ピアノと海と花との生活 Ⅱ

~創造する芸術~

音楽家のお墓 Ⅱ  ブラームス

2006-10-31 | 音楽

  

      

     1833年、ドイツのハンブルクの貧民窮の一角に生まれたブラームス

     は、シューマンの熱烈な賛辞によって一躍有名になり、ドイツ音楽の

     巨匠として、名声を得て、64年の生涯をウイーンで終えました。

     ブラームスは、不思議な作曲家です。

     彼の同時代人のワーグナーが、その絶大な影響力で、それまでの音楽

     形式を強引に変貌させた19世紀後半に、ブラームスは、ベートーヴェン・

     メンデルスゾーン・シューマンと引き継がれた伝統的な形式にこだわり続

     けました。

     夢・あこがれ・絶望・・・人間が自然に表に出す言葉、ブラームスは、

     それらをはっきりと音として、残しました。

     若きブラームスが激しい愛情をささげたシューマン夫人のクララにさえ、

     心のうちをあかさず、内気でデリケートだったブラームス。でもそうした彼

     の性格が、創作活動のすみずみにまで浸透し、その作品は、慎重な計画

     と入念な仕上げと叙情性を生み、すばらしい世界を築きました。

     このお墓は、前回のベートーヴェンと同じ、ウイーンの中央墓地にあります。

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音楽家のお墓 Ⅰ ベートーヴェン

2006-10-29 | 音楽

  

    

  これは、ウイーンの中央墓地にあるベートーヴェンのお墓です。

  お墓の特集といっても、特に音楽家のお墓は、そのものが芸術作品のようです。

  ここは音楽愛好者が必ず行くところとして、知られています。

  中央正門を入って、並木道を150メートルほど行くと、左側に、特別名誉墓地区

  の円形の広場があり、そこに、このベートーヴェンをはじめ、シューベルト・ブラー

  ムス・グルック・ヨハン、シュトラウス父子・スッペ・など、ウイーンにゆかりの深い

  音楽家のお墓がずらりと並んでいます。

  次はブラームスです。お楽しみに!  

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モーツァルト 3 神童モーツァルト

2006-10-10 | 音楽

    

                               

神童モーツアルトのエピソードは、数々ありますが、

ヴァチカンでの、エピソードから。

ミゼレーレ伝説

  1770年4月11日、モーツァルトはヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に着きました。  

  父レオポルトにとっては、《ミゼレーレ》という曲が、ここでしか聴けない門外不出

  の秘曲として、有名だったので、是非ともとやってきたのでした。

  聖歌隊員には、楽譜を外に持ち出したり、楽譜を写し取ったりすると、破門の罰

  が与えられていました。

  ところが、モーツァルトは、聖歌隊の演奏をきいて、1回で覚えてしまい、後で楽譜

  に書き留めてしまいました!

  《ミゼレーレ》は9つのパートのある楽曲です!

皇帝を前に、宮廷作曲家に譜めくりをさせる

  6歳のモーツァルトが、皇帝フランツ1世の前で、クラヴィーアに座ったとき、

  布で覆われた鍵盤を弾いたり、1本の指だけで演奏することを要求されれたので

  当時、宮廷作曲家として活躍していたヴァーゲンザイルを呼んで、

  「僕はあなたの協奏曲を弾きますから、あなたは譜めくりしてください」と頼んだ

  そうです!

テストした大人たち

  モーツァルトが神童として有名になるにつれて、1週間監禁されて、本当に1人で

  作曲しているか、試されたり、見事な演奏が、指輪の力なのでは?と疑われたり

  したそうです。

  初見での演奏能力をテストしようと、試みたものの、2重唱の手書き楽譜を、

  歌とヴァイオリンの異なった音部記号も使い分けて、見事に演奏し、

  「僕にはこんなこと簡単さ!」と大人を呆然とさせました。

神童伝説は、まだまだあります。

モーツァルトの才能を、神からの贈り物ととらえて、それを開花させるのが

使命と考えて、自らの一生をささげた父レオポルト。

こうして神童は天才になったのです!

