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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日本の拷問:「度を越さない、身体的心理的抑圧 moderate physical and psychological pressure」

2014-12-09 13:00:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ガザの弁護士ラジ・スラーニさんは、お話の中で、弁護士になって間もなく、イスラエルに逮捕され、刑務所の独房にぶち込まれた後、激しい拷問を受けた、と言います。しかし、その拷問とは、眼をくり抜かれたり、手足の骨を折られることではありませんでした。

 スラーニさんは、しかし、イスラエルから受けた拷問は、「毎日毎日何度も自殺したい、と思わせるけれども、相手の身体には傷一つ付けない」拷問だった、と振り返っています。それは、「度を越さない、身体的心理的抑圧 moderate physical and psychological pressure」と呼ばれるものです。

 その詳細は今のところ分かりません。「毎日毎日何度も自殺したい、と思わせるけれども、相手の身体には傷一つ付けない」拷問と聞いて、私は日本社会のことを思った訳ですね。

 いま日本には、加藤周一さんが「閉塞感」と呼んだ感じが瀰漫してますでしょ。「個人の力はゼロに近い」から、”なにやったってしょうがない”、”明日は明日の風が吹く”とばかりに、「声を挙げない」こと、泣き寝入りが多い。それが結局、日々の生活が良くなるどころか、人間らしい暮らしから、次第次第に離れている現状を生み出していますでしょ?

 具体的には、だんだん貧乏になり、働く時間は長くなり、地域や職場で、自分の意見をハッキリ言うことをはばかられる雰囲気が、次第次第に強まってますよね。自殺者が毎年 十年以上も30,000人以上も出ている社会が日本です。空爆を受けたガザの死傷者よりもはるかに多い人々が、毎年「自殺」させられてんですからね。これは日本の社会が、日本人ひとりびとりに対して、一種の「度を越さない、身体的心理的拷問」を日々実行していることだと、私はキッパリ考えますね。

 

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さすが、サリヴァン先生!

2014-12-09 11:14:32 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 フロイトの考え方が広まった背景に、19世紀に資本主義の精神が変質し、倹約重視の考え方が衰退し、消費重視、浪費重視の考え方が広まっていたことがある、と言うのが、フロムの鋭い指摘です。なんでも、モノ、モノ、の時代がその時点ですでに始まってたんですね。

 p86の第二パラグラフ。

 

 

 

 

 

 興味深いのは、フロイトのもろもろの概念と、最も聡明な、現代の精神分析家のお一人、故H.S.サリヴァンのもろもろの理論的概念を比べてみることです。そのフロイトのいろんな概念は、かつて存在していたけれども、今世紀初めには、完全にはなくなってはいなかった、資本主義の精神に対応していました。サリヴァンの精神分析の体系では、フロイトの体系とは対照的に、セックスをすることと、人を大事にすることをハッキリと区別していることが分かります。

 

 

 

 

 さすがサリヴァン先生、自分がよって立つ精神分析に完全には依存していなかったんですね。セッスクすることと、人を大事にすることを ハッキリ区別するという、今となっては当たり前のことを、ハッキリと認識していたんですね。これは、そんなに簡単なことではないと私は考えますよ。

 「関与しながらの観察」で有名なサリヴァン先生。セックスをする時の関係と、人を大事にする時の関係に、ハッキリと区別できる関係があることに気づいたんですね。それがいったい何だったのか?

 今後の展開が愉しみ~!

 

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「大事なことは、心(間)で見なくちゃね!」

2014-12-09 06:20:58 | アイデンティティの根源

 

 臨床家は、まず第一に、クライアント「と共に」、クライアント「のために」臨床をしていくのですね。それは、その昔、昔の言い方では「教護院」、現在の呼び名では、「児童自立支援施設」国立武蔵野学院、元院長の大谷先生は、それを「withの精神」と呼んでおられましたね。

 pp229の下から12行目途中から。

 

 

 

 

 

 臨床の原理は、何も、死体解剖によって学ぶことがあることや、動物でも、人でも、その体の限られた一部を実験のために役立てることを、否定したりはしませんよ。対人関係から生まれる進歩を携えたものである、こういった大事なやり取りを研究するために、あるいはまた、将来責任を取らなくてはならない大事なやり取りのためには、観察する決められた単位は、世代間であって、個人ではあってはなりません。一個の動物、一個の人間が、命の糧を食べるかどうかは、人生を、その本質的な形て、次世代に手渡すことができる能力を含むような観察によってのみ、分かるんですね。

 

 

 

 

 これは、非常大事な指摘ですね。問題のある子ども、障害のある子どもを見ると、この子ども個人を何とかしようとしがち。でもね、それじゃぁ、ことの本質に迫れません。「問題」も「障害」も、人との関係、環境との関係が問題だからですね。

 ですから、その「問題のある子ども」も、「障害のある子ども」も、人との関係、環境との関係の中で見る時に、自分らしく育っていくことを支援することができるんですね。

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