はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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短編・尚(こいねがわ)くば恒久の友たらんと 前編

2018年06月30日 20時09分03秒 | 短編・尚くば恒久の友たらんと
趙雲はぼう然とおのれの拳をみつめ、そして、地面に伏して、これまたぼう然としている魏延の顔を見下ろした。
趙雲は、自分が公の場で、しかも職務中に、激昂して人を殴るような真似はしないと、自分を信じていたし、その逆で、己をぼう然と見上げている魏延もまた、趙雲という男が、たとえどんなに無体を働いても、じっと忍耐をして見過ごしてくれる大人しい男だと思っていたようである。
周囲の者も押し黙った、異様な緊張に耐え切れず、趙雲は、らしくもなく口ごもりながら、言った。
「す、すまぬ」
魏延は、趙雲の発した言葉の意味が掴みかねている様子で、しばし目をぱちくりとさせながら、殴られた頬をさすっている。
唇が切れたらしく、その浅黒く日焼けした肌に、鮮やかな血がひとすじ、垂れた。
趙雲は、どうして自分がこんなことをしたのか、魏延の頬を殴ったおかげで、じんじんと痛む拳とともに考えようとしたが、記憶が真っ白になっており、断片的にしか繋げることができない。

魏延というのは、荊州三郡を統治していた時に、部隊長として頭角をあらわしてきた男だ。
その剛毅な、いかにも将軍然とした気風のよさが劉備の気に入り、大抜擢されて一軍をまかされるようになった男である。

趙雲は、たいがいの武将とそつなく関係を結ぶことができたが、唯一駄目なのが、『保身のうまい勘違い者』というものである。
糜竺の弟の糜芳がそうであったように、魏延もまた、おのれの地位を守るために、政治的な側面にも顔を出して、その必要があれば、賄賂をおくるのも、そのための掠奪をするのも、平気な男であった。
そもそもの最初から、こいつとは糜芳とのようになりそうだな、という、苦手意識があった。
糜芳というのは、兄の糜竺の声望の影に隠れ、驕慢で放埓な男であった。
弓馬の才能は、軍内でもずばぬけており、弓が一時、ひどく苦手であった趙雲を馬鹿にして、よくあからさまに嫌味を言ってきたものである。
そして魏延というのは、糜芳をさらに進化させたようなところがある。
たしかに軍功を華々しく挙げるし、実際に武芸の才もたいしたものである。口ばかりではないのはわかるが、その口が、いちいち刺々しいのである。
そして、この男からは、『謙虚』と『遠慮』が抜け落ちているらしく、謙譲こそ美徳なり、と信じる趙雲とは、まったく価値観の反する男でもあった。
さらに厄介なことには、この男、趙雲を気に入っていたようである。
と、いうよりは趙雲とは、すでに友であると、自分では思っていたらしい。
魏延側からすれば気の毒なことに、だから気安く口を利きすぎてしまったがゆえの、この結果。
さらに残念なことに、趙雲は、いつ魏延と友だちになったのか、そのあたりのおぼえが、トンとないのだ…だから、趙雲としては、友ではないのだろう。
第一、趙雲の友の定義というのは狭いので、友は片手で数え上げる程度にしかいないのである。
孔明は上司であり別格中の別格で、劉備は『主人』である。
となると、陳到、張飛、関羽……次点が胡偉度や馬良あたりであろうか。費文偉や董允たちは後輩であるから友とはちがうし、董幼宰は、友というよりは同志、といった言葉で括りたい人物だ。
仕事以外での友、となると、たまにいく、ちんまりとして感じのよい飲み屋で顔をあわせる、どこだかの職人だったり商人だったりだが、それとて、
「いやな天気が続きますな」
とか、
「このところ物価が高いのは、政治がいけないのです」
といった、実に無味乾燥で、意味があるような、ないような、あたりさわりのない世間話をする程度。向こうはどう思っているかどうか知らないが、すくなくとも、友というのとはちがうだろう。

