あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「メメント」 あなたにとっての本当に正しい記憶とは何か

2017-09-20 15:35:37 | 映画
昨晩、気になっていたクリストファー・ノーラン監督の「メメント」という2000年公開の映画を観て、記憶というものは、どれだけ”自分”という存在を”自分”たらしめているものであるのか、ということについて考えさせられています。









あらすじ

ある日、自宅に押し入った何者かに妻を強姦され、殺害された主人公・レナードは現場にいた犯人の1人を射殺するが、犯人の仲間に突き飛ばされ、その外傷で記憶が10分間しか保たない前向性健忘になってしまう。
復讐のために犯人探しを始めたレナードは、自身のハンデをメモをすることによって克服し、目的を果たそうとする。
出会った人物や訪れた場所はポラロイドカメラで撮影し、写真にはメモを書き添え、重要なことは自身に刺青として彫り込む。
しかし、それでもなお目まぐるしく変化する周囲の環境には対応し切れず、困惑して疑心暗鬼にかられていく。

果たして本当に信用できる人物は誰なのか。真実は一体何なのか。










レナードが劇中で言ったように記憶というものは確かに正確なものでは決してない。
わたしがそれを感じたのは、ちょっと前の話ですが、わたしがこのマンションに引っ越してきた2009年の10月か11月頃の日のことを姉と話していたときのこと。

姉と兄二人が集まってくれまして、みんなでまだ何も無い部屋の中で持ち帰りした弁当を食べたのです。
みんな同じ弁当ですよ。その弁当がなんであったのか、という話を姉としたときに、全く違うものを姉は挙げたんですよね。
わたしの記憶は酷くはっきりと鮮明な記憶としてあるんですよ。
だから自信を持って、あれは「○○だった。絶対に!」と言うんですが、姉も自信ありげに「違う違う、あれは○○やったて」みたいに反論してくるんですよ。
ゆうても、6,7年前とかのことですよ?
そんなすこし前のことの記憶ですら、ここまで食い違うものなのか、とわたしは驚きました。









記憶というもんがどれほど曖昧で不正確なものであるか。
これを思い知らされると人間はショックを受けるのではないでしょうか。
なんでショックを受けるのかというと、やはりその”記憶”というものは、”自分”という存在を構成するにあたって、大変に重要な必要不可欠なものであると感じているからではないでしょうか。

でも果たして、本当にそうであるのだろうか?とわたしは疑問を持ったのです。







レナードという男は、記憶がもう昔のだろうと最近のだろうとものすごく複雑にこんがらがって、何が正しいのかそうでないのかがまるでわからない状態になっている。
でも彼は不安そうでありながらもとても自信を持って生きているのを感じたのです。
彼はどこかで、記憶というものが自分という存在を作りあげているわけではないと言っているようにわたしには想えました。

そして記憶というものが、果たして正確であれば価値があり、不正確であるなら価値はないのか?ということも考えました。
もし、不正確であっても同じく価値のあるものだとするならば、それは一体、なんと呼ぶものであるのだろうか?

いわばその記憶は”フィクション”の記憶として記憶された記憶です。
”ノンフィクションの記憶”と、自動的か故意に、作られた”フィクションの記憶”。
本物の記憶と、偽物の記憶。
人が本当に、必要とする記憶がもし、偽物の記憶であった場合、その偽物の記憶は本物の記憶より価値が勝るのだろうか。









少なくとも、レナードが生きてゆく為に必要としたのは、偽物の記憶だったことが映画を観ると理解できます。
彼が自分を自分たらしめる記憶として選んだのが、偽物の記憶だったということです。
彼は本物の記憶よりも偽物の記憶に価値を置いた。
それは言うなれば、彼は本物の自分よりも偽物の自分、フィクションの自分に価値を置いた、ということになるのではないだろうか。

そんな彼の眼は、悲しくも、美しくいつもキラキラと輝いているのは何故なのでしょうか?
復讐に燃えているから、というよりも、彼は偽の記憶を持ったこと、その記憶を全身で受容したことによって、彼はまるで生まれ変わったように生き生きと生きられているかのようにわたしには見えたのです。

そんな彼を、最初は哀れに感じる自分がいたのですが、時間が経って、彼の存在はものすごく素晴らしい存在のように想えてくるような、彼が選び取った正しい記憶は、フィクションだったことと、自分が現実よりもずっと創作世界に重きを置いて生きていることの共通した生き方があることにやっと気づけたのです。

彼は決してふわふわした世界を生きているわけではないのではないか、彼はむしろ、本物の記憶をしか信じない人たちよりもずっと確かな世界を生きているかもしれないのです。















映画「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」少年少女たちが知ってゆくもの

2017-09-18 10:37:31 | 映画
自分が14歳のとき、どんな感じやったかなというと、自分はまあ、クラスの男子グループに嫌がらせをされる毎日で、それが嫌になって、学校が苦痛になり、不登校になり始めた頃ですわ。
クラスの男子たちになんで嫌がらせをされ始めたかというと、最初彼らはわたしをグループデートのようなものに誘い、わたしがそのデート場所について、わがままを言ったので彼らがキレて、「なんやこいつ、大人しい感じのイメージと全然ちゃいますやんけ」みたいな感じになったんでしょうね、それから嫌がらせが始まったんですわ。

わたしも当時から強気な性格だったので、彼らを睨み返したり、わたしもキレて彼らの椅子を蹴り飛ばしたりしていたのですが、それでも相手は3,4人とかだったかな、どうしても多数に対して、人は弱気になってしまうもので、ものすごく内心ではつらかったのです。

その男子グループの男共と、他のクラスのヤンキーたちに追い掛け回され、自分は追い込まれて襲われそうになったこともありました。
今想いかえせば、可愛い奴らだったので、襲い返したったらよかったなと想います。
「おい、ちんぽ、立ってんだろ?ほら、出せよ、出せよ!この、童貞のふにゃちんが、しこって見せろよ!あほがっ」と罵倒してやりたかったですよね。
ね、女性のみなさん。
たぶん、そう言ってたら彼らはドン引きに引いて、その後嫌がらせはさっぱりとなくなったことでしょう。
わたしは今からでも遣り返してやりたいですよ、彼らにね。
「おい、パンツ脱げよ、パンツ濡らしてんだろ?てめえのふにゃふにゃちんぽをカッチンコッチンにしたろかー」と言って、彼らに恥辱を味わわせてやりたいですぜ。
彼らのチンポを一本、一本、裸足で踏み潰し・・・って、え?もういいって?そんな話はよせ?
では、彼らのタマを、一つずつ蹴り上げ、蹴り飛ばしましてぇ・・・ってもうええか(笑)

こんな朝の6時半に俺は何を書いとるんだ。
こんなことを書き始めたのも、映画「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」という鬱になる映画と巷で話題の映画を二作続けて観てしまったせいです。

あなたもよかったら是非、この二作を続けて観てみて、「おまえのチンポを蹴り上げたりましょうか~」という気持ちになるのかどうか、試してみてください。

なんでかというと、男たちの性欲があの場になければ、彼女たちは全く違う人生を歩んでいたという映画でもあるからです。

この「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」二作品には、両方とも少女に対する売春(人身売買)、レイプ、自○というものが描かれています。






「リリィ・シュシュのすべて」岩井俊二監督(2001)

















観たのはもう何度目かも憶えていませんが、今回はそれほど観終わっても、落ち込まず、むしろスカッとしたような気さえしました。
岩井俊二監督の最高傑作と言って良いでしょう。
監督がこの映画を撮ったのが36,7歳の頃だと知って、自分くらいの年でこの映画を撮ったのかぁと想うと、なんと若々しい感性なのかと唸らされました。
彼が遺作にしたいと言った納得させられる傑作です。
36年生きてるとね、14歳やそこらの子供たちに対して、罪だの醜いだの汚いだのと議論をすること自体が可笑しいと想えてくるもんです。
これは馬鹿にしているんではなく、むしろ尊敬に値する天使のような純真な存在たちであるのだとわたしは想うようになってきましたね。
彼らが何を大人の真似をした口を利き、誰を虐め、誰に危害を与えようとも、彼らは罪なき存在たちなんです。

少年犯罪、いじめ、なんで起こるのかはすべて、大人の責任なんです。
全部、彼らを育てる大人が原因にあるということです。

夜回り先生の水谷修氏は彼らは25歳まで少年であるから少年法で護られるべきだと断言しましたが、いやいや、30歳を過ぎるまで、全員が子供ですよ。
純粋で仕方ない存在です。
彼らは皆、少年です。成人と同等に罰されるべきではない。
もし少年を罰するというのならば、その周りの関わってきた大人も罰さないでは理不尽な話なんですよ。

映画の話に戻りますけれどもぉ、この映画は別にリアルだから傑作なわけではないんです。
この映画って、少年らが何をやらかそうが野放しなんですよ、ほぼ。
ほったらかされているんです、彼らは皆。
だれひとり、どれほど罪悪の念を感じようが、彼らは刑罰を与えられはしていないんです。
それはなんでかとゆうと、彼らはまだ子供だからです。

これが大人なら、ほんとうにどん底を映さなければ傑作にすることができないはずなんです。
彼らが何をやっているか、彼らは盗みを働き、暴力を奮い、レイプし、果ては○○してしまうわけなんです。

何故この映画が鬱映画、観なければ良かった映画、救いが皆無の映画と言われながらも同時にあまりにも美しい傑作だと評価されているのか。

それは彼らが、少年たちだから、ただそれだけだからなんです。
これが30歳を過ぎた男女たちが繰り広げていたなら、もう、どれほどドヴュッシーのピアノ曲をガンガンにかけて、足利市の美しい風景をバックにしたところで、どんろどんろの泥溜めみたいな映画になるはずですよ。

何が言いたいのかと言いますと、彼らは何をやっても、赦されてしまう世界をこの映画は描き、その世界を監督は創りあげたかったのではないか~?と今の今想ったということなんです。

全部、即興で、自動書記状態でレビューをほぼ書いてますからね。今の今、わたしはそう想ったんです。

何事も赦されてしまう世界、そう、その世界はまるで、楽園と言える地獄、地獄と言える楽園と言えるのではないだろうか。

沖縄のシーンも、楽園みたいな地獄で、地獄みたいな楽園じゃないですか。
あのダツっていう魚、夜の海に光を向けると飛んでくるってもっと早くゆうてくれよって話じゃないですか。
あんな魚飛んできたらどんなパラダイスも一瞬にしてゲヘナみたいな場所と化すじゃないですか。
監督はきっと、そういう世界を撮りたかったのではないだろうか。

そういうことだので、もう朝の8時か、次はお待ちさせまして、「リリア 4-ever」のレビューのほうに参りましょうか。
『リリア 4-ever』(リリア フォーエバー、原題:Lilja 4-ever)2002年公開のスウェーデン映画です。




「Lilya 4 Ever」ルーカス・ムーディソン監督








この映画は非常に残念なのですが、日本の劇場未公開作品であり、日本語字幕のDVD化もされておりません。
ですのでわたしは動画をネットで探して、英語の字幕を自動翻訳して観ました。

この映画の色合いと美術的なものや子供の着ている服など、わたしはちょうど最近Lise Sarfati (リーズ・サルファティ)という写真家を知って、何枚か好きな写真をPinterestに載せたのです。
このリーズ・サルファティの写真とよく似ているように想い、わぁ、あの世界が映画で観れる?!と想って、しかも重い映画と評価されていたので重く苦しいものがほんとうに好きなわたしはとても期待して観ました。
これがリーズ・サルファティの写真です。映画は舞台が旧ソ連、この写真は1992,1993年辺りのモスクワとなっています。



















結構似ていると想われませんか?


