一昨日、東名高速に乗って車を走らせた。直ぐにサービスエリアへ入って休憩した。運転をしているとき私は人一倍神経を使っているような気がする。他の人が運転しているのを見るととてもリラックスしているように見えて羨ましく思う。自分の場合はルームミラーやバックミラーを見て絶えず後方を確認しているし、人が飛び出てこないか、果ては動物が飛び出てこないかということまでも予想して見ているので、他人に比べ目が人一倍疲れるのではと昔から思っている。それで、高速などに入ると頻繁にサービスエリアへ入って「休憩っ!」となるのだ。「東京から名古屋くらいだとノンストップですよ」と言う人もいてよく何ともないものだと感心する。
サービスエリアへ入ると、することも無いので大体トイレへと向かう。後は土産物売り場でその土地の特産にどういうものがあるかを何となく歩いて見て回る。「装いも新たな昔懐かしナ二ナニ・ラムネ」などという変なものがあると、変なのに買って飲んでしまうのである。一昨日は案内のカウンターで東名高速マップをもらった。これも行くところ行くところで新しいものがあればもらう。この地図を見ると関東から中部地方あたりまでの高速道が広域で記されていて、一瞥してハッとする。以前から私はIT化の波が押し寄せた時にディスプレーが通常で15インチくらいなので地図などが細切れになり、それにつれて重要である人の頭の中の思考までも細切れになって行くのではと危惧をしていたのだ。IT礼賛派の人々には、そこはそれクリッククリックで切り替えて同じ大きさの画面でも縮尺自由自在ですから!などと反論されているようで、なおかつそれどころか、そんな人間の言うことは「御懸念」などと片付けられ、全く無視された形で生活周りの細切れ液晶画面化はどんどんと進むのだった。ところがそんな私がいつしかパソコンにも慣れ、カーナビなぞ老眼がかった目を凝らしつつ運転することに慣れた今ごろ、この広域を大きな一枚で記した地図を見ると何か頭が明瞭になって行くのを感じて軽い驚きを覚えるのだった。広域だけではなくディーテルもある程度これには描かれているところが重要なのだ。「一望」という言葉が当てはまる。各地の位置関係、距離感などが一望、それも瞬時、それも頭の中でそれらが持続的。なぜならその一枚の大きな図がそのまま頭の中に(性格上、私の場合、忘却というのも多く、そのまま、などと偉そうなことはあまり言えない・・・)置かれるからだ。そして目を各地点に転じていくとその周辺の細部も「連続的に」見られる。この感じは特に、登山用の地図を見たときにより明らかとなる。登山用の地図は必要な情報を落とすと大変なので厳選したディテールを多く確実に書き込んであり、クリック無しで連続的に目の行った先のエリアのディテールをそのまま自然に読むことになる。その感じだ。そしてそれはとてもファジーな感じだ。昔はこれと比較するものが無かったのであまり感じたことはなかったのだが、世の中の液晶画面化でそれが皮肉にも実感できるようになった。
そういえば、これと同じようなことがあったことを思い出す。建築の図面がそれなのだ。大きな一枚にディテールも含めて描き込んであるとそれ一枚で全体から細部まで把握できるのだ。ところが、打ち合わせなどで、それが細切れに小さなA4か何かの用紙に何枚にも渡ってコピーされている場合など、その紙の束をめくりめくり、あっちとこっちはどう繋がっていたっけなどと疲れた頭の中で関連付けつつ話を進める時のもどかしさ。実にイライラするのだ。そこをクリッククリックでカチャカチャと素早くやれば、と言われたってそれを理解するのは頭なのだし、自分ひとりならいざ知らず、打ち合わせというのは相手もあってのことだし、それでやっぱりイライラ、となるのである。
「位置関係とその詳細の全体的把握」と「思考回路」というあたりの重要な問題のように思うのである。「大きな一枚」と「細切れ縮尺変化型」との間には相互補完的な部分ももちろんあるだろう。これが平面的なものではなく、立体的な、空間的なものになると、ディスプレイ上のものと模型などとの比較ということになるのだが、これは先の地図などの時とは少し話が違ってくる。模型というのが小さな「物」であり、地図などのような平面上に記号化されたものとは少し性格が違うからだ。模型に入り込んだ視点というのも得にくく、これはパソコン処理の液晶画面が補うことができるようだが、その場合ももちろんどこまでも「3次元的な」ものとして表現される。
登山や旅行などでは細部まで描かれた一枚の地図が実に役立つことが多い。ヒーヒー言いながら登り、疲れていても脳みそとのやり取りがとてもスムーズにいく。