エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

加藤周一さんの「信じること」

2015-12-25 03:59:30 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
眼に見えるモノ(偶像)を追いかけても、必ず、幻滅を味わうことになる
  自分はあくまで「自分持ち」。相手の力で自分を確かにしようとしても、それは「できない相談」です。 p92下から10行目途中から。 &nbs...
 

 

 加藤周一さん。この人ほど切れ味を感じる頭脳明晰な人を知りません。猛烈な読書量。独立した人格。私は、繰り返し、加藤周一さんに、加藤周一さんの本に立ち帰って、自分の立ち位置を確認することにしています。加藤周一さんは、私の中では、バイブルや、マハトマ・まど・みちおさん、丸山眞男教授と同じです。

 加藤周一さんの本を読むと、非常に難しいことを、誰にでも分かるように、日常的に使っている易しい言葉で、教えてくれている点に、加藤周一さんの頭脳明晰さを感じない訳にはいきません。その典型だと感じるのは、代表作の一つ『日本文化における時間と空間』です。今回、『加藤周一コレクション1 科学の方法と文学の擁護』のなかから、「科学と文学」を読んでいまして、加藤周一さんの頭脳明晰さを改めて感じています。

 この作品では、「知る」「信じる」『感じる」という、極めて日常的な言葉を使って、認識論から、政治的な態度決定に至るまで、幅広く、非常に深いことを論じてくれています。今晩はそのなかでも、「信じる」ことについて触れたいと思います。

 「信じる」ことについて、加藤周一さんは、「私・私たち・みんな」という1節を書いています。エリクソンが、≪私≫ I と≪私たち≫weを論じたことにも通じる、とっても大事なところです。加藤周一さんは「信じる」時には、必ず主語が必要だといいます。そりゃそうでしょ。何よりもまず、「信じる」のは、「私」ですね。でも、「私」が信じるだけでは足りません。「信じる」ことは、ですから、イエスや、パウロや、親鸞さんや法然さんがそうしたように、「伝える」こと、「分かち合う」ことと、ほとんど一緒です。「信じる」最初は私でも、それは分かち合う「私たち」がなくてはなりません。

 それから、「信じる」ことは、「知ること」と異なり、ことの全体性に関わります。「知ること」、特に科学的な「知ること」は、ことの一部、細かく切り刻んだ、ほんの一片のみを知るにすぎません。それに対して「信じる」は、全体が相手です。「あなたを信じます」と言えば、全人格を信じることになりますでしょ。何かの価値を信じる場合でも、その価値全体を信じることになります。ですから、日本の社会を変えたいと思ったら、知るだけでは足りません。知ることは確かに大事ですが、知るのはいくら知っても一部にすぎませんからね。加藤周一さんは、私どもの次の様に教えて下さいます(p.111)。

 

 

「もし世界を解釈することではなくて、世界を変えることが大事だとすれば、世界を変えるためには、信じることが大事だ。」

 

 

 

 


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 認知行動療法は、意識がミソ | トップ | セラピストの祈り »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