追っていくという、役者たちにはほとんど即興で演じさせ、演出も即興を重視しているドキュメンタリータッチな映画なのですが、これが二度目に観ても大変素晴らしい作品でした。

映画の中には知的障害者を装うイェンス・アルビヌスが演じる青年ストファーの知的障害者への差別的発言もありました。

たしか本物の知的障害者が突然現れたとき(監督の即興演出か偶然かで)に、「ガス室で殺しちまえ」か「ガス室で殺せばいい」という台詞があったはずだ。(この台詞がイェンスのアドリブか監督の脚本かはわからない…)

そしてもっとも心に深く残るひとつの台詞がありました。
最初はそんなサークルに集う彼らの仲間に入り、彼らを冷静に観察し続ける過去の何かの出来事で深い悲しみの中を生きているカレン(ボディル・ヨルゲンセン)が救われたような顔をして後半に言う台詞。

「愚かでいることは素晴らしい」


知的障害者を装うこのサークルの人間たちは精神の正常さを保ち続けることが困難な人たちばかりなわけです。
それほどの苦しい過去を皆持っている。
言い方を変えると、なんらかの精神障害や、精神疾患性を持ち合わせている人間たちです。
普段はごく知的に話すことはできますが、何かが壊れやすくなっていて、壊れそうなところで生きている人たちばかり。

それは理性だったり社会のルールだったりモラルだったり、または生きることそのもの、ほんとうに崖っぷちのようなところに生きている人たちばかりではないかと私は思いました。

だから彼らは人の悲しみや苦しみにものすごく共感します。
一方で、共感しない人間たちを軽蔑し、嘲笑したりもします。

彼らは皆、愚かでいなくては生きていけなくなった人たちなわけです。
今以上に。
普段から十分愚かだと、自分を憎悪し、嫌悪し続けているのが伝わってくるのですが、今以上に愚かにならなければ、救われない人たちなんですね。

自責や自罰といった心理は、これはキリがない心理で、どこまでもどこまでも自分を責めつづけ、自分を罰しつづけようとするものなのです。

それがひとつ、たどり着いたところが、わたしはこの映画のように思いました。
最も自分を苦しめるものはなにかと探しつづけ、見つけたもの。
それが知的障害者を装って生きる。という生き方だったわけです。

まったく監督から知らされずに、即興で本物の知的障害者たちが現れたとき、彼らは演技さえ忘れ、その罪悪感に苦しみます。

「知的障害者を装う」という演技自体、この映画の演技であるのに、いったい自分はなんて酷いことをしているのだろう。と

ここに「差別」という問題に対して、人間の果てしない罪悪の心というものがものすごく深いことを表していると思いました。

演技かどうかなど関係ないというように彼らは知的障害者たちを傷つけている自分に対してなんて酷い人間なんだと感じるのです。

「演技」だからと割り切れるような精神を持つことさえできないのは、みんなが現実でも無意識のうちに彼らを差別し続けていると感じているからです。

普段は無意識で差別し続けていることを意識的に感じるわけです。
そんな人間という生き物が救われる唯一の方法、それがものすごく逆説的な「自ら愚かな者を演じる」という方法だった。
差別している対象者を、自ら演じて生きることの苦しみと解放。
彼らが望んで求めたのは自罰的な「苦しみ」だけではなかったし、救済なる「解放」だけでもなくて、その両方が彼らには必要であり、それを求め続けて、その深い悲しみ、苦しみを通して、彼らは苦しみから解放されることができたんだと思うのです。

彼らは間違いなく、「苦しみながらの解放」を得ていたはずです。
「苦しむことでの解放」、彼らは自分を苦しめながら解放されていました。

ラース・フォン・トリアー監督の作品はどれも、このテーマなんですよね。
彼自身が、それを求めていることがよくわかります。

だからわたしはもう言えるかなと思いました。
いちばん好きな監督は、やっぱりラース・フォン・トリアー監督だな。

自分の求めていることも、彼とまったく同じものだからです。

そういえば、レディオヘッドのボーカルのトム・ヨークも以前こんなことを言っていました。
「誰もが幸福を求めるわけじゃない」と。
トムも、同じところに生きている人であるのがこの一言でもうわかっちゃう感じです。
トムもとてつもない自責感や罪悪感や自罰感を常に持って生きている人だというのは、彼の音楽を聴いていると苦しいくらいに伝わってきます。

そしてこれをよく言うなら、真面目で繊細で感性の鋭い人間といえますが、同時にトリアー監督もトムも私自身も重い鬱症状に苦しみつづけてきた人間です。

鬱が酷いときは、もう身体さえコントロールできないし、死んでいるような感覚なので、死体のように生きているのに「いっやぁ、俺は真面目で繊細で感性鋭いのだろうからみんな認めてくれよ」とも言いがたいものがあるわけです。

死体を死体でないものとして認めろといってるようなもんだからです。

そして欝のときは変にイライラとするときもあるのでだれかれ構わずに暴力的な行動や言動に出てしまうこともままあります。
だからそんな人間たちは、果てはこう言われます。

「精神障害者」「人格障害者」「精神疾患」「鬱病」「社会不適応者」「役立たず」「人を不幸にさせる者」「働かざるもの、食うべからず」

非常に、痛い言葉だと思います。
私がいつも、受けている差別の言葉であり、人の目です。
だから余計人が怖くなり、そんな人間たちは引きこもりがちになります。
でもその「人の目」とは、他者の目ではないのです。
「鏡」なのです。
この世にあるすべてが、私自身の「鏡」なのです。
自分が、自分自身に向かって、言い続けているのです。
「精神障害者」「人格障害者」「精神疾患」「鬱病」「社会不適応者」「役立たず」「人を不幸にさせる者」「働かざるもの、食うべからず」と。

ほんとうにひどい症状のときは、空や風や木や草や花など、本来癒されるはずである自然物たちでさえ、わたしに向かって同じ言葉を吐き続けます。
そして最後に決まって言われます。そのすべてから「死ね」と。

つまり、最も自分を「差別」しているのは、他者ではなく、自分自身というわけです。
自分が誰よりも自分を差別し続け、苦しめ続けている存在ということです。

そんな人間たちが救われる道とは何か。
救われる生き方とは何か。

それがこの映画「イディオッツ」で監督自身がたどり着いたひとつの自己救済。

自ら今よりも、もっとひどい障害者〈愚かな者)を自分自身を差別するために演じて、人々から蔑まれ、憎まれ、差別され、その苦しみによって、解放されること。

自分自身も、けっこう覚えがあります。
ほとんど無意識でやっているようなことも多くあると思いますが、たとえば私が統合失調症などの精神疾患の中で最も酷いといわれている精神病があるように見せかけ(幻聴、幻覚の症状があるように装ったりなど)、心配されたり忌避されたりすることで自分自身を嘲笑い、軽蔑し、みずから苦しもうとする方法です。

そして同時に、そんな自分を恐れたり、差別する人間に対して嘲笑している自分がいて、またその嘲笑している自分を自分が嘲笑するわけです。

そんな人間というのは、もう起きている間はずっと、自分をどこかで嘲笑しつづけて生きているので、ほんとうに心底から心が休まる瞬間というものは、一瞬さえありません。

これが本物の「精神障害者」なわけですが、彼らは救いを求めるほど、自分を苦しめることを選ぶのです。

こういった人間の心理を知ってからこの映画を観ると、カレンが言った「愚かでいることは素晴らしい」の意味がどれほどの苦しみと悲しみの中から発せられた言葉だったかを想像することができると思います。



