※
蔡瑁は、夫の劉表を介抱する、蔡夫人の白い手を見つめていた。
はじめて会ったときは、美しいだけがとりえの、楚々とした気弱な女だった。
それがどんどん、毒婦といっていい女に変わっていった。
劉表の毒にあてられたのか、それとも、もともと内側に眠っていたものを蔡瑁自身と劉表が引き出してしまったのか、それはわからない。
とくに、劉琮が生まれてからの蔡夫人の変貌ぶりは瞠目に値するものであった。
たしかに共謀者としては、心強い女に成長した。
だが、生涯の伴侶たりえるかというと、また別の話だ。
蔡瑁は、蔡夫人には内密に、またあたらしく若い女を囲っていた。
『壷中』の女で、少女と言ってもいいくらいの娘である。
ほかの娘たちのように、べつの男たちに差し出すには惜しい器量の持ち主であったので、自分のものにした。
『壷中』の娘たちは、はやくから房中術を仕込まれる。
そうして、自分たちの若さと肉体を武器に、各国に侵入し、情報を引き出してくる。
その肉体の素晴らしさに耽溺し、蔡瑁のように、『壷中』の女を妾にする豪族は多い。
少年たちの中でも、見目良い者は、やはり特殊な趣味をかかえる要人用に育てられる。
不思議なもので、断袖の趣味を持つ者は権力者に多い。
だから、かれらの利用価値は高いのだ。
美貌と若さに加えて、少女たちにはない体力を持っているからだ。
かれらの教育は、蔡夫人が主に行っている。
そうしてうまく教育し、自分が勤めたくない夫への勤めを、代わりに少年たちに行わせている。
図々しい女になったものだ、と蔡瑁は感心する。
自分とて、似たようなことを蔡夫人にしたことは、すっかり忘れている。
「阿琮はどうした」
劉表が目の前で眠っているというのに、蔡瑁は劉琮を名で呼んだ。
あれは自分の子だと、蔡瑁は信じている。
蔡夫人がそう言ったからというのもあるが、劉琮は、あまりに劉表に似ていなかった。
それに、蔡瑁は劉表が『息子』の劉琮に、どれだけのことをしてきたか、知っている。
なので、その事実から目を逸らしたかった、というのもある。
「ここにおります、叔父上」
劉琮が、華奢な姿を見せる。
その手には、盆があり、なめらかな輝きを見せる青い香炉が上に乗っている。
なぜ香炉を持っているのだろう。
わからなかったが、劉表のことを思い出した。
劉表はひどい中毒になっているため、自分の意思で排泄するのがむずかしくなっている。
そのにおいをごまかすためだろうと蔡瑁は推測した。
「気が利くな」
蔡瑁が言うと、劉琮は華のある笑みをみせた。
「阿琮よ、わしは表が騒がしいので、様子を見てくる。
潘季鵬《はんきほう》のやつ、まさかとは思うが、趙子龍を阻止できなかったのかも知れぬからな」
「それでは、われらの警護はだれがするのですか?」
劉琮は、母親そっくりのきつい詰問調で尋ねてきた。
妙なところが似るものだと苦りつつ、蔡瑁は答える。
「ちゃんと兵卒を揃えてある。ただし、部屋から出るな。
逃げた諸葛亮も見つかっておらぬのだ」
「諸葛亮が我らを襲ってきたら?」
「埒もない。あの青書生になにができる」
蔡瑁は、長身のわりには華奢な印象のつよい孔明の姿を思い浮かべていた。
はじめ、孔明と会ったばかりのころは、徐庶という、前科持ちと親しいくらいだから、やくざな生活を送っているのだろうと考えていた。
しかし、実際にふたりに会ってみて、考えを変えた。
そうではない。
あれほど生真面目なふたりはいないだろうというくらいに弾けたところのない青年たちだった。
ただし、生真面目である、ということは常に本気ということであり、まともに向かってこられると厄介な相手となるということでもあった。
徐庶は曹操の元へ行ってしまったが、もう一方の諸葛亮は、懸念どおり、いま面倒な敵となって、あろうことか襄陽城をネズミのように引っ掻き回している。
早いところ、始末してしまえばよかった。
「阿琮! なにをしているのです!」
蔡夫人の金切り声に、蔡瑁は我に返った。
何事かと見ると、驚いたことに、劉琮が、手に長剣を持って、その切っ先を母親に向けているのだ。
あわてて自らも刀剣を抜こうとした蔡瑁であるが、力が入らない。
ぐらりと視界が揺れる。
そうして、気がついた。
鼻腔をくすぐる、甘い香り。
これは、『壺中』の村で調合されている、特殊なしびれ薬では。
「やっぱり利くな。私は訓練で慣れているから、これくらいではなんともないが」
幼い容姿とは見合わぬ、大人びた口調で劉琮は言い、笑った。
その笑みを見たとき、蔡瑁は肝が冷えた。
いつもの人を惹きつけてやまない明るい笑みではなかった。
どろりとした悪意が腹の底に溜まっているのがはっきりわかる、狂人の笑み。
目は猛禽が獲物を見つけたときのようにぎらぎらと輝いている。
蔡瑁の膝が笑う。
そのまま、ぶざまに床に崩れ落ちる。
目の前では、蔡夫人が、必死になって劉琮に訴えていた。
「なにをするのかえ? おやめ! その物騒なものは、しまっておしまい!」
「黙れ」
短くそう言うと、劉琮は、蔡夫人に向かって、静かに刃を突き立てた。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村及びブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です、うれしいです♪
おかげさまで、涙の章もそろそろ終わろうとしています。
反響は、あるような、ないような…いつもの通り、かな?
最終章に向けて、話は加速をつづけますので、どうぞおたのしみにー!(^^)!
