摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

近江国一之宮 建部大社(大津市神領)~ヒロインであるオトタチバナヒメを社殿前に祀らない不思議

2023年11月18日 | 滋賀・近江

[ たけべたいしゃ ]

 

瀬田西インターチェンジがらすぐのところという便の良い地に鎮座する、名前の通り規模の大きい大神社です。秋の涼しくなった日曜日、丁度七五三の季節で多くの着飾った家族ずれで賑わっていました。境内、社叢は良い雰囲気に整えられていて、撮影スポットも整備され、多くの参拝者に楽しんでもらえるよう心遣いが行き届いた神社だと感じます。御朱印を頂く際に、源氏再興の前途を祈願されたという源頼朝公にちなむ「出世水」というご神水をすすめられ、有難く頂きました。

 

二の鳥居と続く松の参道

 

【ご祭神・ご由緒】

現在は、本殿に主神である日本武尊を、そして権殿に大己貴命をお祀りされています。「日本の神々 近江」では櫻井勝之進氏が、主神の相殿に天明玉命を祀ると書かれていました。また、櫻井氏によると、主神について他に稲依別王(いなよりわけのみこ)説と大己貴命説があるが、当社が建部氏にゆかりの社と考えられる以上、大己貴命は後世の配祇と見るべきと述べられています。というのも、権殿は本来、空殿であるべきだからです。

 

神門

 

神社によると、景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと;父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住んでいた神崎郡建部の郷に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創で、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社である、ということです。

 

神門をくぐると御神木の三本杉がお出迎え

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

「古事記」には、上記の神社ご由緒にもある稲依別王が、犬上君と建部君らの祖だとあります。さらに、「続日本紀」766年七月の条に、近江国志賀の軍団の長である建部君伊賀麿に朝臣の姓を与えたことが記されます。ということで、建部氏はこの地域における有力氏族で、当社は建部氏の氏神社であったと、櫻井氏は書かれます。

 

拝殿

 

「日本古代氏族事典」によると建部氏は、大化前代に建部という軍事的部民を管掌した伴造氏族の後裔です。姓は、君、臣、首。武部、健部も同じで、国造などの地方豪族を伴造にその配下の人々を設定。従来は、日本武尊の名代部とされてきましたが、尊の実在が否定されている現在では、「たける」は武人の意として、上番して軍事的職掌に従事した職業的部民だとする説が有力、ということです。設置時期は5世紀後半から6世紀前半。建部君氏は近江を始め伊賀・美濃、肥後に、建部臣氏は出雲・備中に、建部首氏は出雲にみえます。

 

本殿前の拝所

 

当社は「三代実録」によると、860年に官社に列せられ、863年に従五位下、868年に従四位上と神階が上がっていったことが見えます。さらに、「扶桑略紀」裏書によれば、901年に正四位下から従三位に昇り、「日本紀略」では962年に正三位を授けられました。「延喜式」神名帳では、粟太郡八座の中に゛建部神社 名神大社゛と列せられ、その後は日吉大社と並んで近江国一之宮として重んじられていきます。

 

左の本殿。日本武尊

右の本殿。大己貴命

 

【中世以降歴史】

当社は瀬田の唐橋の東500メートルという要衝の地にあることもあり、中世以降の争いに巻き込まれる事になります。1183年の木曾義仲の将太田倉光が当社に陣をかまえて平知盛と戦っています。また1184年には源範頼が三万もの軍勢で瀬田に陣をしいて義仲の軍と戦ったときも、当社の境内一帯が陣地になったと、櫻井氏は想像されます。ついで1219年北条泰時の軍勢によって社殿が炎上し、1350年にも足利氏と佐佐木氏との戦いによって゛当国一宮社頭以下、一宇を残さず悉く焼払われた゛と、石山寺が都に報告した記録も残るそうです。その後も、応仁の乱でも山名勢に焼き払われるなど、記録にみえるだけでも度重なる被害に見舞われてきました。

 

上座本殿側の聖宮神社は御父・景行天皇、手前の大政所神社は御母・播磨稲日太郎姫命がご祭神。

 

「神領」の名が今も残る瀬田郷の神領は、源頼朝が1190年に寄進したと伝えられますが、これはおそらく従来の神領地が安堵されたということだろう、と櫻井氏は考えられます。近世にはいると膳所藩主が神領二十石を寄進し、祭礼は盛大に再興されたようです。明治時代に入り、明治9年に「建部神社」として県社兼郷社になり、同18年に官幣中社、さらに同32年に官幣大社までになりました。現在名の「建部大社」になったのは、昭和52年です。

 

上座本殿側の藤宮神社は妃の布多遅入姫命、若宮神社は稲依別命。「書紀」の"妾"弟橘姫はおられません・・・

 

【鎮座地、比定、発掘遺跡】

社地は、大野山という丘陵を背景にした景勝の地であり、東海道の出入り口として重要な地点でした。「日本書紀」では、壬申の乱で大海人皇子の東軍を、大友皇子自らがこの瀬田川の地で迎え戦ったと記されます。また、伊勢神宮に仕える斎王が京都の都から伊勢に参向する際には、あらかじめ神祇官の官人が要所要所で祓の神事を行いましたが、この瀬田川はその最初の場所でした。櫻井氏によると、これは王城の地としての都と他国との第一の関門だと考えられていた一証左だろう、とのことです。

 

下座には家臣が祀られます。行事神社は吉備臣武彦と大伴連武日。蔵人神社は七掬脛命。

 