でも私は思うのです。
これはなにも、きれぎれのところで生きている人間たちだけに当てはまるものではないはずだと。
何故なら、誰かを無意識にも差別しつづけて生きる人はほぼ全員だと思うからです。

差別する心がほんの少しでもある以上、その救いは、この映画の中にあるのです。


人間が愚かでいることは、本当に素晴らしい。

何よりもの、人間の救いだ。

わたしは断言できます。

いいえ、誓います。

神に。




映画「ベティ・ブルー」 二人が求めた存在しない何か

2016-12-20 17:57:19 | 映画
『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(原題:37°2 le matin、英題:Betty Blue)
1986年フランス製作 監督ジャン=ジャック・ベネックス

この映画は是非「ベティ・ブルー インテグラル 完全版 (ノーカット完全版) 」178分のものをご覧頂きたい。
その日常を映す長さが重要な意味を持っている作品です。




ストーリー



ペンキ塗りや配管工をしながら生計を立てる35歳の男ゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)はある日19歳の少女ベティ(ベアトリス・ダル)と出会い、徐々に互いに激しく惹かれあってゆく。

ある日ベティは、ゾルグが過去に書きためていた小説を偶然発見し心酔するようになる。
ゾルグの才能を信じるベティは作品の書籍化のために一人で奔走するも各出版社の反応は冷たく、ベティの迸るような情熱は空回りし続ける。

精神が不安定で何度も衝動的な行動を繰り返すベティ、そんな彼女のすべてを受け入れようとするゾルグ。
二人の愛の行方はどこへ向かうのか。




ベティは脚を折った野生馬のよう
立ち上がろうと 必死で もがく
輝く草原を夢見て
暗い柵の中に迷いこむ
自由を奪われては
生きられないのに





















昨夜にこの映画を初めて観て、今朝起きると、映画の夢を観ていたようで、どんな夢かは忘れたが、目覚めた時に重い喪失感があった。

この映画は、わたしはまだ涙が一滴も流れることがない。
自分には映画として観れない何かがあるように思う。
わたしは女であり、性格はベティと、よく似ている。

真っ白な光か、真っ暗な闇か。
0か、100か。グレーゾーンを受け入れられないベティとわたしはよく似ている。

そしてゾルグとも。
わたしはゾルグと同じ純文学小説家志望である。

ゾルグがほんとうに望んでいるのは彼が描くような悲劇的に終わる世界であることをベティは無意識にも感じ取っていたかもしれない。
同時にベティはゾルグとの今の幸福の延長にあるさらに大きな平凡なる安らかな喜びである幸福を追求していたことも確かだと感じる。
ベティにとって愛するゾルグとの生活はとても大きな喜びの中にあったものの、何度と破壊的な不安に襲われ、それは満ち足りたものではなく、ゾルグの中にも、このまま幸福が続いていくことの不安のような何かがあるのだとベティは感じていたのではないか。

ベティはゾルグを幸福にすることが彼女の一番の幸福であったはずだ。
ゾルグはヒトラーを愛し、悲劇を愛する男である。
現実に破滅的な悲劇がなければ書くことは決してできないであろう重圧で人をほんとうに感動させる物語をゾルグが書くということを、ベティは潜在的な場所で望んでいたのではないか。
そしてそれを意識下には及ばないところでゾルグも望んでいるはずだとベティは見抜いていたのではないか。

二人が望んだもの、それは、同じものだった。
だからこそ、美しい悲劇をそこに人々は観るだろう。

ベティは自分を犠牲にしてでも、ゾルグをほんとうに幸福にしたかったはずだ。
そしてゾルグも、悲劇を望むのはベティとの幸福のためであったはずだ。
ベティはゾルグが描く悲劇的な結末を迎える物語を愛したのだから。

「存在しない何か」を深く望んでいたのは、ベティだけではなかったのではないか。
小説家とは、幻想の世界に生きる人間である。
ゾルグはベティとの幸福な生活を望み、それが叶えられていくほどに彼の幻想なる悲劇的な物語を渇望していたように思う。
ベティはゾルグを愛する深さゆえ、それを感じ取っていたに違いない。
ゾルグとベティは、まるで鏡を見つめあうように同じ「存在しないなにか」を深く深く渇望した。

ゾルグが悲劇を求めたのはベティへの愛ゆえである。
ベティが悲劇を求めたのはゾルグへの愛ゆえである。
だから愛し合うほど二人が悲劇的な結末へ向かわざるを得なかったというあまりに悲しく美しい悲劇がここにあるのだろう。

二人は、けっして間違った方向へ行ったわけではなかった。
ベティとゾルグは、「存在しない何か」をやっと手に入れたはずだ。


*原題の『朝、摂氏37度』とは女性が最も妊娠しやすい体温のことで、男と女の愛と交接の完全燃焼点を表した言葉とされている。


女がお腹に宿し、生む存在とは未知なるものである。
それはまだ、どこにも存在しないもの。
どこにも存在しない「物語」である。

そして小説を書く男が生みだそうとするものも、
それはまだ、どこにも存在しない。



それはまだ、深い深い深淵の中にある。

ゾルグは、それを、書き始めた。










映画「小さな唇」感想 男と少女の姿は父親と娘のもう一つの話

2016-12-14 22:37:10 | 映画
今日も胸が苦しくてならない。
昨日に観た映画が原因である。
昨日、私は「小さな唇(原題Little Lips)」というカルト作と言える1974年イタリア・スペイン合作の映画を観て、
ほとんど期待せずに最初のうちは観ていたのが、観ているうちにものすごく感動して、映画が終わった瞬間から何分間と繰り返しやってくる咽び泣きがなかなか止まなかった。





ストーリー

戦争から五年、ポール(ピエール・クレマンティ)は生まれ育った故郷ブルック・アン・デア・ムーア (オーストリア)に帰還する。
足を負傷して杖を使うようになったポールは、戦争で心にも深い傷を負い、家族が一人も住んでいない屋敷で召使夫婦と暮らしている。
 自殺を何度と考える絶望的な日々を過ごすポールはある日、召使夫婦の姪である戦争で両親を失った少女エヴァ(カティア・バーガー)と出会う。


主演はピエール・クレマンティ(Pierre Clémenti 1942年9月28日 フランス・パリ生まれ 没年:1999年12月27日)というフランス出身の俳優で私は初めて彼を知ったのですが、調べてみるとパゾリーニ監督の「豚小屋」という非常に問題性の強そうな映画の主演をやってたり、他にもかなりのカルト的だったりアート的な映画に好んで出演していて個性の強い俳優のようで、72年には麻薬売買で17ヶ月の禁固刑を受けており、独り舞台をやったり映画監督をやったりと怪優として評価されているとても興味深い俳優です。










このクレマンティという俳優が麻薬売買で捕まって禁固刑(禁錮は強制労働が無いといっても独房の中で自由に動き回ることは許されておらず、就寝時以外は一日中看守の合図により正座と安座の繰り返しとなる。常に看守に監視され、不用意に動くと厳しく指導される)と言うむちゃくちゃ苦しい刑に服し、出てきてから一年ほどか一年と経たない頃に主演をやった映画が「小さな唇」です。
当時、彼は32歳ですが、この映画ではもっと上の年齢のように見えます。40歳から45歳くらいの設定でいいかもしれない。
そして少女エヴァ役をやったウィリアム・バーガーというこれまた癖の強そうな俳優の娘である西ドイツ生まれのカティア・バーガー(Katya Berger)は1964年生まれとなっているので、当時は10歳くらいのようです。設定は12歳の少女です。




