お祭り 歴史探索の旅   ~尾陽雑記抄~

活動拠点をやいと屋知足斎の日記に移しました

「郷土の山車写真集」を初めて観たのは鍼灸院だった!!

2008年03月29日 00時01分19秒 | 歴史探索
伊勢門水 「名古屋祭」と双璧を為すであろう本に山田鉦七氏の「郷土の山車写真集」があります。戦前の山車もあれば、現存する山車も載っています。

 この本に初めて出会ったのは、近くにあった鍼灸院でした。中学時代、体育の授業で「60メートルダッシュ」をするのですが、その時、股関節(腰?)を痛めてしまいました。痛みが取れると再発、痛みが取れると再発、つまりクセになってしまいました。
 そこで近くの鍼灸院を訪れるのですが、そこで山田鉦七氏「郷土の山車写真集」を初めて読みました。中区にも湯取車あったんだ。(戦災で焼失した桑名町湯取車)西区の比良にも湯取ってあるんだ。(河南 湯取車)小牧にもあるのか… へえ、津島には二輌あるんだ。(朝日町、麩屋町)

 僕が湯取に入門したのは小学高学年、中学時は受験を控えて山車祭を控えていました。そのまま、辞めるつもりだったんです。それが自然でした。事実、僕の同級生も数人、受験時で辞めています。

 今思えば、その鍼灸院で「郷土の山車写真集」をみなければ、大学時、地元祭礼に戻る気にならなかったかもしれません。

 鍼灸院の先生が高齢の為、鍼灸院を廃業される時に、僕は「郷土の山車写真集」を頂きました。その先生がお亡くなりになられてもう、6,7年たってしまいました。
 おそらく僕が湯取車に残るであろうキッカケを頂いたのは、その鍼灸院で観た「郷土の山車写真集」でした。今、手元にありますが、湯取車など祭の思い出より、その鍼灸の先生とのやり取りを思い出し、自然に涙が流れてしまいます。最近、すっかり涙もろくなりました。

 「小牧の湯取車観に行くキッカケってなんだっけ?」「家伝灸物語、そういや昔、鍼灸治療受けていたなあ…」

最近、昔を思い出すようになってしまいました。このブログにも「郷土の山車写真集」について書いたものがあります。

名古屋市千種区上野の八坂社

そこに奇しくも今書いている記事にたどり着くコメント書いていました。

スリムな山車でした (檳榔樹)

2006-03-12 20:07:54

アキさんお久し振りです。郷土の山車写真集の最初に載ってる山車ですね。
子供の頃見たことがありますよ。山車蔵の扉が壊れておりすき間から覗けたんです。
何でも風の噂で焼却されたと聞きましたが。
動く様子を見れなかったのが残念です。

山田さんのおかげ (アキ(檳榔樹さんへ))

2006-03-13 20:25:30

おお、檳榔樹さんは山車を観た事があるのですか?名古屋に路面電車が走っていた頃、駅のすぐ近くに山車蔵があった。(今は市バスの「谷口」)萱場の山車とか上野の山車と呼ばれたもの。戦災で焼失と思っていましたが、昭和50年代まであったようですね。東区、片山八幡社付近にあった「胡蝶車」と上野の山車、写真集では何故かインパクトがありました。

 山田鉦七氏は「獅子車」所属だったと訊いております。山車の研究とは結局「名古屋祭」を著した伊勢門水と「郷土の山車写真集」、山田鉦七氏の後を追うことに過ぎないのかもしれません。山田氏のおかげで後続の者が、研究出来るようなものです。

 上野の山車、やはり今の時代に出来町の山車と一緒にまつりが出来たら、凄かっただろうと想像できますので、少し残念です。


「山車の研究とは結局「名古屋祭」を著した伊勢門水と「郷土の山車写真集」、山田鉦七氏の後を追うことに過ぎないのかもしれません。山田氏のおかげで後続の者が、研究出来るようなものです。」


 結局先達が残した足跡を僕は歩んで行くことが、僕に残された「使命」かもしれません。そして僕より後の世代が困らないように、道を広くし、歩きやすくする、そして記録として残す(ブログもその一環)が僕の「責務」かもしれません。


 僕が作った道はかなり寄り道?だらけですが、誰かが僕の来た道をキッカケにして山車祭を好きになって頂ければ、これ以上の喜びはありません。過去、山田鉦七氏について書いたブログも三月でしたか。三月は花粉症の涙と悲しみの血の涙と昔を思い出す懐かしみの涙の時期かもしれません。

死兆星を観たトキのように悲壮感が僕に漂っていますが、昔を思い出すと、色々あるのです。



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