良かったらyoutubeにも検索すれば映画がありますので、序盤の当時14歳かそこらのオクサナ・アキンシナが演じる母との別れのシーンだけでも、大変素晴らしいので観て頂きたいものです。
始まり方が面白くて、ニンフォマニアックの始まり方みたいなうるさい音楽(笑)で始まるのですが、ここら辺が何か東欧映画(勝手なイメージ・・・)っぽい味を出しているなぁと想って好きです。

この少女リリアは設定は16歳ですが、演じているオクサナは14歳とかなので、どうしても14歳の少女として観てしまいます。
人身売買というものが、当時だけではなく、現在でも行なわれ続けているロシアの町(途中からスウェーデンに移りますが)、それは先ほど載せたリーズ・サルファティの写真を観ても窺い知れるものではないでしょうか。
子供たちがきっと凍えるような寒さのなか、トンネルの中のような場所で眠っています。
貧しさの隣には何があるかというと、そこには大人だけでなく子供たちの売春があり、また臓器売買などの取引きも行なわれているであろうことは容易に感じ取れます。
貧しさのなかで、力も知恵も大人のようにない子供たちは商品とされてゆくのです。
それは女性という存在もそうです。男性に対して、女性は力が弱く、彼女たちは弱者です。

わたしはレイプと呼んでもいいのかもしれない経験はしたことがあります。
当時22歳だったわたしは父を亡くしたばかりで、すべてに自棄になり危険も顧みず、サイトで知り合った男性の家に一緒に行って、処女だったわたしは、あまりの痛さに必死に拒んだのですが、相手は力任せに行なおうとして最後にはキレてわたしの脚を叩きました。
まだ処女膜も破れていないわたしは涙を流しながら開いた股がぷるぷる震えたまま閉じることさえできませんでした。
それがわたしの、初めての男性の経験です。
その男性は27歳で若くイケメンでしたし(笑)、繊細な感受性の持ち主だったので、まだ心の傷は癒えるのが早かったかもしれません。
もし、レイプの相手がこの映画のなかに何度か登場する何人もの野蛮な野豚みたいな中年男性だった場合、その傷は癒えるのは、かなり遅かったのかもしれません。

でもどんなに若くてタイプな男性だったとしても、レイプをされたり、暴力を奮われたら、女性の傷口というものはそうは閉じるものではないですよ。
それは力の差より、女性は男性に対して、多くが優しさを求めているからです。
わたしも昔から男性からの暴力的なものは普通に経験してきたので、男性からの暴力に対して、酷く恐怖している面を持っています。

わたしの人生に男性からの暴力がなかったなら、わたしは今働いているのかもしれません。

強要される売春がなかったなら、彼女たちはいま普通に生活をしているのかもしれない。

でもわたしは、今のこの生活を本当にありがたく想っています。
彼らの暴力がなければ、手に入らなかった、この自由な生活を。

男性たちに、最早なにも望みません。
わたしたちはあの日を境に、男性に対する幻想はすべて滅び尽くしたからです。
わたしたち女が望むもの、それは、キリスト・イエス、その愛、それのみです。





















映画「ダラス・バイヤーズクラブ」人生は一度きりだけど、他人のも生きてみたい。

2017-07-28 06:59:29 | 映画






2013年のジャン=マルク・ヴァレ監督の『ダラス・バイヤーズクラブ』(Dallas Buyers Club)という映画を昨夜観た。
書いていたらもう朝の10時になってしまった・・・



解説

1980年代当時無認可だったHIV代替治療薬を密輸販売し、アメリカのHIV患者が特効薬を手にできるよう奔走した実在のカウボーイの半生を映画化した人間ドラマ。

HIV陽性と診断されたカウボーイを『マジック・マイク』などのマシュー・マコノヒーが演じ、21キロも減量しエイズ患者という難役に挑んだ。

『チャプター27』などのジャレッド・レトー、『JUNO/ジュノ』などのジェニファー・ガーナーが共演。
監督を『ヴィクトリア女王 世紀の愛』のジャン=マルク・ヴァレが務める。



あらすじ

1985年ダラス、電気技師でロデオカウボーイのロン・ウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)は、お酒やドラッグや奔放な女遊びに明け暮れた生活を送っていたが、ある日倒れて運ばれた病院先でHIV陽性であったとの診断を受け、余命は30日だと言い渡される。






主演のマシュー・マコノヒーという俳優は知らなかったのですが、泣きながら笑っているようなワンシーンの写真を観て、これは良さそうな映画だなと想い観ました。

始まりのシーンから、この人の表情に一気に魅せられてしまいました。
セックスシーンなんですが、とても苦しそうな表情をしていて、本当に色っぽいのです。
ロンを演じたマシュー・マコノヒーが44歳くらいのときの映画のようですが、50代末くらいにも見えます。


この映画を期に、改めてHIV・エイズについてすこし調べました。


HIVとは、Human Immunodeficiency Virus(ヒト免疫不全ウイルス)のことで、ヒトの体をさまざまな細菌、カビやウイルスなどの病原体から守る(このことを"免疫"といいます)のに大変重要な細胞である、Tリンパ球やマクロファージ(CD4陽性細胞)などに感染するウイルスです。
HIVは大きく分けて、HIV1型とHIV2型があります。



HIVがTリンパ球やマクロファージ(CD4陽性細胞)などに感染した結果、これらの細胞の中でHIVが増殖します。
このため、免疫に大切なこれらの細胞が体の中から徐々に減っていき、普段は感染しない病原体にも感染しやすくなり、さまざまな病気を発症します。
この病気の状態をエイズ(AIDS:Acquired Immuno-Deficiency Syndrome、後天性免疫不全症候群)と言います。
代表的な23の疾患が決められており、これらを発症した時点でエイズと診断されます。



となっていますし、HIV感染からエイズ発症までは10年以上かかる人もいる為、HIV陽性と診断されて余命30日と医者から言い渡されるのはおかしいはずなのですが・・・当時の医学ではそんなこともまだわかっていなかったのでしょうか。











突然、HIV陽性で余命は30日だと医者から言い渡されロンは自分の偏った知識から、自分は罹るはずはない、嘘であると信じようとするのですが、もうこのときにはたぶんエイズを発症していて、日に日に身体の異変を感じてロンはエイズに関しての知識を自分で調べてゆくと、そこには感染原因の項目に自分のこれまでの行動が該当していることを知り、絶望します。




これ以上はちょっとネタバレになりますので、気になった方は是非御覧ください。
わたしの好きな映画のBEST10以内に入れたいほどの素晴らしい映画です。

とにかくマシュー・マコノヒーの演技と表情が素晴らしく、実はうちの亡き父と結構そっくりな表情に観えてしまうところが幾つもありました。











一番好きなシーンです。













上のこの写真なんか特にロンのこのときの表情は、うちの父の、最期に目にした表情によく似ているのです。。。
うちのお父さんはよくクリント・イーストウッドに似ているとみんなで言ってましたが、
たぶんこの表情は他の誰よりも似ているように想えます。











あんまり苦しすぎて泣きながら笑ってしまう人間の悲しく美しい心理を素晴らしく表現している本当に感動するシーンです。
お父さんに見えて仕方ないので、何度も観るのもつらいのですが、こんなに美しい表情をする人はそうはいないので、是非多くの人に観てもらいたいなと想います。













横顔までお父さんに似ているような気がしてきます。












そしてこのスーパーのシーンも大好きです。
わたしもロンの着ているようなちょうどこんな緑と白のストライプ模様のシャツを持っています。
当時のカウボーイファッションを基にしているデザインだったのでしょうか。
似合ってますよね。
うちのお父さんは髭はこんな風に伸ばしてはいませんでしたが、眼鏡の形がちょっと似ているように想えます。
そしてこのときの表情もすごく父に似ているんですよね。
お父さんも性格は短気で怒ると結構怖い人だったので、外では特にこういう険しい顔をいつもしていました。
頬のこけ方も痩せ方も本当にそっくりです。吃驚するほどです。
病気になる前からこれくらいは痩せていたように感じます。
若いときの写真でもかなり痩せていましたが、至って健康的な父でした。











ジャレッド・レトーが演じるレイヨンもとても傷つきやすく繊細なトランスジェンダーの役を上手く演じていて良かったです。
ロンに対するほのかな恋心を隠していたのかどうか?気になるところです。
この振り向いた感じが凄く綺麗です。













蝶の幼虫からHIVに対する抗体となる薬を作れるという話から、それを採取するために確か育てているシーンです。
とても現実的なところから急に幻想的になる好きなシーンです。






















そしてこのシーンも大好きです。
「普通の生活に憧れた?」
とロンが病院で知り合って親しくなっていった女医のイブに向かって尋ねるシーンです。
イブは「そんなのある?」と訊き返します。
ロンは「多分な」と言って、「ただ俺が欲しいのは・・・」
と幾つかもともとの生活で得ていたものを挙げたあとに、最後に
「子供も欲しい」と応えます。そして
「人生は一度きりだけど、他人のも生きてみたい」
とそうロンは言います。

ここもすごく感動的なシーンです。
自堕落な生活を送っていても、ロンは生きることに自棄になっていたわけではないことがわかります。
ロンはずっと生きることが苦しかった人なのかもしれません。
その苦しみをどうにか紛らわすためのお酒とドラッグとセックスであったのかもしれない。
自堕落な暮らしを心から楽しんでいたというよりも、心のどこかで離れたいと想っていたのかもしれないなと想ったのです。
だから最後に一番欲しいものを挙げたんじゃないか、と感じました。
だって今までの乱れきった生活と子供を両立させることはできないことくらいロンもわかっていたはずです。

ロンは普通の生活の喜びをまだ知らなかったんだと想うのです。
子供を持って、親になるという人生をロンは一番に望んだのではないか。





現在は費用の問題や、まだまだ二次感染のリスクがゼロではないHIV感染者の生殖問題ですが、HIV感染者の生殖補助医療も年々進歩している。と書かれているので、子供を持つという夢を諦める必要は現代ではないですね。
子供が生まれるということにリスクの無い方法はないからです。



本当に愛している人がHIV感染者であったなら、同じ病気に罹って死ねることは幸せなことのように感じます。



観終わって、悲しいという気持ちではない涙が流れました。
悲しみを超えた感動の涙です。
でもやっぱり、ロンが最愛の父にとても似てるからわたしにとって傑作なのかもしれません。






























映画「トレインスポッティング」普通の人々から離れて手に入れたモノとは

2017-07-27 18:42:39 | 映画




1996年のダニー・ボイル監督の映画「トレインスポッティング(Trainspotting)」を多分20年振りに昨晩観た。
20年前の1997年時、自分は16歳とかである。








兄がこの映画のLD(レーザーディスク)を買って、兄と一緒に脂汗をたらたら垂らしながら観た記憶がある。
サントラが好きで兄が持ってたのをこっそりとよく聴いていた。








当時はディカプリオの「バスケットボール・ダイアリーズ」やジュリエット・ルイスの出演している「ストレンジ・デイズ」などのドラッグ系洋画を兄とよく一緒に観ていたため自分もドラッグを扱った映画は当時から好きであった。









この映画も兄と一緒に観た懐かしい大切な映画であり、またかっこよくて洗練された一つの自分のなかでの重要な映画として位置していたものの今まで繰り返し観ることはしなかった映画である。










他の映画とは違う複雑な重い後味を自分のなかに残していた映画だったからかもしれない。
あんまりこれまで観たいと想えなかったのである。










それが昨晩ようやく20年振りの二度目に観て、非常にしみじみとした複雑な後味を残している。
なんでかとゆうと、この映画はドラッグを主点に置いた映画というよりも、1980年代に失業保険で暮らす労働者階級の若者たちがドラッグの快楽に逃げるように溺れながらも「普通に暮らす人々」を嘲笑い、嫌悪し、皮肉たっぷりに終る映画だからである。










よう考えたら、その「普通に暮らす人々」って自分の親や姉兄じゃん、ということがわかって非常にやりきれなさを残す映画なのである。
うちの父親も趣味と言えば釣りや映画音楽を聴いたりテレビで時代劇や洋画を観たり、川や池の魚を飼育するくらいの平凡な普通の人であった。
映画のなかで皮肉を言われている日曜大工を楽しんだり、車を大事にして休みは家族で出掛けることを楽しみとする人であった。











姉や兄たちも今ではちゃんと働く人であって、働かないと決めた〈ならず者〉の自分とは違う暮らしを頑張って生きている普通の人たちである。
でも当時は、兄も21歳とかでバイトをしながらロックバンドをやっていて、夢はバンドで生きていくような「普通の人々」とは違う生き方を心から望んでいる人だった。
でも兄はその夢は叶わず、今ではブラック企業で身を削るようにして働いている。
平均睡眠時間は3時間だと言っていた。











こんな暮らしをする人々が世界中にごまんと居る。
そんなきれぎれな生活を送る人にも本当はドラッグが必要なことがわかる。
それぐらい苦しい生活がそこにはあるということだ。










自分の親も姉兄自分も全員が学歴の無い労働者階級の人間である。
上の兄の下の息子は中学は不登校気味でヤンキーらとつるんでいたが、卒業して友人繋がりですぐに土木作業会社に勤めて仕事を真夏も真冬も真面目に頑張っている。
ドラッグや酒の方向に進んでもおかしくはなかったのに、そうはならなかったことにほっとする。
もし、若いうちからドラッグや酒に進んでいたなら、その後立ち直れず破滅してゆく可能性は高かっただろう。









自分の場合が、立ち直れない人間である。
お酒を手放すことが出来ない人間である。
このまま破滅してゆく未来は恐ろしいほどに近づいていると感じる。









ドラッグを目のまえに今置かれてもやる気はさらさらないが、しかしこれから病気などの本格的な苦しみが遣ってきたなら、ドラッグの力を借りたいと想うものかもしれない。
家族や恋人や友人が居たなら乗り越えられるものかもしれないが、自分には姉と兄以外は誰も居ない。
姉や兄に病が苦しいからと言って四六時中付き添ってもらうことなどできない。
病とは独りで闘うしかない。

普通に暮らせている人間だったなら、きっと恋人や夫や子供が傍にいてくれたんだろう。
でも自分にはそんな人間はいない。
世界をニヒルな眼差しで眺めて「闇が深い」と会う人会う人に言われているような自分の傍にいたいと言う人間はどこかにいるのか?