とても10歳ほどには思えない大人びた表情と無垢なあどけなさを持ち合わせているすごく魅力的で可愛らしい少女です。



設定よりも若い少女を裸にさせている映画なので、かなり問題作で当時全世界で発売中止となった幻のエロスムービーが、公開時にカットされたシーンを可能な限り収録してDVD化となっていますが、映画の本編は10分もの最重要といえるシーンの入ったシーンいくつかが抜かれています。
そしてカットシーンが別に特典映像にされています。


最重要のカットされてしまったシーンがどのようなものであるのかはネタバレにもなりますが、これは知らないよりは知ってから観たほうがいいと思うので、あえて言います。
少女エヴァが入浴中に性的な快楽にひとりで耽っていて、それを目撃してしまうポールの場面です。

自分はこのシーンは絶対に本編に入れなくてはならないシーンだと思います。
私は本編を昨日観終わり、今日に特典映像を観て、二重の苦しみに襲われました。

ここからは映画のレビューというより、私自身のとても重い過去の話を入れねばなりません。

その前にちょっと映画のシーンを貼り付けましょう。










ここからは非常に重苦しい話になります。



私はこのポールという男とエヴァという少女の姿が父親と娘の姿に見えて仕方ありませんでした。
自分と父親の姿にだぶって見えて仕方なかったのです。
最後まで観終えた時、それが決定的なものに感じられ、悲しくてなりませんでした。

またこのポールを演じるピエール・クレマンティのその存在感や雰囲気は私の父親とよく似ています。
私は男性は、二つのタイプに大きく分けられると思っています。
一つは、性的なものに対する重く苦しい罪の意識、背徳感を意識的にも潜在的にも持っていないように感じられるタイプ。
一つは、性的なものに対する重く苦しい罪の意識、背徳感を意識的にも潜在的にも深く持っていると感じられるタイプ。

このポールという男は間違いなく後者でした。
そして私の父親も後者でした。
私自身が、子供の頃から後者でした。

私が性の快楽を知ったのがちょうどこの少女エヴァを演じたカティア・バーガーと同い年の頃、小学三年生のときでした。
私が4歳のときに他界した母はエホバの証人で、私は母の記憶がないのですが、母が死んだ後も父とエホバの証人の人と一緒にいつも家で聖書を学んでいました。
エホバの証人というのはものすごく性に対する禁忌が強く今でも在り、婚前交渉は勿論、自慰行為までをもはっきりと禁じます。
幼い頃、母の傍に常にいた私は毎日のように聖書の内容とエホバの証人の教えに触れ、たぶん物心のつく前から夫婦間以外の性の欲望がいかに神に背くものであり、重い罪であり背徳であるということを無意識にも感じて育ってきたと思います。

私は父に対して、性的な関心は持たなかったし、胸が小さく膨れる頃になれば父と一緒にお風呂に入ることを恥ずかしく思い、一人で入るようになりました。
でも同時に父に対する独占欲や所有欲といった依存心は強くあり、父が職場のおばちゃんと会うことにも酷く嫉妬していました。
それはまるで、性的な欲望を持たない恋愛のようであり、父親が大好きで父子家庭で育つ娘の父を自分だけのものにしたい、自分だけを愛してもらいたいというごく自然な感情ではないかと思います。

しかしそれが自分と父の場合には、破滅的な道のりをゆく原因になりました。
私が生まれたとき、父は40歳でした。
父は1941年の9月21日生まれで2003年12月30日に62歳で他界しました。
ポールを演じたクレマンティは1942年9月28日生まれで没年が1999年12月27日、享年57歳。
何でこんなに近いんだと驚きました。
まるでこの「小さな唇」という映画は性に目覚め始めた10歳のときの私と若かりし父が禁断の恋に陥ってしまうというような物語に見えて仕方なかったわけです。


私は父が死ぬ22歳の時まで男性を好きには何度もなりましたが、男性の手を握ったこともないほど無経験でした。
私が男性を好きになり結婚をし、家を出てしまえば父は一人になってしまうことがわかっていました。
父も私にひどく依存していたのをわかっていたのです。
私と父は強い共依存の状態にありました。
私が17,18歳の頃だったか、父が性的なシーンのあるドラマや性的な事柄を含んだテレビ番組を私が家にいるときに見ることが苦痛でたまらなく、鬱が酷くなって寝たきり状態になったことから姉の家に数週間か住むことになったときがありました。
すると父が今度は私がいなくなったことで寝たきりの状態となってしまったのです。

私の嫉妬はとても異常なものでもありました。
何故なら父が当時さんまの「恋のから騒ぎ」などを観ていただけでも自傷するほどに苦しんでいたのです。
ちょっとしたキスシーンのようなシーンに入ったドラマを父の見てる目の前でリモコンで電源を切り、父に怒られたこともあります。

自分の性の欲望をのた打ち回って苦しむほどに穢らわしく思うと同時に父の性の欲望も性的な関心ごともすべて私にとって穢らわしくてならないものでした。
どうしても赦せなかったのです。父が女性に性的な関心を持つことはおろか、私以外の女性を可愛がることも。

母は父親を早くに亡くしており、ものすごく父の過去の女性関係にまで嫉妬していたほどの嫉妬深い人だったようです。
きっとほとんどの女性が親の愛、父性の愛というものを、恋愛感情を持つ相手に求めているはずです。
それが親の愛に飢えた子供ならなおさら求めるはずです。

この映画のエヴァという少女も幼い時分に父親と母親を亡くした子であり、親の愛情に飢えきっていたはずです。
特に、父親の愛情を知らず、父性の愛に飢えた子供は少女の頃から性的なことに奔放的であり、周りからは尻軽女のように蔑まれながらも必死に性的な行為で男を喜ばせようとし、これによって男に父親の愛を求めていると私は感じています。
たぶん性風俗の世界で働く女性は父親の愛情に飢えた人が多いと思います。これは何人かの境遇や生い立ちを知ってそう感じたことです。
それは父親に愛されたい娘の愛情飢餓が、どうすれば父親の代わりである男性を自分が喜ばせられるのかを無意識にわかり、感じ取っているからだと思うのです。
性的に奔放になる女性は男性からは真剣に思ってもらえなかったり、世間から差別されやすいものですが、非常に涙ぐましい意味が隠されているわけです。

私自身、父を喪ってすぐに、自暴自棄に陥り父を苦しめたまま父を死なせてしまったことでも自分を憎み責めさいなむ心から、自罰的、自虐的にそれまで護り通していた結婚するまで処女でいたいという願いも壊し、突如性的に奔放になりました。
ここ数年はさすがに奔放さはなくなりましたが、私にとって性の行為に纏わる喜ばしい記憶は何一つとありません。
すべてが苦しく、罪の記憶としてあります。

