OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

3月15日 Ⅱ

2015-05-03 | 江戸時代


旧暦3月15日…忘れちゃいけないイベントがもうひとつありました!
 
「隅田川木母寺、梅若塚大念仏(今日は梅若丸忌日によりて修行すといへり。柳樹の本梅若山王の社開扉あり。このころ養花天(はなぐもり)とて大かた曇り、または雨ふることあり。この日雨ふるを梅若が涙の雨といひならはせり~後略~)」
「浅茅が原妙亀明神開扉。梅若丸の母妙亀尼の像なりといふ」(by東都歳事記)

梅若丸…ザックリいうと一種の貴種流離譚です。
ときは平安時代中期、京の公家(吉田少将)と美濃国の長者の一人娘との間に生まれた梅若丸くん。
パパの吉田くんが若死にしてしまい、梅ちゃんは比叡山に(←…なんで
でも小坊主仲間とケンカしてしまい、プチ家出(…寺出?)
琵琶湖のあたりをウロウロしていると、運悪く人買いに取っ捕まってしまいました
オッサンは、いかにも上品そうな坊やを見、「うん、田舎なら高く売れるかもー」と思い、奥州に連れて行くことにしました。
当然、徒歩の長旅。もともと公家の息子でインドア派の梅ちゃんは、隅田川東岸・関屋の里でダウンしてしまいます。
そんな梅ちゃんにオッサンは「ち、使えねーなー」と毒を吐いてバックレてしまいました。
梅ちゃんはやさしい里の人たちに看病されますが、貞元元年(976年)3月15日わずか12歳で病没。
その辞世は『尋ね来て問わば応えよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと』(12歳でこれを?す、すごい…)
一方、母親(花御膳)は坊やが行方不明と聞き発狂。梅ちゃん捜索の旅に。
(なら、なんで寺に入れたの?ダンナが死んだとき引き取っときゃよかったんじゃね?)  
そして…。
梅ちゃん死亡から1年後、ママは偶然にも隅田川西岸から東岸に渡る舟に乗っておりました。
ふと見ると、対岸の柳の下でたくさんの人が念仏を唱えているではありませんか。
「あの…みなさん、なにやってらっしゃるの?」
「じつは、ちょうど一年前の今日、ここで梅若丸ちゃんつー坊やが亡くなりましてねぇ。なんでも人買いに拉致られてきたみたいで、身寄りもなくて…。かわいそうなんで、みんなでここに塚を造って、墓碑がわりに柳を植えて供養してるんですよぉ」
ガッビーン
「そ、それ、うちの子ですぅー、ウッワーン
滝涙のママはこの塚の横に庵を建ててもらったのですが、悲しみのあまり隅田川に飛びこんで自殺してしまいました。(…ああ、やりきれない話…) 
 
ということで、いまの木母寺はこの庵が起源といわれているそうです。
なんでも、もとは隅田院梅若寺と呼ばれていたのを、家康が梅若丸と塚の柳にちなんで「梅柳山」の山号をあたえ(ヤッさんやさしい)、さらにのち「梅」の字を分解し「木・母」寺と号するようになったとか。  
この話は能「隅田川」などで作品化されています。

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旧暦・3月15日

2015-05-03 | 江戸時代


「三月はあんまりネタがないな~」
と思っていたら、東都歳事記に、
「本芝御穂鹿島両社祭礼」
ふんふん、そうですか、そうですか。
しゃーない、いちおう調べてみっか。
御穂神社…御祭神は藤原藤房・武甕槌命?
だれじゃい、藤原藤房って……?
ええ
藤原藤房=萬里小路藤房:後醍醐天皇側近として倒幕運動に参画。建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家。
そして…日本三忠臣のひとり
日本三忠臣は、江戸時代に勤皇思想が広まった影響で、儒学者の安東省菴が認定したものらしいのですが、そのほかのふたりというのが「平重盛」「楠木正成」
藤房さん、けっこう有名なひとだったんですね~
しかも、建武政権の腐ったナアナア体質に絶望して出家。
あせった後醍醐天皇が呼びもどそうとしたけど、すでに行方不明になっていて、そのまま消息を絶ったとか…。
でも、なんでこのひとが御穂神社の祭神に?
この神社の創建は15世紀後半。藤房さんの時代から約百年後くらい。
由緒によれば、後村上天皇(後醍醐の息子)のころに、ここに住んでいた徳の高い翁をしのんで、その庵跡に宮所を建てたのがはじまりだとか。
じゃあ、このジイサマが藤房さんだったの?
でも、歳的に合わないんじゃない
し…調べなきゃよかった…

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