摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

岡田鴨神社(木津川市加茂町)~加茂氏と同時に山城へ移ったらしい秦氏と「徐福さん」のこと

2021年03月13日 | 京都・山城

 

大和の鴨(鴨都波神社高鴨神社等)と京都の賀茂(通称上賀茂神社、下鴨神社)とのつながりを思う時、キーになるのがこの南山城に鎮座する、「延喜式」式内大社の岡田鴨神社とされます。ご祭神は加茂建角身命で、一般に山城賀茂氏、葛野鴨県主の始祖と言われ御方です。北側に流れる木津川はかつては鴨川と呼ばれていたらく、「続日本紀」742年に゛鴨川の名を宮川に改める゛とあります。れは当時、ここに恭仁宮があったためです。

 

・鳥居前にある「左 いがいせ」の道しるべ

 

【祭祀氏族】

「山城国風土記」逸文の賀茂社の条に、゛賀茂建角身命、神倭石余比古(神武天皇)の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし。彼より漸に遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、(中略)彼の川より上りまして、久我の国の北の山基に定まりましき゛と書かれ、八咫烏の子孫であるとされる上賀茂・下鴨神社の祭祀氏族賀茂氏が、葛城→岡田→賀移動した由緒となっています。

 

・長い参道が残されています。元々木津川沿いに鎮座していたのが、この元八幡宮の地に遷座したとされます

 

【賀茂氏と秦氏】

谷川健一編「日本の神々 山城」大和岩雄氏は、この岡田の地は秦氏の居住地でもあったと云います。「秦氏本系帳」によれば、賀茂氏と秦氏が姻戚関係にあったとの伝承があり、「大西家系図」では稲荷神社を創祀した秦伊侶具は鴨県主久治良の子で、松尾大社を創祀した秦都理は鴨禰宜板持と兄弟だとされます。また、山城賀茂氏の原郷は上記の通り葛城とされますが、一方秦氏は応神天皇の時期に渡来し、大和朝津間腋上に居住したとされ、これは現在の御所市にあり葛城なのです。

 

・゛八咫烏゛像から、人感センサーでお水が出ます

 

【発掘遺跡からみえる賀茂氏・秦氏の移住】

大和氏は、「京都の歴史1」での京都嵯峨野の発掘状況を引用されます。つまり、5世紀後半ごろ嵯峨野に定着した新勢力が、桂川の治水に成功します。この勢力により、向日市北部では5世紀末を境に首長墓の系譜に断絶があり、さらに乙訓丘陵でも首長墓の断絶があり5世紀後半に首長墓の系譜が二つに分裂したと考えられます。これは秦氏と共に加茂氏が岡田から北上し、前者が桂川・賀茂川の合流点ら深草と葛野に入ったのに対し、加茂氏はその合流地点北方の乙に居住し、さらに賀茂川をさかのぼったと思われ、乙訓丘陵の首墓が5世紀後半に二つに分裂した原因は、そこに求められるべきと、和氏は考えられます。

 

・こじんまり落ち着いた境内。右の摂社は金刀比羅神社。楠木の大木が威厳あります。

 

【「日本書紀」からみえる賀茂氏・秦氏の移住時期】

葛城を拠点とした葛城氏は、雄略天皇によって滅亡しました。大和氏はこの際、葛城の賀茂氏・秦氏が王権強化の為に、交通の要衝の地であった岡田に移住させられただろうと言われます。また、賀茂氏は同じく淀川の要衝の地にも移住したとされ、それが摂津三島、三島江の三島鴨神社の地だと考えられます。雄略紀に、凡河内直香賜が采女を冒し、その罪により三島の藍原(現在の茨木市太田)で斬られた記事があります。そもそも三島郡は凡河内直の本拠地であり、この時、加茂氏が三島江から藍原の地に進出し、そこに赤大路鴨神社が祀られただろうと考えられるのです。

 

・本殿。左が八幡宮(菅原道真公)、右が賀茂大明神(賀茂建角身命)

 

この凡河内直と同じ天津彦根命を祖とするのが、京都、山代国造の山代直であり、上記の凡河内直香賜の顛末は山代直にも影響があっだろうと想定されます。それが加茂氏及び秦氏の山城進出であり、三島での加茂氏の動きと同時期の事と思われます。下鴨系図によれば賀茂神社禰宜に白髪部造がいて、一方摂津三島にも白髪郷があり、その白髪は雄略天皇の皇子の名で名代である事から、山代・三島両地への賀茂氏の進出は雄略朝のころだと考えられるようです。

 

・江戸時代に春日大社より移された春日造(春日移し)。府指定有形文化財。

 