でも一番の罪の記憶は、父が病気に罹って病院で最も苦しんでいたその同じ時間に、私が家でひとり、当時好きだった出会い系サイトで知り合った若者を想いながら性の快楽に浸り、自慰(手淫)行為に耽っていたことです。
行為の真っ最中に電話が鳴って、電話に出ると予感したとおり病院からで父の容態が急変して危ない状態だから今すぐに来てください。というものでした。
悪夢を見ているような感覚で汚れた手を洗い、急いでバスに乗って一人病院へ向かいました。
私が父のいる病室へ着くと、父は酸素マスクをはめられており、息もうまくできない状態ですごく苦しそうなのに私を見た途端、とてもホッとした表情を見せました。
父の傍に座った私の手を父は力なく握ろうとしました。
でも私は完全に絶望していたのです。
父はまだ生きているというのに、自分の人生を呪い、途方に暮れて完全な極度の鬱状態に陥っていました。
だから父の手を握り返すこともできずに、父の手は力なくベッドの上に落ちました。
その後、先ほど電話で連絡した仕事先に居た兄が病室に着いて、兄は自分から父の手を強く握り締めました。
私はそれを見てずっと項垂れ泣いていました。
父はその後麻酔を打たれて眠らされ、意識を失ったままの状態で一週間後にこの世を去りました。
麻酔を打つために冷たく無機質な集中治療室へ父が運ばれるときに、父の最後の目にした私の姿は、絶望しきって父を見て泣いている私の姿でした。

もし私があの時、性の快楽に耽ってさえいなければ、私は苦しんでいる父の手を力強く握り返し、ほんの少しでも父の苦しみを和らげることはできただろうか。
今でも続いているこの悪夢は、いつ終わりを迎えるだろうか。
私が死ぬときだろうか。
私は「小さな唇」という映画を観終えて時間が経つと、あの少女がこれからどのような人生を歩むのかを想像しました。
父親の代わりが、いったいどこにいるだろうかと。




「アンチクライスト」という映画を観終わったあとも、ものすごい引き摺ったのですが、この映画も当分引き摺るでしょう。
私はこの時期にこのような胸に深く突き刺さって痛む映画を観れたことをとても喜ばしく思います。






重苦しい私の話を読んでくださり、ありがとうございました。













ベルギー映画「息子のまなざし」もっとも憎む存在の哀しみと孤独

2016-12-11 23:31:08 | 映画
ひさびさにグッと熱くなる映画を観た。
原題「le fils(息子)」というベルギーの2002年の映画です。


監督・製作・脚本は「ロゼッタ」のジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟。
出演は「天使の肌」のオリヴィエ・グルメ、新鋭のモルガン・マリンヌほか。
2002年カンヌ国際映画祭主演男優賞、エキュメニック賞特別賞、同年ファジル国際映画祭グランプリ、主演男優賞、同年ベルギー・アカデミー最優秀作品賞、監督賞、主演男優賞受賞。



ストーリー
オリヴィエ(オリヴィエ・グルメ)は職業訓練所で大工仕事を教えている。
ある日、そこにフランシス(モルガン・マリンヌ)という少年が入所してくる。
彼は大工のクラスを希望したが、オリヴィエは手一杯だからと断り、フランシスは溶接のクラスに回される。
しかしオリヴィエは人に気づかれぬよう、フランシスを追う。




なんといっても私が感動したのはこの二人のこの演技です。
二人とも、この表情だけで2時間以上の無声映画さえ見せるくらいの才能があります。
フランシス少年の表情からこの少年がいったいどんな生い立ちでどれほどの孤独を背負い、どんな想いを抱えて生きているのかが観る者は気になってしょうがなくなるわけですが、その前にオリヴィエという主人公のおっさんが気になって、フランシス少年のことが一番気になって仕方がないのはこのオリヴィエというおっさんであることを知ります。





決して、このおっさんが可愛い少年に恋をしてしまう・・・という話ではありません。
先が気になりますが危ない早とちりをしてはいけません。









フランシス少年は距離を見ただけで測ることが得意なオリヴィエ先生に自分の足元から先生の足元までの距離を当ててみてと言います。
フランシスは父親を知らない子なのです。そして母親からも見捨てられ、天涯孤独な境遇にいます。
彼はいつも、オリヴィエ先生といるときとても緊張しています。
それはオリヴィエ先生も非常に緊張しているのですが、フランシスの場合は、何かオリヴィエ先生と父親像を重ね、父親に嫌われることを極度に恐れているというような緊張感を常に持っているように思えてきます。
ぼくと先生の距離は、どれくらいだろうか?それを当ててみて欲しいと先生に言うフランシスはまるで、自分と先生の距離がどんなものであるかを先生には知ってもらいたいという、自分の存在を知ってもらいたいという心理が隠れているように見えてきます。



一つ目のネタバレになりますが、この16歳のフランシス少年は過去に幼い子供を殺害してしまい、少年院に入っていました。
ここでもう、あっ、そういうことか?と気づかれると思いますが、そういうことなのです。
何故オリヴィエという男がまるでストーカー並みに彼を監視しようとしているのか。









ここはフランシス少年のアパートの部屋です。
このオリヴィエというおっさんは黙って彼のアパートの鍵を開けて勝手に入っては彼のベッドに横になったりなんかしてしまうのです。
すごく、いいシーンです。
憎いはずの相手の部屋に入り、カーテンの隙間から見える外の景色がどんなものかをオリヴィエは覗きます。
フランシスがいったいどんなことを想い、感じながら生きているのか。
いったいこの殺風景な部屋はなんなのか。
引っ越してきたばかりといったって、16歳の少年が住むアパートといえば、もっとくだらん物やエロ本などがごちゃごちゃとしているものじゃないのか?
なんだかここってちょっとシュールな感じじゃないか?まるでマグリットの絵画じゃないか、ベルギーだからって、ははは、は、はは、は、って何を俺は笑ってるんだ?と自分で言ってる風な感じにどこか精神が不安定な様子が垣間見えるオリヴィエです。
いったい彼は・・・何を想ってこの窓から外を眺めているのだろう・・・。
オリヴィエはフランシス少年のことを知りたくて知りたくて仕方がないのです。

何故、彼が自分の息子を殺すまでに至ったか?
彼の中にどのような闇があるのか。
それを知ることができないことがオリヴィエにとって苦しくてたまらないことなのです。

ベッド脇のエンドテーブル代わりにしている椅子の上には、睡眠薬が置かれています。
たった16歳の子供が睡眠薬に頼らねば夜も眠れないほどの不安の中に生きていることをオリヴィエは知ります。












オリヴィエがフランシスに木工を教えているところです。
これはたぶんみんなが持っている自分だけの大事な道具箱をフランシスにも作らせているところです。
オリヴィエのフランシスを見る眼差しは、どこか父親が息子を心配そうに見るような眼差しにも感じられます。
オリヴィエは、子供に教えることが好きな人なのです。
つまり、子供が好きな人なのです。
どれほどの複雑な感情がオリヴィエの中に渦巻いているだろうか?
観る者は緊張を一瞬たりともほぐせない時間を共にします。








元奥さんに事を話してしまったオリヴィエ。元奥さんの精神も危なくなってしまいます。
彼の精神状態は、もういっぱいいっぱいのところでようやく正常さを装おうと必死なようです。








本当に憎たらしいだけなら、フランシスが腹をすかしているかもしれないと心配し、「何か食うか?」などとは訊かないでしょう。
まぁ、満腹させてから殺す、という変態的なサディストならわかりませんが。
「何か食うか?」というのはとても親が息子によくいう台詞のように私は思うのです。
そんな彼を追いかけるフランシス。まるで父と息子の後ろ姿のようです。













