摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

石清水八幡宮(八幡市八幡)~宇佐家古伝が語る男山勧請当時のことや放生会の由来

2022年03月19日 | 京都・山城

 

全国的に著名な大神社で、高槻から車で一番近いのがこの石清水八幡宮になると思います。平安京から見て裏鬼門(南西)に位置して京の都を守護してきた神社です。ご利益としては厄除信仰の歴史が長く、平日に行ったにも関わらず参拝者が絶えることなく訪れていました。今回は、有料(500円)になりますが、麓の頓宮横の駐車場に停めて、男山の表・裏参道や展望台など一通り巡り、良い空気を堪能できました。また、観光スポット的なポイントも盛りだくさんで、写真を載せきれないほどです。なお、男山山上の三の鳥居近くの駐車場なら無料で停めれるます。

 

・一ノ鳥居からすぐの頓宮殿。石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる重要な社殿

・高良神社。徒然草で、仁和寺のある法師が当社を本宮と勘違いして帰ってしまったという話が有名

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、中御前に応神天皇、西御前に比咩大神として多紀理毘賣命・市寸島姫命・多岐津比賣命の宗形三神、そして東御前に神功皇后をお祀りしています。八幡神といえば、総本宮は大分県の宇佐八幡宮ですが、その宇佐からこの男山に勧請したのは、南都大安寺の僧行教だとされます。

863年にその行教が書いたと伝わる「石清水八幡宮護国寺略記」にその経緯が書かれています。859年四月にかねてからの願いであった宇佐宮に参着した行教は、大乗教の転読、真言密教の踊念、三所大菩薩の廻向で一夏九旬を過ごしました。同年七月に帰ろうとした夜半に、゛都の近くに移座し、国家を鎮護せん゛との託宣を受けます。そして、京都山崎まで辿り着いた時、゛移座すべき処は石清水男山の峯なり゛とのお告げがあり、そこに仮殿を設けて、経緯を奏上したのです。九月には勅使の下向があり、六宇の宝殿が築造されて、三所の御神体が安置されました。

 

・源頼朝公ゆかりの松と二ノ鳥居

・表参道。参道脇にはいたるところに「男山四十八坊」とよばれた宿坊の石垣が残ります

・松花堂(茶室)・中露地主要部が保存されています

 

【神階・幣帛等】

当社の正史における初見は、「三代実録」861年の条で、近京名神七社の一つとして祈雨奉幣を受けた事が載り、゛天皇が詣旨と掛畏て八幡大菩薩の広前に申賜へと申く゛という告文が載っています。他の六社の告文はこれに准ずるとも書かれるので、この時石清水八幡宮は突如として近京名神七社の大社として登場したことになる、と「日本の神々 山城」で源城政好氏が書かれています。869年の条には「石清水の皇大神」「皇大神は我朝の太祖」と記され、皇室の祖神を祭祀する祖廟になった事がわかります。

「日本略記」では、916年に賀茂社を抜いて伊勢神宮に次ぐ社格を与えられ、その後も長く国家第二の宗廟として崇敬をうけました。976年には円融天皇による初の行幸があり、それ以来、天皇、上皇の参詣も増していき、一代一度の行幸が恒例化していくのです。

 

・三ノ鳥居

 

【造営前後の事情】

995年平寿筆とされる「石清水八幡宮護国寺建立縁起」によれば、清和天皇即位直後の858年に冬祈勅使として行教を差定、翌年に宇佐宮に発向させ、この宇佐滞在中に、太政大臣藤原良房の命によって安宗(行教の甥とされる)らによる一切経書写が宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺で行われました。この行教の宇佐発向は清和天皇の即位奉告祈願の為ではなく、「三代実録」によれば、安宗らによる一切経書写を検校する為の、良房の意向にもとづく発向だった事が分かるようです。

良房は清和天皇の外祖父で、この天皇の即位は惟喬親王らを超えての強引なものだったとされていたことからすると、行教による八幡神の勧請は、太政大臣藤原良房の主導による皇位安泰を願った国家的事業として執り行われたものと考えられるようです。それが行教個人の手になる話になったのは、清和天皇即位直後の良房及びその政権基盤が安定しておらず、反対派の攻撃を避ける為だったと、先の源城氏は考えられていました。しかしその後、良房政権が安定化すると、藤原北家が摂関家として栄華を極めるのに伴い、上記のとおり社格も向上していったのです。

 

・南総門。重要文化財

・本殿と共に国宝になった楼門と境内

 

【中世以降歴史】

八幡神はのちに源氏の氏神とされることで、諸国の荘園に勧請され、現在その数は天神社を抜いて、稲荷社についで最も多くなっています。八幡神が源氏の氏神になった理由は、八幡神が神功・応神帝と結びついた武神とみなされた事と、当社を創始した清和天皇が源氏の嫡流である清和源氏の祖であった事の二つが挙げられると、源城氏は書かれます。そもそも源氏が武家になる前、臣籍降下した貴族の頃からすでに八幡宮を氏神にしていたようです。

