OH江戸ライフ

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とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

福沢センセイはクズの中のクズ=キング・オブ・クズだった件

2018-06-29 | 江戸時代
みなさま ごきげんよう 

目下キュウリ・ナス地獄におちいっているゴマでございます


あー、さて、国立公文書館で5/26から開催されている企画展「戊辰戦争 菊と葵の500日」に会期ギリギリでようやく行くことができました 




本当はが治りしだい、同好の士をお誘いして行こうと思っていたのですが、残念ながらいまだ治らず、ひとりでわびしく行ってまいりました 

会期は明日6/30までです。興味のある方はお急ぎください 

(今回は図録がないので、必死でメモるのじゃぞ~ 





ところで、当ブログでは、福沢センセイのクズっぷりを盛大にディスったことがございましたが
「やっぱ、福沢はキライじゃ~!」 参照)
今回、この企画展の展示について調べていたら、さらなるクズ伝説を発見してしまったのです!


そのきっかけとなった資料は、『武内孫助筆記』というもの。

孫助さんは和歌山藩士で、それによると、鳥羽伏見の敗走後(慶応4年1月)、江戸にいた旧幕臣・旧幕府側諸藩士たちは江戸小川町にあった開成所に集まり、今後の方針について話し合ったそうなのです。

その話し合いというのがすごく民主的で、東進してくる新政府軍に対し『攻』か『守』どちらにするかで激論が交わされ、入札の結果『攻』が多数となり、方針が決したのです。

(ただ、それを上申したものの、ヘタレ慶喜に退けられたそうな 

この会議では、議案の演説(プレゼンやね)、多数決での決定などのルールが採用されました。

これは、欧米政治の知識をもつ洋学者・加藤弘之・神田孝平らの助言で取り入れられたもののようです。


てなことで、探求心旺盛なアザラシ=ゴマちゃんは「加藤弘之? 誰やねん?」と思い、いつものようにお気軽にググってみたところ……福沢センセイのゲスいエピソードを発掘してしまったのですっ



まずは、この加藤さんはどんな人かといいますと、

加藤 弘之
天保7年(1836)~大正5年(1916)
日本の政治学者、教育家、官僚
位階=正二位
勲等=勲一等
爵位=男爵
学位=文学博士・法学博士

外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でフルベッキの門弟として学ぶ。
学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える。
明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任。
獨逸学協会学校の第2代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務める。

(by ウィキペディア)

幕臣になったのは元治元年(1864)で、このとき加藤さんは旗本となり、開成所教授職並に任ぜられました。

そして、この会議があった慶応4年(1868)1月は、目付になっていました。


で、問題のゲス逸話は、鳥羽伏見の後、慶喜が大坂から逃げ帰ってきたときのこと。


ゲス野郎の自伝『福翁自伝』によると、

「さて、慶喜さんが京都から江戸に帰ってきたというその時には、サア大変。朝野ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も医者も坊主もみな政治論に忙しく、酔えるがごとく、人が人の顔を見れば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ、礼儀もない」

この時のゲス野郎は幕府の禄を食む身――つまり幕臣です。

なのに、すんごい他人事のように、さも自分は冷静でクレバーだといわんばかりの態度です 

で、ここでゲスはバッタリ加藤さんに会うのです。

加藤さんは慶喜に面会するため正装姿。

もしかすると、例の会議で決まった『攻』の話をしに来たのかもしれません。

そんな思いつめた加藤さんを前にしたゲスは、


ゲス『今後どうなるんだろう? いよいよ戦争になるか、ならないか、君たちは(役人だから情報が入るだろうから)わかるだろう? それがはっきりしたら僕に教えてくれ。ぜひとも聞きたい』

加藤『それを聞いてどうするんだ?』

ゲス『どうするって? 決まってるじゃないか。このあと開戦必至となれば、僕は荷造りして逃げなきゃならないからさ。戦争が回避できるとわかったら、落ち着いていられるじゃないか。戦争情報はものすごく大事なことだから、絶対教えてくれ!』

これを聞いた加藤は、(こいつ、なに言ってんだ?)とビックリ仰天。

加藤『(兵数で勝る幕府軍が鳥羽伏見でまさかの敗北を喫し、将軍は朝敵とされ、東征軍がこちらに向かっている。幕府瓦解の危機だというのに)そんな気楽なことを言ってる場合じゃないだろう。バカバカしい!」

ゲス『いやいや、気楽じゃないよ。僕は命がけだよ。君たちは戦おうが講和しようが勝手にすればいい。僕は始まったとたん速攻逃げるつもりだから

そのふざけた態度に、加藤、爆ギレ。



――以上、『福翁自伝』の内容を若干現代風にアレンジしました。



ところで、みなさんはゲスが書いた『痩我慢の説』というのをご存知でしょうか?

