摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

勝部神社(かつべじんじゃ;守山市勝部)~近江の地で「火まつり」を継承する物部氏の神社

2022年05月06日 | 滋賀・近江

 

「勝部の火まつり」が地域では有名で、JR守山駅近くの住宅街の中にあって、なかなか広い境内を誇っています。このあたりは古来物部郷と呼ばれて、この地域にも物部氏関係者がいたんだろう程度の理解になりますが、その火祭りの由来と、弥生時代末期あたりにあったらしいこの地域での大和勢力との戦いが重なるように見えて、そんなロマンをきっかけに参拝をさせていただきました。

 

・ゆとりある境内。ここで「火まつり」が行われます

 

【ご祭神・ご由緒・祭祀氏族】

現在は、天火明命、宇麻志間知命、布津主神の三柱。合祀神として住吉大神、猿田彦神も祀られています。「日本の神々 近江」では、物部布津命、天火明命、宇麻志間知命となっていました。明治以前は勝部大明神、物部大明神と称されていたそうです。

1597年の奥書をもつ「勝部大明神記」によると、この地は栗太郡物部荘玉岡郷勝部里で、649年に物部宿禰広国別人連が勝部里を領し、祖神として物部布津命、天火明命、宇麻志間知命の三神を祀ったのが、当社の創祇だとされます。「和名抄」の「物部(毛乃倍)郷」に属した地で、当社はその中心地だとみられます。また、「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳」によると、物部郷には法隆寺領の薗地や荘園があったようです。「日本の神々 近江」で宇野日出生氏は、物部氏の滅亡後、法隆寺に施入されたのだろうか、との推論をされていました。

 

・拝殿

 

【神階・幣帛等】

「文徳実録」851年には近江国物部布津神正六位上とみえ、「三代実録」882年には従五位下と神階が上げられている事が記録されています。「延喜式」神名帳には記載されていません。

 

【中世以降歴史】

ご祭神が武神であることなどから、当社は武将の信仰を集めました。近江守護佐々木氏は軍陣の旗竿に当社の竹を用いたと伝わっていたり、近江一向一揆を平定した織田信長は、背かない旨を記した起請文を栗太郡の村々に提出させて当社に奉納しています。

 

・本殿

 

【社殿】

本殿は国の重要文化財に指定されています。1497年近江守護六角高頼が勝部左近太夫重秀と三上越前守頼重を奉行人として再興したもので、1594年には豊臣秀次がこれを修復しました。三間社流造で、梁三間のうち前一間は庇です。これは、身舎の二間が円柱の柱なのに対し、前面の柱が四角柱である事で示されています。その庇に建具を付けて前室(外陣)とし、さらに前に一間分の向拝(庇)がつけられて階段の雨よけにしています。この二重に庇を連ねた形態は、滋賀県特有の流造の形態とされています。身舎、前室ともに柱上に船肘木を乗せ簡素な意匠になっています。

 

・前室や身舎の柱や船肘木が確認できます

 

【祭祀・神事】

当社の祭礼としては、以前は1月8日に行われていた火祭(例祭)が有名です。現在は1月の第2土曜日に行われます。年が明けてから準備した十二基の大松明を境内に並べて、袴姿の若者が御神火から火をもらい一斉に点火すると、その松明の大きさ故に天まで立ち上るかのように豪壮に燃え上がるといいます。その火にあたるとその年は無病息災であるとか、その残り木で粥を炊いてたべると病気にならないと、地域では信仰されているようです。

この御祭の由緒として、「日本の神々 近江」で宇野氏は、昔、村の東端の大沢に大蛇が住んでいて人々を悩ますので、明神に退治を願ったところ大蛇は姿を消した。だから、蛇型の松明を作って神前に供え、焼き捨てるようになったとの伝承を紹介されてました。一方、現在の神社略記に記載の説明では、鎌倉時代に土御門天皇の御病気が重いのが、この地に長く棲む大蛇のせいだったので、切り殺して焼いたところ天皇が全快された、と言う話がされてるようです。

 

・「火まつり」へのお誘い看板。申込資格は、13~34才、地元のやる気のある方です

 

東の浮気(ふけ)に住吉神社がありますが、こちらでも同じ日に同様な火祭があります。これは、先の退治された大蛇の胴体が勝部神社に飛び、そして頭部が住吉神社に飛んできたので、両社で同じお祭りをするようになったとの伝説によるようです。ちなみにこの住吉神社も、739年に物部系の物部玉岡宿禰道足が社殿を創立したという社伝が有る神社です。

 

・堂々たる社殿です

 

【伝承】

火祭の最近の由緒にある、土御門天皇と大蛇の関係がよく分からないので、この話はまずは脇に置いておきたいと思います。富士林雅樹氏は「出雲王国とヤマト政権」でこの勝部神社を、大和から出て高槻の三島郡を経由して三上山近辺(御上神社もある)まで移ってきた大彦命を、大和から追ってきた九州東征勢力にゆかりの社だと説明しています。九州勢力と大彦勢が野洲川を挟んで対峙したが、大彦命は劣勢になり、彼の信仰した大きな銅鐸を大岩山に埋めて日本海方面に逃れていった、と出雲伝承は主張します。つまり、記紀の゛四道将軍゛の説明は作為であり、その人物像を長髄彦の説話に仮託した、と一貫して認めないのです。

大彦命は、出雲・丹後氏族による初期大和勢力の人ですが、出雲の分家の意識が強く、高槻にいた時に出雲まで支援を要請しに出向いたという話もあります。だから、火祭の由緒にある゛大蛇゛は゛出雲族の敵゛と言う意味であり、゛大蛇は姿を消した゛という顛末が、大彦命は捕らえられずに北陸方面(鯖江市船津神社には大彦命が祀られる)へ逃げおおせた事の表現になってるんだろう、と理解したくなり、出雲伝承の話と合っているように感じるのです。そしてそれは、御上神社の「三上ずいき祭り」の一連の儀式の一つ「芝原式」の猿田彦の姿と重なるように思っています。なお、埼玉県の稲荷山古墳から出土した国宝の鉄剣に刻まれる「意富比垝」は、言うまでもなくこの大彦命のことです。

その一方で、やはり鎌倉時代の土御門天皇の方の話がどのように出て来たのかが気になります。

 

・戦没者の英霊を安置する顕彰殿・忠魂碑の奥に、鐘楼がありました

 

(参考文献:勝部神社公式HP・略記、滋賀びわ湖観光情報、浮気火祭りHP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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