ユアン・マクレガー演じるレントンはラストで普通に生きる人々に唾を吐くような形で成功した人間の如くに映画は終るが、レントンの行く末は、わたしではないのか?と想わないではおれない。
自分は確かに普通に生きていくのは耐えられないし、普通の生活には満足できない人間だと感じる。
でも同時にこの生活にもまさか満足などできるはずもない。
人の税金でお酒を飲んで、嫌なことは何一つしない。
それに満足できる日は、もう発狂してしまった日だろう。
もう戻れないかもしれない。人間には。
トキソプラズマ症で死んだケヴィン・マクキッド演じるトミーの最期が自分や兄に重なって仕方ない。
なんで兄にも重なるのかというと、兄の暮らす実家は今や猫11匹の暮らす猫屋敷と化しているからだ。
うちはゴミ屋敷てな感じである。
片付けたり掃除をする気力が兄にも自分にもない。
おまけに独り暮らしである。
誰も助けてくれない。
生きていくだけで精一杯だと言えば自分の場合は罵られるかもしれないが、実際、廊下に落ちている髪の毛を一本拾うことすらしんどさを感じる。

レントンの行く末はやはり自分ではないか?
ドラッグは後遺症で鬱病を発する。
わたしのように便座カバーを半年以上変えなくても平気でいられてしまうような生活をレントンも送るのではないか?
不衛生で病気になるとわかっていても便座カバー一つ変えるのが酷く億劫な暮らしがレントンにも待っているのではないのか?

人の金で手にしたモノとは、一体なんだったのだろう?
わたしの場合は、今のこの自堕落極まりない引籠もりの暮らしである。

ドラッグを遣っていたなら、もう少し早く死ねるのかもしれない?
酒というドラッグでも十分早くに死ねるだろう。

一体どうすればいい?レントンの未来がそう自分に悲痛な声で訴えかけてくる。
一体俺たちはどうすればいい?
このまま死ぬのかな?
誰一人、信じることもできないまま。

嫌だなぁ。そんなのって。
「俺だって普通に生きたかった」
そうつい呟いてしまうレントンの将来がわたしには垣間見えて仕方なくなる。

しかしそんな未来を選んだのは、確かに自分なんだろう。



















映画「拘束のドローイング9」もののあわれと悲痛の愛

2017-04-25 03:42:26 | 映画
ではBjörk「Black Lake」その拘束の愛は、いまも子宮のなかに。に続いて、さっき観たビョークのその別れてしまったパートナーである現代美術家のマシュー・バーニーが監督を果たし二人が共演した 2005年のカルト映画『拘束のドローイング9』を紹介したいと想います。

マシュー・バーニー Matthew Barney 「拘束のドローイング」「クレマスター」から観る独自の現代美術感覚

「拘束のドローイング」(The Drawing Restraint )といわれるシリーズも1980年代から続いている連作と言われ、最新の「拘束のドローイング9」は日本の捕鯨船をテーマにしており、世界に先駆けて日本の金沢21世紀美術館で初公開されました。



世紀のアーティストカップルが紡ぐ愛の神話

21世紀の現代美術シーンにおいて世界的にも突出した存在、マシュー・バーニー。
2002年、『クレマスター・サイクル』で圧倒的な賞賛を浴びたバーニーは、
実生活のパートナーであるミュージシャンのビョークとともに繰り広げた
愛の「変容」をめぐる最新作『拘束のドローイング9』







Drawing Restraint 9 (Full Movie)








現代美術とかほとんど触れることができていないので、期待して観たのですが、結構前半はだれてしまいました。
でも後半からとても観せます・・・
あえて言っときますが、かなりグロテスクなシーンが重要なところに入っています。

先に詳しい内容が知りたい方は拘束のドローイング9こちらの方のブログをご覧ください。

非常に、私には血の気がさーっと引くくらいの観ることが苦行かと想えるほどのきっついシーンがあったのですが、それでも、観終わった後はも、たまらんな、っていうくらいの美しい映画でした。

また二人が悲しい別れ方をしたあとに観たので余計に来るものがありましたね。なんて悲しいお話なのかなと。












も、たまらんな、っていうくらいエロティックでもの哀しくてやばいシーンです。観てるのがほんまきっつかったっす。







美しい、さすがビョークを変えてしまった男マシュー・バーニーです。映画を観るというより、美術作品として鑑賞しました。




ここからネタバレになります。





この話は何をテーマにしたかというのを私なりの感想を言います。
この映画は、捕鯨船に乗る人間たちによって、無念にも解体されてゆく”鯨たち”の悲痛な哀しみを表現しているんだと想いました。



2005年に発表された「拘束のドローイング9」(MATTHEW BARNEY DRAWING RESTRAINT 9)の面白いところは、いち早く日本の捕鯨船をテーマにした映像作品であるのですが、捕鯨や日本の食文化に関して否定的ではなく、むしろ肯定的であるところも興味深いです。
マシュー・バーニーは日本の捕鯨という、「巨大な生物を捕獲する為の閉鎖された文化のある船」という部分に注目してアート作品を作り上げており、日本の捕鯨文化そのものが後にアメリカから攻撃される対象になっているとは皮肉なものです。




と書かれているので、マシュー・バーニーは決して非難の想いで映画を撮ったわけではないのですが、テーマは間違いなく「鯨たちのかなしみ」だと想います。
芸術作品は善悪を超えねば昇華できませんので、否定ではないんだけれども、この映画は観る人によっては大変苦しい映画になるのではないでしょうか。

ビョークとマシュー演じるのはこれから婚儀を挙げようとする夫婦の役なんですね。
そのめでたいはずの二人がとんでもないことになってゆく。

わたしは観終わって想いました。愛し合う二頭の鯨たちが、捕鯨船に捕まってしまい、解体されて人間たちに食べられてしまいました。
その二頭の鯨たちの魂が、無念のあまりに人間の姿をとって、婚儀を挙げようとしたのです。
が、それでも忘れられない無念さを、互いに解体し合ってその互いの肉を食べ合うことによって納得しようとしたのではないかと。
そこには「わたしたちは他者に解体されて食べられたくはなかった」という鯨たちの叫びが聴こえてくるようです。

なんて悲しい夫婦なのか。涙が出そうにもなりましたが、そういう悲しみよりも、”悲痛”なんですよね。

この映画を観終わったあとに良かったらBjörk「Black Lake」を聴いてみてください。
その悲痛が繋がっている気がします。




追記:4月26日
一日が経ってもう一度観ました。二回目だからか、お酒を入れていたからか大分楽に観れました・・・。

二回目には、また新たなる発想が浮かびました。
日新丸は捕鯨母船であると同時に、一頭の鯨として表現しているのではないかと想ったのです。
日新丸が、別の船から深い傷を負わされた過去がある、そしてもっと深い傷はその前に・・・という話を裏千家の大島宗翠がふたりに話しているシーンがありましたね。
日新丸の受けた傷と、鯨が日新丸から受けた傷を重ねて表現しているのではないでしょうか。

そしてふたりが婚礼衣装を着させられるときに、変な濡らした白く長細い帯を最初に着けられますが、あれって臍の緒なんじゃないかと想いました。
ということはふたりは母鯨のなかにいた二頭の子鯨ということになります。
スピリチュアルでいうとツインソウルみたいな、そんな深い繋がりのある二人を表現しようとしているように見えます。
そう想うとBjörk「Black Lake」の出だしの歌詞
「私たちの愛は子宮だった
だけど私たちを繋いでいた拘束は壊れてしまった」
という部分も、やっぱりふたりは一つの子宮のような深い愛に繋がれた存在だったということを表しているように想えてきます。

なぜビョークとマシューは実物の鯨を一度たりとも出さなかったのでしょう。
芸術作品に実物を出すとよくないというのはわかりますが、互いにその肉を食べ合うあの肉さえも、あれは真っ赤な鯨肉ではなくて白い鮪か何かの肉のようでした。彼らは実は捕鯨に対してひそかに哀しんでいるのでしょうか・・・。

自分は鯨の肉は食べたことがありませんが鯨の油は化粧品などにも使われているようです。
捕鯨に反対される方は化粧品などの成分もチェックしたほうが良いですね。化粧品や洗剤なども結構動物性油脂が使われています。


ものすごく、奥の深い悲しい映画だなと感じさせられて、この映画を元にちょっとさっき書いたのでよかったら読んでみてください。
いさな







レオナルド・ディカプリオ財団提供短編映画集「GREEN WORLD RISING」

2017-03-23 07:20:14 | 映画

レオナルド・デカプリオ財団提供短編映画集「GREEN WORLD RISING」シリーズを公開


グリーン・ワールド・ライジング(Green World Rising)は、気候変動の危機を明らかにすると共に解決方法を提示する短編映画シリーズです。




ラスト・アワーズ ― Green World Risingシリーズ






学者たちは地球は六度目の大量絶滅期に突入しており、滅亡的な絶滅はこの先何世紀のあいだか、もしくは”何年か先”のあいだに来るかもしれないと言っています。
学者たちの深刻そうな顔を見ると、本当に地球はやばいところに突入しているのだなと感じてちょっと落ち込んでもしまいますが・・・
でもまだ地球が滅亡すると決まっているわけではありません。

わたしは食い留めることができるのではないかという願いがあるので、地球は滅亡を食い留めることができる未来をわたしは観ています。
でもそのためには、人類は今すぐにでも”移行”せざるをえない習慣がいくつもあるだろうと思っています。
ひとつは、人類は滅亡を逃れるためには”肉食”をつづけていくことは、もはや不可能です。
それは”畜産業”の環境破壊があまりに酷く、持続可能なものではもうないからです。

詳しくはレオナルド・ディカプリオが製作総指揮を務めたドキュメンタリー映画「カウスピラシー(Cowspiracy)」をご覧になってください。
vimeoとyoutubeで無料で全編観れます。https://vimeo.com/141652252
https://youtu.be/JTcprWbo9N8?list=PLP2aDn3ibiOJ8YUb1kuCW1Kvvtd8k79-1

(追記:残念ながら動画のカウスピラシーは削除されてしまいましたのでNetfilixのURLを貼り付けます。)

Cowspiracy: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密



地球が滅亡して欲しい人は、そう多くはないはずです。
しかし皮肉なことに、地球が滅亡して欲しくないと願いながら生きる多くの人が地球滅亡に大きく貢献して生活しています。

自分はもう、顔を洗うということをやめました。
水不足が深刻なこの時代において、顔を洗う水がもったいないからです。
なので一日に一回か二回化粧水をスプレーで顔に吹きかけてコットンで拭き取るだけにしました。
これが大変らくちんで、素晴らしい習慣の移行です。
しかも顔を洗っていたときのほうが皮脂を落としすぎて肌が荒れていたのです。

頭は天然ヘナをお湯に溶いて手作りシャンプーを作って、それで4日か5日に一度洗う以外はお湯洗いだけで、それまで頭が臭くなってたのがヘナで洗うようにしてから臭くなくなりました。

あとはヤシ油生産のための森林破壊が大変問題であると知ったので最近からパーム油(ヤシ油)を使っている製品を買わないようにしています。ほとんどの洗剤や加工食品に入ってるんですよ・・・
お皿洗いは洗剤のいらないスポンジと重曹で、洗濯はアルカリウォッシュで済ませます。


そうなんです。当たり前と思っていた習慣が別に何も当たり前に必要ではないことばかりだったのです。
肉食も当たり前なことではまったくありませんでした。
むしろ肉食と乳製品と卵をやめることでわたしは頭痛と生理痛と胸の良性のしこりの痛みから解放されたのです。
人類は”当たり前”のことを見直す時期に来ています。

