OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

前島密ってそんなにエライ人か? ①

2018-07-11 | 人物
みなさま ごきげんよう

いままでのナス・キュウリ地獄に、最近はトマト地獄が加わったゴマでございます 
 
(桃太郎トマト5~10個ミニトマト10~15個/1日って、どんな罰ゲームなんだ それでなくとも、冷蔵庫にはナス20個とキュウリ30本、ピーマン10個が……げっ、キュウリが腐りはじめてる


ちなみに、トマトは15~20個くらい貯まったら、湯むき ☛ ミキサーで粉砕 ☛ 鍋に入れて、顆粒コンソメと塩、乾燥バジルをテキトーにぶっこむ ☛ ひと煮立ちさせ、冷めたら冷蔵庫に ☛ 完熟トマトの冷製スープ完成

ナス・ピーマン・巨大化したキュウリは、ひたすら豚肉と炒める


てな感じで消費していますが、ボチボチ「またこれかよ?」な怨嗟の声が上がりはじめ…… 

「じゃー、どーすりゃええんじゃい!? 冷凍庫はアイスでいっぱいだろーが! 冷凍保存したくとも入れるところがないんじゃー!」


あー、グチはこれくらいにして、今日のテーマに入りましょう 


をわずらって以来、ヒッキー気味なゴマでしたが、押上にある郵政博物館で『明治改元 150年展 幕臣たちの文明開化 』ちゅー企画展があると聞き、久しぶりにお出かけしようと思ったのですが……「考えてみたら、郵政博物館イチオシの偉人・前島密ってどんな人だっけ?」ということに気づいたのです 


(幕臣時代の前島ッチ)


てなことで、いつものようにウィキさんでサクサク検索 

すると…………なにか引っかかる。

なんだろう、このイヤ~な感じは?


……そうだ あいつだ、あいつと同じニオイがするんだ


(お行儀悪っ お里が知れますわよ、クズ吉っ



ならば、クズ吉に似ている疑惑を解明するため、まずはヒソカちゃんのプロフィールを見てみましょう 


天保6年(1835) 現在の新潟県上越市の豪農・上野助右衛門の二男として生まれる
           父は間もなく亡くなり、母方叔父・糸魚川藩医相沢文仲に養われる

弘化4年(1847) 江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学ぶ

(おい、待て! このころ江戸で英語を教えてくれるところなんてあったか? そんなのがあったら、なんでペリーが来た時、日本語 ☛ オランダ語 ☛ 英語 ☛ オランダ語 ☛ 日本語 なんてめんどくさい通訳の仕方したんだ?)

安政5年(1858) 航海術を学ぶため箱館へ赴く 名を巻退蔵と改める

安政6年(1859) 武田斐三郎の諸術調所に入る

慶応元年(1865) 薩摩藩洋学校・開成所の蘭学講師となる

慶応2年(1866) 幕臣前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗る
           漢字御廃止之議を将軍・徳川慶喜に提出
 
