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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

特定秘密法、絶対反対です! 民主主義と恣意的判断

2014-12-10 14:58:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 もし、刑罰が恣意的に決められたら? 「あいつは憎たらしいから、盗みでも、懲役50年にしちゃえ」。そうなったら、そういう恣意的判断をするものが、≪絶大な悪の力≫を持つことになり、大変困った事態になりますよね。そういうことがない様に、刑罰は成文法で決まっています。盗みならば、「刑法235条により、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられる」と法律でハッキリと決められています。それを「罪刑法定主義」と呼ぶそうですよ。

 しかし、残念なことですが、実際の裁判所の判断は、罪刑法定主義ほどには、ハッキリとしている訳じゃぁない。いやむしろ、裁判官もお役人ですから、非常に権力寄りの判断が実に多い。

 今回の特定秘密保護法、その「秘密」が法律でハッキリ決まっていない、ということが民主主義を破壊する「天下の悪法」の所以です。そこに恣意的判断が入り込む余地が非常に大きい。となると、その判断をするものが、≪絶大な悪の力≫を持つようになります。

 今日(12,10,2014)の朝日新聞の一面の記事、上掲の写真ですが、「秘密特定法 きょう施行」の記事の左横に、「衆院選テレビ放送激減」の記事がありますよね。これは偶然ではないんですね。「秘密保護法」は「秘密」を権力が恣意的に判断、自分勝手な判断をすることで、権力が≪絶大な悪の力≫を持つことが、ミソですよね。そうすると、その≪絶大な悪の力≫を怖れて、物事をハッキリということがはばかられるようになりやすい。自民党が「衆院選の報道は『公平』にせよ」と、NHKと民放キー局に、権力を背景に物申したということです。すると、こんだけ各TV局が衆院選の報道を、はばかるようになる、という訳です。

 すでに「天下の悪法」「特定秘密保護法」が、すでに施行日前から、隠然たる力を発揮しています。

 今回の衆院選を通して、自民党政権を倒すことを通して、この天下の悪法、「特定秘密保護法」を、私どもの力で廃止しましょう!

 

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人を大事にすること≒阿吽の呼吸

2014-12-10 10:50:31 | 日記

 

 サリヴァン先生、セッスクする関係と、人を大事にする関係には違いがあることが分かったんですね。

 p86の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 サリヴァン先生の概念において、人を大事にすることと人と親しくすることの意味とは何でしょうか?「人と親しくすることは2人の人が人格的価値のすべてを認め合う状況です。人格的価値を認めるには、私が共働と名付けた関係が必要です。その共働とは、自分がやることを、相手が表現したにニーズにハッキリと合わせることです。それは、次第に、この2つ、つまり自分のやることと、相手のニーズに合わせることが同じになり、すなわち、お互いに満足しあうことに近づきますし、ますます同様に安心して働きかけ合うこともできます。」私どもが、サリヴァン先生のこの言葉を、幾分含みのある言葉から解き放てば、人を大事にすることのエッセンスは、共働する状況に見られますし、そのいう状況では、2人は「私どもがルールに従うのは、私どもが自分らの特権、優越感と価値観を守るためです」と感じることができます。

 

 

 

 

 人を大事にしあう関係は、自分がしたいことと、相手のニーズの応えることが一致してくんですね。阿吽の呼吸そのモノでしょ。人を大事にしあう関係は、もう言葉を言わずとも感じ合えてくるものなのかもしれませんね。

 

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生きものの間がを観察するとは、実にこんなに素敵

2014-12-10 06:47:53 | アイデンティティの根源

 

 観察単位は、個人ではなく、世代間関係で見るということは、臨床心理の基本中の基本です。家族心理学だけのものじゃぁない。愛着障害の子どもとその母親を相手にすることが多い私などは、この視点を欠いたら、1時間も仕事ができませんよ。

 p229最終行から。

 

 

 

 

 

 ここで皆さんに思い出していただきたいのが、コンラッド・ローレンツの研究です。彼の研究は、彼らが発展させた「生き物の間柄」の研究でして、原理的に、特定の動物の人生の巡り合わせを、観察者が自分の人生の巡り合わせを生きている同じ環境の一部とするものであり、その上で、その動物の役割のみならず、観察者自身の役割も研究して、しかも、洗練された自然主義的調査の場で自分で工夫したことからハッキリ分かったことに賭けてみることです。もう1つ思い出していただきたいのが「野生のエルザ」です。エルザは、ケニヤに住アダムソンさんの家で育てられた「拾いライオン」です。そこでは、お母さん変数はコントロールされていませんでしたが、お母さんはエルザの面倒をよく見ました。アダムソン夫人とご主人は、大人になったエルザをライオンの群れに戻すことに責任を感じまして、草原にエルザを戻すことに成功したんですね。草原でエルザはパートナーを見つけて、子どもを儲けたのだけれども、時々人間の育ての親のもとに(子連れで)里帰りしたんですね。私どもの文脈では、エルザが、(実際に、非常に危機的場面でも)「ダメよ、エルザ、ダメなのよ」という言葉に反応できた「道徳」がエルザに埋め込まれていたなんて、本当かしらと疑わざるを得ませんよね。いくら、その「ダメよ、エルザ、ダメなのよ」の言葉が、信頼した人間が言ったものであってもね。それにしても、この埋め込まれた「道徳」を持ちながらも、育ての親に対して尽きぬ信頼を抱いていたとしても(そのエルザが育ての親の人間に対して抱いていた信頼は、その子どもたちには伝わっていたんですが)、エルザは野生のライオンとして生きることができたんですよ。しかし、エルザのパートナーのライオンは一度たりとも、アダムソンさんのとこに現れませんでしたね。その旦那さんライオンは、エルザの人間の家族のことは、あまり知りたいとも思わなかったんだと思います。

 

 

 

 

 本当に素晴らしいですね。人間と、鳥やライオンとの間にも、これだけの信頼関係ができるなんてね。ローレンツと鳥の間の関係は、刷り込み・インプリンティングの話で、「必ず」といっていいほど、教育心理学のみならず、臨床心理学の教科書にも出てまいります。その不可逆的な刷り込みは、信頼関係の一つなのでしょう。それにもまして、エルザのアダムソンさん夫婦に対する信頼が素晴らしい。まるで人間の子どもと同様に、子連れでお里に帰ってくるというんですからね。その上、人間の言葉を「理解」して、その言葉に応じるんですからね。ハーロー教授とあのサル君たちとの関係とは、比べ物になりません。

 こういう動物と今どきの人間の、どちらがケダモノなのか、分かりませんね。

 

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