わたしはたぶん、あと遅くとも20年以内には、人類は”菜食”であることが当たり前の時代が来ていると想っています。


映画「ピアノ・レッスン」人間の情熱は、必ず身勝手なものである。

2017-03-21 00:59:44 | 映画
ジェーン・カンピオン監督の1993年の映画『ピアノ・レッスン(原題:The Piano)』をやっとこさ鑑賞しました。













これは映画を知らない人でも音楽を聴けば聴いたことのある人は多いのではなかろうか。



Michael Nyman - The heart asks pleasure first





自分は当時これのサントラの音楽がしょっちゅうテレビのCMで流れていたのを聴いて(当時13歳くらいだったと想う)すごくいい音楽だと想って誰の音楽か知りたかったのだが、いったい誰の音楽なのかわからずじまいだった。
それで何年か前にこの「ピアノ・レッスン」という映画のサントラ曲であることを知ってとても嬉しくてサントラを聴いていた。
それでやっと今日観れた映画なのですが、大変良い映画であった。
「官能的」ということ以外まったく知らずに観たのだが、これほどまでに原始的で官能的な映画だとは想わなかった。
映像美も素晴らしく、自分好みのダークな曇り空や海と砂浜の色、そして原生林の野生の濃い土や緑の色といった自然の根源的な美がまた人間の官能美を際立たせて自分は終始うっとりとしてしまう映画であった。

”女性の求めるものがこの映画にある”、”女性の琴線に深く触れる映画”などと言われていることに大いに納得してしまう。
女性というのは男性よりもずっと野生的な存在であるのだな。
主役のホリー・ハンターが是非ともこの主演を自分が演じたいと監督に売り込んだという話もいい話ですね。
自分も女優だったらば、というか女性だったらば、一度は経験したい愛なのではなかろうか。
一度は”殺される覚悟”で人を愛したいと、多くの女性が感動して共感するものが確かにこの映画には詰まっているのでしょう。



何故、人は男も女も”理性で感情を抑えること”が美徳であるのだと言われるようになってしまったのでしょうか。
わたしはちっともそれは想いません。
むしろ男から殴られるかもしれないことも恐れず泣き叫んで感情をぶちまけている女性なんか見るとぐっと来るものがあります。
しかしこの映画の主人公エイダは口がきけないので、泣き叫ぶことができないのです。
何故そんな苦しみのなかにいる女性を”自分勝手な人間”だと人は想うのでしょう。
それは彼女の苦しみを想像もしていないからです。
だから感情を抑えず野生的に行動する人間を”自己中心的で醜い”と言うのです。
でもこの映画の主要人物はすべてが苦しんでいる者たちです。
だからこそ美しく、官能的で恍惚に溢れているのです。
理性で感情を抑えることこそ苦しく美しいと想っている人は人間の苦しみをわかっちゃいない。

ちゃいますか?
理性が美徳だとか言うのなら、肉食やめたらどうですか?
肉食こそ野蛮で暴力でよっぽど自分勝手で自己中心的な人間の行いじゃないですか。
あなたは野性性の美しさをわかっているのです。
自分の身勝手さを受け容れて(許して)いるのです。
だから肉喰うてるのです。
だから他者の野性性を醜いなんて言っちゃ、ただの棚上げです。
肯定してください。
人間の醜さなんてもの、ほんとうはどこにもないのです。
そこに苦しみがある限り、そこに哀しみがある限り、ただひたすらに美しいばかりなのです。
身勝手な人間ほど、苦しみの中に救いを求めています。
”求めること”それが美しさであり、すべての愛なのです。


映画「ハードキャンディ」 少女性愛の何が悪いのか?あなたのキャンディは異様に硬かった。

2017-03-03 09:46:08 | 映画
「ハードキャンディ」という2006年のアメリカ映画を鑑賞しました。







監督はデヴィッド・スレイド監督というものすごい良いお顔をした人です。是非俳優としても出演して欲しい。




「少女・復讐・サスペンス・赤ずきんちゃん」というキーワードだけで観たのですがこれがかなりのわたし好みの傑作な脚本で大変面白く観れました。


◆ストーリー◆


出会い系のチャットで知り合った14才の少女ヘイリーと32才のカメラマンのジェフ。
ふたりは意気投合し、会う約束をする。
ジェフはヘイリーを気に入り、ヘイリーも彼の魅力を感じた様子で彼の自宅へ行くと告げる。
しかしそこには思わぬ展開が待ち受けていた。

ヘイリー役に、かわいらしさと邪悪さを同居させて熱演したエレン・ペイジの迫力に圧倒される本作。
役者のセリフとアクションと音だけで見るものの想像力を煽り、恐怖の底に陥れる巧みな演出を見せたのはCMやミュージッククリップで活躍していたデビッド・スレイドだ。
共演は『オペラ座の怪人』のパトリック・ウィルソン。




吃驚ですね、デヴィッド・スレイド監督はわたしの大好きなエイフェックス・ツインのこのPVのディレクターを務めたお人だったのですね。


Aphex Twin Donkey Rhubarb



すごく可愛くて楽しいプロモーションビデオです。
監督の次回作にすごく期待しちゃう。








この映画はね、女の勘ですが男のための男の願望を物語にした映画ですね。
まず出だしからそのHN(ハンドルネーム)の「鞭少女」というのを見るだけで男ジェフがマゾヒズムを持っていてそれを少女ヘイリーがしっかりと読み取って利用しようとしているのがわかります。







この少女ヘイリー役のエレン・ペイジ、めちゃくちゃ可愛いですね。こういうボーイッシュでどこか田舎臭さの残る子がわたしはすごいタイプなんです。
まるでタカアンドトシのタカを少女にしたみたいな顔で是非こんな母性本能をくすぐられるまくる娘が欲しいものだ。





そして男ジェフ役のパトリック・ウィルソン、この人はどこかジュード・ロウに似ていますね。
神経質で利口そうな顔に嫌味な男前顔と嫌味なインテリさと嫌味な白い歯、よく似た雰囲気を持っています。
ジュード・ロウには前にハマりました。(前の日記ですこしジュード・ロウの記事を書いています)
このパトリック・ウィルソンもわたし好みの男ですね、むかつくインテリ男でとことん虐めてやりたいなという雰囲気があります。

しかも会ってすぐに少女の唇についたチョコを指でぬぐって舐めるとか、自分の魅力に自信があってしかたないっていうところがまたいいのですが、同時にギャップ的に”でも頭の天辺がちょっと怪しい・・・”っていう”天辺ハゲ”の劣等感をきっと持ち合わせていて哀愁も漂っているかもだぜ?っていうところもまた女の母性本能をくすぐる作戦としてむしろ狡猾にも利用している男なわけですよね。







頭の部分がちょっと切れていますが絶対”禿”を利用していますねジェフは。
「俺は天辺が怪しいけどもそれでも女を満足させられる自信に満ち溢れている男です」って心の浅いところで伝えてますね、だからあえて絶対に”ハゲ”を隠したりはしない男なわけです。
そして少女ヘイリーはうぶで田舎臭い部分を見せて男の下半身をこれだけで鷲摑みできることを知っている少女です。
ものすごく賢いから男が何を求めているかきちんと嗅ぎ取っています。




観てくださいこのヘイリーの”自分は髪伸ばしたり化粧などして女を利用なんかしなくても十分あなたを落とせるだけの自信がある”と言わんばかりの愛らしい表情を。
自分が男ならまず一撃で堕ちるでしょう。養女にしたいでしょう。





ジェフのこのインテリ型の黒縁眼鏡、絶対に狙ってますよね。この形の黒縁眼鏡に弱い女の統計でも取ってるのかと思うほど何故かインテリ男のかける眼鏡はいつも同じ型です。実を言う私も実は眼鏡ふぇちなんです。もう眼鏡をかけてない男なんて、観たくもないですね。





ヘイリーの愛らしさはまったく嫌味がないのに何故ジェフの”イケヅラ”はこうも嫌味なのか?
”ハゲイケヅラ”という言葉が生まれようとでもしている?




下心が透けているイイ笑顔です。わたしは散々出会い系サイトを利用してきてあらゆる男と話して会ってきたのですぐにわかります。この男はずばり”ソノ”ことにしか興味がない男の類です。わたしはそういう男には本気にはなりません。このインテリスマイルに堕ちちゃう女性は馬鹿ですね。
わたしならこの男をどうすれば地獄責めにしてとことん苦しめられるかを必死に考えます。







お互いにまだ何も知らない少女と男がエレベーターという狭い密室の空間に閉じ込められるというのはなんとも良いシチュエーションですね。
不安そうなヘイリーとこれから展開するであろう恍惚的な時間に興奮を抑えきれない感情をうまくジェフは出せています。






女王様の靴を跪いて舐める奴隷男という監督の願望が、気持ちの良いくらいに出ていますが、わたしが気に入ったのはこの地面の色と空の色とか、並ぶ電燈と遠くの景色の感覚とか、すごくいいなと想いますね。今まで比較的アップが多かったのにここでぐんとカメラが引くっていうのは、この二人の関係性を狭い空間に押し込めたくないという意図が感じられる。








今からジェフの部屋へ向かうのにヘイリーはすごく嫌そうな顔をしていますね。
さて、これからどのような展開がふたりに待ち受けているのでありましょう?
それは御覧になってのお楽しみです。


わたしは傑作だと想いました。
エンディング曲もわたしの好きなブロンド・レッドヘッドの曲なんかを使っていてコアな監督で素晴らしい。








映画「スマイルコレクター」と映画「somewhere」 求めているものは”ただ一つ”

2017-03-02 10:28:54 | 映画
昨夜は「スマイルコレクター(原題:LA CHAMBRE DES MORTS 死の部屋)」という2007年の映画を観て、久方の風呂入って疲れて寝てしまって朝方から今度はソフイア・コッポラ監督の「somewhere」という2010年の映画を鑑賞しました。

両方フランス映画でしたね。二つともまた偶然に親と子の物語でした。





小説の参考もかねて、最近ロリコン気味なようなので少女の出ている映画を観たくて借りましたが両方とも満足できる良い映画でした。

「スマイルコレクター」のほうはスリラー・ミステリーのジャンルになっていますがオマージュにもなっている「羊たちの沈黙」もわたしはまだ観れていなくてこういうジャンルのものはあまり観ないのですが、この映画は深く共感できてとても面白いものでした。

■ストーリー■

失業中のヴィゴとシルヴァンは、憂さ晴らしのドライブ中に、見知らぬ男を撥ねた。
その男が持っていたバッグには、200万ユーロの大金が・・・。
それは数日前に誘拐され、事件の翌朝、現場付近の廃屋で扼殺体で発見された少女の為の身代金だった。
少女の遺体には80年代に流行した、アナベル人形と同じドレスが着せられ、その口元には謎の微笑が浮かんでいた。
プロファイリングを得意とするリューシー巡査長(メラニー・ロラン)は、人手不足の為、事件の捜査に駆り出される。
リューシーは、これまでに独学で習得した知識を駆使し、ひき逃げ事件と、誘拐殺人事件の犯人像を割り出していく。
着実に犯人へと近づくリューシーだったが、その捜査過程で封じたはずの、自分の過去と事件との因縁が見え隠れし始める。
そしてまた、新たに少女が誘拐された・・・



