エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

軍隊の様な学校は要らない、話し合い重視の学校こそ必要!

2014-08-31 15:17:28 | エリクソンの発達臨床心理


創造性の源 アインシュタインの連想遊び

2013-08-31 02:06:10 | エリクソンの発達臨床心理

 アインシュタインが自分の生活で、自分の研究で、イメージ遊びを大事にしていたことが紹介されました。今日はその続きです。


  日本の学校現場は、自由なのか否か?

 マイケル・サンデルの「白熱授業」で、金森俊朗さんが、「優秀な学生ほど、教育実習から戻ってくると、『教師になりたくない』と言います」と述べておられました。なぜでしょうか? それは「学校は軍隊みたい」で、「自分がやりたいと願っている教育は今の学校ではできない」と優秀な学生ほど言うそうです。日本の学校は、軍隊のように上意下達で、自由がないというのなら、もう学校の体を為していませんね。

 日教組の力も落ちてきましたし、勤務評定や、その給与との関係づけとも相まって、ますます権力に都合のいい教師が増えています。実際に学校現場に入りますとね、子どもよりも、管理職を見て仕事をしている教師が少なからずいますよね。

 そう言う教師は、もうすでに教育者とは言えません。「教育公務員」としてやっていることは、文字通り「お役所仕事」。「言ってること」と「やってること」の一致など望むべくもありません。いじめをやるような教師は、この種の類です。

 そういう意味でも、学校でも、話し合いを徹底的に重要視することと、何よりもパレーシアが大事ですね。

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神の≪真の関係≫は、科学的真理ではなくて、人格的真理!

2014-08-31 12:22:48 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 マイスター・エックハルトは、禅にも通じる絶対無を神と説きます。西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一に何となく似ていますよね。それにしても、マイスター・エックハルトの言葉は難解です。

 p72の3行目から。

 

 

 

 

 

 アリストテレス哲学と矛盾律の違いについて議論してきました。それは、神の≪真の関係≫という概念において、重要な違いとなる根拠を準備するためです。矛盾律の教師たちは、言います「人は、二律背反の中で初めて、現実を受け止めることができます。思想の中で究極的な現実の単位、すなわち、唯一の神を受け入れることはできません。」と。このことから次のような結論に達します。すなわち、人は思想の中に答えを見つけることを、究極的な目的として求めているわけではない、ということです。思想は私どもを知識に導くだけであって、思想は私どもに究極的な答えをくれたりしない、ということです。思想の世界は二律背反に捉えられたままです。この世の中を究極的にとらえる唯一の方法は、思想にあるのではなくて、行為にこそ、一致の経験の中にこそあるのです。矛盾律が導く結論は、神の≪真の関係≫は、神を思想によって知ることでも、神に対する≪真の関係≫を頭で知ることでもなくて、神との一致を経験するという生身の行為であるということです。

 

 

 

 

 ここは、科学的真理と人格的真理を考えると、よく分かるところですね。

 科学的真理は、頭だけ、言葉だけで教えることができます。物理学の法則や四則計算、漢字などは、頭でだけ、言葉だけで教えることができる科学的真理ですね。

 それに対して、「いじめはやらないほうが良い」、「人と≪真の関係≫になるとはどういうことか?」、「地球を守ろう」などは、頭でだけ、言葉でだけでは、伝わらない。それどころか、頭でだけ、言葉でだけ伝えようとすると、むしろ逆効果です。たとえば、「いじめは止めましょう」と言う張本人が、実際はいじめをしていたら、どうでしょうか?「いじめは止めましょう」という言葉は、説得力を失うばかりではなくって、むしろ反発されるでしょう。

 人格的真理は、一人ひとりが、「どう感じるか?」、「どう考えるか?」、「実際にどうするのか(「言ってること」と「やってること」を一致させるつもりがあるのか)?」ということが、問われなくてはならないんですね。ですから、「言ってること」と「やってること」の一致が何よりも大事になりますよね。

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アーメン、≪話し言葉≫がいまここで≪出来事≫になります! その2

2014-08-31 06:08:30 | アイデンティティの根源

 

 宗教的再生は、≪私≫の再生に似て、非常に静かな、それでいて、劇的な働き。

 p341の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 しかし、そこにたった1人の男が登場したのでした。1人の大工で、洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた1人のラビ。その方は、すでに描いてきましたように、群れを成した庶民に「権威」を以て話しかけたのでした。その「権威」のおかげで、その方は「アーメン、『本気で言います』、あるいは、『全身全霊で申します』の意」で話し出すことができますし、つづけて「でも、私はあなたたちに言います…」と言って、話を続けます。

 

 

 

 

 

 「アーメン」と言ってから話し始めたイエス・キリスト。それは「そうなりますように」という意味のヘブライ語だともされます。これは、8月19日のブログに記しました。

 イエスは、自分が≪話し言葉≫を話す前に、自分の≪話し言葉≫を≪出来事≫にする覚悟、ないしは、信頼をもって語ります。イエスは≪話し言葉≫が≪出来事≫になることを信頼して、あるいは、≪話し言葉≫を≪出来事≫にする覚悟をもって、全身全霊で語るんですね。ですから、≪話し言葉≫に重さが出ますよね。イエスの≪話し言葉≫ほど、ウソとゴマカシのない言葉はない、と断言できますね。

 そして、今の日本、政治家から、一流デパート、一流レストラン、幼稚園から大学院までの学校の教員でさえ、「言ってること」と「やってること」が極端にずれている、ウソとゴマカシの満ち溢れた社会。

 いまこそ、私どもは、「言ってること」と「やってること」を一致させる全身全霊言葉、「アーメン」が必要ですよね。

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