皆さん、フジテレビのドラマ『のだめカンタービレ』ご覧になってますか???
日本のクラシック界の将来を左右するだろうといわれている、このコミカルドラマ。
CDが発売になるやいなや、記録を作ったり、全国的に『のだめ』現象拡がってますね(笑)
私も、第1回目から、しっかり録って、見てます!
このドラマのエンディングに使われている曲、
「ラプソディー・イン・ブルー」を作曲したアメリカの作曲家、ガーシュイン。
今回は、私が1990年に訪れたニューヨークの写真を少し入れて、
ガーシュインの少年時代のお話です。
ジョージ・ガーシュインは、1898年、ニューヨークでロシア移民の両親の元で生まれました。
父親のモーリス・ガーシュインは22歳のときロシアから移住し、
アメリカで一財産を築こうと、転々と職を変えましたが、失敗。
一家は、ニューヨーク市内を25回も引越しするということになります。
ガーシュイン一家では、ジョージが音楽で身を立てようとは、
予想もしませんでした。
音楽を習う男の子を「甘えん坊」と呼ぶこの家の習慣で、
少年ガーシュインも、6歳ごろまでは、家の近くで野球をしたり、ローラースケートで走り回る街の腕白小僧でした。
度重なる引越しで、ジョージはニューヨーク中の道をローラースケートで走り回り!
知らないところはないほどでした!
ジョージが6歳のある日、裸足で125番街をぶらぶら歩き回っていると、
彼は、突然街の電気ピアノの音をきき、釘付けになります。
その後、一家はハーレムに引っ越します。
上の2枚の写真はハーレム。(バスの中から録っているので、ちょっと影が入っていますが・・・)日付けもそのままにしてあります。
ここで、ジョージはジュークボックスから、流れる音楽に魅せられていきます。
まだ、蓄音機もラジオもなかった時代。
そのジュークボックスからながれる、黒人の演奏するジャズの響きが、
彼の心を離さないようになります。
ガーシュインの自画像
でも、周囲の人から’甘えん坊’といわれたくないばっかりに、
少年ガーシュインは、音楽に関心があることを人に秘密にしていました。
でもそんな彼に、’事件’が起こります!
スポーツや遊びに対する意欲がうせて、音楽にのめりこんでいたある日、
彼の1つ年下の、神童ヴァイオリストと呼ばれた男の子の公開演奏を聴いたのです!
そこから、ジョージの快進撃がはじまります。
明日はこの少年ガーシュインが、どうやって、「黄金の20年代」といわれたアメリカを代表する作曲家になったのか?
その39年の短い一生をたどります。お楽しみに!
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こちらもどうぞ!
「ピアノと海と花との生活 Ⅱ」では、「音楽家のお墓」シリーズで、
残念ながらガーシュインはお墓の資料がないので、北欧に飛びました!
新しく第7 回 グリーグ しています!
こちらもお時間があったらお寄りくださいね。
★ ピアノと海と花との生活 Ⅱ