はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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冬の歌い人 前編

2018年06月29日 20時08分57秒 | 短編・冬の歌い人

吐息がそのまま昇天して白い雲に転じてしまうのではと錯覚するほどに、身体の芯から冷える日であった。
なぜこんな日に屋外へ、しかも山の中へ入らねばならないのかと趙雲は訝しく思う。
もちろん、おかしいのではないかと異議はとっくの昔に立てたのだ。
だが、孔明は、
「だれもいないところ、すなわち、だれも行きたがらないところだぞ」
と言って、渋る趙雲の異議を却下した。

いつもの厚手の上衣のうえに、さらに高級品であるキツネの皮衣をまとい、体中を布で覆うような格好で外に出る。
目だけ残して顔まで覆う頭巾をかぶることも考えたが、視界が悪くなってしまうのであきらめた。
万が一刺客が襲ってきた場合、動きがにぶくなってはいけない。

刃のように冷たく吹き抜ける風を頬に受けつつ、趙雲は、まったくなんだってこんなことに、と心の中で愚痴をつぶやきながら、山に入った。
同道する馬も、今日ばかりは機嫌が悪そうである。
そも、山へ行こうと言い出したのは、孔明であった。
このところ、落ち着きがないうえに元気のない趙雲を気にして、そう言い出したのである。
とはいえ、あまりうれしくない誘いであった。
断ることもできたのだが、孔明の気持ちを考えると、できなかった。
孔明はというと、この寒さをむしろ楽しんでいるようで、ときおり強い風がぴゅうと吹くと、声をたてて笑いながら、寒い、寒いと震えている。
寒ささえも楽しめる底抜けの明るさに、趙雲はむしろ感心する。
この明るさゆえに、幾多の危機も乗り越えられてきたわけだ。

山に入ってしばらく進むと、林道の先に見晴らしの良い野原が開けた。
さえぎるものがまったくないため、山から吹き降ろす風がまともにぶつかってくるのだが、いったいどういうわけなのか、ふたりが野原に到着したとたん、さきほどまでびゅうびゅうと容赦なく吹き抜けていた風がぴたりと止んだ。
厚く積もった雪が、まるでふくらんだ餅のような曲線を描いてそこにある。
空も晴れてきて、雲ひとつない澄んだ青空の下の、真っ白な雪原がまぶしい。
「日ごろの行いがよいせいだな」
と、孔明は、なにに納得したのか、うれしそうにうなずきながら言った。
孔明の姿も、いつもの瀟洒なものとはちがって、だいぶ実用的な、わるく言えばぶざまなものであった。
動物の皮の上衣に動物の皮の長靴、きつねの襟巻き、きつねの帽子。鶴がきつねに化けているように見えなくもない。
「ここでなら十分に練習ができるはずだぞ、よかったな、子龍」
孔明のことばに素直にうなずけない趙雲は、おのれの身を抱きしめるようにしながら、言った。
「俺の家でも練習できたはずだぞ」
「家令のじいさまに聞かれるのが恥ずかしいと渋っていたではないか。だからここまで来ることになったのだよ。いやしかし、ここまで来るのは大変だったな。一時はどうなることかと思ったが」
「まったくだ。遭難するかと思ったぞ」
「でも無事にたどり着いた。きっと青女(雪の女神)もわれらの健気な姿に感動して、その手を緩めてくれたにちがいない。さあ、青女の気持ちをありがたく汲んで、練習しよう」

