エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「子どものために」献身できない母親 親愛なる友よ!第四弾

2014-08-11 13:58:20 | エリクソンの発達臨床心理


ヴィジョンの様々な可能性 開かれた心

2013-08-11 04:17:53 | エリクソンの発達臨床心理 

 赤ちゃんとお母さんが、2人共に宇宙の中心で、2人がやり取りをしていけば、相手が「宇宙の中心」であることをお互いに認め合える関係ができます。これが、2つの中心を持つ、楕円形の儀式化です。 それに対して、あのバカ・でっかい電力会社や「指導者達」の自己中心は、普通非難の対象となる「自己中心(省略形で自己中」と呼ばれる場合もあります)」です。なぜなら、彼らの「自己中心」は、市民とのやり取りは乏しく(「ない」と言った方が真実に近いと思います)、市民に対して一方的に自分たちの「自己中心」を押し付けてくるからです。その自己中心の押し付けの典型が、あの大災害ですし、その災害に対して誠実に対処していないことですし、その事実を隠ぺいし続けていることです。このように厚顔無恥に自分の自己中心を市民(国民)に押し付けられる心理的背景はいったいどういうものでしょうか?

 それは、彼らが「人間を上下2つに分けるウソ」を信じて、自分たちを「上」と位置づけ、市民(国民)を「下」と見下しているからです。これは、許しがたい自己中心なのです。これは、誤れる自己中心誤れるオリエンテーションと言うべきです。これはまずい母子関係とまったくおんなじ構造です。


 去年の今日のブログ。まずい母子関係しかできない母親は、「人間を上下2つに分けるウソ」の無自覚な信者です。

 この信者は例外なく、自分を「上」にしたいんですね。ですから、相手が弱い立場なら、必ず「上」に立とうとします。でもね、これじゃぁ、献身ができません。子どもが献身なしに、最初の発達危機を克服できません。しかだって、「人間を上下2つに分けるウソ」の信者の母親の場合、その子はほとんど例外なく、大きく根源的不信感に傾きます。あくまで、自分が「上」なんですから、「下」の子どもの都合にいちいち合わせる必要はないからです。

 ですから、そういった子どもは、いつまでも、甘えん坊ですし、見失ったものを見つけ出す遊び(イナイ・イナイ・バーのバリエーション)を何時までもやっています。それでも、その母親は気づかない方が多いでしょう。でも、母親ですから、そのままじゃぁ言い訳が立たない。ですから、母親が気が向いたときに、映画や公園や遊園地に連れていくのですね。あくまで、自分の都合のいい母子関係を維持したまま、それでいて、言い訳づくり、「免罪符」としての、イベント映画、イベントディズニーになるわけです。

 自己中心、それは結局双方向、やり取りができないのです。その自己中心の中核には「人間を上下2つに分けるウソ」が必ずありますよね。子どもの自己中心をですから認められないのです。それでいて、自分のことは棚に上げて、子どものことは「わがまま」などの言うんですね。

 この辺をじっくり読んでいただけたらと思います。親愛なる友なるお母さん! 

 

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神様の真の性質

2014-08-11 11:54:34 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 父なる神の真の中に、母なる神の真が含まれることがある、と言います。

 p62後半のパラグラフから。

 

 

 

 

 

 私は宗教における母性的な要素と父性的な要素の違いを議論するのは、神様の真の性質は、その宗教が、母性的要素と父性的要素のどちらにどれだけ重心を置いているのかによって変わってくることをお示しするためなんですね。宗教の父性的な側面のおかげで、私は神様を父親のように大事にすることができます。すなわち、私は神は正義にして厳格だと考えますし、罰も与えれば、ご褒美もくださると考えます。結局、神様は私をお気に入りの息子としてお選びくださると考えるんですね。それは、まるで、神様がイスラエルのアブラハムを選んだようですし、イサクがヤコブを選んだようですし、神様がお気に入りの民を選んだようでもあります。宗教の母性的な側面においては、私は神様をまるですべてを包み込んでくださる方であるかのように大事にします。私はずっと神様の掛け値なしに大事にしてくださる真を信頼してきました。それは私がたとえ貧しかろうと、無力であろうと、あるいはまた、私が罪を犯していようと、母なる神は私を大事にしてくださいますし、私を他の兄弟よりも大事にしてくださる、と信頼してきました。何があろうと、母なる神は私を救い出してくださるし、救ってくださいますし、許してくださいます。言うまでもありませんが、私が神様を大事に思う気持ちと、神様が私を大事に思ってくださる気持ちは、別々にはできないんですね。もし神様が父親ならば、父なる神は私を息子のように大事にしてくださいます。もし神様が母親ならば、母なる神の真と私の真とは、神様が母親だという事実によって、決まります。

 

 

 

 

 神様の真も、神様が母性の方に傾くのか、逆に父性の方に傾くのか、によって、人を大事に思う気持ちに差が出てくる。不思議ですね。でも、神様の真が、父性的なのか、母性的なのか、はどうやって決まってくるのか? それも不思議ですね。

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道を誤る源、不確かな取引

2014-08-11 05:18:55 | アイデンティティの根源

 

 本気の約束ほど、今の日本で求められているものはありません。当世日本に大流行のウソとゴマカシの対極、それが本気の約束だからです。

 p333の第4パラグラフ。

 

 

 

 

 パレスチナの祖国全体においては、ガリラヤはテトラルキアの要素の一部でした。テトラルキアとは、すなわち、ヘロデ王の3人の息子たちが王家を分割したものでした。このヘロデ王は、イエスが誕生したころ、死んだのでした。今やガリラヤは、相対的に申し上げれば、紀元39年までは何とか治めた息子の一人によって、安全に治められていました(ただし、洗礼者ヨハネを私憤によって処刑しましたし、イエスを将来洗礼者ヨハネの後継者になるかもしれない、と疑ったかもしれません)。第2の北東部は、紀元34年まで別の息子が治めていました。しかし、アルケラウスは、ユダヤを受け継いだ息子でしたが、すでに紀元6年に追放されてしまいます。つまり、それ以来、エルサレムは、ローマ帝国の代官(当時は、ご承知のように、ポンテオ・ピラトですが)と、聖職者のお役人たちの間の、不確かな取引によって、治められていました。この聖職者のお役人たちは、1000年前にソロモンが古い神殿を立てた場所に建てた新しい神殿の「主」でした。私は、この取引がユダヤ民族の自らを確かにする道を混乱させる要素として、強調したいと思います。というのも、この取引は、宗教的にも、政治的にも、品位を落とすものだったからです。そして、イエスは、「王」は、もちろん、その取引の犠牲者なんですが、ローマの平和にとって、危険だという噂される存在でした。民族の確かにする道に関して申し上げれば、偶然ですが、イエスもローマ帝国も、当時の共通語、ギリシャ語で話をしていたと思われます。

 

 

 

 

 エルサレム神殿の聖職者のお役人とローマ帝国の取引によって、エルサレムが治められているといいます。しかし、この取引が、まさかユダヤの民族として自分を確かにする道を侵すことになるなんて、あまり気が付きませんよね。エリクソンは、その微妙な問題を、ハッキリ意識していました。

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