このシーンはとっても難しい二人の心理状況が見えます。
まず、オリヴィエはたった一切れのアップルパイを注文するのです。
すると、フランシスが、「僕も」と言います。
そのとき、オリヴィエは3枚目からの写真の顔で「え、どうゆこと?どゆこと?ど、どゆこと?」という顔を順々にしていきます。
店主はもう一切れのアップルパイを出します。
店主が支払いは二人分一緒かと訊くと、オリヴィエは「別々に」と言うのです。
するとここで、写真はありませんが、今度はフランシスが「あれ・・・」という残念そうな顔をします。
つまり、フランシスはオリヴィエは自分の分もきっと払ってくれるだろうと予想していたわけです。
しかしオリヴィエは「何か食うか?」と彼に自分から訊いてる訳ですから、当然支払いは自分で彼の分を払うつもりでいたのは勿論でしょう。
でも自分は今は特に腹が減ってないので何も頼まず、フランシスの分だけを注文した。
なのにそこにフランシスが「僕も」と言って、自分の分を注文したって事は、オリヴィエからしたら「ああ、こいつは俺に払ってもらうのが嫌なんだな、自分で払いたがってるのか」と思ったので、支払いは一緒かと訊かれたら「別々に」と応えて別にしたわけです。
ところが、フランシスの複雑な心理はオリヴィエが推察したことと違いました。
私が思うに、フランシスは、アップルパイをたぶん一人でもくもくと食べるのがいやで、オリヴィエ先生と一緒に食べたかったのではないかと。
フランシスはいつも一人で狭いアパートで食べたりしているのでしょう。一人で食べることが苦痛になっていたのかもしれない?
それから、先生をフランシスは慕う気持ちが出てきて、同じ食べ物を先生と一緒に食べたかったのかもしれない。
だから先生がたった一切れだけアップルパイを注文したときに、一人で食べるのは嫌だと無意識にも感じ、とっさに「僕も(先生と一緒に食べるためにもう一切れ注文したい)」と言ったのではないか?
でもオリヴィエ先生はそこまで推し量ることがとてもできず、この子は何か変な遠慮をしているのか、それとも俺のことを嫌い俺に借りを微々たる量でも作るのを嫌がってるのか?と思い勘定を別々にしてしまった。
そのあと、フランシスは寂しげに自分の分の40フランを自分で払います。














フランシスはオリヴィエに「後見人になってください」と言います。
どんな理由があってでしょうか。
私はここで、ひょっとするとフランシスは、自分が過去に殺してしまった子供は実は先生の子供なんじゃないかと、薄々気づいてき始めているのではないかと感じました。
フランシスはとても敏感で繊細で頭の良い子だと思いました。
それは媚や悪意のような単純な感情ではなく彼なりに必死に先生に赦しを請おうとしているように感じたのです。
それは意識下にもまだないフランシスの感情かもしれない。
彼のどうにか先生に認めてもらいたい、自分を受け入れてもらいたいというような心理が自然と彼がオリヴィエ先生を「後見人」にしたいと選んだ理由ではないだろうか。











フランシスはオリヴィエ先生にテーブルサッカーゲームを一緒にしようと誘い、先生のほうの得点が始めから入ったままになっていたのを見てか、先生に向かって「得点をゼロに」と言います。
そしてフランシスの大得意なサッカーゲームで先生に勝ち続け得点を手にしていきます。

私はこのシーンがものすごい深みのあるシーンだと思いました。
先生に始めから得点が入っている状態というのは、フランシスが先生に対してハンデを背負っている、つまり過去の業(カルマ)によって先生に「借りがある」状態であることを表しているように思ったのです。
でもそれをフランシスは「(先生の)得点をゼロにしてほしい(自分の罪を赦してほしい、自分を受け入れて欲しい、借りた分をまっさらにした状態から、これから自分と始めて欲しい)」と頼んだのです。

それはフランシスの先生に対する「僕を愛して欲しい」という想い以外には、何もないようなものなんじゃないかと感じたのでした。

人類は誰に支配されているか?映画「スライヴ」の感想

2016-11-14 13:36:19 | 映画
スライヴ (THRIVE Japanese)




「THRIVE(スライヴ)」というドキュメンタリー映画を昨日観た。
youtubeで全編無料で観れる。



内容紹介

今、世界は目覚めようとしている 。
人類史上最大の陰謀を暴く、衝撃のドキュメンタリー!

環境破壊、飢餓、戦争、天災、そして経済破綻と、次々に世界を襲う危機は、とどまることがない。
これらの危機に対し、人類はなんら有効な解決策を手にすることができていない。
しかし本当に何も手立てがないのだろうか?
はたして、我々は常に真実を知らされているのだろうか?
グローバル企業、P&G(プロクター・アンド・ギャンブル)社の創業一族の息子 として生まれ育ったフォスター・ギャンブルは、若き日にそのような疑問を抱く。
彼は、実業家になる道を捨て、科学者となり、この問題解決の追及に生涯を費やす決心をする。

長い探求の旅の果てに彼が見つけ出した真実は、メディアでは絶対に語られることのない、
全ての人類を支配する驚愕すべきシステムの存在だった。
あらゆる産業、農業、医療、経済、軍事、マスコミにまで及ぶ、完璧とも言える支配体制が世界規模で構築されていた。
この支配の真の姿を白日のもとに晒し出し、人類を解放し、真の繁栄(THRIVE)を奪還するため、
彼は私財480万ドルを投じ、本作『THRIVE』を製作した。

2011年11月11日「リセットの日」に、『THRIVE』は全世界に向けて公開された。
その衝撃と感動は大きなうねりとなって、全人類へと確実に広がっている。

《日本の皆さまへ、(フォスター・ギャンブル氏からのメッセージ)》
3.11東北関東大震災と福島原発事故から1年が過ぎた今、映画スライヴの製作チーム、妻のキンバリーと私は、健康、環境そして経済における逆境、史上無比な惨事に瀕して立ち向かう皆さま方の尽力を想い、皆さまがたが身を以て示された勇気を心から讃えます。そして、原子力を否認するため立ち上がってくださったことに感謝しています。

人類がクリーン・エネルギーへと転向して行くために、また、エリートたちによる破滅的な中央集権銀行システムから脱していくうえで、日本が世界の手本となるために、この作品が少しでもお役に立ちますよう願っています。合気道が、私の人生に多大な影響を及ぼしたように、今、あなた達が示してくださるお手本を通して、世界中の人々もまた日本から多く学ぶことでしょう。
映画スライヴが、今日の日本の皆さまのためになればと願っています。私たち万人のため、そして互いの子孫のために皆が望む、真に繁栄し合う世界を共に構築して行きましょう。






観た人の反応は賛否両論で、これは新たなる洗脳を始めようとしていると言う人も結構いるようだが、自分は見終わって素直に感動した。

この映画を作ったフォスター・ギャンブル氏自身がこの一部の権力者たちによる世界の支配構造の仕組みは「間違っているかもしれません。しかし事実だったら…」と言っていた。
何も証拠を掴んで言ってるわけではないが、その可能性は高いという話で、これはドキュメンタリーだけれども、事実かどうかはまだはっきりしていないことを言っているから、そういった意味では半フィクションとしてその部分は観たらいいと思う。

