素人裸足稲作日誌 ~晴耕雨読ライフ~

イキイキ・伸び伸び、充実した『晴耕雨読』な生活を恋女房と二人慎ましく過ごしながら米作り・野菜作りに汗を流しています。

雨中神社掃除なり!

2010-03-07 20:12:11 | 日記


また雨である。昨日ほどの降りではないが雨である。その中を、休みの中を早朝から起きて、町の神社“伊奈富神社”の柴草刈りが町中総出で行われた。
オイラの町の春の風物詩でもあるわけだな。各自治会割り振られた区域をセッセセッセと鎌や草刈り機を使って地面を這う柴や草を刈るわけだわ。
毎年、この杉繁る森に入って例の病を発症して帰ってくるわけなのだが、今年はこの雨のおかげと薬のおかげでクシャミひとつせずに帰ってこれたよ。



すまん、指が入ってしまったが・・・
我が町の神社はここに鎮座ましまして2100年たつんだ、と書いてあるね。
オイラの誕生する2053年も前ということになるね?比較にならんな。
この神社の由来は、社伝(神社の言い伝え)によると

『神代、東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、霊夢の神告に
より崇神天皇五年勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、
神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神を鎮祭されました。
その後仲哀天皇の御子品屋別名の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、
雄略天皇五年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食大神に食大神には「那江
大国道命」の御神号を賜りました。降って奈良時代天平年間、行基上人が別当
寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩
堂を建立して三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造られたと伝えられて
おります。貞観七(八六五)年年四月、正五位上より従四位下に進階し(三代
実録)、延喜式内社に列しております。当時の神領は東は白子、西は国府、南
は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に
進階し、文永十一(一二七四)年三社に勅額を賜りました。以後「正一位稲生
大明神」として武門武将の尊信厚く、ことに鎌倉将軍推康親王は神田田二百二
十町歩、北畠国司は社領千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年
間には、紀伊徳川家より造営料銀二十二貫を賜り、三社の大造営をなしており
ます。明治六年郷社、同三十七年県社に列せられ、戦後この制度は廃止され現
在に至っております。』

だそうだ。誰か解りやすく解説してくれるとありがたいのだが・・・・

ガキの頃は、境内の池で鯉・鮒を釣り盛り、森の中を我が庭のように走り回り
木から木へ飛び渡り、飛び移り、大事にしてた物を穴掘って埋めたような記憶も
かすかにあるがなー、土に還っているんだろうなー?
ここにいるとガキ大将のオイラに会えるような気がするよ。古き良き時代だったねぇ。
今のガキはこんなところで遊びまわったりしないんだろうね?怪我するからね。
★ちなみに境内の池での釣りは、今も昔も「厳禁」である。神主さまに見つかって
追いかけられるのは確実である。経験済みである。何度も。

春には名物でオイラが出た小学校の校歌にも謳われている「紫つつじ」が咲き乱れるよ。
みんなも是非見においで!それはそれは絶景だから、癒されるから、和むから。
オイラは46年の生涯でまだ行ったことがないがね!

コメント
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