摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

葛野坐月読神社(かどのにますつきよみじんじゃ:京都市西京区)~月神と共に聖徳太子や天鳥船命が祀られる不思議

2022年05月28日 | 京都・山城

 

松尾大社の摂社という位置付けですが、観光名所・嵐山の松尾大社から歩いて5分くらいの距離に独立して鎮座しています。京都には、こちらと京田辺市の月読神社の二つの著名なツキヨミ社がありますが、こちらは神功皇后ゆかりの月延石が有る事から「安産守護のお社」として崇められてきました。神社としてはこじんまりとした境内ですが、社殿以下並ぶ祠や磐座の由緒がそれぞれ興味深く、いろいろ想像させていただける神社です。現在の神社名は単に「月読神社」ですが、タイトルは「延喜式」神名帳の記載名にしました。

 

・神門

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、月読尊。当社鎮座の経緯は、「日本書紀」顕宗天皇三年に記載されています。阿閉臣事代が命を受けて任那に使いした時、月の神が人に憑いて、゛わが祖高皇産霊は、天地を御造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ゛などといわれた事から、山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ、当社の旧鎮座地)を奉られました。そして、壱岐の県主の先祖の押見宿禰がお祀りして仕えました。二か月後にまた阿閉臣事代に、今度は日の神が゛倭の磐余の田を高皇産霊に奉れ゛といわれ、対馬の下県直が祀った、と続きます。なお、壱岐には現在も月読神社がありますが、これは新しい社で、本来の元社は箱崎八幡宮と考証されています。宮司の先祖は壱岐氏だという事もそれを裏付けています。

この日神と月神とは、記紀にあるアマテラス大神・ツクヨミノミコトとは全く別の信仰であると多くの研究者が考えられてます。さらに、「万葉集」に、゛天にます月読荘子(おとこ)゛゛み空ゆく月読荘子゛゛月人荘子゛゛月人乎止祐(おとこ)゛と多く書かれることより、この神は男神だったと考えられます。さらに「万葉集」では、月は゛舟こぎ渡る月人荘子゛、゛海原をこぎ出て渡る月人をとこ゛などと歌われていて、そもそもこれは「日本書紀」一書の六にある゛月読尊は青海原の潮流を治めなさい゛という記事の影響であり、この記事こそ本来の月神神話を伝えるものであり、それは海人たちの月神信仰からうまれたであろう、と「日本の神々 山城」で大和岩雄氏が考えられています。

 

・境内。正面が祈祷殿

 

【祭祀氏族、神階等】

「日本書紀」の当社創祇譚は、任那に使いした時がきっかけとなっています。祭祀の中央集権化は、上田正明氏らの考えでは欽明・敏達帝の頃ですが、これは任那が滅亡し、朝鮮半島に対する対馬・壱岐の重要度が増した為です。大和氏は、亀卜に優れた壱岐、対馬の卜部氏が中央祭祀に関わったのはこの頃であると思われるので、当社の創祇も6世紀中頃か後半だろうと考えます。

「日本古代氏族事典」によると、卜部(占部)は卜兆のことに従事した氏族で、系統を異にする卜部氏が諸国に居住しました。壱岐島の卜部氏は伊吉島造・壱岐直の同族で、対馬島の卜部氏は国造にあたる津島県直の同族です。他にも、伊豆国や筑前国などにもいましたが、「常陸国風土記」香島郡条には鹿島神社の周辺にも卜部氏が居住していたことが記されているようです。

 

・本殿

 

当社の壱岐県主は壱岐直になりますが、「新撰姓氏録」右京神別には、゛壱岐直。天児屋根命の九世孫雷大臣の後なり゛と書かれ、「歌荒洲田卜部伊伎氏本系帳(松尾社家系図)」には、゛雷大臣の子真根子命、神功皇后の御世、真根子父に随ひて三韓に赴き、帰朝の後、猶壱岐島に留まり、三韓をまもる゛とあります。大和氏は、この記述は壱岐直の系譜を中臣氏に結び付けようとして造作したものだろうと考えておられます。それは「旧事本紀」の国造本紀に゛伊吉島造。磐余玉穂朝(継体帝)、石井(磐井)の従者新羅海辺の人を討ちし天津水凝の後、上毛布直造゛とあり、壱岐氏は中臣氏系ではないからです。同じ卜部として宮廷に奉仕した中臣氏が権力を握ったので、そこに近づこうとしたとされます。このように、中臣氏は卜部を率い、支配していったと考えられるのです。

神功皇后に同行した雷大臣は中臣鳥賊津連のことだと、「神功皇后の謎を解く」で河村哲夫氏が述べられています。その本によると、「津島亀卜伝記」に、雷大臣が遠征の帰途対馬に留まる事で朝鮮半島のその後に備え、そして県直となり亀卜の術を伝えたと書かれているそうです。対馬には雷大臣をご祭神とする式内社の雷命神社があります。これらを見ると、雷大臣は九州の地に馴染みのあった御方である感じがします。

 

・本殿の形式は一間社流造

 

「続日本紀」によれば大宝元年(701年)木嶋の天照御魂神や葛野の月読神など四神の神稲を今後は中臣氏に給するという記述がありますが、一方松尾社でも同年、秦都理らによって日埼峯の磐座祭祀から山麓に神殿を造営した記事があり、これらは無関係ではない、と大和氏は述べられます。中世以来松尾社の社家には秦姓が多いですが、社務の実権は摂社の月読神社の長官中臣系の伊岐氏(松室氏)が掌握した、と「京都市の地名」に書かれるように、両社の社家は密接な関係に有ったようです。