この映画が本当に言いたいことは自分はそこではないと思う。

映画でも小説でもブログ記事でも何でもそうだと思うが「最も重要なこと」というのは大体最後に持ってくる。

「この世は誰が支配していて、どのような信じがたいことが行われてきたか」それを最もこの映画が伝えようとはしていないと私は感じた。

この映画が本当に伝えようとしていること。
それは最後に持ってきた「人類に必要なものは合気道の精神」だという主張だと思う。

合気道の精神

合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。

世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。

合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ己を宇宙そのものと一致させることにある。

合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。
私はこのことを、武を通じて悟った。

いかなる速攻で、敵がおそいかかっても、私は破れない。それは、私の技が敵の技より速いからではない。
これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。
すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。

そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

合気道は、無抵抗主義である。
無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。
邪気のある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。

ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

それには、まず神の心を己の心とすることだ。
それは上下四方、古往古来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。

「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。

これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。
宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(武を生み出すこと)ではない。

だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。
真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。

勝つとは、己の心の中の「争う心」にうちかつことである。
あたえられた自己の使命をなしとげることである。
しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。

合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。


合気道 植芝盛平監修 植芝吉祥丸著




自分は「合気道」というものがこんなに素晴らしいものであるのを始めて知った。
全人類が合気道の精神で生き始めようとすることが今必要なのだと映画「スライヴ」は最終的に結論に達していた。

誰に支配されているかと日々恐れ、支配する人間たちを憎もうとしても世界は良くなっていくどころか、その恐れや憎しみの増大によってますます悪くなっていくだろう。


今、人類は「真実」を知る必要のある時期に来た。
それは環境破壊や飢餓や水不足といった状況がますます深刻になってきていることや、世界が第三次世界大戦へと進もうとしているかのような流れへと来ていることからも感じられるだろう。

「真実を知る」とは、誰が陰謀をたくらんでいるのか、何が危なくて何が安全かを知るということではなく、今知る必要なる真実とは、まさに合気道の精神とまったく同じである「利己を手放した宇宙と調和するエネルギー状態へと自分を持っていき、どのような争いをも受けることなく躱す(かわす)という愛なる精神」なのである。


この締めくくられ方に私は大いに感動したのである。
支配がなくなり、すべてフリーエネルギーに変わっても、この愛なる精神で人々が生きなければ結局は悲劇の連鎖は終わることはないのである。

どこか自分以外の場所に自分の敵が存在しているわけではないということを人々が知る必要がある。
「敵」とは実は自分の中にしか存在していない。(だから自分を憎めという意味ではなく、相手を敵とするのは自分の心の中に敵〔憎い自分〕が存在しているからという意味である)


この映画が表しているもう一つの重要な主張の言葉がある。
この世の支配下構造というものは「人類の課題」であるのだという言葉だ。

「課題」というとそれは神に与えられたというような意味があると同時に誰かに決められたものではなく、自分自身で決めたという意味があると思う。

誰に支配され誰に苦しめられようとも人々がそれを「自分が決めた自分の成長のために必要な課題」であるのだという考え方になるなら、どんなに強く生きていけるだろうか。

一方、誰かに苦しめられたことで「あいつが悪くて俺は一切悪くない」という考え方を続けるなら、一体いつまで争いは続くだろうか。

だからこの映画を作ったフォスター・ギャンブル氏は一体この世は何でこんな酷い世の中なんだというところから探求し続け権力者たちの支配下構造説を有力として考えたけれども、最後にはどうすれば世界が良くなっていくかという問いに「すべてを愛する精神(争いの精神を手放し、誰をも憎まず、すべてを愛すること)が必要なんだという結論に達した。

映画には異星人が地球に数々のメッセージを伝えている信憑性の話が出てきたけれども、自分は最近「バシャール」という異星人たちのメッセージの本をよく読んでいて、彼らが何十年とかけて伝えようとしていることがすべて結局は「愛なる精神に生きなさい」というメッセージであることからも異星人たちの愛情深さというものに感動させられる。

バシャールはとにかく「自分が情熱を感じること、自分の好きなことをやり続けなさい」と言っている。
それが宇宙との調和であるのだと。
でもほとんどの人は何かを嫌々ながらやって過ごしている。
行きたくないのに無理をして仕事に行っている。
嫌々何かをし続けているのでそのストレスから病に罹り、ますます人々は苦しんでいる。
その苦しみは世界中に連鎖していくので、世界の悲劇の連鎖が無くなってくれない。

だからバシャールはあなたが幸福を望むならばまず「嫌なことをしなくても生きていけるんだ」という観念に変えなさい。と言う。

「嫌なことをしなければ生きていけない」というのはただの思い込みの観念なので、それを壊さなくてはならない。

何故嫌なことをしなければ生きていけないということになっているのか?それはみんながそうだから、それが当たり前としている。

そこにまず疑問を持つことが必要で、何故みんながしてるから自分もしなければならないのか?という問いを発するなら、「みんながしてるからそれが正しい」という考えこそが「悪循環なる洗脳」そのものの考え方であると気づくことができるだろう。

みんなが学校に行ってるからといって、何故行かなければならないのか?
誰かと同じことをしなければならない必要など、どこにもない。
本当に行きたくないなら行かなければいい。
行かなくてもよいという選択ができないほど人は誰かに縛られているわけではないのだということに気づくことが必要なのである。

人は誰にも本当は縛られてなどいない。
支配もされていない。
コントロールしているのは、実は他人ではなく、自分自身の「観念」というものであるということにまず気づくことが必要だ。

自分が縛られ、苦しみ、身動きが取れないような状況になるように自分自身が自分でコントロールしている。
それほど人間一人のコントロールの力というものが強固なものであり、それによって自滅していく人も多くいる。

自分の観念で作り上げた世界を全ての人が見ている。
一体どのような世界を見たいのだろうか。
人間は嫌々働き続けるべき世界を見たいのか、それとも本当は全てが自由である世界を見たいのか。

全てが自由に、全てが解放され、誰一人拘束されない世界に生きても良いんだという世界を見て、その世界を作り上げようとするのか、それともこのまま拘束と拷問と争いの耐えない世界がこれからも続くという観念を変えようとせず、その世界を作り続けていくか。

誰がどのような世界を作り上げようと自由だけれども、人は本当に望む世界を作り上げられる力を持っているということだけは気づく必要がある。

全ての存在が平等に宇宙から愛されている。
その人が本当に望まないことはその人に起こらない。
すべて、すべて、すべてのことが実はその人の望むこと(見ていること、感じていること、関心を持つこと)として、その人の人生に起きてくる。

例えばある日、テレビ画面の向こうに映る一人の貧しい国で死んでいく幼い子供の苦しむ姿を見たとしよう。
その人は、そのことが心の奥底にずっと残り、意識下では忘れていることは多いものの、その子供の死んでいく姿が忘れられない状態でずっと生きていたとしよう。
その人の人生にはどのようなことが起きてくるか予想できるだろうか?
色々と想像してみてほしい。

実は自分の人生はこの通りに起きている。
だから自分の人生に起こるあらゆることが自分自身で引き寄せていることであるという宇宙の法則をずっと前から薄々気づいていた。

そして願いもいくつも叶ったが、多く叶ったのはほとんど恐怖や不安を感じることだった。
何故叶っただろうか?それは願うこと以上に恐怖や不安なことに強く関心を持ち続けたからだ。
それは宇宙はその人の「望むこと」として感じ取っている、何故なら本当に望まないことを人々は関心を持たないからだ。
一瞬強い恐怖を感じても、関心を持ち続けることなく忘れ去るのなら、それをずっと観続けるということもしていないし、その世界を見続けることなく、作り上げる、具現化するという作業を行わず、その恐怖は自分の人生には起こらない。