神領については神崎郡に建部荘と称する社頭があったといわれ、現在も建部十七郷と呼ばれ、4月には建部大明神を祭る伊野部神社の神輿を中心とする郷祭が行われています。上記の神社説明のご由緒のとおり、この建部郷が当社の旧社地で、675年にそこから現在地に遷座したと古くから言われてきましたが、櫻井氏は、「和名抄」(938年、平安時代の辞書)など古代の文献には神崎郡に建部郷はみえない、と述べておられます。

 

同じく下座。弓取神社は弟彦公。箭取神社は石占横立、田子稲置、乳近稲置。

 

【祭祀・神事】

大津三大祭の一つとされているのが、当社の納涼船幸祭です。かつては七夕の神事と若宮への渡御が同日に行われていたお祭りで、長く絶えていましたが、大正4年に大正天皇の御大典記念事業の一つとして再興されました。この年の8月17日が旧暦の7月7日に当たっていたため、素麵を供える七夕神事を7日に、若宮への渡御を17日とするように定められました。

 

大野神社。この瀬田の地へと遷し祀られる以前の地主神

 

船渡御のコースは、瀬田川の北浜を出発し、黒津浜で別宮・毛知比神社(ご祭神日本武尊)と若宮・新茂智神社(ご祭神稲依別王)からお餅などの神饌を献じられて、夜に還御するというもの。櫻井氏は、南郷に大きな堰が造られる以前は、本社南方5キロの新茂智神社まで船渡御が可能だったはずで、おそらく黒津浜の供御はもともと毛知比神社のみの行事であったのが、新茂智神社の関津への渡御が不可能になったため若宮も黒津瀬まで出迎えるようになったと考えて良いだろう、と述べておられます。

 

「願い石」と「お食い初め石」は並んでいました

 

【日本武尊に関する記紀の記載の謎】

一般には、日本武尊の物語は、各地を平定していった多数の戦士たちの活躍と苦闘を一人の英雄に結集させたものだろう、と考えられていると思います。東出雲王国伝承を語る「お伽話とモデル」で斉木雲州氏は、゛ヤマトタケルの事蹟はワカタラシとナカツ彦両大王の事蹟と酷似している、と伝承者は言う゛と書かれます。また、オシロワケ大王の事蹟も含んでいるともその本で述べられています。

 

「源頼朝公の出世水」社務所でコップを頂けます

 

「古事記」で倭武命の゛后゛とされるのが、走水の海での入水神話で有名な弟橘姫です。さらに、イクメ王の皇女の布多遅能伊理比売(フタジノイリビメ)命と結婚して、ナカツ彦王を生んでいます。そして、布多遅比売と結婚してうまれたのが、稲依別王です。「古事記」では、倭建命の系譜の後に、ワカタラシ王の話になりますが、そこではワカタラシ王は建忍山垂根の娘の弟財郎女と結婚し、生まれたのがワカヌケ王だと書かれます。弟財郎女やワカヌケ王のその後については、書かれていません。

 

庭園風の池が境内にいい雰囲気を醸します

 

斉木氏が「古事記」の記述で違和感を呈されるのが、イクメ王の皇女である二路入姫がいるのに、弟橘姫を日本武尊の゛后゛と書いている事です。普通に考えれば、先の大王の皇女の方が格上の゛后゛になるはず、ということです。さらに、「日本書紀」はその弟橘姫を忍山宿禰の女と書き、これについて斉木氏は゛「日本書紀」には、(「古事記」の弟財郎女の説明に出てくる)同じ忍山(垂根)宿禰の別の娘・弟橘姫を「賤しき妾の身」と書いている゛と書かれています。以上から斎木氏はまず、二路入姫を架空の人物だと主張されています。

 

旧膳所藩家老の別邸にあったという大灯籠。゛高さ五米四十糎゛とのことです

 

【伝承の稲依別王】

そして、日本武尊の御子であり、建部氏の祖である稲依別王に関しては、斎木氏は、ワカタラシ王と弟財郎女の間に生まれた御子だったと、上記の書や「古事記の編集室」に書かれています。ワカタラシ王は事績少なく亡くなったので、「弟財郎女」の名前を「弟橘姫」に変えて、走水ノ海での入水神話で亡くなる話を作り、一方の稲依別王を日本武尊の御子にして建部氏の祖とすることで、日本武尊が実在すると理解されるように書いたと主張されています。弟財郎女の名は「古事記」に書かれているので、わかりにくいところもありますが、そう主張されていたという事です。

 

境内。写真撮影などで賑わっていました

 

悩ましいのが、近年出雲伝承を書かれている富士林雅樹氏は、また違う話をされていて、日本武尊とされたのはやはり小碓命だったとします。ただし、その実像はやはり記紀とは異なり、「仁徳や若タケル大君」で説明されています。そこでは、日本武尊(小碓命)が近江の地に関係したという話はないのですが、ワカタラシ王が記紀の記載のとおり滋賀県の高穴穂ノ宮を本拠地としたと書かれます。そうすると、斉木氏の主張を前提とすれば、稲依別王がこの近江の地で生まれ勢力を築いたという、素直な流れが見えてくるような気がします。

たとえ日本武尊が実在しなかったとしても、その当時の概ね同じ家系と見られる大王や皇子が国をまとめようとした事蹟を、その後裔がお祀りした神社だったという風に捉えれば、現在に至る信仰の意味合いも何ら変わることは無いと感じます。

 

瀬田唐橋

 

(参考文献:建部大社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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