それはともかく、友だち(だと思っていた)趙雲からいきなりゲンコツで横っ面を殴り飛ばされた魏延は、目をしばしばとさせながら、ゆっくりと起き上がり、それから、ようやく言った。
「あんた、何考えているのだ」
それは、趙雲が、自分自身に、いちばん聞いてみたいことである。
なぜ殴ったりなんぞしたのか。部下の手前、示しもつかない。最悪ではないか。
「すまない。本当に」
頭で考えるより、もはや反射的に身体が動いていた、といったほうがよいだろう。
ちなみに、真後ろにいきなり立たれたので、殴り飛ばした、などという、刺客や神経質な武人にありがちな理由ではない。
「立てるか」
魏延に手を差し伸べる自分を、まるで他人のように思いつつ、趙雲はそれでも素直に手を伸ばしてきた魏延の、節くれだった指を掴んで、起き上がらせた。
趙雲もうろたえているが、魏延としてもうろたえているらしい。
一体、自分の何が、趙雲の気に障ったのかがわからないでいるようなのだ。
そのため、二人して、次にどのようにしたらよいかわからず、その周囲は、もっとどうしたらよいかわからない、といった状況。
これで陳到のように、世慣れた真のお調子者がいれば、場もいくらか和やかになるのであろうが、あいにくと陳到も、陳到の係累の世慣れたお調子者関係は、たまたま全員が、その場にいなかった。
かくて、不器用なふたりは、殴った者と殴られた者とで、互いにしばし沈黙をつづけていた。

おそらく、魏延も、相手が自分より下位であったり、あるいは後輩であったりしたなら、容赦なく殴り返していただろうが、地位はともかくとして、趙雲は魏延より年も上で、劉備に仕えたのも早い。
遠慮があるために、手を出せないでいるのだが、どうやら時間が経つにつれ、ふつふつと怒りが沸いてきたらしい。
当初はぽかんと間抜けな顔をしていたが、やがて険しいものが兆してきた。
「やはり、納得がいかぬ」
「うむ、そうであろうな」
と、趙雲は素直に認めた。
自分のことを愚弄されたわけでもないのに、問答無用で殴りつけた、こちらに非がある。
趙雲があまりに素直に認めたので、ひるみつつ、魏延は言葉をつづけた。
「某は、事実を端的に述べたまでのことだ」
「なんだと!」
またもや自分のものとは思えないほどの大音声が口から飛び出し、しかもふたたび、ぐっと拳に力が籠められ、趙雲は、ほかならぬ己の拳の力に仰天して我に返った。
魏延はというと、山中でいきなり出くわした虎に吠え掛かられた旅人のように、後ずさり、趙雲の出方を伺っている。
魏延が後ろ足で踏みしめた砂利の音が、さらに趙雲を冷静にさせた。

ふと横目で見れば、合同調練の最中に、いったいこの人たちは、なにを始めたのだろうと、さらに唖然として、佇立する兵卒たちがずらりと並んでいる。
醜態をさらす、とはまさにこのことだ。
おそらく一ヶ月は、このことが兵卒たちのあいだで噂になるだろう。
じっとりと、嫌な汗が、兜をかぶった頭皮から幾筋も流れてきた。
趙雲としては、戦場以外では、滅多にかくことのなかった類いの汗である。
これは、自分はおかしいのだ。
病気なのだ。そうにちがいない。

趙雲は、調練場にずらりと並んだ兵卒たちに向き直ると、高らかに言った(つもりであったが、あきらかに声が震えていた)。
「本日の合同調練は、途中であるが終了とする!」
「なに? まだ始まったばかりであるぞ」
魏延の抗議ももっともで、実のところ、兵卒たちがしたことといえば、兵舎からぞろぞろと集って、整列しただけであった。
「いや、終わりだ」
趙雲は言うと、そのまま振り返りもせずに、調練場を後にした。
兵卒たちは、臨時休暇をもらったようなものだから喜んでいるが、残された魏延と、その部将たちは、なんだ、あれは、任務放棄ではないか、とぶうぶう言っている。
さまざまな声を背に受けて、趙雲は、逃げるように、愛馬にまたがると、町を抜け、いつもの場所へと逃げ出した。

逃げたのだ。

趙雲は、雲厚い成都の町から離れた、険阻な山のちょうど天然の物見櫓のようになっている位置に、どうぞお座りくださいとばかりに用意してある岩の上に座って、ぼう然としたまま、流れ行く雲をながめていた。

俺はだれだ?

趙子龍だ。

なぜ逃げた? 趙子龍は逃げない男であったはずなのに。

わからん。

趙雲のいる位置まで、馬が登ってくることはできない。
そのため、山の中腹で愛馬の赫曄をつないで、単身、ここまで登ってきた。山菜があるわけでもなし、特殊な獣がいるわけでもなし、旅人が立ち寄るにも街道から外れているので、この場所を訪れるものは滅多にいない。
そのため、成都の町と、それをとりかこむ山嶺を見渡せる絶景を、ひとりじめできるのだ。

つづく……


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