つまりどのような恐怖や不安や心配の意識であろうと、それをずっと感じて生きていた場合、宇宙(本来の自分)はそれを「願い」や「望み」として叶えさせようとする。
宇宙は正直なので、叶ったあとで「こんなこと私は望まなかった」と言っても、ではなぜ関心を持ち続けたかを自分自身に問いなさい。と返す。
何故ずっとずっと(潜在部分)であろうとも、感じながら生きていたか。
そして、では何故本当に望まないのならば、それではない、そうはならないほうのことに関心を寄せ続けなかったのか?ということが宇宙から返ってくるわけだ。

それは「そうはならないほうの事柄」に関しては関心を持たなかったし、興味もなかったか、または持っても浅かったからである。

自分が本当に関心を寄せている(本当に望んでいる)から宇宙はそれを自分に与えてくれる。
宇宙は自分の望まないものは決して与えようとはしない。
それは宇宙は愛であるからである。

だから自分の人生に起こっている全ては自分が望んだことであると私は言える。
すべて、自分が自分に与える最も良い「課題」であるというわけである。

なのでこの世界に「悪」というものは存在しない。
あるのは人間の「悪という概念」「悪という観念」である。
そしてそれは自分の中に存在するものだけを相手の中に見ることができる。
この世界には「光」と「闇」という対立しあうものが存在している。
「快さ」「喜び」と「苦しみ」「痛み」が相対するように存在している。

宇宙は光でも闇でもない。
宇宙は喜びでも苦しみでもない。
宇宙はただ存在している。
ここに、ただ存在している。

すべてが悪でも善でも光でも闇でもなく、ただ
すべてが在るものとして在る。

在り続けるのである。







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サッド ヴァケイション

2016-07-23 05:07:02 | 映画




ストーリー

中国人の密航を手助けしていた健次は、中国人マフィアから逃げるため運転代行に転職した。
ある日、泥酔客を送って行った先は、若戸大橋を間近に見上げる小さな運送会社の間宮運送。
そこで健次はかつて自分を捨てていった母の千代子を目撃する。




寺山修司が母親との強い共依存関係状態にありながら「母の不在」を見たのなら
この「サッドバケイション」の浅野忠信演じる主役健次は自分を捨てたくせに自分に執着をする母親に同じく「母の不在」を見たのではないだろうか。

母親の記憶がない自分にとって「母」とはまるで未知の存在のようだ。
この映画で石田えりが演ずる母親像というのは、息子が自分を捨てた母親に対する恐怖と願望がぐちゃぐちゃに合わさったとてもリアルな母親像に思える。

青山真治監督は最近「共喰い」の映画も撮ったけれども、あの原作である田中慎弥の小説の母親像もこの映画とよく似ていて「リアルな母親」というより、不気味なほどに強く、母性を超えてしまってるような家族愛の不在を感じた。

自己愛が巨大になったものが神々しくなるのは何故なのだろう。

母を知らない自分の書きかけの小説がこの「サッドバケイション」のひとつのテーマでもある「自分を捨てた恐ろしい母親に対するひとつの復讐」というのとほぼ同じものなだけに、とても面白いものがあったし、深く考えさせられる。

この母親もその強さは母性愛の深さや人格の深さではなく、どこか無知な子供のような強さなのだ。
子供は大切なものを失っても、それは心の奥底に封印し、すぐに生きることに熱中する。
それが大人でもある状態はある意味「強さという狂気」のようなものだ。

母親の矛盾極まりない性質を目の当たりにして頭を抱え込む息子健次の苦悩は計り知れんものがある。
そら、ああなってまうよ、という感じである。

男という生物が母親に求めるものが巨大であることが息子の壊れ行く姿を見るだけでよくわかる。
男が行うすべてが母親に認めてもらうがための行いであるとすら思えてくる。

男は「陽」で女は「陰」というのもこの映画の母親を見れば深く頷けるものがある。
陽である男が求めるすべては女の陰なのだ。
どんな母親もその母性愛というのは恐ろしくてならないものなのだろう。
子供を捨てる母親も子供から離れない母親も根源的に同じ母性愛を備えていると感じられる。
「母は強い」「女は強い」というより「母は恐ろしい」「女は恐ろしい」というほうがこれは近いんじゃないか。
女に備わった母性という本能は男の持つ動物的な本能よりずっと恐ろしいものなんだろう。

自分はそんな母の姿を目にして育ってこれなかったが、まったく同じものが自分の中にも存在していると思うと自分も恐ろしくなる。

自分の胎内で何ヶ月と育てあげ、自分の乳を飲ませていた子供を捨てたり、または堕胎するというのもこれまた恐ろしい。
女は男以上に恐ろしい。
切り離そうにも切り離せない母性というものに女は一生涯苦しむのだろう。

自分が母親になればどうなるのか興味深いが、今以上に恐ろしくなることは間違いない。
生命を産み落とす存在というのはそれだけでも恐ろしいものがある。

女が母親であることの狂気を男が描く母親像を通して垣間見たい方はこの「サッドバケイション」をお奨めします。

で、自分は女やけども、同じようなテーマを書くというのは母を知らない娘もまた同じような母親像を描いてしまうものなのだからか?自分が男に近いからか?母を知らない娘は男化するのかどうかは、わからん話である。

とりあえずこの映画は面白かった。
『Helpless』『EUREKA』に続く“北九州サーガ”の第三作、完結作品。
「男の狂気」「人間の狂気」に続き「母親の狂気」で締めくくると。
いいんじゃないかな。

中国人マフィア役の本間しげるは異質を放ってて魅せられた。
斉藤陽一郎の演技がまたこの上なく自然ですごく良かった。
オダジョー(自分の兄と似てる)と宮崎あおい(役名が自分の本名と同じ)の関係の続きは別作品でまた作ってほしかった。
続きを観れないのは、悲しい。

環境保護団体が隠し通す一番の深刻な環境破壊原因を追ったドキュメンタリー映画「カウスピラシー」

2016-06-23 23:56:18 | 映画

環境問題はだんだんと深刻になってきて、もう地球は50年持つかどうかもわからない。などと言われているほどなのに
環境保護団体はどの団体も深刻な環境問題の一番の原因である一つの”巨大産業”について全くスルーして言及したがらない。

あまりに奇妙で、不気味である……キップ・アンダーソン青年は何故、その”一番の原因”を環境保護団体も政府もスルーしたがるのか?
調べていくうちに徐々に真実を知っていく。

真実を知っていくうちにキップ監督は自分の命の危険を感じて立ち止まりかけるが、
このまま無駄死にするか、それとも生命を守るために撮影を続けて死ぬかと自分に選択を迫った末に後者を選らんで撮影を続けることを決意する。


レオナルド・ディカプリオがエグゼクティブ・プロデューサー(プロデューサーのさらに上の職で、管理職・幹部に当たる)を務め宣伝にも力を入れました。
そうして出来上がったドキュメンタリー映画『カウスピラシー(Cowspiracy)』は2014年に公開され大きな話題を呼びました。

Cowspiracy: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密


「カウ(牛)」にまつわる「コンスピラシー(陰謀)」はどれほどの脅威であるのか?
このドキュメンタリー映画は生命を大事にする人たち、この地球に最低はあと15年は生きていたい、
または子供や家族を最低15年以上は生かしておきたい人たち全員が観るべき、観なくてはならない映画だと思います。