練習。
まったくもって、なぜこんな練習をしなければならぬのかと、趙雲は苦々しく思う。
事の始まりは新春の宴であった。
いつもどおりに宴はなごやかに進んでいたのだが、劉備がふと、こんなことを漏らしたのである。
「みんなで集まって酒を飲んで余興を楽しんで、それはそれで悪くないけれど、なにかが足りねえなあ」
そこへ手を挙げたのが、宴会のことならなんでもござれの劉琰である。
劉琰。字を威碩といい、ふだんは目立たぬところにおり、位も固陵太守と、さして重要ではないところにいる男である。しかし宴会となると、俄然、輝き出す。
生来、こうした賑やかな場に華を添える才能に恵まれているのだろう。詩歌を得意とし、管弦に通じ、そのうえ、談論も愉快なため、劉備にとくに気に入られている人物である。
出自はさして高くはないのだが、劉姓ということで尊ばれ、宴では賓客あつかいをされていた。
その劉琰が張り切って言ったのである。
「主公、わたくしが思いますに、余興といっても、芸子の余興ばかりで目新しさがありませぬ。かといって、皆様方から余興の得意な方を募っても、たいがい同じ方が手をあげられるので、これまた目新しさがございませぬ。如何でございましょう、つぎの宴では、全員で歌くらべをする、というのは」
「歌くらべ? 詩は儂だって作れねえよ」
劉備が口をとがらすと、劉琰は上品な笑い声をたてて、言った。
「そうではございませぬ。よそでは歌くらべといいますと、自分で作った詩歌を吟ずることかもしれませぬが、われらは、単純に歌を唄って、その優劣を競おうではございませぬか」
「ああ、それならいいな。儂たちでも楽しめそうだ。よし、みんな聞こえたな。つぎの宴は、全員が歌を唄うのだぞ、いまから練習してこい。いいなー」
と、気楽に劉備が言うと、それはようございますと、みなが賛成した。ただし、歌の得意でない者数人と、照れ屋の数人が、非常に渋い顔をしたのだが、それは無視された。

趙雲の場合、歌が得意でない者のなかの一人である。
次の宴は憂鬱だなと悶々としていた趙雲を見て、孔明が、それでは練習しようと言い出した。
で、いま、この雪原にいるのである。

「あなたは上手いはずだよ」
断言する孔明に、趙雲は渋い顔をして言った。
「また明言するものだな。どうしてそんなことが言える」
「だって、ほら、顔の輪郭がよいもの」
「顔の輪郭がよいと、歌が上手いのか」
「顔の輪郭がよいと、声がよい。実際に、あなたは声がいいのだから、唄えば映えるはずだよ」
しかし声がよければ、音程を取るのも得意というわけではなかった。趙雲はこれまでの経験から、自分にはまったく楽才がないことを知っている。
とりあえず琴は弾けるが教えられたとおりに爪弾いているだけで味わいもなにもない音しか出せないし、宴に出ても、歌を聴いて楽しめたことがない。
詩を作れる人間は、きっと特別な才能があるのだと信じてやまない。そんなふうなのだ。
だからこそ、つぎの宴で唄わねばならない、ということは、苦痛なこと、このうえなかった。

「とりあえず唄ってみてくれ。寸評してさしあげよう。ほーら、さんはい」
合図を送る孔明だが、しかし、趙雲は唇を動かさない。
この場にいるのは孔明と冬眠してない動物だけ、ということはわかっていたが、しかし恥ずかしかったのである。
「照れているのか、それともわたしの舌が怖いのか。きついことは言わないと約束するよ。唄ってみてくれ。でなければ、なにも始まらぬ。ここまで来た甲斐がないではないか」
「俺の歌は」
「うん」
「ひどい」
「……自分でそう思い込んでいるだけかもしれないではないか」
「いや、ひどい。おまえもこの話を聞けば気が変わるぞ。むかし、俺に執心している女がいて」
「ふむ」
潔癖症の孔明は、話題が気に入らないらしく、ぴくりと片方の眉を器用に吊り上げる。
しかし、趙雲はあえてそれを見なかったことにしてつづけた。
「ほとんど女房のような状態にまでなった。ところが、当時も劉威碩が、いまと同じようなことを言い出して、宴ではひとりひとりが詩歌を唄うのが流行のようなことになった。
俺は主公の主騎であることを理由にずっと歌わないでいたのだが、あるとき、女が言ったのだ。みなさまがたが唄ってらっしゃるのに、あなた一人が黙っていてつまらない。どうか唄ってくださいまし、あなたさまは声がいいのだから、きっと歌もお上手なはず、と」
「おや、わたしと同じ事を思った者がいるのだな」
「そうだ。で、唄ってみせたのだが、次の朝、女は俺の元から去っていった」
「歌を聴いて?」
「歌を聴いて。どうだ、俺の歌のひどさがわかるだろう」
「単に別の理由だったかもしれないぞ。思いつかないけれど。しかし、あなたの口から出てくる女は、みんなあなたを捨てていくな、気の毒に」
「そうだとも。だから俺はいまだに独り身なのだ」
ふて腐れて言うと、孔明は諸手を挙げて、言った。
「ああ、気を悪くしたならすまなかった。でも子龍、なんだってどれだけひどかろうと、練習さえすれば、なんとかなる程度にはうまくなるものだよ。歌だって同じではないか。ともかく、どれだけひどいか聞かせてくれないか」
「おまえも俺が嫌いになるかもな」
なかば冗談であったが、孔明は、目を丸くして、言った。
「たかが歌で? それしきの薄いつながりだと思っているのか、失礼な」
「ああ、悪かった、悪かった。冗談だ。しかし心の準備が出来てない」
「そうか、ではこうしようか、あなたはわたしが隣にいるから気になって歌えないのだよ。あなたとて、だれもいないときに鼻歌を唄ったりするだろう」
「しないな」
「まったく?」
「まったく」
「……まあいい。だれもいないと思って唄えばいい。最初だから、そうだ、わたしは目を閉じて、耳を塞いでいるよ。だからいっぺん、唄ってみるといい」
そういうと、孔明はぎゅっと目をつむり、両手で耳を塞いで、趙雲の歌を待った。
趙雲はというと、それならばと思い、一度は呼吸を深く吸い込んだ。

