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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日本育ちの自由民権運動の中のcivil rightと日本国憲法

2014-12-16 15:06:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 NHKで、自由民権運動が、過去の東北と、現在の東北の被災地の民主化に繋がっていることを教えてくれる番組を見て、感銘を受けました。ここに少しご紹介しようと思います。進行役は、写真の菅原文太さん。宮城県のご出身。

http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2014-12-14&ch=31&eid=33328&f=etc

 

 東北は、戊辰戦争の舞台。明治藩閥政府に対する抵抗が強かった。その中から、自由民権運動も力を得たと言います。

 その一つが、有名な五日市憲法。本気で日常を憲法の精神で生きようとした明治の人々の気概を感じさせてくれるものです。

 その一人が、千葉卓三郎。五日市の憲法の起草者です。特に基本的人権規定が戦後の憲法に優るとも劣らない。抵抗権の規定まである。この千葉卓三郎、宮城県栗原市出身だと言います。戊辰戦争に従軍した後、ギリシャ正教に帰依し、それがもとで不敬罪で収監。宗教弾圧も経験したそうです。自由権、civil rightは、自分の辛い、「損」する経験に、裏打ちされていたんですね。

 しかも、この自由民権運動の中で生まれた市民の憲法草案の一つ、植木枝盛が起草した憲法草案が、敗戦直後の憲法研究会のメンバーの眼に留まって、憲法草案作成の下敷きになった、と言います。この憲法研究会が作成した憲法草案は、GHQに提出され、現憲法に活かされているということです。すなわち、現憲法のルーツは、明治期の自由民権運動にこそあるんですね。アメリカの押し付けなんぞではない。

 私どもも、憲法、就中、基本的人権を活かして、日々を暮したいものですね。

 

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その男、1人を嫌って、結局孤独に舞い戻る

2014-12-16 11:03:48 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 

 情緒的に0歳の大人。学校の先生、大学の先生、病院の先生してても、そういう人に少なからず出会います。

 p.89第2パラグラフ。

 

 

 

 母親なしでは生きられない人は、ひどく生きづらさを感じないで、暮らすことなどめったにありません。もしも、その人の母親が、実際、過保護な形で(多分オーバーコントロールするものでして、打つ壊しにするほどではない)、「大事にしてもらったら」、その男が、同様にお母さん無しには生きられない奥さんを見つければ、あるいは、その男の特別な才能や能力のおかげで、自分の魅力を用いて、人から称賛されれば(ときに成功した政治家に似て)、その男も、大人になることさえできずとも、対人関係の意味で「社会によく馴染む」。でもね、こんなに良い条件に恵まれなければ、そして、そっちの方がよくあるケースですが、その男の性生活は、対人関係はそうじゃなくても、ひどく失望するものになります。すなわち、このタイプの男が一人ぼっちになれば、いろんな葛藤を抱え込み、何度も強い不安に襲われ、憂鬱な気分になります。

 

 

 

 

 

 この手の男は、最終的には、孤独にさいなまれる生活になります。それはね、1人から逃げ回った末の、なれの果ての姿です。

 

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希望のバランス

2014-12-16 07:01:25 | アイデンティティの根源

 

 子どもや弱い立場の人を世話することは、同時に、文字通り本来の意味において、礼拝を司式することになります。お寺や教会の儀式に参加することが礼拝(仏教では「らいはい」、キリスト教では「れいはい」)じゃぁないんですね。

 面白いでしょ。

 p232第2パラグラフ。

 

 

 

 

 しかし、私どもは「母子関係」を素材にして、ユートピアをこしらえてはなりません。赤ちゃんの頃のパラダイスは捨てなきゃダメ。でも、それは一度たりとも受け止められたことのない事実。赤ちゃんの頃の≪やり取り≫は、ほんの始まりにしかすぎませんし、もっと複雑な出会いに繋がりますし、その子どもも、幅広い関係の人々とその子どもとの出会いも、もっと複雑になります。私がここで一つ指摘しなくちゃならないのは、人間の生死に関わるほど大事な、一連の根源的強さは、オートノミー、すなわち、自律と意思だ、ということですし、また、その子どものわがままが大人の意思とぶつかり合う状況は、生まれたての希望が≪やり取り≫する割合とは、違ったバランスであることを、ハッキリさせなくちゃならない、ということです。でもね、大人はどなたでも認めなくてはならないことは、良かれ悪しかれ、自分もそれまで分かってなかった「自分自身」と「意思」のことをたくさん学んできた、ということです。それは、他のやり方では学ぶことができないものなのですね。

 

 

 

 

 大事なとこですね。子どものわがままを「矯正」しようとする状況のバランスと、生まれたばかりの希望が≪やり取り≫する状況のバランスとは、全く異なる、ということです。子どものわがままを「矯正」するような大人ですと、子どものオートノミーと意思は台無しです。

 子どものわがままとも≪やり取り≫するようですと、赤ちゃんの希望と≪やり取り≫することにもなりますから、子どものオートミートと意思を育むことになります。

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