goo blog サービス終了のお知らせ 

ピアノと海と花との生活 Ⅱ

~創造する芸術~

音楽家のお墓  Vol.11 ヴェルディ

2007-01-08 | 音楽

 

     

        イタリアオペラの巨匠、ヴェルディが生まれたのは、今から約

        200年も前の1813年10月10日、イタリアミラノの南、ブッセートの

        近郊、レ・ロンコーレという小さな町でした。

        ヴェルデイが生まれた5ヶ月前に、アルプスを越えたドイツのライプ

        ツィヒで、リヒャルト・ワーグナーが生まれていた。やがてこの2人が

        同じ音楽劇の分野で、しかも全く別の方法で活躍するとは!

        ヴェルデイは19歳でミラノに出てきて、23歳のときに最初の結婚を

        しますが、その妻が4年後に死去、そのあと当時の花形ソプラノ歌手、

        ジュゼッピーナと再婚し、失意の底から、次々に名曲を産み出して

        いきます。

        29歳、『ナブッコ』、34歳『マクベス』、40歳『トロヴァトーレ』『椿姫』

        この『椿姫』は、初演に失敗し、2年後再演して大成功を収めています。

        48歳の時には、イタリアの国会議員にもなっています。

        そして58歳に初演された『アイーダ』は、スエズ運河の開通を記念

        して、エジプトのカイロに大劇場が建てられたこけらおとしの際の

        新作でした。これで、オペラ作家として、不動の地位を確立し、60歳も

        過ぎ、オペラの意欲をなくしたかのときに、30歳年下のアルギト・ボー

        イトという若い作曲家と知り合い、2人の天才によってシェークスピア

        の原作の『オテロ』が74歳のときに初演。

        美しく、情熱的な見事な生涯を終えたのは、1901年1月27日、享年

        87歳。オペラの世紀といわれた19世紀と共に、巨匠ヴェルデイは、

        生命の火を消したのでした。

        写真は、ミラノのヴォナロッティ広場に建つヴェルデイの像と’音楽家

        憩いの家’

       晩年のヴェルデイは、不遇な老音楽家のための養老機関を設立しよう

       と努力して、その意志でできた建物と、その霊廟には、ヴェルデイとその

       妻ジュゼッピーナの遺骸も葬られている。

                

                         

                         これはパリにある〈椿姫〉の墓。

           ヴェルデイの最高の人気作《椿姫》は、デュマ・フィスの

           小説が基ですが、そのモデルは、マリー・デュプレシスという

           実在の女性でした。彼女は7人の百万長者のパトロンをもち、

           毎夜椿の花を手にして、モンマルトルの劇場に姿を見せていま

           した。若いデュマは彼女に魅せられ、やがて2人は愛の生活

           に入ります・・・

           小説「椿姫」は、そのマリーが23歳で死んだあと、デュマが涙と

           共に筆をとった実話小説でした。

           マリー・デュプレシスのお墓は、パリのペール・ラシューズ墓地に

           あって、その箱型のギリシア風の墓標には、薄幸な彼女に

           ふさわしく、スミレに紅い椿をあしらった飾りが添えられています。

 

                    ★  ホームページ 《piano Yoshiko Official Site》 ←はこちらから!

       


音楽家のお墓 Ⅹ  モーツァルト

2006-12-18 | 音楽

     

         

        1791年12月5日深夜の午前零時55分、モーツァルトは35歳の

        短い生涯を閉じました。

        葬儀は12月6日に行われましたが、遺骸はウイーンにある聖マルクス

        墓地という貧民墓地に葬られました。

        これは映画’アマデウス’でも象徴的な場面として出てきますね。

        そこまでお棺をかついでいったのは、人夫2人だけで、未亡人コ

        ンスタンツェでさえも埋葬には参加しませんでした。そのため、モー

        ツァルトのお墓は、永久にわからないということになったのです。

        死因も、研究家によると150もの説があるそうです。

        今年の初め、モーツァルトの頭蓋骨のDNA鑑定の結果のニュース

        が流れました。くわしくはこうです。

       

