摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

兵主大社(ひょうずたいしゃ:野洲市五条)~数少ない神社庭園をもつ三十番神の古社

2022年05月03日 | 滋賀・近江

 

平安時代後期のものとされる庭園を持つという珍しい神社ですが、鬱蒼としげる楓に囲まれた参道など神社境内もとても広く、3万4千平方メートルを図るその境内は、とにかく「大社」と呼ぶにふさわしい重厚感を感じました。ただ、「大社」と呼び始めたのは最近らしく、入口前の案内表には「兵主神社」の記載のままになっています。下の写真の一の鳥居が、二の鳥居や駐車場がある境内入口とは相当離れていて、わざわざ車を停めて撮らなければまりませんでした。

 

・一の鳥居。神社入口はまっすぐ行って左に折れた先で、やはり車で行くような距離です

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は大己貴命、別名八千矛神。つまり、出雲の大国主命です。当社の創祇は、1604年の「兵主神社縁起」(「続群書類従」所収)の記述によります。以下、「日本の神々 近江」の木村史宏氏の記述より記載します。

゛養老二年(718年)に、金色の異光が兵主十八郷を照らした。五条資朝は稀代の思いをいだき、いかなる神の影光かと八崎浦へおもむいて、少しまどろむうちに、夢に衣冠をつけた神が現われ、「われは不動明王で衆生を済度せんがために百二十年前に衿迦羅童子を薬師如来に、制多迦童子を愛染明王に現じて天降らせた。いまわれも降臨して兵主大明神とならん」と告げたので、資朝は北をさして進み行くと、湖中を大亀に乗った白蛇が多くの鹿に護られながら進んできた。資朝はこの白蛇を、扇を開いてそこに移し、さらに五条の村の柏樹の枝に一時移して仮殿を造った゛

 

・二の鳥居と神社入口。すぐ奥に見出し写真の翼廊を持つ楼門があります

 

大和岩雄氏は、同書の「大和」での穴師坐兵主神社の項で当社に触れており、社伝によればとして、古くは景行・成務・仲哀天皇の近江国志賀穴穂宮に社地があり、欽明天皇の時代に琵琶湖を渡って現在地に鎮座したと書かれていました。これが元になって上記の由緒譚になったのでしょうか。

木村氏は、兵主神社は新羅の王子天日槍の伝承との関係が無視できないと言われる事にも触れ、「日本書紀」に記載の、播磨国から宇治川を遡って近江に入り、さらに若狭を経て但馬国に永住したという、天日槍の移動経路を記述されています。

 

・参道

 

【神階・幣帛等】

史料上の初見は「三代実録」の862年で、従五位上勲八等から正五位下に神階が上げられた記録があります。続いて、865年に従四位上、866年に正四位下、867年に正四位上、874年には従三位と急速に昇叙していきました。つまり、近江では859年に正二位を授けられた大比叡神(日吉大社)に次いで神位が高く、「延喜式」神名帳では野洲郡九座において御上神社とともに明神大社に列せられるほどでした。

その「延喜式」神名帳に載る゛兵主の神゛は、大和国二座、和泉国一座(岸和田市の兵主神社)、参河国一座、近江国二座、丹波国一座、但馬国八座、因幡国二座、播磨国二座、壱岐島一座の合計二十一座(十九社)を数えますが、そのうち明神大社になっているのは、当社とあの大和国城上郡穴師坐兵主神社と壱岐島壱岐郡兵主神社の三座だけ。しかも、当社は最も高い神位を誇っていました。

 

・楼門と同様に、拝殿も左右に翼廊が組み合わされています。兵主大社特有です

 

【中世以降歴史】

上記の「縁起」に記述に不動明王が兵主神として降臨したとあるように、当社も神仏習合の形態をとるようになり、その形跡として拝殿の隣に旧不動堂(護摩堂)があります。また、三十番神の一つとして数えられていました。これは著名な三十神が1か月30日間を毎日交番で法華経(ほけきょう)を守護するということ、また、その30神のことで、わが国の天台宗に取り入れられ、のちに日蓮(にちれん)宗において盛んとなったといわれます。とりわけ法華守護は一般に知られており、1日熱田に始まり、三日廣田、十日伊勢、十一日八幡(石清水)と続き、二十七日が三上で、当社は二十八日に位置付けられています。全国六千座から選ばれた三十神ということで、当社がいかに重要な神社であるかが感じられますね。