「三代実録」では、859年に葛野月読神が正二位。「月読大神宮伝記」には、869年に従一位、906年に正一位勲二等を賜ったと見え、大和氏は他社との対比でみても、信用できるとされています。「延喜式」神名帳には、名神大社、月次新嘗となっています。

 

・願掛け陰陽石

 

【記紀と伊勢神宮の月神】

ツクヨミ命は、天照大神の弟にあたる存在ながら、記紀にあまり事績が語られませんが、日本書紀の一書十一に若干記載があります。それは、ツクヨミ命が保食神を訪れて接待を受けましたが、保食神が口から飯や大小の海魚類を出して調理していたので、ツクヨミ命が怒って切り殺してしまったというもの。これで天照大神に「お前は悪神だから見たくない」と言われ、昼と夜とに分かれて住むようになった、という顛末です。

一方、伊勢神宮の「皇太神宮儀式帳」(804年)では、別宮の月読宮にあったというご神像が馬に乗る男の姿だと記されています。伊勢神宮の別宮ですから記紀の体系で祀られているものの、神像だけは上記の保食神を切り殺したようなツクヨミ命の本来の荒々しい武神のイメージを伝えていたようです。これが自然神の日・月神が人文神になる過程で、日神が皇祖神となったため、荒々しい男神は素戔嗚命に移されてしまい、ツキヨミは活躍の場を失っ たのではないかと大和氏は考えられていました。

 

・本殿向かって右側。玉垣の中の木が「むすびの木」

 

【旧鎮座地比定】

「葛野坐月読大神宮伝記」では、「荒樔田」について、上野と桂の二つの説を載せています。大和氏は「文徳実録」の856年には「河浜」の近くに月読社があったと書かれるので、「河浜」の上野が本来の鎮座地だろうとしつつも、月と桂の関係から上桂の里も無視できないと、結論を出されていませんでした。

 

・月延石

 

【社殿、境内】

境内の月延石は、「甕州府志」(1648年)に、壱岐公乙等を筑紫伊都に遣わし神石を求め、一巻を京都の月読神社に納めた。この石は昔、神功皇后と共にあり月神が教えさとした。それでお産を延ばされたので月延石と名づけられた、と書かれています。江戸時代の古書に神功皇后が月神を信仰したと書かれていたようです。現在もこの石が安産に霊験があるとして篤く信仰されている事は、参拝者によって積み上げられた沢山の祈願石で理解できます。

その隣には、聖徳太子社の祠が有り、太子が月読命を崇敬された徳を称えたと神社は説明します。一見、なんで太子?と思ったのですが、上記の中臣(≒藤原)が月読社と強い関係を持った関係から太子信仰が持ち込まれた感じがします。さらに、本殿向かって左には御船社の祠がありご祭神は天鳥船命です。稲背脛命と同じ神とも見られます。記紀に登場される神ですが、これまで祀られるのを見た記憶があまり出てきません。

 

・祈願石が積み上がっています

 

【祭祀・神事】

松尾大社の大祭に参加する七社に含まれますが、当社は神輿ではなく唐櫃を出します。この唐櫃は、当社に御船社があることから、大和氏はおそらく船の意味だと推定されます。月神が船に乗って渡御する事を示しており、当社の月神が元々海人に信仰されていた事の名残だと考えられていました。

 

・聖徳太子社

 

【伝承】

「飛鳥文化と宗教争乱」で斎木雲州氏は、常陸国の鹿島神宮が神八井耳の子孫仲国造が建てた古社で、いわゆる宮中祭祀の中臣氏は、その鹿島神宮の元神官・卜部家の分家だったと書いています。豊後の中津に移住しナカツオミと自称、仲哀(中津彦)大王の側近になり(注:雷大臣?)、神功皇后の時代から宮中祭祀を職業としたそうです。中臣氏と後の藤原氏の系譜は厳密には違うが、元は一緒で共に鹿島神宮の卜部だったという説明です。斉木氏の伝承と、上記の大和氏の説明される時代とがどのようにつながって、藤原・中臣氏が力をつけていったのか、想像が膨らみます。

 

・本殿向かって左側。左端に「解穢の水」が見えます

 

またその東出雲王国伝承では、古代古墳時代始め頃まで大和は地域勢力に留まっていたが、その王権は時々変わっていると主張しています。そして、その交代させた側が月神を信仰していたことが複数あり、神功皇后もそうだったといいます。この為、後のヤマト王権は月神をあまり宜しく思ってなかったそうです。童話「かぐや姫」で、姫が月を見て物思いするのを、ある人が゛月の顔を見るのは忌むべき事だ゛と言った話がありますが、松前健氏がこの話から、古代の日本人は月面を眺めるのを不吉だと考えたらしい、と述べられていたのと関係するような。さらに、以前伊勢神宮別宮(月読宮月夜見宮)の記事で紹介した、宇佐公康氏の豊国宇佐家伝承もありました。

 

・御船社

 

御船社のご祭神天鳥船命の別名は稲背脛命等と言われますが、出雲伝承ではタケヒナドリ(武夷鳥命)の事であり、武日照命も同じ人だとします。出雲国造の祖天穂日命の子で、海部氏の祖先たちと一緒に渡来した御方らしいです。こう見ると、やはり当社や松尾大社は、海部氏と関係が有りそうに見えます。

それにしても、中臣氏は伊勢神宮も含めて日神・月神関係の神社のみに関わったとされますが、月神の当社に深く関わっていたのはなぜでしょうか。大宝元年、まだ持統太上天皇はご存命です。日神を天照大神へと発展させる一方で、月神の存在感をコントロールする任務があったのでしょうか・・・

 

(参考文献:摂社月読神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 山城/九州」、河村哲夫「神功皇后の謎を解く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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