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

        現在、写真に見る聖マルクス墓地の墓は、実は後にそれらしい

        ところに記念に建てられたものなのです。

        神に愛された偉大な音楽家は、どうやって亡くなったかも、どこに

        眠っているのかも永遠の謎です。

        やはり神様の子供だったのでしょうか。

        「しかし、悲しむことはない。誰もホメロスの墓を知らないでは

        ないか!」とは、モーツァルト学者シューリヒの言葉です。

                  ピアノと海と花との生活はこちらです。

    

       


音楽家のお墓 Ⅸ  シベリウス

2006-12-11 | 音楽

 

   

           フィンランドの音楽史上、最大の大家といわれるシベリウスは、グリークを

     産んだノルウェーも、そのほか北欧諸国、東欧諸国、ロシアなどの外国の

     支配から、脱して、自国の自民族の音楽を創造して、それを開花させまし  

     た。グリークとシベリウスは、置かれた立場からも、生涯のあり方も実によ

     く似ています。

     グリーグの生まれた22年後の1865年に、フィンランドのヘルシンキの北にあ

     るハメーリンナという小さい都市に、シベリウスは生を受けます。

     グリーグと同じように、少年時代も、自然の中ですくすくと成長し、音楽に

     夢中になり、10歳ごろから作曲も始めます。24歳のときに、ベルリンに留学

     し、そのあとひき続き、ウィーンに留学、自国に戻り、フィンランドの民族精

     神を音楽的に高く昇華させる、すばらしい曲を次々に発表します。

     そして、国家に優遇され、国際的名士になって、家庭的には幸せな結婚を

     して、そのうえ、都会生活をきらって、晩年は、フィンランドの田舎にこもり、

     悠々自適の生活を送りました。

     この生涯は、グリークのそれに実によく似ています。

     しかし、音楽の面では、かなりの違いが見られ、ピアノの世界にその力を

     発揮したグリーグとは対照的に、交響曲のような純音楽の大曲にもっとも

     本領を発揮しました。34歳の時に発表した『フィンランディア』は、そのシベリ

     ウスの愛国精神から産み出されて、熱狂的に共感をもって迎えられました。

     40歳になる前に、すでに隠遁生活を始め、自己の道への没入で、すばらし

     い作品を、書き続けましたが、60歳を過ぎた頃から、作品らしいものは、

     ほとんど書かず、92歳で脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

     シベリウスのこのお墓は、シベリウスの愛した田園のヤルヴェンパーの

     別荘の庭にあります。

           ピアノと海と花との生活はこちらです。

    


音楽家のお墓 Ⅷ  ガーシュイン

2006-11-28 | 音楽

 

           

          ニューヨークで大成功を収めたガーシュインは、莫大な富を築いたので

    すが、1923年ホワイトマンからシンフォニックジャズを依頼された彼は、

    ニューヨークの110番街のアパートを借り、古びたアプライトピアノで、

    「ラプソディ-・イン・ブルー」の作曲に取り掛かります。

    3週間という短い時間に曲は完成し、後に「大峡谷(グランドキャニオン)」で

    有名になるグローフェがオーケストレーションを担当して、

    完成した曲は、カーネギーホールとともにクラシックの殿堂であったイオリア

    ン・ホールで初演。

    ラフマニノフやクライスラーといった 当時の一級の音楽家で満席の観衆が

    大盛況だったそうです。

    1937年、映画スターのために音楽会を開いたのですが、演奏の途中、意識を

    失い、一時小康を保ったのですが、数日後再び倒れて、すぐ脳腫瘍の手術

    をしたのも、回復せず、そのまま39歳という短い生涯を終えました。

    アメリカ全土で、ガーシュインに深い哀悼の意を表したそうです。

         ピアノと海と花との生活はこちらです。

        

          


音楽家のお墓 Ⅶ  グリーグ

2006-11-27 | 音楽

    

       