蔡瑁は、夫の劉表を介抱する、蔡夫人の白い手を見つめていた。
はじめて会ったときは、美しいだけがとりえの、楚々とした気弱な女だった。
それがどんどん、毒婦といっていい女に変わっていった。
劉表の毒にあてられたのか、それとも、もともと内側に眠っていたものを蔡瑁自身と劉表が引き出してしまったのか、それはわからない。
とくに、劉琮が生まれてからの蔡夫人の変貌ぶりは瞠目に値するものであった。
たしかに共謀者としては、心強い女に成長した。
だが、生涯の伴侶たりえるかというと、また別の話だ。
蔡瑁は、蔡夫人には内密に、またあたらしく若い女を囲っていた。
『壷中』の女で、少女と言ってもいいくらいの娘である。
ほかの娘たちのように、べつの男たちに差し出すには惜しい器量の持ち主であったので、自分のものにした。
『壷中』の娘たちは、はやくから房中術を仕込まれる。
そうして、自分たちの若さと肉体を武器に、各国に侵入し、情報を引き出してくる。
その肉体の素晴らしさに耽溺し、蔡瑁のように、『壷中』の女を妾にする豪族は多い。
少年たちの中でも、見目良い者は、やはり特殊な趣味をかかえる要人用に育てられる。
不思議なもので、断袖の趣味を持つ者は権力者に多い。
だから、かれらの利用価値は高いのだ。
美貌と若さに加えて、少女たちにはない体力を持っているからだ。
かれらの教育は、蔡夫人が主に行っている。
そうしてうまく教育し、自分が勤めたくない夫への勤めを、代わりに少年たちに行わせている。
図々しい女になったものだ、と蔡瑁は感心する。
自分とて、似たようなことを蔡夫人にしたことは、すっかり忘れている。
「阿琮はどうした」
劉表が目の前で眠っているというのに、蔡瑁は劉琮を名で呼んだ。
あれは自分の子だと、蔡瑁は信じている。
蔡夫人がそう言ったからというのもあるが、劉琮は、あまりに劉表に似ていなかった。
それに、蔡瑁は劉表が『息子』の劉琮に、どれだけのことをしてきたか、知っている。
なので、その事実から目を逸らしたかった、というのもある。
「ここにおります、叔父上」
劉琮が、華奢な姿を見せる。
その手には、盆があり、なめらかな輝きを見せる青い香炉が上に乗っている。
なぜ香炉を持っているのだろう。
わからなかったが、劉表のことを思い出した。
劉表はひどい中毒になっているため、自分の意思で排泄するのがむずかしくなっている。
そのにおいをごまかすためだろうと蔡瑁は推測した。
「気が利くな」
蔡瑁が言うと、劉琮は華のある笑みをみせた。
「阿琮よ、わしは表が騒がしいので、様子を見てくる。
潘季鵬《はんきほう》のやつ、まさかとは思うが、趙子龍を阻止できなかったのかも知れぬからな」
「それでは、われらの警護はだれがするのですか?」
劉琮は、母親そっくりのきつい詰問調で尋ねてきた。
妙なところが似るものだと苦りつつ、蔡瑁は答える。
「ちゃんと兵卒を揃えてある。ただし、部屋から出るな。
逃げた諸葛亮も見つかっておらぬのだ」
「諸葛亮が我らを襲ってきたら?」
「埒もない。あの青書生になにができる」
蔡瑁は、長身のわりには華奢な印象のつよい孔明の姿を思い浮かべていた。
はじめ、孔明と会ったばかりのころは、徐庶という、前科持ちと親しいくらいだから、やくざな生活を送っているのだろうと考えていた。
しかし、実際にふたりに会ってみて、考えを変えた。
そうではない。
あれほど生真面目なふたりはいないだろうというくらいに弾けたところのない青年たちだった。
ただし、生真面目である、ということは常に本気ということであり、まともに向かってこられると厄介な相手となるということでもあった。
徐庶は曹操の元へ行ってしまったが、もう一方の諸葛亮は、懸念どおり、いま面倒な敵となって、あろうことか襄陽城をネズミのように引っ掻き回している。
早いところ、始末してしまえばよかった。
「阿琮! なにをしているのです!」
蔡夫人の金切り声に、蔡瑁は我に返った。
何事かと見ると、驚いたことに、劉琮が、手に長剣を持って、その切っ先を母親に向けているのだ。
あわてて自らも刀剣を抜こうとした蔡瑁であるが、力が入らない。
ぐらりと視界が揺れる。
そうして、気がついた。
鼻腔をくすぐる、甘い香り。
これは、『壺中』の村で調合されている、特殊なしびれ薬では。
「やっぱり利くな。私は訓練で慣れているから、これくらいではなんともないが」
幼い容姿とは見合わぬ、大人びた口調で劉琮は言い、笑った。
その笑みを見たとき、蔡瑁は肝が冷えた。
いつもの人を惹きつけてやまない明るい笑みではなかった。
どろりとした悪意が腹の底に溜まっているのがはっきりわかる、狂人の笑み。
目は猛禽が獲物を見つけたときのようにぎらぎらと輝いている。
蔡瑁の膝が笑う。
そのまま、ぶざまに床に崩れ落ちる。
目の前では、蔡夫人が、必死になって劉琮に訴えていた。
「なにをするのかえ? おやめ! その物騒なものは、しまっておしまい!」
「黙れ」
短くそう言うと、劉琮は、蔡夫人に向かって、静かに刃を突き立てた。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村及びブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です、うれしいです♪
おかげさまで、涙の章もそろそろ終わろうとしています。
反響は、あるような、ないような…いつもの通り、かな?
最終章に向けて、話は加速をつづけますので、どうぞおたのしみにー!(^^)!