内容は二つともまったく知らずに観ました。

ネタバレになりますが、こちらは娘と母親の映画で娘の執着的な母の死への恐怖と願望がある異常な行動に向かわせるという物語になっています。
母親を人形(腐敗もせずに死ぬことのない存在)として側へ置いておきたい娘の心情が見えて考えれば考えるほど哀しい映画だなと想いました。
また女と女の同性愛も出てきます。(またかっこいいんですよねこの相手の女性が、たぶんこんな男らしくて繊細そうな女性が側にいたら惚れてしまうのだろうなと想いました。)
この娘はたぶん父親を知らない娘だと想うのですが、その娘が父親を求めるように男に依存するのではなく、あくまで女(雌)という性に拘っているところが見所で珍しいものにも感じました。
男性というものを排除した世界に生きているわけですが、それでも恋人の女性はすごく男らしさのある女性だったりで、女性のなかにある男性性と父性を求めているんですよね。
そういう願望は自分にもあるものだと気づいていますが、女と女が一緒になっても自分の子孫を残していくことができないという絶望が幻想を見るとき、やっぱりそれは幼い少女への同化願望として現れやすいんじゃないかと想いました。
自分自身が自分の娘となって生きたいという願望ですね。
そして自分を同時に母親として幻想することで娘である自分が無償に自分自身である母親から愛されようとする心理です。
だから女である自分が年をとるほどロリコンへ走っているのが頷けます。
男への幻滅を知っていくほど女はロリコンへと走ることでしょう。
少女を自分に同化してその少女を自分の娘時代として愛していくことが幸せなことだと気づくわけです。
男はどうしたって、生物的な本能で浮気をしやすい生き物です。
いつかは自分を見棄てていくという不安を親の愛を男で補おうとする女はいつまでも克服できません。
親の愛情飢餓に生きる女は一生男に安心しつづけて生きることは不可能なのです。
だから誘拐するときは決まってだいたいが、女は少女を誘拐するはずです。
病んだ女ほど、少女への幻想が深いはずです。
殺してでもそばへ置いておきたいという願いは自分のなかにある親の愛の倒錯したものであって、子供を産めない女の切実な依存を伴った深い愛です。
だからこの映画がどこまでも母と娘の物語であるということが非常に哀しいなあとわたしは想って、同時に女であることの喜びとはそこにあるんだろうなと感じました。






そして先ほど観た「somewhere」はこれは父と娘の物語でありました。







ソフィア・コッポラ監督の映画は「ヴァージンスーサイズ」と「マリーアントワネット」の二つを観たことがあって二つとも好きな映画です。







ストーリー
ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ。
彼はロサンゼルスのホテル“シャトー・マーモント"を仮住まいにし、
高級車を乗り回してはパーティーで酒と女に明け暮れ、まさにセレブリティらしい華やかな生活を送っていた。
しかし、それらはいずれも孤独な彼の空虚感を紛らわすだけのものに過ぎなかった。
そんな彼のもとに前妻と同居する11歳の娘クレオが訪れる。
自堕落な日常を過ごす彼だったが、母親の突然の長期不在により、無期限でクレオの面倒を見ることになった。
やがて、映画賞の授賞式出席のためクレオと一緒にイタリアへと向かうジョニーだったが…。




若く奔放的で父親らしいところがほとんどない父親ですがそれでも娘を愛する普遍的な親の愛が伝わってくるというのはそれだけでぐっとくるものがあります。
この父親ジョニーはたぶん言ってみれば”無趣味”な男なんですよね。だからといって仕事を愛しているわけでもない。
毎晩のように”美女”たちとの肉体の快楽に耽ってもまったくその胸に広がった孤独と空虚が慰められる一瞬もないというくらいにこの男は何かに飢えきっている。
ここではない「somewhere(どこか)」をひたすら求めているが、そこへ向かうことができない。
それでも素直な娘クレオと過ごす時間が自分にとってどれくらい大切なものであるかをこの男は気づいていく。
11歳っていうとあともう少しで男の子に本気で恋をしだしたりして父親から少しずつ離れていこうとする前の貴重な時期です。
娘が本気で男では父親だけを求めようとしている最後の期間といってもいい。
限りのある”期限のある”その時間を父ジョニーは娘クレオと共にすることで、自分が喪ってしまったものがどれほど自分にとって大きなものであったかを知るのだと想いました。
だから娘が帰ってしまったあとに父ジョニーは別れた妻に電話で自分がどんな存在であるかを伝えます。
今まできっと強がってばかりいた男が自分がどれだけ弱い人間であるかを告白してラストに向かいます。

この映画もすごくいいラストでした。
母親の記憶のない自分の両親は相思相愛だと聴いていましたが、それでも母はものすごい父の性格に苦労したようです。
両親の離別というものがどれほど子供にとって哀しいもので絶望的な世界を創りあげるかは昔に「Papa told me」という榛野なな恵の漫画を読んで確か知りました。
きっとそれは聖書の創世記のエデンの園を追い出されるくらいのショックと深い悲しみなんだとわたしは想いました。
両親が仲良く幸せなことが子供の絶対的な幸せと安心を創りあげていて、それを失う子供というのは神と楽園(居場所)を喪うくらいのどうしようもない苦しみで哀しみであるのだと。
それがこの映画でもすごく伝わってきました。
なのに娘はそんなそぶりも見せずにけなげに毎日を元気に生きようとしているっていうのがまた泣かせますね。
「パパにはこうあってほしい」っていうのは絶対娘はあるのですが、それを口にできないのは父親への尊敬の深さと、父は自分のものではもうないんだっていう諦めがあるからだと想いました。
その分ママにはなんでも言えるような関係であってほしいと想うのですが、きっと子供は自分と離れていったと感じるほど親には言いたいことを言えなくなるんじゃないかな。
パパがいなくなって、ママもいなくなることをものすごく恐怖しているのにそれに耐えて笑ったりしている子供ってほんとうにけなげなものですね。
子供って素直だから癒されるけれど、そうやってたくさんのことを我慢して笑っているからその強さにも親は癒されて慰められるんだろうなと感じます。
娘クレオがいちばんに求めるのはママとパパと自分の三人で暮らす幸せな時間が帰って来ることなのですが、父ジョニーの求めていた「somewhere(どこか)」もやっぱりおんなじものだったんだって気づいたことでジョニーはやっと精神の状態が変わることができるんですね。

ソフィア・コッポラ監督の父親フランシス・フォード・コッポラ監督との関係の濃さと切ない情感を垣間見れた感じがします。


前者の「スマイルコレクター」は”美しい破滅”を描き、後者の「somewhere」は”ひとつの進展”の姿を描いていますがどちらの物語が劣ってどちらが優れているわけでもないという、そこにある人生(物語)の価値はまったく同じ重さなんだと感じました。
破滅も進展もどちらも同じほど人を感動させられるものです。
もっとも”進展”のほうはまだその人間の人生の完結には至っていませんが、物語としては完結なんですよね。
だからこそ”物語”は人を感動させられるものなんだと想います。












映画「エコール」の謎を解く。本当のダークでディープなものとは何か。

2017-02-25 22:50:12 | 映画
『エコール』(原題:Innocence、邦題:École)という19世紀の作家フランク・ヴェデキントの短編小説を基にした2004年の映画を観た。






監督はフランスのルシール・アザリロヴィック監督、女性ですね。

【ストーリー】
高い塀で下界を遮断された森の中の学校、エコール。
6歳から12歳までの少女たちが自然の生態やダンスを学んでいる。
髪には学年を区別する7色のリボン。
かわいらしい制服は清楚な白。
深い森と青い空を映す湖の前で、妖精のように戯れる少女たち。
男性のいない完璧な世界にまた一人、6歳の少女イリスがやってきた…。
彼女たちは卒業まで外と接することなく、7年間学校の中で過ごす。
卒業のとき、彼女たちの胸に去来するのは、開放の喜びなのか、新しい世界への恐怖なのか?少女たちは一体どこへ行くのだろうか…。

2004年 ベルギー/フランス/イギリス合作










この映画はずっと前から気になってたのですがようやく観れました。
わたしは一応女なのですがここ何年か前からどうもロリコンの気(け)が出てきてしまったみたいでここ最近特に少年よりも少女が可愛く想えて仕方ないのでこの映画は幻想的な映画というのもあって期待して観ました。

非常に謎深い映画なのですがわたしはこの映画の謎を多分解いてしまいました。

なぜ、なにゆえに少女たちは7年間もの期間を塀で囲まれた森の奥地の学校に軟禁されているのか?
しかもなにゆえに学校には異性という男の存在が誰一人とていないのか。
解きました。その秘密を。
それはこの少女たちをここに連れてきてここで教育させている人物が、この少女たちを引き取る存在たちだからです。
その人物たちはどうしても自分の連れてきた少女に13歳(初潮を迎えるくらいの時期)までの7年もの期間絶対に、異性と会わせたくないという明確なる願望のある人物であるはずです。
だからこの外界から離された森の奥にある寄宿舎では召使や教師そのすべてを女性に任せているのです。
では少女たちを連れてこさせる人物はなぜ、あえて自分で軟禁はせずにこの学校へ連れてくるのか。
それは、自分と少女は7年もの間離れる必要のある人間だということです。

何故、離れる必要があるのか?
それは、最低7年間ほどは離れないと少女とは一緒になれない人間だからではないだろうか?
”一緒になる”とはつまり、男と女として一緒になるということ、夫婦的な関係になるということで、少女に自分の子どもを産ませる必要がある人間ではないでしょうか。
最低7年間は離れないと少女とは一緒になれない関係にある人間とは、すなわち禁じられた関係にある人間ではないか?
7年間も離れていたらば少女は自分のことをもうほとんど忘れてしまってるかもしれない。
否、憶えていたとしても7年間離れていたなら、自分を夫として観てくれるかもしれないと期待する男、それはいったい誰かと言うと。
それってもしかして、少女の父親ではないのでしょうか?
我が娘を自分だけのものにしておきたいという偏愛の著しい父親たちが自分の娘を将来の妻として迎え、自分の子どもを産ませようと企んでいるため、娘を外界から離してさらに異性と離すことで異性への幻想を最大に膨らませ、踊りを観客に観せることで自分を迎え入れる男性への夢を抱かせつづけるために、大事な大事な娘を森の奥の寄宿舎へ預けるわけです。

勿論、父親は自分の娘の踊りをいつも楽しみに観に来てることでしょう。
娘を預ける父親はみな妻のいない父親のはずです。
そして一人娘以外には自分の子どもがおらず、自分の身内もいないような孤独な人間であるのかもしれません。
だから父親は娘が成長して自分のもとから巣立っていけばひとりぽっちになることを恐れたために娘を預けて我が将来の妻として迎え入れようと想ったのでしょう。
そうでなかったのなら、もしパトロンの将来の性奴隷(少女性愛者のための娼婦)のための養育とでもいうのなら、なんのために6歳から13歳というロリコン好きの人間からしたら一番可愛らしくて美しい良い時期を寄宿舎へ預けてしまうかが解りません。
ただの成長した性奴隷を育成するため、またはただの変わった孤児院であったというのではあんまり面白くないではありませんか。
この映画で蝶と少女をかけているというのは解りますが、美しく羽化した蝶は果たしてまったく他人であるパトロンをそこまで愛するでしょうか。
女教師が捕らえた蝶を注意深くその羽を広げて針に刺して額に収めようとしているシーンは確かにパトロン的な存在を暗に示しているように観えますが、この映画を最も狂気の潜む美しい映画として成り立たせるにはただのパトロンでは役不足です。
やはり、ここは”近親禁忌劇”という人類の永遠のタブーを入れなくては幻想的耽美映画としては物足りなさが出てきてしまうのではなかろうか~。

だからこそ塀の外へ出れば罰を与えられると脅されていたのです。
大事な娘が逃げてしまっては大変だからです。
6歳から預けるというのも父親がぎりぎりまで愛娘と一緒におりたいという願いが見えてくるようです。
いやぁ、そう想えば想うほど悲しくも美しく儚いダークな世界を切り取った映画であります。
みずうみの底みたいにダークで、ディープな映画です。
ラスト、ごぼごぼごぼごぼっつって溺れるような音と共に水の底にいって終わりますでしょ。
あれは少女たちがこれから本当の闇に向き合う、つまり自分の父親との闇なる再会劇が待ち構えているということの示唆でありましょうな。
また天界から地上界への堕落という暗示も見えました。

という、以上、自分の願望による偏った考察&解読でした。







映画「サイレントヒル」彼らの愛は今日も霧に包まれている

2017-02-18 23:24:49 | 映画









昨日にクリストフ・ガンズ監督の2006年の映画「サイレントヒル」を観ましたが今日も観ました。
映画を続けてあくる日も観ることは滅多にないのでこの映画はそれほど素晴らしく、世界観がしっかりと出来上がっていて、また謎が残って気になって仕方なくなる映画であるからだと想いました。

前回のわたしのSILENT HILLでは映画のレビューではなく自分にとってサイレントヒルがどれだけ特別なものかということと、後半はなんでかシムズ3のショットを貼るのに一生懸命になってしまったので、今回はしっかりと映画についてのレビューと考察、自分なりの解釈を書きたいと想います。