慶応3年(1867) 開成所数学教授に就任

明治2年(1869) 明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕 このころ、密に改名

明治3年(1870)3月 租税権正 5月 駅逓権正兼任となり、太政官に郵便制度創設を建議 
    6月 郵便制度視察および鉄道建設借款契約締結のため渡英

明治4年(1872)8月 帰国 駅逓頭に任じられ、郵便制度創設に尽力 日本の近代的郵便制度の基礎を確立

明治6年(1873) まいにちひらがなしんぶんしを創刊

明治10年(1877) 駅逓局長に任命 第1回内国勧業博覧会審査官長

明治12年(1879) 内務省駅逓総監に任じられる

明治14年(1881) 明治十四年の政変で辞職し、大隈重信らとともに立憲改進党を創立

明治19年(1886) 東京専門学校(現早稲田大学)校長就任 関西鉄道会社社長就任

明治21年(1888) 11月逓信次官就任(~明治24年(1891)3月まで)
            官営電話交換制度を実施

明治27年(1894) 北越鉄道株式会社の社長就任 北越鉄道(直江津 - 新潟)建設開始

大正8年(1919) 現在の神奈川県横須賀市の別荘で没


では次に、日本の郵便制度についてググってみると……、


日本で通信制度があらわれたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した「大化の駅制」

鎌倉時代に至って飛脚が出現

戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用される

江戸時代は幕府の整備により武家や町人が利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達する

幕末、1858年の日米修好通商条約により、締結国が開港地に領事館を設置
各国は公文書を蒸気船・軍艦に運搬させ、自国民の手紙も便乗させた(領事館郵便
やがて業容を拡大し、独立の局舎を設けて専任の従業員を抱えるものがあらわれる(在日外国郵便局
在日外国郵便局は、英米仏三国が横浜・兵庫・長崎にもっていた
在日局は各国の郵便ルールに従い行われ、切手販売、手紙引受、押印という基本的機能を果していた
横浜居留地ではサザーランド切手が使用される

明治3年(1870)5月 駅逓権正となった前島密が太政官に郵便制度の創設を建議

同  年     6月 前島、渡英 
           郵便制度創設建議は、後任の駅逓権正杉浦譲と各地の官史に引き継がれる

明治4年(1871)1月24日「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告公布、

         4月20日(旧暦3月1日)東京〜京都〜大阪間で現行制度の礎となる郵便制度確立 東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設 布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じたもの


前島密により建議され、創設された近代日本郵便制度では、これまで東京〜京都〜大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両支出していたのを、政府の手紙配達に民間の手紙配達を併せて配達し利益を出すしくみが提案された。
そのしくみは、東京〜京都〜大阪間62カ所の郵便役所・郵便取扱所で官吏が引き受け・管理を行い、配送時間は厳守された。
郵便制度創設後、従来の飛脚が東京〜大阪間144時間で書状を配送していたものを78時間に短縮

明治4年(1871)8月 前島、英国より帰国

前島ー!!!

郵便制度の父とかいわれてるけど、肝心な時に日本にいなかったじゃねーかー!

いやね、たしかにプランは出したかもしれないけど、この場合、大変なのは机上論を現実の制度に作り上げる仕事でしょ

だったら、偉大なのはこの杉浦譲って人じゃないの


考えてもみーや、『どこでもドア』や『タイムマシン』なんて、考えるのはいくらでもできるけど、それを作り上げるのは並大抵のことじゃないでしょ?



じゃあ、この杉浦さんはどんな人かといいますと、

杉浦譲(天保6年(1835)~明治10年(1877)) 

・代々甲府勤番士を務める家に生まれる(幕臣)

・勤番子弟学問所・徽典館に入り、19歳で助教授になる

文久元年(1862)江戸に派遣され、外国奉行支配書物出役となり、後に調役に昇進

文久3年(1863)幕府外交使節の一員としてフランスに派遣される

慶応3年(1867)パリ万国博覧会に派遣された水戸藩主徳川昭武随員としてフランスに再度渡航

同  年     8月 任務を帯びて先行帰国

慶応4年(1868)1月 外国奉行支配組頭になる

維新後、徳川家達に従い静岡藩に下るが、明治新政府に召されて民部省改正掛に入る

前島密とともに郵便制度の確立に努め、前島が海外視察中に行われた郵便制度の開始時には責任者(駅逓権正)として制度の統一・郵便局設置・郵便切手の製造などを行う

後に駅逓正に昇進し、地理権正も兼ねる

東京日日新聞・富岡製糸場の創設に関与

早くから四民平等を唱えて解放令や地租改正の必要性を訴える

後に組織再編によって大蔵省、太政官正院、内務省に移り、地理局長に昇進するが、地租改正のための測量に奔走中に肺病で倒れ、43歳で死去


めっちゃ優秀じゃん!

少なくとも、ヒソカちゃんは明治3年に初渡航なのに、この人は文久・慶応期に2回も渡航してるし、なんといっても19歳の若さで、昌平黌の甲府分校である徽典館の助教授になっていることから、バツグンの頭脳を持っていたことがわかります

優秀すぎたせいか、最後はどう見ても過労死だよね 

ああ、かわいそうに……


なんか引用ばっかしていたら長くなっちゃったんで、ゴマがモヤっとした理由は次回につづく~


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