何故ならこの地球はあと15年ほどでなんらかの壊滅的な状況に陥るかもしれないと唱えている学者もいるからです。

冗談を言ってられない状況なのですが、こんなに深刻な状況なのに
それを知っている人があまりに少ない、また深刻だとは感じていない人のあまりの多さに
自分は何をどうしたらいいかとテンパって、今日もこの映画を観ているときも観終った後も心がずっと震えっぱなしです。

とりあえず映像の持つ影響力というのはすごいものだと思ったので
一人でも多くの方に観ていただきたい。

すごく良くできていて引き込まれる映画です。

ここで早くもネタバレになりますが、その一番の環境問題の原因とは畜産業です。
何がどうどれくらい畜産業が深刻な環境問題に関わっているか、わかりやすく文字に起こしているサイトをリンクさせていただきます。


わたしがお肉をやめた理由 その3



『COWSPIRACY』(家畜がもたらす環境破壊の脅威)



そして畜産業、食肉産業がどれほど残酷かを知りたい方は私はドキュメンタリー映画「アースリングス」をお薦めいたします。




Earthlings(アースリングス)






「カウスピラシー」も「アースリングス」も闇の権力者のような存在によって暗殺されるかもしれない危険性の中で命を懸けて作られた非常に貴重なドキュメンタリー映画です。


ジョン・レノンもこんなことを言っていたようですが(ビートルズは全員ベジタリアンです)


ジョン・レノンのインタビュー―世界は狂人によって支配されている




闇の権力者のような存在たちが一体何をしたがっているのか?ということは
私はあまり想像だにできないですね。
人類削減にはこのまま畜産業を続けていくことはとてもいい方法ですが
このまま行くと人類はどんどんまともに暮らしていけない地球になります。
闇の権力者たちはもうその頃は死んでいるのでいいのでしょうか?
それとも既に脳を移植できる発明などを秘密裏で成功しているか
レプティリアンとかの異星人か地底人などから永遠の命と暮らせる場所をもらう権利を何かを引き換えに手に入れてるのでしょうか。
かなりオカルトな話になってきますが、闇の権力者といっても全く理解できない存在ではないはずです。

”欲望”というのは誰にでもあるものだからです。
自分の欲望を犠牲にして生きるには、何が必要なのでしょうか。
闇の権力者なる者たちには出来得る限り手を貸さないほうがいい。
加担すれば地球は滅亡します。
でも誰かを悪者扱いすれば正しくて住みやすい世界が訪れるわけではないです。
ジョン・レノンが自分の中にも潜んでいる狂気と切り離して「狂人」と言っていたかはわかりませんが
狂気というものはその人間の一番大事なもの、例えば家族なり一番の喜びなりを奪った瞬間に
目覚めてしまうくらい危ういところで息をひそめて住みついているものだと思います。

人間は病気になりたくない、長生きしたい、と思いながら体に悪いとわかっている肉を食べたり
煙草を吸ったり、酒を飲んだりしています。
それも一つの狂気ではないでしょうか。
動物は好きだけれども肉を食べる人は多いです。これもかなりの狂気です。
自分の中にもどこか狂っている部分は見つけようとすればいくつも見つかるかもしれません。
闇の権力者の極悪非道っぷりは度合いが違うと言って悪者扱いしていれば闇の権力者は心を改めていけるのだろうか。

私がいつも危惧するのは自分以外に敵を作り、自分は正しく、相手は間違っていると思い込むことです。
すべての争いがそこから生まれます。

本当に心から世界をよくしたいと思うなら一番いいのがすべての悪に手を貸さないということです。
自分以外に悪者を見つけること、これは心の中で争いを生み出す悪となります。
ジョン・レノンは世界の闇の陰謀を知った後にイマジンを作りますが
あの曲の歌詞には「想像してごらん 闇と戦いやっつけるんだって」というような歌詞はひとつもなく
その代わり、「想像してごらん 人はみな兄弟なんだと」と歌いました。
「想像してごらん 狂人以外はみな兄弟なんだと」とは歌っていないのでジョンはあの発言の後に
たぶん狂人たちを許し、自分と同じ人間であり兄弟であると感じたのではないでしょうか。

人は真実を、知らなくてはなりません。
この世で何が起きているか。
でもそれはこの世の酷い陰謀や洗脳を知れ、ということではなく
どこで誰が今泣いているか、誰が救いを求めているか、自分がそのために何をしたいと感じ、
何ができることであるか、その真実を知る権利があって、人間は本当に自分が生きたい生き方を選ぶ権利を持っているということを
人は知らなくてはならないのです。

肉食、畜産業、魚介類の乱獲、陰謀、闇の権力者、人間の欲望、それらは悪ではないです。
それは悪ではなく、今起きている悲劇なのです。
悲劇を終わらせるためには、あらゆる悲劇を見つめ続けること、自分の欲望という悲劇が
どのようなさらなる悲劇へ繋がっていくかを考え続けることが必要です。







シド アンド ナンシー

2016-06-15 02:35:58 | 映画
こんばんは。今、布団の中にいます。布団の中といっても、薄いブランケットを掛けてる状態なので、実質、布団の半中という感じです。寝そべりながらスマホで投稿してみようと思います。

することがなくて寂しいので好きな映画の話でもしようかなと思います。

私が好きな映画はいくつもありますが、一番好きな映画はアレックス・コックス監督、ゲイリー・オールドマン主演のシド・アンド・ナンシーという86年の映画です。



これは70年代後半にパンクブームを引き起こしたSex Pistolsというバンドの夭折したシド・ヴィシャスというベーシストと、シドが誤って殺してしまったナンシーという恋人の破滅的な恋愛を基にした映画です。

この映画は私はお酒なしでは観れない映画です。
つまり正常な感覚ではとても観ていられないほどに私にとって悲しい映画なのです。

観終わった後はいつもずっと泣きじゃくりながら錯乱しています。

ある時はあまりに錯乱して夜中に頭をハサミで坊主にしてしまい、髪の毛をいっぱい身体につけたまま寝て、起きたらノートパソコンの上にもっさりと切った髪の毛が乗っかっておりギョッとしたことがあります。

この映画はなんといっても若かりしゲイリー・オールドマンの演技が神演技で素晴らしい。神演技でしかも神脚本で神撮影です。

物語はドラッグがなければ出会わなかった二人がドラッグによって破滅していくという悲劇です。

どっちかがドラッグやってなかったら、おい、そんなことはやめろ、と言えるんですが、二人とも中毒になって、それが苦しくてたまらないことがよくわかってるから、やめようとも言えない。
ドラッグをやるのは快楽が欲しいからじゃなくて、生きてるのが苦しいから手を出してしまうのです。
愛する人が側にいてもドラッグがやめられないくらいに生きてることがつらいからなんですね。
苦しみを和らげるためにドラッグをやる、でもそれが中毒になればさらに苦しくなっていく。
苦しんでいる人間がそうして破滅していく姿を観るのは本当につらい。
二人は愛し合いながら死へ向かって真っしぐらに堕ちていくのです。
それがあまりに美しくて悲しく、感動するのです。

そしてこの映画はすごく、リアルだなあと感じるんですよね。
自分の中で神映画ですね。
観てない人は是非観てもらいたい映画です。
でも錯乱する怖れのある人は命懸けで観てください。
かなり、重い映画だと思います。