エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「失われた20年」の子どもたち 発達トラウマ障害(DTD)の子ども達

2014-08-10 13:09:30 | エリクソンの発達臨床心理


世界の中心に意識がある。そして、楕円となる。

2013-08-10 01:21:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 このひまわりも、東向き

 人が正しい方向に向いて生きるとは、信頼して生きることだと分かってきました。そうだったんですね。ですから、赤ちゃんの時の、根源的信頼感を確かにすることがいかに大事なことか、赤ちゃんの時の信頼感がいかに「根源的なのか」が分かります。

 

 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に 変換してください。


 1990年代、バブル景気が崩壊して、その後長い不況に入る頃ですね。バブルのころ、行商をしていた私の父が、こんな話をしてくれました。短大を出て、大手の会社に入った、まだ二十歳そこそこの女性が、入社数か月で貰って来たボーナスが、30年以上お勤めのお父さんの倍以上だった…。父親は私にも、そのような大企業にはいることを暗に示したのかもしれませんが、なんか私は違和感がありましたね。年功序列が良い、と言うのじゃありません。高々3か月くらいの働きと、30年の働きが、その金銭的な評価において、こんなにも逆転してもいいのか? ということだったと思います。

 その後のながーい不況の中で、日本は非常におかしな社会になりました。1990年以前が良い社会だったというにじゃぁ全然ありませんよ。むしろ、民主主義の観点から言えば、北欧などと比べてもはるかに遅れていた。そこにバブル崩壊、「失われた20年」が続いた。

 不十分でしかなかった、民主主義の制度がさらに後退した。金融の自由化、労働の流動化、診療報酬の引き下げです。貸し渋り、不安定雇用の増加、医療の切り捨てです。

 全世帯で圧倒的に悪影響だったのは、不安定雇用の増加でしょう。それは、低賃金、長時間労働、労働災害(死亡災害、死傷災害、重大災害)の増加、自殺者年間三万人超の高止まり…をもたらしました。子どもの前から、ほとんど両親を奪い去った、と言っても大過ないのではないでしょうか?

 「学習面又は行動面で著しい困難を示す」子どもの増加が文科省によって最初に報告されたのが、2002年ですね。バブル崩壊直後に誕生した子どもが中学生になる頃ですね。ですから、不景気と、その結果としての社会構造の崩壊が、もろに子どもに悪影響だった、と考えて、ほぼ間違いありませんね。

 そのとばっちりで、いま、子どもが最初に乗り越えるべき発達の危機が、乗り越えられません。ビックリするほどの数の子どもが、その最初の発達危機を乗り越えられないところに、今の日本の根源的な危機があります。

 それを端的に示すのが,発達トラウマ障害(DTD)のパンデミックです。

 今のニッポンは,発達障害が激増しているように見えるのは,誤解です。

 低賃金・長時間労働で働かざるを得ない母親が,0歳,1歳の赤ちゃんと,心地よいやり取り関係を豊かに持てないために,子どもの半分以上が,発達トラウマ障害(DTD)になっている訳です。

 

 

 

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神の恵みである真

2014-08-10 11:27:51 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 父なる神は、多神教であろうと、一神教であろうと、方針と法に従順であることを人々に厳しく求めます。

 p61の下から10行目途中から。

 

 

 

 

 

しかしながら、母親から掛け値なしに大事にされたい、という願いは、人の心から根こそぎにできるものではありませんから、掛け値なしに大事にしてくれる母親像が、神殿から完全に追い出されるわけでもありません。ユダヤ教では、神様の母なる側面が、いろんな流れのある神秘主義のなかに、再び取り入れられています。カトリックでは、母なる神は教会と聖母マリアとによって象徴されます。プロテスタントでさえ、母なる神の像は、完全にはなくなっていません。ただし、目立ちませんけれども。ルターは彼の主たる原理を、人間以外者は神からの一方的な救いの恵みをいただけない、としました。神様の真は恵みです。ルターの宗教的姿勢は、この恵みを信頼することですし、自分自身がちっぽけで寄る辺ないとハッキリさせることなんですね。いくら善行を積んでも、神様を動かせるものはありません。善行を積んだから、神様が私どもを大事にしてくれるのじゃぁありません。カトリック教理が説くように、神様が私どもを大事にするように差し向ける、ということなどできません。私どもがここから分かるのは、カトリックの善行に対する教理は、父なる神の絵の一部である、ということです。すなわち、私が父なる神様から大事にされるのは、従順だから、父なる神様からの求めを十分に果たすからなんですね。ルターの教理は、逆に、明らかに父なる神の性質にも関わらず、その父なる神の中に、母なる神の要素が隠れているですね。母なる神の掛け値のない思いは、手に入れることができるものではありません。そこにあるのか、ないのか、ですね。できることがあるとすれば、信頼することだけなんですね。すなわち、母なる神の像は、明らかな絵の中からは排除されて、その代わりに、父なる神の像が取って代わっています。母親から掛け値なしで大事にされるのではなくって、強い疑いを持ちつつ、父なる神から無条件に大事にされる希望に抗して希望することが、最高の特色になります。そういうことに対する信頼です。

 

 

 

 

 父なる神の中に、母なる神の掛け値なしの真がある。それは、明示されたものではないのかもしれませんが、眼に見えないところに、恵みがあるんですね。

 それを実感するのが、光の時間(とき)です。恵みと指針が同時にあります。

 

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本気の約束

2014-08-10 05:32:41 | アイデンティティの根源

 

 時空の境界線が示す、驚くほどの働き、ネガティブに働くときには、人間の最も残忍な部分がハッキリ出てしまいます。これは、民族国家の場合もあれば、個人の場合もありますよね。

 p333第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 古代イスラエルに戻るとき、読者諸兄は、私と共に、1つの国があったかどうかいぶかしく思うでしょうね。だって、国が本来保証するはずのものがないんですから。ただし、預言者の約束の形で、民族の神の名によって成された約束がありました。その約束以上に何の保証がないのは、ちょうどイエスの時代のユダヤとおなじでした。

 

 

 

 

 この短いパラグラフ。何も特別なことが語られていないように思われる。

 いいえ、違います。ここには今の日本にとって、必要不可欠な処方箋が隠れているんですね。

 それはつまり、約束です。しかもそれは、本気の約束なんですね。

 

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