まず映画を観る前にAmazonレビューの234件のレビューをすべて読んで、また他の方の考察、解読のページを読みました。

なるほどなぁ…という部分がたくさんありました。

具体的に書くとネタバレが満載になってしまうので、できる限りネタバレを防ぐような書き方をしたいと思います。
その前に簡単なあらすじを貼ります。



ローズとクリストファーは、娘・シャロンの夢遊病と奇妙な言動に悩んでいた。
ローズはしばしば情緒不安定に陥り、何かに取り憑かれたかのように「サイレントヒル…」と謎のうめき声を発する娘に心を痛め、サイレントヒルという街が実在することを知り手掛かりを求めてシャロンを連れてサイレントヒルへ向かう。
しかし、サイレントヒルは30年前の大火によって多数の人々が死亡した忌まわしい場所であり、今では誰も近付かない廃墟と化した街であった。
サイレントヒルに着く途中にスリップ事故を起こし、ローズが気づくと娘シャロンの姿が消えていた。
ローズは一人でシャロンを探すため、サイレントヒルの中へと入ってゆく。



娘シャロンは孤児院から引き取った養女であるのですが、その孤児院がサイレントヒルのあるウェストバージニア州にあります。
ローズの運転する車に不審を抱いた女性警官シビル巡査は白バイに乗ってローズの車を追いかけるのですが彼女も途中で事故を起こし、サイレントヒルのなかに入って行きます。

この映画はホラーとかダークファンタジーなどと呼ばれていますが、わたしは色んな考察も踏まえて二回目に観て、この映画は人間の心理とこの世の真理を暴こうとするあまりに深いテーマの映画なのだと感じました。
それは原作のゲームが奥深いからだと思うのですが、この映画はガンズ監督の特有のメッセージのようなものがあるように想えてなりません。
映画中に聖書の言葉が何度も出てくるのですが、この映画には宗教悪と聖書の真理を同時に伝えているような非常に複雑な心理と真理が隠れているかもしれません。

テーマの一つは間違いなく「母性」ですが、もう一つのテーマが「報い」であって、そして善悪を超えようとする「真理」のようなテーマがあるのではないだろうか。
この映画を善悪の基準内で捉えるとつまらない内容になります。
善人はその善によって報われ、悪人はその悪によって報われるといった単純なテーマではないということです。
善人と思っていた人が拷問に合わされ、殺されます。
そして善人が悪に変わって報復を遂げるというテーマでもないように思えてならないのです。


Do you not know that the saints will judge the world?
聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。
Do you not know that we will judge angels?
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使いをさえさばく者である。


というコリント人への第一の手紙6章2,3節の言葉が道路の立て看板にあって二度映りました。

映画にはクリスチャンによる”悪魔祓い”が出てきます。
神の御使いの一人がサタン(デーモン、悪魔)であります。
劇中ではクリスチャンたちは報いを受けるわけですが、”クリスチャンは人間の内にある罪、その悪をも裁く者である”というその間違い(妄信)を監督は伝えたいのでしょうか?
わたしはそれは違うだろうと思います。
報いを受けるクリスチャン自身がこんな言葉を言っていました。
「裁くのは罪、人ではない」
この言葉は聖書の教えから出てきた言葉です。
イエスは「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。
(ヨハネによる福音書7章24節)」

と言ったかと思うと
「人をさばいてはならない。
自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
(マタイによる福音書7章1,2節)」

と言いました。

正しい裁きができないのならば人を裁くことはどのような結果を生むかを教えているのでしょうか。
クリスチャンなる者、人を裁くのは命懸けとも言えるでしょう。
そうであらねば忠実なるクリスチャンとは言えません。
罪は人にあらず、と言いながら人を悪魔呼ばわりして裁くことがあんまりにも矛盾しているように思えますが、その行いはイエスの「正しいさばきを行ないなさい」という言葉に励まされたことでしょう。

相手の中に見る罪は自らの罪です。それでもなお裁くならば、正しい裁きを行いなさいとイエスは言っています。
「うわべによって人を裁く」とは、自ら拷問のような苦しみを受けて死ぬことを恐れて裁くことです。
そうではなく、自らを拷問にかけて殺す覚悟で他者の罪を、裁きなさい。とイエスは言っているのだと想います。
それこそが、「ただしい裁き」であるのだと。
イエスの教えはとてつもなく厳しい教えなのです。

キリスト教徒は果たしてどれほどの人々に正しい裁きを行なえてきたでしょうか。
どのような裁きであっても、かならず同じだけの裁きか、それ以上の裁きを受ける覚悟で。
しかしそれはキリスト教徒だけの話でしょうか?

正義を信じて人を殺す。そんな妄信教徒たちは、実はこの世に溢れ返っているのです。
それが死刑制度です。
それは殺人者を「拷問にあわせ、そして殺せ」と言う人たちです。
それが誰かを「悪魔」呼ばわりして裁いた聖徒たちとまったく同じ妄信にあるわけです。

この映画のレビューにはどこにもそのようなことに気づかされたというレビューはありませんでした。
罪人がその悪による報いを受けることは完全スルーで、善人が悪の報いを受けることには納得がいかないという感じのレビューがあまりに多かった。
わたしはこれに納得がいかない人間です。

まったくの善人が、果たしてどこにいるのだろうかと思うからです。
罪のない者はいるか、と言われて、「はい、わたしは罪をただの一つも犯したことはございません。わたしはまったくの善人であります」と前に出る者はいるのでしょうか。
そのような人間ほど疑わしいのではないでしょうか。
人間なるもの、どのような人でも心のどこかにやましいものを絶えず持ちつづけているのではないでしょうか。
だからこそ人は人を裁けるような存在ではないとイエスは言っているんだと思うのです。
しかしこの世界ではこのようなフレーズをしょっちゅう聞きます。
「なんの罪もない人が、」
「なんの罪もないのに殺された」
それは言い換えれば「罪人ならば殺されても仕方ない」という言葉です。
自分にも罪はあるのに、他者の罪は自分の罪よりももっと重いと思い込んでいるそれが「妄信」というものです。

何故この映画は、



Do you not know that the saints will judge the world?
聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。
Do you not know that we will judge angels?
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使いをさえさばく者である。



という言葉を二回も映したのでしょうか。
人(他者)のなかの悪を裁き、その報いによって自らを裁く者、それが我々自身だからではないでしょうか。
それが神と自分の関係であるのだと、この映画は伝えたかったのではないだろうか?
だから善人だと思って、ああこの人はたぶん助かるやろう、って思ってたらほんまに酷い遣り方で殺されてしまった。
それを観て不快に思う人たちがきっと多いのも監督は見通していて、それでも善人(だと思い込んでいる人物)を拷問にかけ、そして処刑する場を描きました。
まるでキリスト(メシア)がされたような処刑方法、拷問のあとのさらなる拷問による処刑という方法で監督は一見無慈悲にも彼女を処刑したのです。
でも良く観てみれば、彼女にも、罪がありました。
彼女は相手からかかってくる前に自分から殴りかかって、人を殺そうとしていました。
その罪の報いを、彼女はみずから望んだのかもしれない。
正義感の強い人ほど、自分に対してつらい報いを求むはずです。
そして悪魔祓いをしたクリスチャンもまた、正義を強く愛するからこそキリストに忠実な人間であったはずです。

だからこの映画は、けっして簡単な報復映画ではなく、自ら報いを求め受ける者たちの「己れを裁く者たち」の映画でもあったんだと想いました。
「聖徒は世を裁く者」であるからこそ、自分は自分で裁こうとする者たち、それが真の神を愛するクリスチャンです。


善人であると思っていた彼女の処刑シーンを想いだすといつも涙が出ます。
わたしは彼女の処刑シーンはこの映画の一番の感動的なシーンとして監督が置いたのだと感じます。
彼女のあの最期の言葉…… 人間の慈しみを最大限に表している一番美しい場面です。
あのシーンに感動する人間は宗教に入っていなくともわたしはクリスチャンだと想います。
自らの罪を、自ら裁く者、どのような苦しみをも自ら受け入れる者、それがクリスチャンです。



ほかにもこんな聖句が劇中に出てきます。

”正義を憎む者は罰せられる”

これはその言葉の下にPs34:21と書いてあるので詩篇(Psalms)34章21節の

「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる」

という聖句の言葉です。

これもとても重要な聖句です。
「善は悪者を殺し」ではなく「悪者を殺す」のはかならず「悪」であることを示しています。
しかし映画にはそのあとの聖句しか出てきません。
もしこの「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる」という聖句が、処刑場に掲げられていたなら、誰もがその皮肉に呆れるでしょう。
処刑に関わる人たちは、殺人者に死刑を望む人たちは、ほんとうに「善が悪者を殺す」と信じているのでしょうか。
なぜ監督はそのあとの言葉だけを映画に入れたのでしょう。
それは人間の都合の良さを表したいからでしょうか?
悪者を裁く”悪”が、相手は「正義(正しい者)」ではないと証明できるのでしょうか。
相手が「正義(正しい者)」であるなら、彼を憎み、また裁く者は罪に定められ、罰せられるのです。


ほかにも

”あらゆる勝利は全能の神の手にあり”

という言葉が教会に掲げられていました。

「勝利 手」で聖書検索するとどういう聖句が出てくるか調べてみました。

詩篇20章6節にはこんな聖句があります。

「今わたしは知る、
主はその油そそがれた者を助けられることを。
主はその右の手による大いなる勝利をもって
その聖なる天から彼に答えられるであろう」


そして詩篇44章3節にはこうあります。

「彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、
また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたのみ顔の光によるのでした。
あなたが彼らを恵まれたからです」



イザヤ書41章10節にはこうあります。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」

こういう聖句がわたしは胸にぐっと来ますね。


ヨブ記40章14節にはこうあります。

「そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。
お前が自分の右の手で/勝利を得たことになるのだから」



ヨブ記だけが神の手ではなく、”おまえの右の手”で勝利を得たというのは面白いなと想います。この言葉は神の言葉ではなく神の許しを得たサタンが神を装って告げた言葉だとされています。
サタンは「わたし(神)の右の手でおまえは勝利を得る」とは言わずに「おまえが勝利を得るのは自分の右の手」であると言ったんですね。

サタンは果たして、嘘をヨブに言ったのでしょうか?
「勝利」とは、「正義」と同一の意味だと想います。
そしてみずから撒いた種が実る(結実する)とき、「成就」と「成功」の意味があります。
すべての「成功」は”わたしの手にある”と神は述べ、サタンは”おまえの手にある”と述べました。
わたしは神もサタンも本当のことを述べていると想います。

神を愛する者は御使い(サタン、悪)をも裁く者、自分の手によって自分の中の悪を裁くのですから、その勝利(成功)は神の手の内にもありながら同時に自分の手の内にもあるのではないでしょうか。


この映画にはいくつものあまりに惨(むご)たらしく、苦しくてたまらない死(最期)が出てきますが、監督は何故ここまで人間の惨憺(さんたん)たる死を描いたのでしょうか。

それは人は罪の重さに比例する罰が下るという世界を現したかったからではないことが、善人のような人物さえも拷問にかけて処刑したことから伝わってきます。

人間の最期は、その罪の重さには比例せず、むしろ”自罰(報い)の望みの深さ”に比例するのだと監督は伝えたいのではないだろうか?






