諸葛孔明 記す
兵卒の仕事も、大変なものだな。
士大夫の家に生まれたわたしは、徴兵されることのない身の上だ。
そのさいわいを、あらためて実感している。
兵卒たちは、朝は早くに起こされて、兵舎や調練場の掃除をして、調練をしたあと食事、また調練、食事、昼寝、調練、武器の手入れ、食事、就寝。
わたしであったなら、そんなキツイのに加えて、単調な生活には耐えられぬ。
しかもあの食事だったのだ。
同情するに余りある。
いま、みなは調練場の中央に、なぜか我が物顔で鎮座している大きな楠木の木陰に憩って、並んで昼寝をしている。
もうすこし、みなの日よけになりそうな樹を増やしてやるべきかな……間に合わぬか。
曹操が、新野、いや、荊州に南下してくるのは確実だ。
それは、早ければ、年内になるであろう。
植樹しても、おそらく木が育つ前に、大きな戦になる。
趙子龍は昼休みにどこにいるのか。
すぐにわかった。
みなが昼寝をしているのを横目に、厩舎に行って、調練でつかった馬の調子をみてやっているのだ。
わたしも後をついていって、様子を覗いている最中だ。
人が変わったようだ。
趙子龍、馬を前にすると、顔つきがちがう。
かなりの馬好きらしい。
新野の濃密な人間関係につかれて、馬に心の癒しを求めている、というクチかな?
馬のほうもずいぶんなついているようだ。
趙子龍が顔を出すと、鼻息を荒くして、尾っぽをぶるりとふっていた。
それを見る趙子龍のほうも、うれしそうだな。
馬に噛まれたので(おそらく馬は、毛づくろいをしてやっているつもりなのだろうけれど)笑って、たしなめていた。
悩みのなさそうな顔をしているな。
文武両道か。
そのうえ、あれだけ男ぶりがよいと、わたしのような悩みを持ったことはなかったろうな。
十代の頃は、女のような顔だからといって、性格までなよなよしているものと思われて、だいぶ心無い連中から舐められたものだ。
背が伸びたおかげで、それも次第になくなったが、もし背が伸びていなかったなら、下手をすれば宦官のような扱いを受けていたかもしれない。
もうこういう顔なのだから、仕方があるまいと、開き直ったのが、徐庶と出会ってからだったな。
おまえ、せっかく綺麗な顔をしていて、みんなによい印象を与えることができるのだから、もっともっと、よい印象を与えるように努力したほうがよいぞ。
かれはそう言ったのだ。
不思議と、かれのことばは素直に聞けた。
おかげで、肩の力が抜けて、笑顔を自然に出せるようになっていった。
それまでは、手段としての笑顔しか作れなかった。
ここで笑えば有利になるな、とか、好かれるだろうな、とか、そういう計算づくの笑顔だった。
徐庶は、わたしのこの、人目を惹く容姿が、やがて説客としての最強の武器になると言ったが、そうであろうか。
わたしに自信を与えるための、慰めではなかったか。
確かめようにも、本人はもう、遠い空の向こうなのだが…元気かな。
だれより優しい男だった。
しまった、本来の目的を忘れて、考え事にはまっていた。
あの男がこちらに気づいたようだ。
まあ、気づくだろうな。
こんなに短い距離で、じっと見つめていたのだから。
なにか嫌味でも言ってくるかな、と構えていたが、趙子龍は関心がない様子。
どうでもよいのか、馬の身体を洗い始めた。
馬は、きもちよさそうに、ぶるぶると鼻を鳴らしている。
しばらく見ていても、趙子龍はなにも言わず、黙々と、ほかの厩番といっしょになって、順番に馬の身体を洗ってやっていた。
