眼に見えるモノ(偶像)を追いかけても、必ず、幻滅を味わうことになる自分はあくまで「自分持ち」。相手の力で自分を確かにしようとしても、それは「できない相談」です。 p92下から10行目途中から。 &nbs...
セラピーがうまくいくと、そのクライアントは、友達とやり取りが必ず増えます。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p101の、第2パラグラフから。
しかし、大人のクライアントの場合、感情転移の証拠について申し上げれば、忘れてはならないことは、大人の人は、概して、子どもらや青年らとは異なって、古典的な治療の場に従わなくてはならない、ということです。というのも、古典的な治療の場は、クライアントに(細かく評価することが出来ますが)、(1)仰向けになってもらいますし(忘れてはならないのは、人と人が出会うときには、立っていることが大事だ、ということです)、(2)顔と顔を合わせることや、目と目を合わせることを避けてもらい(忘れてはならないのは、チラッと見たり、笑顔をかわしたりすることが、お互いを認め合うときに、決定的に大事だ、ということです)、(3)会話のやり取りはしませんし(こっちも忘れてはならないのは、お互いに、≪私≫ってこんな人ですよ、とおしゃべりしあうことが大事、ってこと)、とどのつまり、(4)セラピストが黙っていることに耐えてもらわないといけない、という組み合わせを強いることになります。 こういったことすべてが呼び覚ますものと言えば、それは、赤ちゃんの頃の遊び相手、すなわち、母親を、思い出や転移を通して、純粋に懐かしむ感じで探し求めることですね。クライアントは、このような治療を経験するためには、割と健康な部分(これは、こういった不満にも、耐えられる、ということです)も持ち合わせていなくてはならないに、違いありません。もちろん、それと同時に、この手続き全体よってセラピストが手にするのは、治療に対する権威であるということですし、この治療の権威は、対抗感情転移に影響しますし、2重にセラピストの洞察が必要になってきます。
大人の場合は、転位が起き辛い治療設定が必要だ、とするのがエリクソンの主張のようですね。でも、それでも転移が起きてしまうのも、セラピーです。ですから、セラピストは、幾重にも内省と洞察が必要です。
これはセラピストの祈りでもありますね。
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