社伝では、源頼朝が父義朝に同行してこの地を訪れ、庭園の不帰池に兵主明神の影向を拝し、下馬して武運の長久を祈念、天下を統一したのちに当社の社殿を造立し、神領三千余名を寄進したと伝わります。これを裏付ける資料はないそうですが、当社には頼朝寄進と伝える刀剣、武具類が保存されています。先の「縁起」には、のちに足利尊氏が社殿を再建したと書かれています。

また神社によると、豊臣秀吉が1590年に、京都の北野天満宮で兵主大社の大鰐口(鐘)を千利休の釜師に鋳造させ奉納したとの記録が「北野社社家日記」に見えるそうです。境内末社乙殿神社と並んで祀られる天満宮は、その折に勧請されたと伝えられています。

 

・一間社流造の本殿。裏側を取り囲むように庭園が有ります

 

【境内】

本殿の裏手にひろがる約千四百平方mの広い回遊式池泉庭園が有名で、国指定名勝になっています。木村氏が「日本の神々」執筆当時に書かれていた見解では、平野部の湧水を利用したこの池は、以前は、その規模と様式からみて神池ではなく、「縁起」に名がのる地元の豪族五条氏が後世に当社のすぐ近くに館を建て、たまたま当社の境内もしくは隣接地にあった湧水を利用して庭園を造ったと見るのが妥当ではないかと考えられていました。

 

・本殿向かって左の園池周辺を少し伺う事が出来ました

 

しかし神社によると、近年の発掘調査で、平安時代の州浜敷護岸(池や流れを海や川に見立て、岸辺として礫を敷いた面を造るという、古くからある日本庭園の伝統的な護岸意匠のこと)が発見され、さらに中心となる園池に水を引く為の導水路・遺水や排水路、境内外の結界となる築地塀跡なども見つかっていて、神社境内の地に大規模な庭園が築かれていたことがわかってきたようです。平安時代の庭園の概念である、浄土式庭園や寝殿造系庭園とは異なり、水の流れを利用して祭祀が行われていた事を裏付ける土器なども出土し、国内では数少ない神社庭園だと考えられています。なお、庭園拝観料は大人200円と有料で、入口の扉は閉ざされていました。

 

・旧護摩堂。江戸後期の建立ですが、一部、丸柱、格天井に中世の部材が残るようです

 

【祭祀・神事】

当社は古社にふさわしい祭礼や神事が継承されていると言われますが、特に最も古式を伝えるのが八ツ崎神事です。八ツ崎は野洲川下流の琵琶湖岸にあり、兵主神が坂本から湖上を渡って漂着した場所とされていますが、ここへ兵主神を迎えに行くのが八ツ崎神事。当日は宮司は鳥帽子をつけ、白衣を着て御幣をもって湖中に腰のあたりまで進み、祝詞を奏上するというもので、この神秘的な様子が神社のFacebookなどよく写真で見かけます。これを、「オコリカキ」ともいうそうです。

 

・境内末社乙殿神社。天満宮も並びます

 

【伝承】

記紀で四道将軍の一人とされる大彦ですが、大元出版の東出雲伝承では、確かにそのように移動したけれど実際の意味は違い、そしてこの三上山のある野洲近辺に自身の王国をつくっていたと説明します。この御方は初期大和勢力の王の候補であった人で、その大和勢力の祀る神を敬っていたので、後にこの地に当社が建てられたと説明されています(富士林雅樹氏「出雲王国とヤマト政権」)。その政権の立上げ期に磯城地域で祀られたのが、穴師坐兵主神社である事に由来するように理解されます。

大彦は野洲地域に来る前に高槻に住んでいたらしく、その頃に初期大和勢力の一氏族だった登美氏の本家である出雲王家・富氏に援助を求めに行った話を、出雲伝承はしています。そのくらい出雲系としての意識が有った事が、当社縁起の゛蛇神゛につながってそうに感じてしまいます。ご祭神が大己貴命になっているのは、記紀の記述に則り、その出雲系の代表神としてだと想像しています。

なお出雲伝承では、大彦命の後裔氏族である阿倍臣の名は、居住した縁により高槻にある阿武山(あぶやま)と関係があるらしく、高槻市民としては少し嬉しい話です。が、二種類の説がありややこしいので、これ以上ふれないことにします。ちょっと笑われそうですし・・・富士林氏は上記の書で、大彦命の子孫は東北地方まで逃れてアベ王国を作り、その出雲由来の太陽信仰からその国は「日高見国」と称した、と書かれています。

 

・境内。拝殿と社務所

 

(参考文献:兵主大社公式HP・ご由緒説明、コトバンク「三十番神」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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