こころから馬が好きなのだな。
でなければ、兵卒たちがぐうぐうと昼寝をして休んでいる合間に、自分は休まず、馬の身体を洗うなんて、なかなかできるものじゃない。
子龍とて、兵卒と一緒に調練をしていた。
一箇所にじっとしてたわけでもない。
銅鑼にあわせて大音声でもって号令をかけながら、型の不味い兵卒に丁寧に指導もしていた。
相当つかれているはずだ。
それに、馬を洗うのも、なかなか重労働だぞ。
身体の疲れを忘れるほどに、馬の世話が好きなのか。
聞いてみようか。
ああ、でもいまさらだし、わざとらしいかな。
徐庶ならたぶん、わたしを見つけたなら、
「やってみるか」
とでも聞いてくるだろう。
この男はそういう社交性はないようだな。
そもそも、わたしに関心がないのだろう。
やれやれ、主騎の話も、子龍から断ってくれたら、話が早いのに。
これ以上、かれを見ていても意味がないな。
さて、明日は河原の工事の視察もあるわけだし、わたしも眠くなってきた。
ちょっとわたしも調練場の日陰を借りて、昼寝でもしてこようかな。
今日の事務仕事については、糜子仲さまが、すべて代行してくださるとおっしゃってくださったし。
あの人は、ほんとうに親切なお方だ。
おや、その親切なお方の弟君が、なにやら剣呑な顔をして、こちらにむかってずんずんとやってくる。
あの弟君のほうは、苦手だな。
どうも言葉がきついし、妙にえらそうで。
とはいえ、これから志を共にする仲間なのだ。
それに、話をしてみると、意外と良い方かもしれぬ。
愛想よく。愛想よく。
と、ん?
弟君の後ろにいるのは、例の料理番ではないか。
なるほど、読めたぞ。
料理番め、わたしに怒鳴られたことをうらみに思って、弟君に言いつけたな。
言いつけを受けて、文句を言ってくる弟君も弟君だ。
ふん、武将ひとりに脅されて、怖じる諸葛孔明ではないぞ。
昼寝の前に、ちょうどいい運動だ。
あの食事は不味かった。
不味い食事では兵卒たちは力が出せない。
力が出せなければ軍が弱る。
事実を端的に言うだけ。
さあ、行くぞ。
つづく
(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)
兵卒の仕事も、大変なものだな。
士大夫の家に生まれたわたしは、徴兵されることのない身の上だ。
そのさいわいを、あらためて実感している。
兵卒たちは、朝は早くに起こされて、兵舎や調練場の掃除をして、調練をしたあと食事、また調練、食事、昼寝、調練、武器の手入れ、食事、就寝。
わたしであったなら、そんなキツイのに加えて、単調な生活には耐えられぬ。
しかもあの食事だったのだ。
同情するに余りある。
いま、みなは調練場の中央に、なぜか我が物顔で鎮座している大きな楠木の木陰に憩って、並んで昼寝をしている。
もうすこし、みなの日よけになりそうな樹を増やしてやるべきかな……間に合わぬか。
曹操が、新野、いや、荊州に南下してくるのは確実だ。
それは、早ければ、年内になるであろう。
植樹しても、おそらく木が育つ前に、大きな戦になる。
趙子龍は昼休みにどこにいるのか。
すぐにわかった。
みなが昼寝をしているのを横目に、厩舎に行って、調練でつかった馬の調子をみてやっているのだ。
わたしも後をついていって、様子を覗いている最中だ。
人が変わったようだ。
趙子龍、馬を前にすると、顔つきがちがう。
かなりの馬好きらしい。
新野の濃密な人間関係につかれて、馬に心の癒しを求めている、というクチかな?
