摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

穴師坐兵主神社、相撲神社(桜井市穴師)~ 中国の武神の名を持つ神社が祀る、元祖ハタ氏の神

2019年06月08日 | 奈良・大和


渋谷向山古墳を右に見て南に進み、桜井市穴師に入ったくらいで、山の辺の道を東に外れ、景行天皇纏向日代宮跡碑、その伝承地も通り過ぎてさらに上がっていくと、穴師神社の鳥居にたどり着きます。まず右手に相撲神社の祠が現れ、さらに奥まったところに穴師神社があります。


・木々が茂る薄暗い参道から明るい境内が現れます。修繕作業中?

 

【旧鎮座地とご祭神】

「延喜式神名帳」当時は、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の3社として存在しましたが、これらが合祀されて穴師神社と総称されています。かつては上下2社に分かれ、上社が弓月(斎槻)岳にあった穴師坐兵主神社、下社が現在地にあった穴師大兵主神社でしたが、上社が応仁の乱で焼失したので、ご神体を下社に遷し、その時巻向社も合祀したそうです。

現在の祭神は、兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神。かつては、諸説あるようですが、上社が御食津神、下社が天細女命を、少なくとも江戸中期には祀っていただろうと大和氏は考えられてます。もう一社の巻向坐若御魂神社の祭神は、稲田姫命だとする説がウィキペディアに載っています。

上社のあった斎槻岳を探索すると、峰から南南東へやや下がった所に人工の平地が確認されており、ここが上社跡と推測されますが、土地の方は「ゲシノオオダイラ(夏至の大平)」と呼んでいるそうです。斎槻岳山頂~上社跡~下社現在地~箸墓の中心線が一直線に並んでおり、箸墓から見ると斎槻岳に太陽が昇る時期に稲作の生育を祈ったのだろう、と谷川健一編「日本の神々」で大和岩雄氏は推論されています。ただ、厳密な夏至の時期とは異り、播種の時期に夏至の祭祀をしただろう、とのお考えです。


・拝殿。新天皇ご即位の垂れ幕がコチラもしっかり有りました

【天日矛命とアナシと兵主神】

兵主という名は、中国、漢の高祖が兵を挙げた時、兵主神の蚩尤を祀って勝利を祈った事に由来します。この蚩尤は、砂と石、砂鉄を食べていた鉄人とされていて、つまりは鉄に関わる氏族が祀っていた神のようです。これは穴師(アナシ)の由来にも繋がり、岩穴に入って砂鉄を採掘する人達を意味するとの説が有力なのです。実際、景行陵と崇神陵の中間の柳本町山田で、古代のタタラ製錬による鉄埤層が発見されています。三輪山から流されてたまった漂沙鉱床と、初瀬川や巻向川に堆積する硅砂を熔解すると製鉄が出来るそうです。最近まで゛カネホリバ゛と呼ばれた廃坑も確認されてて、明治末期まで石英を採掘していたようです。

一方、万葉集等では纏向のアナシを痛足と表記しています。これは脚ダタラ踏みの作業者はなにかと足患いをする事が多かったからだろう、と想定されているようです。一方、
アナシについて、風の吹くところを意味するとの違う説もあり、その話を、関連すると思われる泉穴師神社(大阪府)を参拝した記事で記載しました。

・横から本殿を望みたいけど、よく見えません


・流造の本殿


兵主神社という名の神社は近畿地方に多く存在しますが、大和氏は天日矛命を祖とする氏族が兵主神を祀ったと推測されてます。その兵主信仰が穴師信仰と習合したのが、穴師坐兵主神社と穴師大兵主神社だというのです。穴風(アナシ)は昔は荒風(アラシ)と同義であり、アナがアラから転じる事を踏まえると、兵主神社や天日矛命が「穴」の地名と結びつく、と大和氏は例を挙げて述べられています。

  • 「日本書紀」垂仁天皇条に、天日矛が近江国吾名邑に入る、とある地を、滋賀県草津市村町の安羅神社とする説
  • 同じく同地を、「和名抄」の坂田郡阿那郡とする説。坂田郡は天日矛の子孫の息長氏の本拠地
  • 「日本書紀」垂仁紀に、近江国鏡村の谷の陶人は天日矛の従人だ、とする地を、苗村(ナムラ)神社としアナムラの転とする説
  • 野洲市の兵主大社について、滋賀県大津市太の景行天皇穂宮に社地が有ったのが、琵琶湖を渡って現在地に遷ったとする社伝
  • 天日矛が最後に落ち着いた但馬の出石に見郷がある。ここに式内社大生部兵主神社があり、祀った一人が天日矛の子孫三宅連神床

ただ、個人的にはこの天日矛関連説は分かりにくく、大阪の貝塚にある兵主神社を参拝した時の記事でそれに関して触れてみました。


・境内は一部立ち入り不可のところも

【弓月君の秦氏と兵主神】

祭祀氏族については異説もあります。弓月岳の名に関し、秦の始皇帝が斉の国のある山東地方を旅行し、そこで祀られていた天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時主の八神を祀ったと「史記」にあります。このうち兵主が根本の神なので、弓月岳の兵主神は、秦の始皇帝を祖として秦の民を率いて我が国に渡来した弓月君を祖とする秦氏によって祀られたと、内藤湖南が推測しているのです。大和氏はこの説は全面的に受け入れられないが、秦氏も無関係ではないだろう、と述べられていました。

この大和の穴師神について、「新抄格勅符抄」という文書に、806年、大和に5戸、和泉に8戸、播磨に29戸の神戸が与えられた、と記述されてます。大阪には泉穴師神社と兵主神社があります。兵庫県には、伊太代(イダテ)神と安志(アナシ)神を合祀した射楯(イタテ)兵主神社と、大和から勧請したという多可郡の兵主神社があります。


・摂社 相撲神社の鳥居。「野見宿禰公」の名が刻まれてます

【相撲神社】

相撲神社は、日本書紀垂仁紀で野見宿禰と当麻蹴速が相撲をとったところとされていますが、他の文献はありません。しかし、「事物原始」という文章に蚩尤は相撲(角力)が強い、と書かれています。このような蚩尤神と相撲伝承は無縁でない、と大和氏は述べられています。太市長岡岬に大和神社を祀った長尾市が野見宿禰を出雲から連れて来たので、大和神社の旧地の穴磯(アナシ)邑近辺で行われた可能性もあります。


・相撲神社の祠。左に堂々たる石碑。

(以上、参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」)

【伝承】

東出雲王国伝承では、この穴師神社を「穴師坐射楯兵主神社」と表記しています。この神社は登美氏の後に、丹後地方から大和に移って来たアマ氏(後、海部&尾張氏)が建てたと云います。アマ氏も、登美氏や西出雲の高鴨氏と共に、最初は葛城に居ましたが、その後、この地にも入ったそうです。

伝承ではアマ氏の祖天火明命は、紀元前に秦の時代の中国から来た「原」ハタ氏系の人なので、蚩尤の信仰が伝わったと説明されてます。上記の弓月君祭祀説が近いですね。祀ったのは天火明の孫、天村雲命だそうです。射楯イタテは、天氏の始祖神である、五十猛(イソタケ)の名が変化したもので、元はこの御方が祀られたとの説明です。

穴師での相撲説話は、東出雲伝承では言葉通りの相撲ではなとしていますから、やはり、蚩尤神にちなんでこの地を記紀説話の比定地にしたのでしょうかね。


・景行天皇纒向日代宮跡碑


・景行天皇纒向日代宮伝承地。休憩所です


・かなり上がるので絶景です。右は渋谷向山古墳(景行天皇陵)


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