【伝承の語るハタ氏】

東出雲王国伝承では、葛城のカモ氏は東出雲王国から摂津三島を経由してきた登美氏と、西出雲王国から移住した高鴨氏の2氏族の事と説明します。そして、その後に丹後から葛城に移住しそこに加わる海部氏(&尾張氏、いわゆるアマ氏)が、そもそもは中国秦の時代にその国から、まず出雲王国に渡来した秦(ハタ)氏なのだというのです。登美氏と海部氏は連合で初期大和勢力というべき葛城王国を運営したというのが出雲伝承の主張なので、大和氏の説明と合わせると、九州東征勢力が大和に入った後、王権を追われても一貫して山城まで行動を共にしていったように見えて、話の通りは良さそうです。

 

・本殿裏側

 

秦国から出雲への渡来のしばらく後、ハタ氏は九州の今の佐賀県にもやって来たと言います。出雲と九州北部に海童神社があるのがその名残の一つらしいです。共に引き連れて来たのは同じ御方で、雲伝承は中国の「史記」の話を引き合いに、これが徐福だと説明しいます。そして、九州からは物部氏が興ったらしいです。ただ、゛原゛ハタ氏と、一般に認識される朝鮮系秦氏との関係がどうなのかや、現実に存在する秦氏と尾張・海部氏、物部氏がどう区別されていったのかについては、簡単な説明(養蚕神社(木島坐天照御魂神社)廣峯神社の記事で触れました)しかなくてハッキリしません

 

・庇の垂木が疎な古い形式

 

【ハタ氏と「徐福さん」】

出雲への徐福渡来は出雲伝承の根幹となる重要な事件ですが、一般の徐福渡来伝説では出雲は出てきません。日本徐福会などが協力し徐福友好塾が2005年に発行した、全国の徐福伝承研究を網羅した自費出版本「徐福さん - 伝承地に見る徐福像と徐福伝説」にも、出雲は載ってません。その本は各地域の在野の研究者の方々がそれぞれの調査や地域の伝承(町興し的な話も含む)を寄せておられ、特別寄稿(あの元総理、羽田孜氏もご寄稿され、徐福一行のハタ氏説への持論を述べられています)も合わせて相当リュームです。内容の中心は渡来伝承の検証にかかわる話で、その他中国ゆかりの地巡りや、ごく一部で徐福と神々の関係を推定されたりしてます。私はその本を、徐福友好塾の鳥居貞義氏ら直々購入させていただきましたが、鳥居氏はこれが徐福の全であり、これ以上はもうない、とおっしゃっていました。

 

・小ぶりな鹿嶋神御子三十六神社

 

一方、物証主義を旨とする考古学でも、徐福が検討される事はほとんど見ません。以上が一般的な世間の実情のようであり、今のところ徐福は古代史の奥深いロマンとして楽しむものだと、心に留めておく方が良いと思っています。ただ、「徐福さん」では出雲は含まれないものの、丹後、佐賀、宮崎、鹿児島そして熊野等々が重要な渡来伝承地として登場し、そのロマンを強く掻き立てられます。それにしてもなぜ出雲の伝承が広く一般に語られる事がなかったか、逆になぜ出雲伝承で突如徐福の出雲渡来の話が出て来たのか、や不思議で大事な事なので、もう少し説明が欲しいですね。

 

日本徐福協会(2016年に発足)の会長を務められ、かつて中国の徐福記念館の館長されていた田島孝子氏が、最近、出雲伝承を語る斎木雲州氏と富士林雅樹氏と「江ノ電沿線新聞」で対談された事があったようで、新聞のホームページで確認できます。そこでは、島根県の五十猛海岸に徐福が上陸した話もされてましたが、今後、徐福の出雲渡来伝承がどう展開していくか、見守りたいです。

 

・田畑に囲まれ、道中の道も狭く、何となく隔絶感も感じた鴨村(左に見える赤いのが一の鳥居)

 

加茂氏が南山城の岡田の地に入ったのは、3世紀の九州東遷勢力大和攻撃に遭った時だと、出雲伝承は説明します。ただし、一時退避だったみたいで、しばらくして大和磯城の地を回復したとの話になっています。そしてその後、「山城国風土記」にあるとおり山城に移住したと記していますが、時期など具体的な事は語られていません。もちろん、賀茂建角身命でなく子孫が移住していったという事です。岡田まで行く道中、道路沿いに流れる木津川の流れはなかなかスケールが大きく、やはり古代史ロマンに満たされました。

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公「古が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、梅原猛「葬られた王朝」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その大元版書籍

 


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