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モーツァルト 2 モーツァルトの家族

2006-10-05 | 音楽

                      

モーツァルトの家族は、右の父、レオポルト、肖像画になっている母マリーア・アンナ、

そして左の姉、ナンネルです。

神童を天才にしたすぐれた教師 レオポルト

天才モーツアルトの教育に全力を尽くした父、レオポルト。

アウグスブルクで生まれた彼が、ザルツブルクにやてきたのは、大学生のとき。

そして、数々の音楽の職業に就き、宮廷音楽家として安定したころ、

マリーナ・アンナと結婚します。

レオポルトは、優れた音楽理論家でもあり、彼の教育プログラムは見事なものでした。

音楽だけでなく、語学や算数も自ら息子に教え、

さらに音楽的社会的経験を積ませるため、音楽都市への旅行を積極的に行った。

しかし、成人したモーツァルトは、大都市での就職が出来ず、

また反旗を翻して、息子は自分のところを離れていく。

67歳で生涯を閉じたレオポルト、晩年は寂しく、

また生前嫌いぬいた、モーツァルトの妻のコンスタンツェやその家族と同じ墓地で眠っているそうです。

明るく優しい母、マリーナ・アンナ

姉、ナンネルの回想によれば、結婚した当時の2人は、

ザルツブルグで1番美しいカップルといわれていたようです。

結婚後のマリーア・アンナは、良き妻、良き母で、

モーツァルトの底抜けに明るい性格は、母親譲りといわれています。

顔立ちも母親似でした。

2人の間には6人の子供が生まれましたが、生き残ったのは2人だけ。

彼女は、モーツァルト21歳のとき、夫の代わりにマンハイム・パリ旅行に同行しますが、

初めての体験に疲れたのか、1778年パリで57歳で病死します。

神童姉弟と騒がれた少女時代 姉ナンネル

初めは、ナンネルの教育から、有名な『ナンネルの音楽帳』もかいたレオポルト。

でも、4歳半違いの弟の特別な才能に気がついた彼は、

ナンネルも一緒に演奏旅行に連れて行き、神童姉弟と騒がれました。

母が、旅先で病死したため、ナンネルが父の世話をすることになり、

父の反対により、32歳まで結婚できず、その後、弟モーツァルトとも少しずつ心が離れていきます。

その後、2人の子供を亡くし、自分も盲目になり、弟も亡くし、

79歳まで生きましたが、墓地は遺言より、同じザルツブルグでも父とは違う別の場所に、眠っています。

モーツァルトの性格が母に似ていたのに対して、

ナンネルは几帳面で思慮深く、父の性格を受け継いでいました。

また父に似て、記録を残すことが好きで、

モーツァルトの回想も、ナンネルの貴重な情報も多いのです。

 

次回は「神童 モーツァルト」です。お楽しみに!

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モーツァルト 1 モーツァルトの名前

2006-10-01 | 音楽

             モーツァルト肖像画

モーツァルトの名前は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトですが、

キリスト教社会では、洗礼名というのがあります。

1756年1月27日に生まれたモーツァルトには、

「ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス」(洗礼名簿より)

という名がつけられました。

 ヨハネス・クリュソストムス  1月27日を祝日とする聖人の名前

                  4世紀の代表的な教父だったこの聖人は、

                  クリュソストムス(「黄金の口」の意味)と呼ばれていた

 ヴォルフガングス  聖ヴォルフガングは10月31日を祝日としていて、

             この日はカトリックの習慣によって、

             モーツァルトの実際の誕生日より、重要な日になった。

 テフォーフイルス  これは「神を愛するもの」というギリシャ語。

             このラテン語の呼び名がおなじみのアマデウス

             後年モーツァルト自身がこの名前を使っている。

聖人たちの素質にあやかりたいという願いが込められたモーツァルトの名前。

その名前のとおり、彼は’聖人’へと成長していきます。

このシリーズは、少しずつ連載します。

次回は「神童 モーツァルト」です。お楽しみに!

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