この「サイレントヒル」という映画の三大テーマは「母性」「報い」、そして「神(自分)への愛」です。

だからこんなに感動する映画なのです。
それはこの世のとてつもなく深い真理だからです。

そして憎まれる者は相手を憎むよりも先に憎まれ愛されない自分自身を激しく憎みます。
その自己憎悪を相手に映しこむわけです。
相手に報復するよりも先に報復をしたいのは自分自身なのです。
自分自身を裁くために相手を裁く、自分に復讐するために相手に復讐して、自分にとんでもない報いが訪れることを今か今かと待ちわびているのです。

いじめを受ける子供はみんなそうです。
ほんとうのほんとうに憎いのは自分自身なのです。
だからこの映画が、どれほどの悲しみの詰まった映画であるか、もう詰まって詰まってしょうがない、一人ひとりの悲しみとその報いが展開される稀有な感動を与えられる映画になっています。

本当の報いとは、善人を処刑してこそ、与えられるということをきっと知っていたのでしょう。

この「サイレントヒル」は自分を酷く憎む者たちの物語です。
母ローズは、娘が精神の病にかかるようになったのは自分のせいだときっと自分を責めつづけたはずです。
父クリストファーも自分がしっかりしてなかったから妻と娘がサイレントヒルから帰ってこないのだと自分を責めたはずです。
もうみんながみんな、自分をどこかで激しく憎んでいたはずです。

自分を本当に赦すことができない限り、サイレントヒルからは決して戻ってはこれないでしょう。

いつになるのでしょう。彼女はいつまで、サイレントヒルで自分を責めつづけるのでしょう。

時間の過ぎることもない、霧に包まれたサイレントヒルで。

















わたしのSILENT HILL

2017-02-17 12:17:01 | 映画
クリストフ・ガンズ監督の2006年の映画「サイレントヒル」を観た。










サイレントヒルとはもともとゲームであるのですが、それを映画にしたものです。
非常に素晴らしい出来だった。その美しい世界観に引き込まれて息を呑んで手に汗握って最後まで観終えました。

それで映画を観るにも、不思議な縁というものがあるのだな、と感じざるをえない。
この映画を観る前に、ちょうどわたしは「Maternal(母性)」という題名の詩を書いたところで
この詩はサイレントヒルのサントラを聴きながらその音の中でのインスピレーションを起こして書いたのであるのだが
この映画を観終わって、この映画のテーマがゲームとは違う「母性」であったということが、これは不思議な縁だと想いました。

何ヶ月か前にDVDを買って置いてたのですが、突如観たくて観たくてたまらなくなって観たのです。


だからか、何故か最初のうちから涙がちょちょぎれそうな感覚で感極まりながら観ました。
それくらい俳優の演技もすごく良かったし、またサントラがゲームのサントラと一緒で感動しないではおれなかった。

実は自分は「サイレントヒル」というゲームをまだプレイしたことがないのですが
ゴア物やホラー物はまったく苦手なわたしが唯一気になって仕方なかったゴアでホラーのものがこの「サイレントヒル」であります。
実際にプレイしたい気持ちは強いのですがプレイするには液晶とプレイステーションを買わねばならないので
お金の問題と、またホラーゲームは昔に一度間違えて買ってしまったとき非常に恐怖して現実とヴァーチャルの世界がごっちゃになって
その中古ゲームを店に返品しに外を歩いていたとき歩いている人間すべてが自分に襲い掛かってくるようなとてつもない恐怖のなか返しに行った覚えがあるほどわたしはこの手のゲームはどうも大の苦手であるのです。

それでもやはり一度はプレイしてみたいと想わせるほどの魅力がこのゲームにはあるわけです。
まず内容とその世界観、音楽、そしてクリーチャー(いわゆる襲い掛かってきたり前に立ちはだかってやっつけなくては先へ進めない敵)たちのデザインのそのセンスにわたしは
嗚呼、これは大変にいいものだ。と唸るくらい魅力的なものであります。
神ゲーだとやってもないのに自信を持って言いたい(苦笑)
ゲームといえばのほほん全開のThe Sims 3しかもうやってない人間ですが、このサイレントヒルというゲームはやらなかったら後悔しそうなほど自分の人生において重要なテーマであることを感じた次第であります。

わたしはとくに、「Silent Hill 2」の内容が大好きで、自分が抱えているテーマとこれが同じものなんですね。
だから余計にプレイすることに相当な覚悟が要ります。
自分にとって、できれば避けて通りたいもの、忌々しく恐ろしくて見たくはないものが溢れている世界だからです。
しかしこの恐ろしくまがまがしいグロテスクな世界にあるのは、それは「深い悲しみ」です。
そして「喪失」「罪」がテーマです。
それを避けて生きるより、痛みにみずから向き合おうではないかと思ったのです。
そしてそれらを愛せるのかどうか、やってみたいと思うのです。

ゲームはプレイしてませんが、最初から最後までのオールプレイング映像をyoutubeで先に観てしまいましたので
だいたいどういうものであるのかはわかります。
ラストはいくつもあってまだ全部は観ていません。
それに英語だったから、まだよくはわかっていない。
何故こんなにグロテスクで異形の怪物たちがうろつく世界がこれほど美しいのか。
それもこの世界がほんとうに哀しく切ない感情でできている世界だからです。
「Silent Hill 2」のwikiを観るだけでだいたいわかると思いますが、わたしはこの3Dでできた人間の
本来人間よりも無機質であるはずのその人物の表情からものすごい感情が伝わってくるのです。




サイレントヒル2の主人公のジェイムス・サンダーランドです。
この男はもともと奥に哀愁を潜めている顔に作られたのか、それとも偶然そうできあがったのか、どちらにせよこの男の存在感と不器用な誠実さがなんて悲しいのだろうと想ってわたしは3Dというものの凄さを見それておりました。







そしてジェイムスを殺そうと彼を陰からずっと見ているような存在、その鉄格子の向こうにいるのがレッドピラミッドシング、通称三角頭です。
彼は映画にも出てきました。
三角頭は処刑人なのです。
この三角頭の存在がまた意味深くて、すっごくかっこいいんです。好きなんです。三角頭が。彼はそしてエロスでもあります。
「Silent Hill 2」のwikiを読んだだけでも「嗚呼そうだったのかあ……!」と大変脚本が素晴らしくて感動しました。
ちなみに自分の机の上にはこのミニチュア三角頭たんがいつも佇んでいて、わたしをその赤い多角錘(たかくすい)の兜の中からじっといつも監視しています。
いつおまえを処刑してやれるかとうずうずそわそわとしています。
可哀想だけれども、今は必須武器の大鉈を持たせてあげていません。








こっからは何故かシムズ3オンパレードになってしまいます。




死んだジェイムスとわたしのシムズ3の正気でない男のツーショット。
これはサイレントヒルとシムズ3がコンビを組んでゲームを作ったわけではなくってシムズ3でサイレントヒルシリーズのものを無償で全国のプレイヤーさんたちが作られたものをダウンロードして撮ったものです。
この正気でない男の顔もダウンロードしてきたお顔をちょこっと変えてこの顔になっています。
ワールドもサイレントヒルワールドをダウンロードしてプレイしています。





夜の遊園地に一人で座り込んでる正気でない男です。
この遊具の配置なんかも自由に置けるわけですが、かなり適当感の出てる遊園地です。




それで三角頭の普段着はこんな感じです。この姿で普通にサイレントヒルワールド内を勝手にこの方は出歩いてスーパーでレジ打ちのパートなどをしております。



もうひとつのこの格好もどうやらお気に入りのようでよく三角頭たんは着ております。この格好でコンビニのテーブルの上にある誰かの煙草を勝手にぷかぷか吸ったりしております。




ちょっと足を広げて、威嚇している▲頭たんです。





ショップや映画館などが並ぶ地下で焼きマシュマロを喰うております▲たんです。




こんどはハンバーガーのパンを楽しそうに焼いていますね。




人が食べているところの何がそんなに面白いのでしょうね。▲たんは食ってるシーエルたんをじっと眺めて興味しんしんです。




正気でない男は天井のない部屋で小説を書いています。




三角頭はサイレントヒルでこうゆうマンションに一人で暮らしています。二階のお部屋はすべて三角頭たんのお部屋です。
三角頭たんは洗濯機から洗濯物を取り出しているところです。




電子レンジを覗いて冷凍食品をあっためて、チンできたものを一人でさびしく食べてる▲たん。




すると正気でない男がやってきたので夜は一緒にピーナッツサンド食べました。▲たんちょっと嬉しそう。




湯船にお湯を溜めて入るのが好きな三角頭たん。汚れが落ちない古いお風呂だけども三角頭たんにとっては居心地のいい我が家なのです。




夜はまたコンビニに行って正気でない男と一緒に踊りました。




三角頭たんは本を読むのが大好き。窓から見えるのはブルックヘイヴンホスピタルです。




次の日、朝に三角頭たんはテレビを観ました。




その同じ時間、正気でない男は知り合いのジンくんのおうちの地下で犬のミレウと遊びました。




夜には▲たんはアイスクリームの容器に兜の先っちょをつっ込んで食べました。




その同じ瞬間に、ダロンたんもまったく一緒のアイスクリームを食べていたのであります。




そしてまたテレビを観て、そのあとは本を読みました。




真夜中の楽しいお出かけ。ブルックヘイブン病院のなかで軽食をとりました。




そのとき、エスケヴェル家では妹夫婦が自分の部屋で飯食ってる間デヴィン兄貴はせっせと水道が故障して漏れた水をモップで拭いていました。




ちょうどそのときシーエルたんの妹のロージーたんはダロンたんと正気でない男が同棲するおうちでテレビを観ていました。




そのあと冷蔵庫のなかに入っていたサンドウィッチを勝手に食べました。




その頃ラウルたんは裸足でお出掛けして正気でない男と偶然会ったのでちょっと話した後おうちへ帰ってトマトソースパスタを食べました。




次の日、ダロンたんはコンビニで正気でない男と話した後シーエルたんのおうちにお邪魔して猫を抱っこして瞑想をしたあとラウルたんのおうちに寄って廃屋のおうちでテレビを観ました。奥で正気でない男は正気でないので野外で風呂ってます。プライヴァシーもなにもないこんなおうちに住みたいですね。




映画のレビューよりシムズ3のショットを貼るのに力を入れてしまいました。
しかも何時からこれやってたんだろう…、うわ、朝の8時40分からってなってる。
今はもう11時48分34秒だ。








俺はいつか必ずサイレントヒルへ向かふ。
君はそこで、待っているんだろう?














映画「ベニーズ・ビデオ」普遍的な殺害、豚の死なんて、なんてことない。

2017-01-18 07:41:29 | 映画
我が愛する監督ミヒャエル・ハネケ監督の1992年の映画「ベニーズ・ビデオ」を観ました。








あらすじ

父親の農場で豚がスタンガンでと殺(屠畜)される映像を撮った少年ベニーは、そのビデオを日に何度と巻き戻してはコマ送りにしたりして観ている。
ある日少年は見知らぬ少女を自分の部屋へ招き、××××××う。













面白かったな、この映画はすごく。
今までハネケ監督の映画では「ピアニスト」がいっちゃん好きだったが、これは超えたかも知れないん。

愛するハネケ監督ですが、この映画について笑いながら話すハネケ監督はちょっとこえーなと想いました。
で、この映画を観て、殺人シーンで興奮してしまった自分もちょっとこえーなと想いました。

この映画は特に、ハネケ監督の自分に対する自己憎悪と自罰の深さを感じました。
相手がいたいけな少女だったからかもしれません。
自分も自己憎悪、自罰、自責といったものが激しい人間なので、ハネケ監督の暴力性や人をこれでもかというほどに傷つける表現はだいたい
「ざまあ」という感じで観てしまいます。
もっともっと痛めつけてやりたいという人間をあえてハネケ監督は選んで、傷つけ、痛めつけています。
たぶんオーディションなんかで今回の少女役の子を選んだとしたら、ハネケ監督は無性に痛めつけたくなるような子を求め、選んだはずです。
それはまぎれもないハネケ監督の純粋な愛だと想うのですが、自分を殺したくなるくらい憎みつづけている人間以外は、その愛は届きにくいものだと想います。

残酷性や冷酷性、異様さや利己的な部分に焦点を合わすと後味の悪いだけの作品になりかねません。
でもわたしはこの映画はとてもすっきりしました。
非常に、胸のつっかえが取れたなという感じです。

それは自分が女であるからかもしれません。
どこかむかついてしまう少女と自分を重ね合わせ、そこに救世主ベニー少年が現れ、これでもかというほどに苦しめて殺してくれてどうもありがとうという気分です。
たぶんハネケ監督自身もこの映画を観ていつもすっきりしているのでしょう。
豚の屠殺の映像を何度も観せるところなんかも、ハネケ監督は豚と自分を同一視して、自分が無残に殺されるところを喜んで観ている人だと想います。

でなければ、まず、撮れないでしょう。この映画は。
むしろ喜んでも観られないのに何度も執拗に映しているなら、それは偽善になってしまいます。

ハネケ監督は自分の異様さを喜んで表現してそれを観たい人間であるはずです。
だから観る人によってこの映画はとってもすっきりする映画になるわけです。

ハネケ監督は人間の汚さ、残酷さ、無機質さ、滑稽さ、醜さを表現するなかに自分を見つけて、ああわたしだ、わたしじゃないかと納得しては絶えずホッとしたい人間なんだと想う。
それは間違いなくハネケ監督の世界に対する深い関心と愛であるし、自分への受容なんだと想う。
好きな他者と好きな自分だけを認める人間ではないことは確かだ。
だからハネケ監督の愛は本当に深い。


もし本当にハネケ監督が、自分と少女、また自分と豚を同一視することなく、他者として撮っているなら、インタビューで笑って話すのは、これは人間としてどっか飛んでってると想います。
芸術作品のためといえども、尊い命である豚一匹犠牲にしているわけです。