が、すぐに気づいた。

「待て」
言っても、固く耳を塞いでいる孔明は聞こえないらしく、子供のようにぎゅっと目をつぶったまま、動かない。
趙雲は、仕方なく孔明の肩を叩く。
すると、孔明は開口一番、言った。
「早かったな!」
「唄ってない。おまえはときどき莫迦になるな」
すると、孔明は、はて、というふうに首をかしげた。
「なぜ」
「なぜもなにもない。おかしかろう、おまえですら聞かない俺の歌に、なんの意味がある」
「木霊が聞く」
「あのな、そうではなくて、だれも聞いてないのに俺一人が歌うことに意味はなかろう。おまえが聞いて、はじめて論評が出来るのだ。
もし一人で練習すればいいのなら、俺は屋敷の蔵にでも閉じこもって練習していたさ」
孔明はというと、目をぱちぱちとさせて、言った。
「たしかにそうだが、気持ちを整えるための一曲目という意味だぞ」
「もう唄う気がなくなった」
「また。そう言って逃げようとする。趙子龍は逃げたりしない。つねに戦うのだ」
「歌と?」
「歌と! 一人で唄うのが恥ずかしいというのなら、一緒に歌ってやろうか?」
「そのほうが、もっと恥ずかしい。おまえはいいな、歌が上手いから」
趙雲が腐って言うと、孔明は言葉を素直に受け取ったらしく、にんまりと笑って、言った。
「そうか、やはりあなたも上手いと思うか。つぎの宴は楽しみでならぬよ。いちばん上手く唄えた者には、主公から恩賞が与えられるそうな」
「俺には縁のない話だ」
「何を言うか。努力賞もあると聞いている。それにな、子龍、わたしの歌の上手さはみな知っているから、新鮮味を与えられないというところが苦しいところだ。
そこへいくと、あなたの歌は、みなほとんど聴いたことがないから、新鮮であることこのうえない。有利だぞ」
「恩賞、とは?」
「さて、馬かも知れぬぞ。どうだ、俄然、やる気が出てきたのではないか」
「あまり変わらぬ」
孔明は、ふう、と息をついて、言った。
「やれやれ、あなたを奮い立たせるのは骨だな。子龍、こうなったら命令だ。わたしのために歌を唄え! どうだ、これならば唄わざるをえまい」
「いま思い出したが、雪の中で歌うと雪崩になるそうだぞ」
「いま思いついた、の間違いであろう。その話は聞いたことがあるが、与太だ。わたしが保証する。隆中にいたころ試して、何も起こらないと実証済みだ。極端に大声さえ出さなければ問題ない」
「どうしても唄わねばならぬか」
「いいから唄え。 命令だ、命令」

命令と言われて、むっとしないでもなかったが、あまりぐずぐずしていると、孔明が本格的に怒り出しそうな気配もあった。
趙雲は、覚悟をきめて歌を唄い出す。
それは、遠い昔に聞いた古謡であった。
母が子供のおりに、よく聞かせてくれたものである。優しい響きをもちながら、どこか物寂しげで、翳りを感じさせた。
最初は音程を気にしていたが、次の歌詞を頭で追いかけているうちに、なにがなにやらわからなくなってきた。
しまった、ここは高音だった、いや、こっちは低音だったはずだぞ。ここは伸ばすのではなかったか。
などと逡巡しているうちに、歌詞は尽きた。
唄い終わったのである。

つづく……


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