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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

根拠のない自信

2014-12-18 13:01:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ≪根拠のない自信≫。根拠のないことって、ふつう嫌われたり、避けられたりするものじゃぁないですか? 根拠がないことは、不合理で、信用できないこととイコールだったりします。

 逆に、根拠のあることは、その出所がハッキリしているという点で合理的です。そこが根拠のあることの強みですね。でもね、逆にそこが弱点にもなりうる。なぜなら、その根拠が突き崩されたら、その根拠のあることは、脆くも崩れ去ってしまいますでしょ?

 ≪根拠のない自信≫とは、つまり、突き崩されることのない自信、ということです。これは a sense of basic trust ≪根源的信頼感≫のことなんですね。これは、台無しにされることのない自信なんですね。

 ≪根拠のない自信≫は、≪根源的信頼感≫のことですから、2つの要素があります。1つは、失敗や挫折を経験したときでさえ、自分自身は値打ちもの、自分は必ずうまくいく、という自信を持ち続けることができる、ということです。もう1つは、人から裏切られたり、騙されたりした時でさえ、人は当てになる、世の中はうまくできている、という信頼を抱き続けることができる、ということ。この≪自己信頼感≫+≪他者信頼感≫=≪根拠のない自信≫ということ。

 この≪根拠にない自信≫を育てるにはどうすればいいのか? これは赤ちゃんの頃の発達危機の関わるものです。赤ちゃんが泣いたり、笑ったりすることを通して表現する願いや望みに、何千回、一万回以上、お母さんに応え続けてもらって、初めて育むことができるものなんですね。ですから、≪根拠にない自信≫は、赤ちゃんの頃に経験した、一万回近いお母さんの献身が≪根拠≫だ、という訳ですね。≪根拠にない自信≫は、赤ちゃんの頃の経験に根差していますから、後になってからそれを取り消しにしたり、なかったことにはできません。ですから、≪根拠のない自信≫程、確かな自信はないんですね。これに比べたら、業績や財産や地位に基づく根拠など、大したものではありません。その根拠になった、業績や財産や地位をいったん失えってしまえば、その自信は簡単に崩れ去ってしまうんですからね。この世的な根拠がないからこそ、≪根源的信頼感≫なんですね。

 ≪根拠のない自信≫を育む関わりを私どもは、子どもに対して提供し続けたいと私は考えますよ。

 その点、今日の写真で用いた、いとうひろしさんの『だいじょうぶ だいじょうぶ』は、この≪根拠のない自信≫の回復のために、とても大事なツールになる絵本ですね。

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与えることこそが、あなたの恵みそのものなのですから。 使命について

2014-12-18 10:06:37 | アイデンティティの根源

 

 人と人の強さが繋がる時、それは静かだけれども、圧倒的な悦びがありますよ。それはもう、ヌミノースだと言ってもいいものですよ。あなたも是非体験してみてください。それは、教育者ではなくなった教育公務員などのお役人がよくやる、ズルサとズルサが繋がった時の、みじめな「安心感」なんぞとは、比べ物になりません。

 p232下から8行目途中から。

 

 

 

 

 

 も一つ提案を、発達上の提案や、一般的な提案、それから、≪やり取り≫の提案に、付け加えなくちゃなりませんね。それは、「活性化させる」という言葉によって表されますし、私なら、それを、「悦んでする」と呼びます。それは、聖フランシスコの祈りに、尊い形で言い表されていると思います。すなわち、「/慰められるよりも慰め/ることを/ 理解されるよりも理解することを/ 人から大事にされるよりも人を大事にすることを/ 求めるようにしてください。/ なぜならば、与えることこそ、いただくことだからです」。このように、人を大事にすることに率先して関わることは、もちろん、「あなたの身近な人たちを大事にしなさい」という聖書の戒めに含まれています。こういった言葉の中に、1つの心理学的な真理があることが分かると私は思います。すなわち、その真理とは、要求がましい態度の人やら、依存的な態度の人やらに出会う人じゃなくて、(意識的であれ、無意識裡にであれ)悦んで与える態度の人に出会えた人だけが、その与えられたものを、真に受け取ることができる、ということですね。

 

 

 

 

 実によく臨床を知っている人ですね。さすがはエリクソンですね。悦んで与えてくれる時だけ、その与えてくれたものを人は本当に貰うことができるんですね。

 たとえば、時間。自分の時間を与えることは、自分の命を分かち与える、命を使うことです。それを「使命」といいます。時間を喜んで与えた時だけ、それを貰った子どもは、時間を、命を受け取ることができます。時間を与えること、命を与える道は、唯一、子どもを肯定することができる道です。

 でもね、「忙しい時間を割いてんだから…」なんぞと感じながら、時間を与えるとしたら? それは、時間を、命を与えたことになりません。ですから、子どもを肯定することにも、残念ながら、なりませんよね。ここでしていることは、「時間を、命を、しぶしぶ与えなくっちゃならないほど、あんたはつまんない存在です」ということなんですね。時間を割いてこれだから、もったいない。

 ですから、子どもファーストで生きましょう。「後でね」なんぞとは言わない。

 私どもは、悦んで自分の時間を与えるもので、生きましょう。

 聖フランシスコの祈りに合わせれば、こうなるでしょうか?

 「主よ、時間を貰うものよりも、時間を与えるものにしてください。/ 命を貰うよりも、命を与えるものにしてください。/ 与えることこそが、あなたの恵みそのものなのですから」

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最も愚かしい母親、増殖中

2014-12-18 06:25:54 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 蟻地獄のように、子どものエキスを吸い取る母親。一見「教育」熱心に見える場合もあります。一見「優しそう」に見える場合もあります。一見「親切そうに」見える場合もあります。でも、そのいずれもマヤカシ、ゴマカシです。一皮剥けば、文字通り、子どもを喰らい、飲み込む、蟒蛇(ウワバミ)のような鬼婆ぁ。

 p.90第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 母親のこの側面、すなわち、破壊的で、ウワバミのように飲み込む側面。それは、母親の否定的側面ですね。母親という存在は、命を与えることもできれば、命を奪い取ることもできます。母親という存在は、元気を与えてくれる存在ですし、同時に、破壊する存在でもあります。誰よりも人を傷つけることができる存在、それが母親です。宗教的意味では(ヒンドゥー教の女神カリのように)、あるいは、夢のイメージでは、母親の正反対の側面、すなわち、肯定的側面と否定的側面が、一緒になっていることがほとんどですよね。

 

 

 

 

 

 最も愚かしい存在。それがウワバミのように子どもを飲み込む母親です。その破壊力は、通常の想像力をはるかに超えていますからね。しかも、それは絶滅危惧種のように、レアものじゃぁない。むしろ、どこにでもいんですね。ありふれた存在。

 私は、子どもと臨床してますでしょ。コラージュ療法(切り貼り絵遊び)をよくやんですね。そうすると、子どもが、大きな魚が小さな魚を食べる図や、大きなカマキリが小さなカマキリを殺す図などがよく出てきます。これは、ウワバミのように子どもを飲み込む母親を、象徴的に言い表しているんですね。子どものことを、理不尽なまでオーバーコントロールしているケースがほとんどですからね。ですから、この手のウワバミは、結構な確度で多数生息しています。今の日本では、結構増殖している、と言っても過言ではないのが、極めて残念な状況です。

 

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