これは1891年(明治24年)11月27日に脱稿され、1901年(明治34年)1月『時事新報』紙上に掲載されました。

内容は、勝海舟と榎本武揚を痛烈にコキ下すものなのですが、これによると、ゲスいわく、

敵に対し、こちらに勝算がなくても、力のかぎり抵抗することが痩我慢なんだそうで。

そして、家のため、主人のためならば、必敗必死を眼前に見てもなお勇進して徳川家康を支えた三河武士の『士風の美』を痩我慢の賜物として賛美していらっしゃいます。

で、明治維新という政権交代の本質は薩摩・長州藩と徳川家の権力闘争だから、三河武士によって構成される徳川家としては、佐幕派諸藩と連携して徹底抗戦すべきであり、いよいよ万策尽きたら江戸城を枕に討ち死にするのみ。これでこそ痩我慢の精神が全うされると、ゲス野郎は主張しやがっております。


HAHAHA! どの口がそれを!? 


ゲスは、江戸を火の海にするより、江戸城を穏便に明け渡し、明治政府に仕官した勝を罵倒しているのです。


ゲスが言うには、戦わずして和議を結んだ勝の行為は社会の安寧というタテマエは一時の方便にすぎず、本来立国の要である痩我慢の精神からは許されるものではなく、武士の風上にも置けないヘタレ野郎!
(おまえが言うな!)

内乱を避けるための講和というのは、古来日本の上流社会が最も重視してきた痩我慢の精神に人々の目を向けさせないようにしたマヤカシだ!

士風の維持という観点からは、国家存亡の危機に勝算の有無は論外!

戦う前から必敗を期し、ひたすら講和を求めたのは、立国要素たる痩我慢の士風を損なった!

「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり!」


とゲスは勝を批判しまくっております

また、榎本についても、かつての敵の政府に仕えて出世していることを糾弾しています。


すくなくとも榎本は最後まで抵抗したけどね! 
誰かと違って!


自分の買った本を公用荷物にまぎれこませ(公金横領)、それがバレて荷物を渡してもらえなかったのが、幕府瓦解でウヤムヤになって、その本を元に塾の教材に使ったどこかの犯罪者とは違うんじゃー!



でも、最大のゲスポイントは、福沢センセイがこの『痩我慢の説』を書いた動機が、勝に借金の申し込みを断られた腹いせでってことでしょう  

なんでも、明治11年ころ、慶應義塾は薩摩藩学生の退学など(西南戦争の影響ですな)で経営が思わしくなくて、勝に援助を求めたんだとか。

(ゲスの要求=慶應義塾の運営資金20万円を10年間無利子無担保で貸せ。しかも、なぜかデカい態度だったそうな)

※ 明治11年ころの20万円=現在の6億~15億円相当


勝は、倒幕後生活苦におちいった旧幕臣たちの就労先斡旋や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30年以上つづけたそうです。

なので、旧幕臣に分けへだてなくお金を融通していた勝なら、簡単に貸してくれると踏んでいたようですが、勝はゲス吉さんが政府から払い下げられた14000坪もの広大な三田の良地を持っていることを知っていたので、土地を売ってもまだ慶応の運営資金が足りなかったら相談に乗りますよと答えたそうです。

でも、ゲス吉はこの土地がすごく気に入っていたので、売らなかったのです。

つまり、お金は貸してもらえなかったんですね。


この借金をめぐる話はゲス吉さんの日記にも書いてあるそうで(明治11年4月)、『瘠我慢の説』は同年11月に書かれています。


うわ~、ないわ~!

これって、現代でたとえてみれば、豪邸・高級外車もってるヤツが生活保護申請するようなもんでしょ?

それを却下されたからって、逆恨みとか意味不明~!


やっぱ、フクザワ先生はマジもんのクズじゃ~!

なにが慶応塾じゃい!?

あんたには『偽』がお似合いじゃー! 

気軽に『義』の字を使うな!



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