馬のほうもずいぶんなついているようだ。
趙子龍が顔を出すと、鼻息を荒くして、尾っぽをぶるりとふっていた。
それを見る趙子龍のほうも、うれしそうだな。
馬に噛まれたので(おそらく馬は、毛づくろいをしてやっているつもりなのだろうけれど)笑って、たしなめていた。
悩みのなさそうな顔をしているな。
文武両道か。
そのうえ、あれだけ男ぶりがよいと、わたしのような悩みを持ったことはなかったろうな。
十代の頃は、女のような顔だからといって、性格までなよなよしているものと思われて、だいぶ心無い連中から舐められたものだ。
背が伸びたおかげで、それも次第になくなったが、もし背が伸びていなかったなら、下手をすれば宦官のような扱いを受けていたかもしれない。
もうこういう顔なのだから、仕方があるまいと、開き直ったのが、徐庶と出会ってからだったな。
おまえ、せっかく綺麗な顔をしていて、みんなによい印象を与えることができるのだから、もっともっと、よい印象を与えるように努力したほうがよいぞ。
かれはそう言ったのだ。
不思議と、かれのことばは素直に聞けた。
おかげで、肩の力が抜けて、笑顔を自然に出せるようになっていった。
それまでは、手段としての笑顔しか作れなかった。
ここで笑えば有利になるな、とか、好かれるだろうな、とか、そういう計算づくの笑顔だった。
徐庶は、わたしのこの、人目を惹く容姿が、やがて説客としての最強の武器になると言ったが、そうであろうか。
わたしに自信を与えるための、慰めではなかったか。
確かめようにも、本人はもう、遠い空の向こうなのだが…元気かな。
だれより優しい男だった。
しまった、本来の目的を忘れて、考え事にはまっていた。
あの男がこちらに気づいたようだ。
まあ、気づくだろうな。
こんなに短い距離で、じっと見つめていたのだから。
なにか嫌味でも言ってくるかな、と構えていたが、趙子龍は関心がない様子。
どうでもよいのか、馬の身体を洗い始めた。
馬は、きもちよさそうに、ぶるぶると鼻を鳴らしている。
しばらく見ていても、趙子龍はなにも言わず、黙々と、ほかの厩番といっしょになって、順番に馬の身体を洗ってやっていた。
こころから馬が好きなのだな。
でなければ、兵卒たちがぐうぐうと昼寝をして休んでいる合間に、自分は休まず、馬の身体を洗うなんて、なかなかできるものじゃない。
子龍とて、兵卒と一緒に調練をしていた。
一箇所にじっとしてたわけでもない。
銅鑼にあわせて大音声でもって号令をかけながら、型の不味い兵卒に丁寧に指導もしていた。
相当つかれているはずだ。
それに、馬を洗うのも、なかなか重労働だぞ。
身体の疲れを忘れるほどに、馬の世話が好きなのか。
聞いてみようか。
ああ、でもいまさらだし、わざとらしいかな。
徐庶ならたぶん、わたしを見つけたなら、
「やってみるか」
とでも聞いてくるだろう。
この男はそういう社交性はないようだな。
そもそも、わたしに関心がないのだろう。
やれやれ、主騎の話も、子龍から断ってくれたら、話が早いのに。
これ以上、かれを見ていても意味がないな。
さて、明日は河原の工事の視察もあるわけだし、わたしも眠くなってきた。
ちょっとわたしも調練場の日陰を借りて、昼寝でもしてこようかな。
今日の事務仕事については、糜子仲さまが、すべて代行してくださるとおっしゃってくださったし。
あの人は、ほんとうに親切なお方だ。
おや、その親切なお方の弟君が、なにやら剣呑な顔をして、こちらにむかってずんずんとやってくる。
あの弟君のほうは、苦手だな。
どうも言葉がきついし、妙にえらそうで。
とはいえ、これから志を共にする仲間なのだ。
それに、話をしてみると、意外と良い方かもしれぬ。
愛想よく。愛想よく。
と、ん?
弟君の後ろにいるのは、例の料理番ではないか。
なるほど、読めたぞ。
料理番め、わたしに怒鳴られたことをうらみに思って、弟君に言いつけたな。
言いつけを受けて、文句を言ってくる弟君も弟君だ。
ふん、武将ひとりに脅されて、怖じる諸葛孔明ではないぞ。
昼寝の前に、ちょうどいい運動だ。
あの食事は不味かった。
不味い食事では兵卒たちは力が出せない。
力が出せなければ軍が弱る。
事実を端的に言うだけ。
さあ、行くぞ。
つづく
(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)