ハネケ監督が笑ってるのは、「豚の死なんてなんてことない」と笑ってるのではなく、「自分の死なんてなんてことない」と笑っているのです。
だから最強の監督と言えます。

そうでないというなら、わたしはこの映画は撮って欲しくない。
そうでないというなら、それは、偽者だからです。

でもハネケ監督は、本物です。
確信します。
この映画を真面目に撮って、笑って話すハネケ監督は本物であり、その愛を、わたしは受け止めました。
是非同じテーマで、わたしは物書きなので、小説でバトンを繋げていきたい。
それだけ非常に面白いテーマです。

そしてハネケ監督のそんな苦しみは今の時代において、とても普遍的なものなのです。
気づいているか、まだ気づいていないかの違いがあるだけで。





映画「天地創造」 神は不完全を愛する

2017-01-18 01:32:11 | 映画
1966年のジョン・ヒューストン監督の映画「天地創造」を観た。
たぶんこの「天地創造」や「十戒」「ベン・ハー」などの映画はテレビで放映されていたときに亡き父と一緒に観たことがあるはずだが
まったく覚えていなかった。







カイン役を演じたリチャード・ハリス。冷酷な人類最初の殺人者というイメージはここにはありませんでした。
純粋で臆病で清らかな青年のイメージです。







ジョン・ヒューストン監督はノア役の人であったと観た後に知りました。
動物をすごく愛する監督であるようで、方舟の中で象と戯れていたりとノアのイメージにぴったりでした。











神の使者を演じたピーター・オトゥールです。
とても目が美しく、嗚呼この人は是非ほかの映画でイエス役もやってほしかったなぁと残念な想いです。







ここから感想というよりわたしの聖書論、神論となります。


クリスチャンの母を持ち、中学に上がるくらいまでずっと聖書を学んできた自分にとって、聖書とは特別なものなのですが
まだ完読もできていないし、ほとんどは忘れてしまっているので、こうやって映画なんかで映像として観ると
改めて聖書の面白さの魅力に感動します。

自分が特に常に意識して生きてきたからなのかはわかりませんが、聖書の神はものすごい魅力に満ちていると思います。
自分はギリシア神話やシュメール神話、日本の天照大御神とかに対しては、さほどの魅力を感じないのですが
聖書に登場する神々と、そしてイエス・キリストをほんとうに愛しているのです。
宗教に属することはなくても、聖書(外典も含み)の魅力にとりつかれている人はとても多いと思います。
聖書が世界一のベストセラーでありつづけるのは、世界にキリスト教徒が多くて無料で配布され続けているからという理由では決してないはずです。

何故こんなにも聖書は人々を魅了しつづけるのだろう?と考えると
内容は確かにどの神話よりも素晴らしいものだと思いますが、それ以上に、神々の持つ魅力の「バランス性」が素晴らしいからではないかと感じました。
聖書に登場する神々とイエス・キリスト、どの存在も、なにか異様な闇を背負っている存在に思えてならないのです。
「光」と「闇」の魅力をとてもバランスよく持ち合わせた神ではないだろうか。
人間を超越した存在であることをひしひしと感じるのに、同時に人間じみた感情的な存在でもあるというはかりしれない魅力。
人間の理解を超えたところにいて、何を考えているのかわからないというような存在ではなく、人間のものすごい近くまでやってきて
人間に忠告したり、生贄(犠牲)を求めたり、怒りを示したり、人を試したり、親しい存在が死ねば涙を流したり、滅ぼした後には自らを省みて、もう二度と同じことはしないと人間に約束したりと
その心の内はとても人間に理解できる存在であるというところに、人々は魅力を感じないではおれないのかもしれない。

神にとって、またはイエスのような覚者にとって、他者の存在はどういう存在であるかというと
それは自分たちの愛する子供たちのような存在であり、同時に自分自身の分身たち、自分の違う姿という感覚で我々を感じているはずだと思うのです。
そんな存在たちを滅ぼしたり、苦しめたりするということが、どれほど苦しいことであるか。

神々とは、絶えずそんな苦しみのなかにわたしたちを眺めつづけている存在たちではないだろうかとわたしは思うのです。
そして神々もまた、我々と同じに、完全ではなく、共に成長しつづける存在たちではないだろうか。
創造主も、聖者も、ほんとうに完全であるなら、わたしたちにどのような干渉もする必要はないのではないか。


「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

(『マタイによる福音書』5章48節)


イエスが言ったこの「完全」という意味は、何の変化も必要はないという意味の「完全」を意味しているのではなく
わたしはすべてがほんとうの「自由」であることを知りなさい。という意味があるのだと思います。

「自由」であるという完全性があるからこそ、みずから欠けることを望むことができます。
みずから思い悩んで生きるということを完全性によって選択することができます。
たとえば今日は喜びを感じたなら、明日には苦しむことをみずから選択して苦しむことができるという「自由」はそれは変化を必要とする「完全性」であるわけです。

「自分のなりたいものに自由になれる力が十分に備わっていることをあなたがたも知りなさい」という意味をイエスは言ったんだとわたしは思うのです。

だから話を戻すと、神々が「完全」ではないのは、それは「完全」であると知るがゆえに、みずから「不完全」であることを望んでいるのではないだろうか。
すべてがほんとうに「完全」であるために、「不完全」になれるのではないだろうか。
そのために神々は、われわれを嘆くこともあれば絶望的な思いを抱くこともあるかもしれない。
それは「不完全」であることの喜びを知っているから、「不完全」であるがゆえの苦しみをも知るからではないだろうか。


イエスが、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言ったのは
われわれがもともと完全ではないのに完全な者になりなさいというような無茶を言っているのではなく、
「あなたがたはすでに完全であるのだからそれを認めなさい」と言っているのだと思うのです。

そう考えると、神々やイエスが何故わたしたちの近くに降りてきて、共に嘆き悲しんだりするのかという理由が理解できてきます。
彼らはほんとうにわたしたちを愛しているからです。
共に喜び、共に悲しめること以上の喜びは、どこにもないのです。
彼らはわたしたちを喜ばせるためにも、同じようなことで喜んだり悲しめるようになるためにも、「不完全」で在ることを
みずから望んでその「不完全」のなかでわたしたちを見つめつづけている存在なんだと感じる。

「不完全」であるがゆえに、共に成長していけることのとても深い喜びを一緒に感じることができるというものです。

そんな神々の存在を、わたしは聖書からいつも感じるのです。

神はいつでも、生命の喜びに目を向けている。
それが、神の存在です。
自分のなかに存在していると感じられる、神の愛です。
神をほんとうに失うなら、生命は生きる喜びをもうけっして感じることもないのです。









ダンサー・イン・ザ・ダーク

2017-01-01 06:11:10 | 映画
ラース・フォン・トリアー監督、ビョーク主演の最高傑作である「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をまた観ました。








観たのは三度目だと思う。
自分にとって最愛の今は亡き父と一緒に観た映画なのもあり、特別な映画なので一人きりで大晦日の夜に観ました。
一度目に2003年ころに観たときは観たあともう苦しくて苦しくて一ヶ月ほど引きずって想いだすたんびに泣いていました。
でも何年と時間を置いて二度目、三度目と観てみると、だんだんと受け入れやすくなってきていると感じた。








今回感じたことは、セルマが息子と二人で話すとき変に緊張して接している、気を使いすぎている様子に気づき、セルマは息子に対して深い自責の想いを持っていたのではないかと感じた。
そこには父親のいない不憫さも関係しているだろうし、セルマ自体があまり人と接することが得意な人間ではないことや、息子から愚鈍である母親と思われているだろうことをセルマ自身が感じていることや、家が貧しいことなどの理由から、セルマは自分は息子を幸せにはきっとできないのだと常に自分を責めつづけて生きていたのかもしれないと感じた。











そしてそのうちに失明することを知っているセルマはこの先、これ以上の迷惑を息子にかけることに絶望的な気持ちでいたのではないだろうか。

心のどこかで、自分はいなくなってしまったほうが息子は幸福なのではないかと考えていた可能性がある。
でもそれは、はっきりとしたものではなくて、漠然としたなかにあった気持ちだろう。

できればセルマはそれでも愛する息子と一緒に生きたかったが、いざ判決を受けて、耐え切れないほどの恐怖のなかで息子の本当の幸福に繋がる道がどこにあって、それは自分が戻る道なのか、それとも戻らない道なのかを何度も模索して、最後の結論として、セルマは自分自身に科したように思わずにはいられない。

セルマは自信を持って息子と愛し合えていることを感じられていた親ではない。だからこの話を普通の親子の話として観ると不自然さを人は感じるだろう。

セルマは障害を持つことをわかって産んだ息子を幸福にできないことにずっと苦しんできた母親であったからこそ、あの展開はセルマ自身が望んだ展開でもあったのだと感じられる。

それを独りよがりの愛であると感じる人は多いかもしれない。
でも自分はそうは思わない。
実際、何が息子の幸福であるかなど、誰もわからない以上。

自分も一度目、二度目と観てもそこまで考えられなかった。
だからどうかこの映画を一度観ただけで判断はせずに何年と経った後に何度も人に観てもらいたい。

この映画にある悲しみはとても深い悲しみです。
それはこの映画を撮ったラース・フォン・トリアー監督自身がほんとうに深い悲しみを知っている人だからだと思います。

深い悲しみとは、私はこの世界でもっとも意味の深いものであると感じています。
そしてそれを感じられること、共感することや同情心、それは慈悲であるし、ものすごい価値で、人を最も喜ばせることのできることだと思っています。

だからこの映画のようなほんとうに深い悲しみの入っている映画こそ私は人々に観てもらいたい。
ほんとうに悲しい人間の生きざまこそ、観てほしい。

それはいつか必ずあなたの深い喜びに繋がるはずだからです。


この映画のレビューで「不幸」とか、「無力」という言葉をよく見かけましたが、この映画は「New World(新しい世界)」という曲で幕が閉じられます。
私は22歳のときで親の二人目も喪って親なし子になったのですが、私は親が生きていたなら生きられなかった世界に生きていると深く実感できます。
それはとてつもない悲しみと孤独の世界です。
でもけっして不幸だと感じたことは一度もありません。
むしろこの苦しみがなければ、感じられることはきっとなかったと思える深い喜びを感じられているのだと、そう信じることができてきています。

セルマがあの最期を遂げなければ、始まることがなかったNew World(新しい世界)。
それはセルマの新しい世界だけでなく、もちろん息子にとっての新しい世界の幕開けを意味しています。

新たに始まる世界は、不幸な世界ではけっしてないと私は思います。
わたしも親を喪ったときは、絶望的なあまり、本気で後を追って死のうと思い立ちました。
当時は光がどこにも見えず、世界は闇でした。
13年経っても私が父の死を悲しみつづけていることに、人々は私を今でも不幸と感じるかもしれません。
でもわたしは不幸ではないのです。
むしろ、このかけがえのない悲しみがありつづけることでしか見えない光を感じて生きることができているのです。
この世界は、わたしにとって最愛の、父を悲しい最期で亡くさなければ始まらない世界でした。
私は母の記憶がなくて父子家庭で育ちました。
セルマの息子ジーンがこれからどのような人生を歩むか、途方もない悲しみの世界だと思います。
でもその人生が不幸か幸福かは、誰も決めつけることはできません。本人でさえもです。
何故なら、人生というもの自体が与えられたものでもあるからです。
自分が自分の人生を不幸と決めつけたところで、自分の人生そのものが、与えられている人生なのです。
では「不幸」か「幸福」かを決めるのは自分自身ではなく、その与えている存在です。
それは「もう一人の自分自身」と言えると思います。
セルマはその存在を感じとっていた人だったかもしれません。
だからあんなに苦しい中にも光を手放そうとはしなかった。
いや、苦しくてたまらないからこそ、光を手放すことはできるはずがなかったのです。

ほんとうに深い闇を生きるほど、大きな光が見えてくる。
セルマが見た光は、かならずや息子のところに届くとわたしは思います。
それは十年後かもしれないし、十五年後かもしれません。
三十年後にやっと届いたとしても、息子ジーンのそれまでの人生はその光に届くまでの必要なプロセスであり、その光は、セルマが生きて息子の傍で生きる光よりも大きな光かもしれないのです。
大きな光、セルマがあの選択をしなければ息子に与えることができなかった大きな喜びかもしれないわけです。
セルマはそれを信じることができた人だったからこそ、最後に「New World」という曲で映画は終わるのです。

だからセルマはほんとうにすごい「力」を持った人です。
どんなに苦しくても光を信じて死んでいくことができる力は、人を闇から救いだせる力です。
その力は息子を深い闇からかならず救いだせる光である。

だからこの映画がほんとうにたくさんの人を感動させるんだとわたしは思います。