摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

御上神社(みかみじんじゃ;野洲市三上)~近江富士の近くの大岩山に大きな銅鐸を埋めた人々

2022年04月30日 | 滋賀・近江

 

高槻から名神高速で向かうと、栗東ICの手前くらいで真正面に三上山(近江富士)の美しい姿が目に飛び込んできます。このように、それほど高い山でもないのにかなり周囲から望見できる姿を拝見すると、なるほどその山の北方(大岩山)から24個の銅鐸が発掘されるくらい、古代から神の山として信仰の対象になっていた事に納得します。門前の道路は交通量が多く、少し北方に行けば安土城跡や彦根城など有名観光地が存在する地らしいにぎわいもありました。

 

・本殿から鳥居まで一直線に南面します

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は天之御影大神。「先代旧事本紀」では、孝霊天皇の六年に三上山に御降臨され、社記によれば、その後約一千年にわたって御上祝が三上山を磐境と定めて斎き祀っていました。そして、718年に藤原不比等が元正天皇の勅命により、榧木原と呼ばれていた現社地に飛騨工を造営使として榧の木で社殿を作らせたとされています。「日本の神々 近江」で宇野日出生氏は、その史実性如何は別としても、三上山を奥宮(神体山)、当社を里宮とする観念を明確に示す伝承といえると書かれていました。

 

・楼門。重要文化財

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

当社の祭祀氏族は、野洲郡一帯に君臨したとみられる安国造と考えられていて、この氏族は「古事記」に記載があります。つまり、開化天皇の皇子・日子坐王の後裔の説明で、゛近江の御上の神職がお祭りする天之御影神の娘、息長の水寄比売と結婚して、産んだ子は、丹波の比古多々須美知能宇斯王、次に、水之穂真若王、(略)この美知能宇斯王の弟の水穂の真若王は、近江の安直の祖先である゛と書かれていますが、この「近江の御上の神職」こそ御上祝で、「安直」は安国造と考えられます。宇野氏は、安国造は古くから三上山を聖地として崇めていて、その祭祀を担った御上祝は安国造の一族と思われ、三上山周辺には古墳群が点在し銅鐸なども出土していると関連性に留意されておられました。

古代における当社の神格は高く、864年に従五位上、865年に正四位下、そして875年には従三位と神階を上げられていったことが「三代実録」に見えます。「延喜式」神名帳では名神大社として月次・新嘗の官幣を賜りました。

 

・境内

 

【中世以降歴史】

社記では、円融天皇のときに勅願所に定められ、源頼朝が三千貫の社領を寄進するほど武家の信仰が篤く、徳川幕府も社領の寄進や社殿の造営を行いました。明治以降は、大正六年に官幣中社になっています。

 

・拝殿。重要文化財

 

【社殿、境内】

当社の現在に残る社殿も貴重な建築物で、一直線に並ぶ楼門、拝殿、本殿がとりわけ美観をほこっている、と先の宇野氏が紹介されています。重要文化財の楼門は、三間・入母屋造・檜皮葺で、1280年の墨書きがあります。同じく重要文化財の拝殿は方三間・入母屋造・檜皮葺、鎌倉時代の建立で、本殿を改築したものとされます。そして本殿は国宝となります。方三間・入母屋造・檜皮葺、鎌倉時代建立で、神社・仏閣・殿社の三様式を合成したような、非常に珍しい構造とされます。内部に1間四方の母屋があり、その周囲に一間通り化粧屋根裏の庇を巡らせた構成とのことです。

本殿向かって左側の摂社若宮神社も建立は古く、鎌倉時代です。一間社流造・檜皮葺。こちらも重要文化財です。

 

・本殿。国宝。向拝は連三斗の組み物ですが、身舎(側廻り)は古風な船肘木です

 

【所蔵神宝】

鎌倉時代の珍しい木造狛犬一対が重要文化財になっています。また、若宮神社にも、小形の木造相撲人形一対が残っていて、県の文化財に指定されています。行司を含めると三体一対で、高さは約30センチ、鎌倉時代末期作で、十月に行われる例祭の相撲神事と関連したものと考えれらています。

 

・摂社若宮神社本殿。重要文化財

 

