goo blog サービス終了のお知らせ 

エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日本の公教育の病理 その2 ヤクザナ教員に、パレーシア

2014-12-02 12:58:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日本の公教育の病理は、「言ってること」と「やってること」のかい離にこそある。そういう組織は、ウソとゴマカシの組織になりがちなことは、火を見るより明らかですよね。なんせ「言ってること」と「やってること」が真逆なんですから。

 公教育のカウンセラーの9割以上が非常勤です。常勤職員のカウンセラーは例外的存在です。ですから、9割以上が正規職員である教員に対して、絶対的弱者の関係になりがちです。中には、その「強者­―弱者」の関係を乗り越えて、対等な関係を結べる教員も少なからずいます。でもね、「言ってること」と「やってること」が真逆な組織では、そういう対等な関係を結べる教員は例外的少数派です。

 じゃぁ、「言ってること」と「やってること」が真逆な組織で幅を利かす人はどんな人なのか? 私が実際経験したことに沿ってお話すると次のような人ですね。それは典型的な「人類を上下2つに分けるウソ」の猛烈な信者さん。その人が得意とすることは、「讒言、誹謗中傷、恫喝」ですね。教員の組織が、「讒言、誹謗中傷、恫喝」をやる人が幅を利かせている。それはそれは、病理そのものでしょ。ヤクザと変わりません。

 そこで大事なのが民主化ですし、法治です。しかし、何よりも大事なのは、パレーシアです。「フーコーのパレーシア」は今は休刊中ですが、教育現場では、パレーシアはお休みできませんね。すなわち、自分が損をしても正しいことを、教員にハッキリと申し上げることですね。少なくとも、対等な関係を結べる教員に「ホントに正しいこと」の大事さに気付いてもらうことですね。ヤクザナ教員は、多分一生ヤクザナ教員のままでしょうからね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兄弟の様に人を大事にすることは、フロイトの場合、病気になっちゃうのはなぜかは?

2014-12-02 10:28:00 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 フロイトの精神分析理論も、「性的に(生殖で)人を大事にすることは、人が最大の満足を得ることになるし、その結果として、実際にその人にとってあらゆる幸せの元型となる」と考えがちなんですね。

 p83の下から11行目途中から。

 

 

 

 

 

兄弟に様に人を大事にする経験は、フロイトにとって、性的願望の結果です。しかし、それは、性的衝動が、「禁じられた目的」を伴う衝動に変わる場合です。「禁じられた目的をもって、人を大事にすることは、実際、もともとは感覚的に人を大事にすることに満ち溢れていますし、無意識には、いつまでも、そうなんですね」。溶け合い、一つになる感じ(「大洋感情」)は、神秘体験の本質的部分ですし、他者や仲間と連帯する最も強い感じの根っこにあるものですが、その感じに関する限り、それは、フロイトは、精神病理の現象だと解釈したんですね。それはフロイトのよれば、赤ちゃんの頃の「境目のない自己愛」の状態への退行だとみなされたからなんですね。

 

 

 

 

 フロイトのよれば、ヌミノースを体験するような最高の感覚状態は、幼稚なもの、病的なものと見なされたんですね。ですから、人と連帯し、一体感を感じることも、病的だとされました。しかしそれだけではないんですね。人を兄弟のように大事にすることさえ、病的とされてしまいました。フロイトの見方は、非常に一面的ですね。ヌミノースのような最高の感覚状態の、非常に創造的な側面を見逃しているからですね。それを補ったのがねユングであることは、歴史的事実でしょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

科学技術と指導者

2014-12-02 06:29:02 | アイデンティティの根源

 

 

 「人間皆兄弟」、1つの人類という最も単純で最も包括的な物差しを教えを教えてくれる指導者に従う時に、道徳と価値と倫理が一つになる、という点だけは、ハッキリしていますね。

 p226最後の行の途中から。

 

 

 

 

 

私は、ガンディーが現在もインドで「今ここにい」続けていることについて、後ほど一言申し上げたいと思います。しかし、人間はまた、最も無垢な指導者たちを執拗に裏切り続けても来ました。しかも、それは、道徳的な理由、ないしは、価値の理由として通用するものを語って、裏切り続けたわけですね。このとき、人間は今や、科学技術の土台に関する人間の遺産に対しても、潜在的に裏切りを準備しているんですね。科学技術が単に役に立つというだけで、科学技術がどういう結果になるかは問わずに、良いと見なして、裏切りを働いているわけです。もはや、私どもは、人間に備わっている「良いもの」も「悪いもの」も強調する免状を持ち合わせていません。一歩一歩、人間は一緒に発達しますでしょ。道徳を重んじれば、道徳的に服従しますし、熱狂的になれば、ある価値一辺倒になりますし、厳格な保守の立場となれば、大人の倫理になります。

 

 

 

 

 科学技術に頼ると、最も大事な知恵を教えてくれる、最も無垢な指導者、たとえば、ガンディーのような指導者を裏切ることになる、と言います。科学技術に頼りすぎる時、人間は、自分に内在する「善」も「悪」も区別できなくなっちゃうんですね。それが圧倒的な自然破壊にもなり、核による大量虐殺に繋がっていくことも忘れちゃってるんですね。

 私どもは、どうすれば、そんな科学技術に踊らされることなく、ガンディーのような指導者に従っていくことができるのでしょうか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする