OH江戸ライフ

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とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

おそるべし、天海っ!

2016-10-03 | 江戸時代

(慈眼大師天海像)

では、いきなりですが、ここで天海さんについてのおさらいをしましょう

天海:
天文5年(1536年)? ~ 寛永20年10月2日(1643年11月13日)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。
南光坊天海、智楽院とも。大僧正。諡号は慈眼大師。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与

(以上、ウィキからの引用)


……ま、ここまではいいとして、問題なのは天海=明智光秀疑惑でしょう。


(本徳寺所蔵:明智光秀像)
ちなみに、本徳寺を開基した南国梵桂=明智光秀の長男・明智光慶という説あり。


『天海=光秀』説の根拠
①日光東照宮陽明門の随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がついている。

(日光東照宮陽明門随身像)

②日光には明智平と呼ばれる場所がある。一説には、天海が名づけたとも。

③光秀没後の天正10年(1582年)以後、比叡山に光秀の名で寄進された石碑がある。
(ホントかよっ

④光秀の家老・斎藤利三の娘・お福(=春日局)が家光の乳母に決定し、天海に会ったとき、
「お久しぶりです」と声をかけた

⑤光秀の孫(外孫)・織田昌澄は、大坂の役で豊臣方として戦ったのに、戦後助命されている

⑥童謡「かごめかごめ」の歌詞には隠された暗号があり、光秀=天海を示している(?)
(光秀の出身地・岐阜県可児市から、天海廟所がある日光の方を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺なんだって……それがなんで天海=光秀の暗号かは???)

⑦『東叡山開山慈眼大師縁起』によると、家康と天海が初めて対面したとき、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったとか。
家康は初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例がなく、側近も「え? なんで? なんで?」とびっくらこいた。

⑧比叡山・叡山文庫に、出家前の俗名が光秀といった僧の記録がある。
(それが天海のことかは不明)

⑨本徳寺(いまは大阪府岸和田市にあるが、開基時は大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承がある。
「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛光秀の通称)が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。

※光秀の妻・熙子は、夫が浪人していたとき、連歌の会を催したが金がなかったので、自分の黒髪を売って金を工面し、光秀をフォローしたという有名なエピソードがあります。
(てか、夫が失業中でビンボーだったら、そもそもパーティなんか開くな!って思うけど……

ほかにもいくつか根拠があげられてますが、ゴマ的に「どうよ?」度合が高いので割愛しました

で……うーん、どうなんだろ?
言われてみれば、「そうかも?」だけど……微妙


ただ、天海さんには、「うは、マジすかーっ」な とっておきネタがひとつございまして……

それというのも、家康のブレーンだった天海僧正は、徳川氏の居城・千代田城を中心として、首都・江戸を守るため、陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに四方結界を張ったというのは、つとに有名

つまり、
・北の守護:上野寛永寺
・鬼門(東北)守護:神田明神
・南の守護:増上寺
・裏鬼門(西南)守護:山王神社(いまの)日枝神社
を配し、とくに徳川家とゆかりが深い裏鬼門の増上寺から鬼門の北東に向けて直線上に、寺社をずらっと並べ、魔が入りこまないよう封じ清め、最強の都市をデザインしたといいます。

そして……
そんな天海さんが、ある不吉な予言(遺言)を残し、それが約260年後、実現してしまったのです

その予言というのが、

「江戸の鬼門にあたる水戸徳川家から世継ぎ(将軍)を迎えるとき、徳川家は終焉する」

ギャー、ドンピシャー

ノストラダムスより的確に当ててるしーーーっ

まさに、最後の将軍=第15代慶喜は、水戸徳川家出身~

なんでも、鬼門の東北は「変化・相続をつかさどる」方角とされているとか。
だから、文字どおり、「相続が変化する」=「徳川の終焉」=「水戸から将軍候補を立てちゃダメ」だったんですね

おい、だれだ、七郎麿を一橋家にいれた大バカヤローはーっ

(……あ、それは、たぶんこいつこの方だ

(備後福山藩主、老中首座・阿部正弘)

バカバカバカバカ、なにしてくれるのよー

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