【祭祀・「芝原式」神事】

当社の祭礼の中でとくに注目すべきは、10月第2月曜日(体育の日・祝日)に行われる「三上のずいき祭」で、古くは「御上神社若宮相撲(そうもく)神事」と呼ばれていたお祭りです。祭の名前は、各頭人宅で親類縁者が集まって、゛ずいき゛で神輿を作る事からきています。神輿前方に木製の相撲猿人形を飾るのが特徴で、御上神社の使いが猿であることや、併せて開催される相撲神事にちなむものと考えられています。

祭祀当日は、各頭屋宅からずいき神輿が神社に向かい、神事が斎行されますが、夜も続いて「芝原式」が行われます。ここでは、酒・肴などを食したあと、デイリと呼ばれる人が猿田彦の面をかぶり、公文(これも祭の役名)それぞれの前で矛(木製)を突くしぐさと鼻くそを投げつけるしぐさをします。何か気に入らない事でもあったのでしょうか・・・そしてこの後、子供達による相撲が奉納されて芝原式が終了するのです。中世以来継承されてきた宮座行事の代表的一例だと、宇野氏は紹介されていました。

 

・摂社三宮神社。県指定有形文化財

 

【伝承】

「海部氏勘注系図」を解説した「古代海部氏の系図」で金久与市氏は、「勘注系図」で天照大神の五代後の孫にあたるのが倭宿祢命であり、一方「古事記」での同五代後が神武天皇に当たる事から、゛「古事記」で神武天皇とされている倭宿祢命゛と表現されています。そして、倭宿祢命の近江での別名が天御蔭(御影)命であり、この御方を祀った野洲町の三上(御上)神社に触れておられました(当社の他にも゛三上゛神社が近くにあります)。倭宿祢命が丹波から大和に入ったと想定されており、その道中に祀られたゆかりの古社の一つとしてです。さらに上記の書では、彦火明命と邇邇芸命は天忍穂耳命の子なのであり、゛「日本書紀」が彦火明命を邇邇芸命の子としたのは「書紀」撰者による作為である゛との、籠神社第八十一代宮司海部毅定氏の主張を紹介されています。つまり、「九州降臨」系に統一して、「丹波降臨」系が削除されたと籠神社の宮司さんが主張されていたということです。そこらの歴史作家さんが云うのでなく、本当に由緒ある神社の宮司さんが言ってるのですから、これは重い言葉に思えます。

一方、東出雲王国伝承では、丹波から大和に行ったのは、「勘注系図」でも倭宿祢命の父とされる天村雲命であり、天御影命(倭宿祢命)は大和から丹後に戻った可能性のある御方という説明でした(「出雲王国とヤマト政権」)。とにかく、当社は丹波・丹後と大和を繋ぐ要所だったという感じがします。また、天御影命は天火明命を祖とするアマ氏から、海部氏として(尾張氏と)分かれた最初の御方ということです(その名はさらに後に定まる)。アマ氏は出雲王国の分家・登美氏と婚姻関係を持ち、ごく初期の大和勢力を形成していたと説明しています。

 

・本殿、後ろから。

 

当社を祭祀した三上祝(安直)の祖である水之穂真若王は、美知能宇斯王の弟なのだから、出雲伝承からすると、つまりはその初期大和勢力王家の血筋の御方であり、九州東征勢力の氏族と対峙する関係に有ったろうと理解されます。美知能宇斯王は最後まで九州勢力と戦った御方で出雲系である意識が強かったらしいので、その弟の子孫の祀った社で今も猿田彦が登場するのは、なるほどと言う感じがします。

記紀では四道将軍(出雲伝承は実際の意味は違うと徹底して主張)とされた(水之穂真若王より前の世代の)大彦命が、高槻の高生郡から三上山の近郊に移って来たらしいです。そして、それを追いかけて来た東征氏族(そのゆかりの勝部神社が鎮座します)と野洲川を挟んで対峙したと出雲伝承は説明します。大彦はその戦いで劣勢になり、信仰してきた゛見る銅鐸゛を大岩山に埋めて、さらに北陸方面に逃れて行ったらしいです。「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は、その大彦命が福井県鯖江市の船津神社に出雲のサルタ彦大神を祀った話が伝わると紹介しています。当社の「芝原式」で(クサッた態度の)猿田彦が登場する事とも通じているのではないかと感じています。なお、埼玉県の稲荷山古墳から出土した国宝の鉄剣に刻まれる「意富比垝」は、言うまでもなくこの大彦命のことです。

 

・三上山。駐車場から

 

(参考文献:御上神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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