源頼信は1046年大阪は羽曳野市の誉田八幡宮で、氏祖としての八幡大菩薩に家門の反映を祈りました(「石清水文書」)。その子頼義は前九年の役の戦勝を報謝し、1063年、石清水八幡を相模国由比郷に勧請しています。さらに頼義の子義家は1045年石清水の社前で元服し、八幡太郎と称しました(「尊卑分脈」)。そして源頼朝が1191年鎌倉に鶴岡八幡宮を造営するのです。足利氏も八幡神を氏神とし、足利義満の社参は十五回にも及んだようです。

 

・2012年に完了した社殿修理のおかげで、朱塗りの鮮やかさが見事でした

・龍虎の欄間彫刻と、鳩の錺金具。右の鳩が口を開けていて、阿吽の呼吸で御神前を守ります

 

【社殿、所蔵神宝】

江戸幕府の援助により1634年に築造された八幡造の本殿及び幣殿・舞殿や楼門、回廊などが、それまでの重要文化財から、2016年に国宝に指定されました。摂末社(若宮社、若宮殿社、水若宮社、住吉社、狩尾社)の社殿や北東西の各総門、永仁三年(1295年)銘の石連灯篭、五輪塔(鎌倉後期)、石清水八幡宮文書、「類聚国史」などが重要文化財になっています。

 

・築地塀(信長塀)。右に見えるのが西門

・住吉社。流造。重要文化財

・若宮社。入母屋造。重要文化財

 

【祭祀・神事】

八幡宮の特有な祭礼として、当社でも「放生会」が行われます。宇佐八幡宮で行われていた放生会が伝えられたもので、元々毎年8月15日に仏教儀礼として神前で法会が催され、鳥魚が放たれました。863年に始められたとみられますが、948年には勅祭となります。室町時代後期に中絶しますが、近世には何度か再興され、明治16年に当社が勅祭社となったことから旧儀にもとづき男山祭と称し、日も9月15日に改められます。大正7年以降は現在の「石清水祭」と呼ばれています。この祭礼は、賀茂祭(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)、春日祭(春日大社)と共に平安時代から受け継がれる古式に則り行われる「旧儀による三大勅祭」の1つに数えられる、と神社は説明しています。

宇佐神宮の放生会は、720年、大隅・日向の隼人の反乱に際し、宇佐君法蓮が朝廷より宇佐八幡宮に隼人征討を祈請されたので、豊前国司宇怒首男人が将帥となって征討し、凱旋後に行われたのが初めとされます。これは八幡大神が多くの人を殺傷した減罪の為に放生の実施を託宣し、儀礼化されたもの。元々仏教の「不殺生戒」からきており、捕らえた魚や鳥を川や池または山野に、仏教を厳修して放つ一種の慈悲慈善の行だとされています。

 

・若宮殿神社。入母屋造。重要文化財

・水若神社。流造。重要文化財

 

【伝承】

「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」で宇佐公康氏は、宇佐八幡宮三所の御分霊が勧請された当時について、゛宇佐の神官や僧侶にとっては、実に断腸の思いがするほど、悲しくいたましい出来事であった。(中略)このとき、宇佐は諒闇(天皇が喪に服すること)にひとしく、まったく火の消えたような淋しさであたという゛という伝えを書かれています。それまで奈良時代の託宣によってその地位を上げ、即位奉告や一代一度の大神宝使をはじめ、ことあるごとに勅使をたびたび差遣されていたのが、勧請で廃止されるのではないかと恐れていたからだそうです。ここからも、勧請が宇佐神宮側でなく、朝廷側主導だった事が分かりますね。しかし、八幡信仰は上記した通り朝廷の八幡崇敬の高まりを元に、結局は全国に広がり発展していったと宇佐氏は書かれています。

 

・鬼門封じ。東北の角が切りとられている石垣

 

大元の宇佐神宮での放生会について、宇佐家伝承では、それ以前の古代からあった宇佐家の神道儀式に、放生の仏教的儀礼が結び付いて起こった神仏習合の儀礼だと伝えられているそうです。いくつかの行列がそれぞれのルートで儀式を行う和間浜(宇佐市和間)に向かうのですが、その一つの香春神社のある豊前国田川郡の神職たちが行っていた、同郡の採銅所から産出した銅で鋳造した銅鏡を宇佐八幡宮に奉納する為の和間浜での儀式が、放生会より先にあったと宇佐氏は説明しています。また、この和間浜は「肥前国風土記」にみえるオシロワケ王の゛宇佐の浜の行宮゛のことらしく、また、香春神社を出た行列が宇佐宮に行く前に一旦立ち寄る豊日別宮と、オシロワケ王の御子豊日別皇子の近さを宇佐氏は気にしておられました。つまり、宇佐八幡信仰は奈良時代より前の古い時代から日本の国家に大きな影響を持っていたのであり、また東出雲伝承と絡めると、当時宇佐氏と物部氏が親密だったということの現れなのかしら、とも感じています。

 

・展望台から京都市街方面を望む

 

(参考文献:石清水八幡宮公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、三重放送TV番組「氏神さま」、谷川健一編「日本の神々 山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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