エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

危険分子、イエスとその弟子

2014-08-05 21:40:35 | アイデンティティの根源

 

 ≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫、ソリチュードは、私どもが、ウソとゴマカシのない、人間らしい暮らしをするうえで、欠くことのできない、究極にして、必定の時間なんですね 。

 p332の3行目から。

 

 

 

 

 

 イエスと弟子たちがユダヤにやってきた時、彼らはとってももろい状態で、ふいに田舎まで来たのでした。本当に、彼らを(危険になるかもしれない)よそ者と見なすこともできました。なぜなら、ガリラヤ人の名は、ユダヤにおけるもっぱらユダヤの住民の中では、実際「よそ者のガリラヤ人」でしたから、その「北国」のアラム語を喋れば、からかわれますし、武装した熱心党がガリラヤ人に相当混じっていたので、ガリラヤ人は、ローマ人にもユダヤ人にも同様に、オッカナイ存在と受け止められていたのでした。ユダヤで優勢な事実の1つは、ローマ、つまり、占領軍の代理人たちと、神殿のユダヤ人のお役人たちの間の危うい取引でした。その取引とは、エルサレㇺが、神殿の守り手であり、宗教的な王国の犠牲の中心地の守り手であり、人民の中心的な地理的照会先の守り手に、この先ずっと安全にいられるための取引でした。ユダヤ人の大部分は、すでに、広範囲に広がった「ディアスボラ、四散した民」の飛び地の中で暮らしており、それは、ローマやアレクサンドリアメソポタミアにまで及んでいました。

 

 

 

 

 ガリラヤ人は、すでにユダヤの地では、よそ者であり、用心しなくちゃならない人だったんですね。イエスと弟子たちも、ちょっと冷たい視線を感じて、ユダヤの地に入ったはずです。しかも、そこは、占領軍と宗教的特権階級が政治的取引をして、小康を保っているような地域でした。

 そんなところで、果たしてどうやって、人の心に染み入るような言葉を伝えることができたのでしょうか? イエスの伝道そのものが、「奇跡的」だったことが、ここからも分かります。

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願いに忠実

2014-08-05 12:01:43 | エリクソンの発達臨床心理

 


なりたい自分になれる時

2013-08-05 01:11:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

  「再儀式化(繰り返される儀式化)」も、面白かったと思います。1960年代の若者の反乱の中に、たくさんな人が参加する再儀式化への切実で健全な求めを読み取るのが、エリクソンでした。エリクソンは、この科学技術が進んだ社会においても、新しい形の儀式化が必要であることに確信を持っていましたね。なぜなら、人間は生まれながらに、自分自身を、心の奥底に位置づけ、何を希望しながら生きていくか方向付けなくてはならないからです。儀式化は、自分の位置づけと方向づけを「共に見る」手立てなのです。そのことがハッキリとエリクソンによって教えられました。

 

 今日からは、第三章 「『共に見る』いくつかのヴィジョン」 の第1節 「壁の上のいくつかのヴィジョン」に入ります。残すは残り3分の1、というところまで来ました。


 自分を確かにするには、心の奥底にある願い、その希望の向きをハッキリさせる必要があります。

 でも、人の心には、なぜそのような向きがあるのか? 最深欲求があるのはなぜなのか?

 残念だけど、それは今の私には分からない。何故なのだろうとは思う。

 しかし、そういう願いが心の深いところにあることだけは、確かに分かる。

 そして、思う。その願いに忠実に生きたいものだ、と。

 

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神様を「知る」のはむずかしい

2014-08-05 09:21:48 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 神の≪まこと≫の続きです。

 p59第二パラグラフ。

 

 

 

 

 

 あらゆる一神教では、たとえ多神教的であっても、一神教的であっても、神は最高の価値ですし、最高善です。ですから、神という特別な意味は、一人の人が、何を最高善とするのか、によって決まります。神という概念を理解しようと思えば、ですから、神を礼拝する人間の性格分析をするところから始めなくちゃね。

 

 

 

 

 

 神様を「知る」のは難しそうですね。

 

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生きることを豊かにしてくれる1人の時間

2014-08-05 06:02:58 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫という感じは、経験の拡大とともに、使う人称代名詞が増えます。そして、≪私たち≫。≪私たち≫の中身が広がっていけば、当然≪私≫という感じも変わってきます。≪私たち≫が人類全体に広がれば、もうそこには、他者と争うような≪私≫という感じは存在しませんよね。

 p331の後半、第二パラグラフ。

 

 

 

 

 

 ≪私たち≫の新しい境界線がこのようにできることを通して、すなわち、私たちのいろんな自己を通して、働いたり、生産したりする、事実と価値によって申し上げれば、天下分け目の境界線が徐々に描かれます。その天下分け目の境界線の向こう側には、あの明確に異なる「他者たち」が生きているんですね。この、いろんな≪彼ら≫と、いろんな≪彼らを≫、よそ者として、全くの「人でなし」というのではないにしても、否定し、あるいは、排除するようになります。こういった除け者を毎日創り出すことによって、その代わりに、私どもが自分自身の「本当の自分」の枠組みをハッキリさせることができます。あるいは、こういった様々な「自分たち」の枠組みをハッキリさせることができます。この様々な「自分たち」は、≪いまここ≫での様々な役割の中で、「これぞ私だ」というものとして、ある時は誇りを持って、またある時は熱狂的に、受け入れるものです。ところが、あらゆる関わり合いをする、全ての危機的舞台を通して、その≪私≫にとって、ある種の≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫が必ずあるものなんですね。この≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫は、ここ何ページかの間で、私どもが、≪真の関係≫、自由、救いを探し求める時間として描いています。ですから、そのような地理的、歴史的な条件に戻ることにしましょう。その条件とは、いつの時代にあっても、最も広い意味で「生き方」に内在する価値選択の向きを根底から支える基盤ですし、あらゆる≪私≫とそれぞれの≪私たち≫を繋ぐ架け橋なんですね。

 

 

 

 

 ここを読むと、≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫がいかに大事かが分かりますね。日本人は、組織の中で馴れ合って、群れて生きることが習い性になっていますから、この≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫の価値がなかなか分からない。

 この≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫こそ、私どもを≪最深欲求≫と向かい合わせにしてくれる時間なんですね。ですから、アンパンマンが「何のために生まれて、何をして生きるのか?」という問いを問うていますが、その問いに応えるための時間である、と言い換えることもできますね。

 この時間があればこそ、自分はどっちを向いて生きていったらいいのか、がハッキリしますね。逆に申し上げれば、組織の中で馴れ合って、群れて生きていたんじゃあ、この向きが分からない。組織や時代に流されてしまうのは、まさにこの時です。「無責任の体系」、「無人支配」は、このようにして生じるんです。

 ≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫、ソリチュードは、私どもが人間らしい暮らしをするうえで、欠くことのできない、究極にして、必定の時間なんですね。

 

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