(この美形が、なぜ歳をふるとこんな怪しいコスプレさんになるんだ???)
というのはさておき。
佐幕派を自任するワタクシは、当然、敵方のシングルイシュー=尊王攘夷思想なぞも探っていたりします(エライぞ、ゴマ)
その結果、平田篤胤の「復古神道」が、尊王攘夷思想やその後の日本の悲惨な進路に少なからず影響したのではないかと、気づいたのです(遅っ)
では、平田なんちゃらはどんな人かといいますと、
(キライだから画像は貼らないよ )
「平田篤胤:1776年10月6日(安永5年8月24日)~1843年11月2日(天保14年閏9月11日)
江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。
出羽久保田藩(現在の秋田市)出身(くそっ 裏切り者の秋田藩か、やっぱりな)
成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。
復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている」
(以上、ウィキペディアから引用)
で、そもそも「国学」とはなんぞやと申しますと、江戸期の学問の主流は「漢学」と「国学」で、四書五経など中国古典研究をやるのが漢学なのに対し、「万葉集」「古事記」など日本の古典文学研究が国学です。
篤胤以外の国学者=荷田春満・賀茂真淵・本居宣長(三大人ともいう)は、古典研究をしていくうちに、
「これを書いた古代の日本人の気持ちって、いったいどんなんだったんだろ?」
「むかしのオリジナル日本人っていったい何?」
みたいな興味がわきおこり、それを研究する方向に進んでいきました。
(まぁ、自然な流れやね)
ところが、お情け的になんとか四大人に入れてもらってる篤やんは、この国学という学問を宗教化してしまったのです。
もともと、このオヤジ、本居宣長とはまったく面識がなかったにもかかわらず、宣長の死後、
「先生がボクの夢に現われて、ボクたちは師弟関係を結びましたー」などとほざく相当ヤバい逝っちゃってる系のヤツでした
たしかに、勉強熱心な努力家ではあるらしいのですが、狭量で独善的、排他的なうえ、オカルト風味たっぷり
もし同じクラスにいたら、絶対関わっちゃいけないたぐいのめんどくさい男なのですっ
で、このめんどくさい男は、6世紀に伝来して以降、天皇家を中心に篤く信仰され、日本の神道と融合していた仏教を、
「アレって、インドの宗教じゃん
そんなケガラワシイものと、日本オリジナルの神道が融合(=習合)してるのはオカシイ
(…オカシイのはおまえの頭だ、ボケ)
神道を、仏教伝来前のあるべき姿に戻せー」
と「復古神道」を主張しはじめました。
こういう極端な意見は、もし江戸時代初~中期くらいなら、
「あら、やだ、なんかイタイ人がいるわ~」
と、なまあたたかくスルーされたかもしれませんが、その当時は「フェートン号事件」「モリソン号事件」、お隣の「アヘン戦争」などが頻発し、西洋列強からの脅威が徐々に忍び寄っていた不安な時代。
そういう時代だったせいか、平田の排外思想は妙にウケて、あっというまに浸透していったのでした。
一方、尊皇攘夷思想は、儒教的秩序論・歴史観に基づいたものでしたが、「異国=穢れ」とみなす平田国学の排他性・外国蔑視・日本アゲアゲ思想は、攘夷(夷狄をはらうの意)思想となじみやすかったようです。
さて、ここからが本題です(前フリ、長っ)
この平田国学(復古神道)では、天皇は神道の根源なので尊崇の対象となっています。
また、江戸期は、国民管理の末端組織として寺院が活用されており(宗門人別帳など)、神社も寺院の管理下におかれていました。
なので、平田国学は、天皇を担いでクーデターを起こした薩長側にはまことに都合のいい考え方で、天皇家を神官のトップとする神官たちにも歓迎されました。
そんなこんなで、明治元年(1868年)、明治新政府は神仏判然令(神仏分離令)を布告。
その目的はもちろん、「王政復古」「祭政一致」実現のため、ジャマな仏教を排斥して一神教化した神道を国教となし、同時に全国の寺院がもつ寺領・富をブンどる大義名分として、平田の復古神道が使われたのでございますです。
その結果、全国でおきたのが、廃仏毀釈運動
いうまでもなく、タリバンなどとまったく同じ文化遺産破壊活動がこの日本でも行われたのです。
奈良・興福寺:破壊された無数の仏像
日本の誇るイケメン・阿修羅像(天平時代作)もこの時被害に遭いました。
(写真中央に阿修羅さまの痛々しいお姿がー)
こちらは、長野にあるお寺のご本尊さま
(頭部がないうえ、焼かれている)
なんでも廃仏毀釈では、木像はナタで頭部をメッタ切りにしたり、燃やしたりし、石仏は頭を落として破壊し、石碑までも割ったそうです
また、この流れのなかで、「討幕側の戦死者だけを祀る」というおよそ日本人の宗教観とは相いれないコンセプトをもつ「靖国神社」も造られました。
(日本では戦死したらノーサイド。敵味方関係なく死者は手厚く供養するという、清々しい日本古来の考え方がありました。
その証拠に、こともあろうに御所にむかって大砲・鉄砲をぶっ放した大逆賊・正真正銘の朝敵=長州兵の遺体を、禁門の変後、幕府側はきちんと埋葬しました。
ところが、蛮族の薩長や、他人にだけ命のやりとりをさせ、自分たちは安閑と暮らすのが当然と思っているクソ公家衆にはそういった考えはなかったらしく、戊辰戦争後、旧幕側の遺体埋葬禁止令を下しました その延長線上にあるのがこの靖国神社なのです。
非文明人の猿どもめが)
そして、そんな破壊活動に呆然とし、日本人のアイデンティティと東アジア文化の集大成=日本の文化を守るために決然と立ちあがったのが、あのイケメン官僚・岡倉天心さまなのですっ
(ホッ やっとオカちゃんにつながった…)
オカちゃんは、「攘夷」を叫んで倒幕したとたん西洋崇拝・日本文化軽視に転じた明治政府に抗議し、日本の伝統文化・工芸を守るため東京美術学校(のちの東京芸大)設立に奔走しました。
その際、彫刻科教授として失業中の仏師・高村光雲を招いたり、横山大観・菱田春草・下村観山など優れた画家を育成したのです。
ところが、腐れ政治家・西園寺公望は、美術学校が日本文化一辺倒の校風を快く思わず、黒田清輝・藤島武二などおフランス帰りの画家を押し込んで、西洋画科を設置。
このことでが契機となって、内部分裂がおこり、オカちゃんたちは弾きだされてしまったのです。
(鳴り物入りで招請された黒田たちですが、その画風は19世紀半ばころのもので、ヨーロッパでは超時代遅れだったらしいっすけどねぇ)
ということで、いろいろあったオカちゃんですが、最後は志を同じくする同士たちと日本美術院を立ち上げるのでした。
めでたしめでたし
(はぁ、なんか畑違いな話で、今回はすんごく疲れた……)
次回は、これと関係する衝撃の幕末秘話だよん