       グリーグは、北欧のノルウェーを代表する作曲家です。

       グリーグは、1843年6月15日、ノルウェーの西海岸にあるベルゲンと

       いう街に生まれました。ベルゲンは古い歴史を持ち、風光が美しく、

       文化的水準も高い都市です。

       彼の母親の影響で、幼い頃からショパンの音楽に、非常に興味を

       示し、のちに’北欧のショパン’と呼ばれた彼の作品は、きめこまか

       い情緒性であふれています。

       グリーグも、最初の頃はこのショパンの愛好する外国音楽への憧れ

       から、ドイツで主要な音楽の勉強をしますが、ノルウェーに帰ってから

       自国の音楽に目覚め、民族的な旋律やリズムを多用し、国民学派

       の作曲家となっていきます。

       代表作「ピアノコンチェルト」 「ペールギュント」での大成功。

       彼は、この2曲のような大曲のほかに、叙情的な小品に意欲を燃やし

       ました。グリーグの音楽は、常にノルウェーの自然を反映させていて

       絵画であり、自然を歌った詩です。ショパンに比べておおやかで健康的

       な表現は、生涯自然を愛し、その中に浸るように生活していたところ

       から生まれたといわれています。

       42歳の時に、トロルドハウゲンという静かな場所に、生活の拠点を移し、

       ピアノと机だけを置いた小さな小屋を建て、そこで作曲に没頭します。

       1907年9月4日、グリーグは63歳の生涯を閉じますが、葬儀は国葬と

       して、ベルゲンで盛大に行われました。

       写真のお墓は、彼の愛したトロルドハウゲンの、崖を下った丘陵の斜

       面に設けられていて、夫人のニーナは長生きをして1935年に90歳で

       亡くなったのですが、同じお墓に眠っています。

               ピアノと海と花との生活はこちらです。


音楽家のお墓 Ⅵ  シューマン 

2006-11-20 | 音楽

            

       1800年を過ぎる頃には、ヨーロッパでは、封建的な考えと、新しい

       民主的な考えが、いろいろなところで、激しくぶつかり合い、世の中は

       大変な不安におちいっていましたが、イギリスからフランス、そしてド

       イツへと、どんどんと自由を叫ぶ声が高まり、それはもう誰にもかき消

       すことは、できなくなっていました。

       こんな時期に、ライプツィッヒを中心に、中部ドイツを活躍の舞台とした

       2人の大作曲家いました。それは、1809年に生まれたメンデルスゾーン

       と、翌1810年に生まれたシューマンです。

       メンデルスゾーンの音楽は、絵の様に色彩豊かに描かれ、シューマン

       の音楽は、詩人がまるで、歌っているかのように、かかれました。

 

       この写真は、1977年に私が、ドイツ、ボンを訪れた際、実際に撮って

       きた写真です。

 

       デュッセルドルフで、創作活動において、最後の輝きを放ったシュー

       マンは、若い頃から悩まされた精神疾患が、悪化し、44歳のときに、

       錯乱し、ライン川にかかっているデュッセルドルフの橋から身を投げ、

       生涯の最後の2年半は、ボン郊外の精神病院で過ごし、1856年7月

       29日、46歳でこの世を去りました。

       このお墓は、ボンのアルター墓地にありますが、現在のお墓は、後年

       に建て替えられたものです。作者は、当時の有名な彫刻家アードルフ・

       ドンドルフ。

       愛妻クララは、世界的女流ピアニストとして長く活躍したあと、1896年5月

       20日にフランクフルトで没しますが、生前に遺言して、この亡き夫のそば

       に眠ることになったのです。

       

       シューマンとクララのことに関しては、’ピアノと海と花との生活’の

       6月6日、ドイツ特集で書いていますので、興味のある方は、そちらも

       どうぞ!

       ピアノと海と花との生活はこちらです。

       

 


音楽家のお墓 Ⅴ  シューベルト

2006-11-10 | 音楽

 

         

         600曲以上もの美しい歌曲を作って、「歌曲の王」と呼ばれて

         いるシューベルトは、1797年にウィーンで生まれました。

         シューベルトの両親は、チェコの出身で、ウィーンで小学校

         を開いていました。

         シューベルトも早くから音楽の才能をあらわしましたが、11歳の

         時、王室礼拝堂のボーイソプラノの試験に合格してからそこで

         歌うようになり、国立神学校に進み、変声が始まって、学校を

         はなれてからも、作曲を続けて、すばらしい曲を世に送りだし

         ました。

         あふれ出る泉のように、『野ばら』『魔王』など、次々とその美しい

         歌曲が完成されました。

         シューベルトは大変内気で、繊細でしたが、そのやさしい人柄

         にひかれて、美しい音楽を愛し、才能をたたえる人々が集まり

         「シューベルティアーデ」と呼ばれたその会は、シューベルトを

         招いて、あちこちの家で開かれました。

         シューベルトは、同じウィーンにいたベートーヴェンを尊敬し、

         巨匠として仰いでいましたが、その内気さゆえに、コーヒー店で

         見かけても声もかけれず、結局ベートーヴェンが病で倒れ、最

         後の日々に、2度ほど病床を見舞ったそうです。

         ベートーヴェンが1827年3月26日に亡くなり、その葬儀に松明 

         をもって参列したシューベルトも、翌年、チフスを患い、31歳の

         若さで、この世を去ります。

         シューベルトのひときわ優雅で美しいお墓は、ベートーヴェン

         と共に、ウィーンの中央墓地にあります。

                    ピアノと海と花との生活はこちらです。

         


音楽家のお墓 Ⅳ  ショパン記念像

2006-11-05 | 音楽

 

        

        ジョルジュ・サンドは、男装をしてパリの社交界をわたり、華や

        かな恋の遍歴も重ねた天衣無縫の女流作家でした。ショパン

        は、彼女と1836年、26歳のときに、リストのサロンで知り合い、

        2人の仲は、1846年まで続きました。

        6つ年上の彼女は、ショパンを’私の子供’と呼んで、献身的な

        愛情をそそぎ、病弱なショパンが数々の珠玉のピアノ曲を生む

        のに、大きな役割を果たしました。

        ショパンは、結核の療養のため、サンドと彼女の2人の子供と

        共に、スペイン領のマジョルカ島へ渡りました。

        マジョルカ島の冬は雨期で、ショパンの病状はかえって悪化し

        ました。連日豪雨が降りしきり、不気味なほどの夜の静けさが、

        彼の幻想をかきたて、名曲『雨だれ』が出来ました。

        この2人の像は、パリの凱旋門を北へ1キロほど行ったところの

        モンソー公園にあります。

        ドラマ調の大理石。

        作者はジャック・フロマン・ムーリス。

                  ピアノと海と花との生活はこちらです。


音楽家のお墓 Ⅲ  ショパン

2006-11-02 | 音楽

 

            

            今回はショパンです。

     「ピアノの叙情詩人、ピアノの狂想詩人、ピアノの心、ピアノの魂」

     と、19世紀のロシアの作曲家アントン・ルービンシテインは、ショパン

     のことを、こう表現しました。

     ショパンは、まさに、ピアノに徹した作曲家でした。

     ピアノという楽器の性能を、本能的な自然さのうちに、はっきりと見極め、

     その性能を充分に生かして、終生ほとんどピアノ曲ばかりを作曲しま

     した。

     これほどピアノ一辺倒で終始した作曲家がいるでしょうか?

     39歳という短い嵐のような一生を終えて、ショパンは、今、パリのペール・

     ラシューズ墓地に眠っています。

     ショパンの横顔の上に、天使のうなだれた姿も彫られています。

     作者は、クレサンジュ。

           ピアノと海と花との生活はこちらです。

     

 


音楽家のお墓 Ⅱ  ブラームス

2006-10-31 | 音楽

  

      

     1833年、ドイツのハンブルクの貧民窮の一角に生まれたブラームス

     は、シューマンの熱烈な賛辞によって一躍有名になり、ドイツ音楽の

     巨匠として、名声を得て、64年の生涯をウイーンで終えました。

     ブラームスは、不思議な作曲家です。

     彼の同時代人のワーグナーが、その絶大な影響力で、それまでの音楽

     形式を強引に変貌させた19世紀後半に、ブラームスは、ベートーヴェン・

     メンデルスゾーン・シューマンと引き継がれた伝統的な形式にこだわり続

     けました。

     夢・あこがれ・絶望・・・人間が自然に表に出す言葉、ブラームスは、

     それらをはっきりと音として、残しました。

     若きブラームスが激しい愛情をささげたシューマン夫人のクララにさえ、

     心のうちをあかさず、内気でデリケートだったブラームス。でもそうした彼

     の性格が、創作活動のすみずみにまで浸透し、その作品は、慎重な計画

     と入念な仕上げと叙情性を生み、すばらしい世界を築きました。

     このお墓は、前回のベートーヴェンと同じ、ウイーンの中央墓地にあります。

      ピアノと海と花との生活はこちらです。