文偉はヒマなのか、それとも、いますぐ甥とやらが来てくれることを期待しているのか、しばらく、がらんごろんと青銅の鐘を、頻繁に鳴らし続けていた。
休昭は、部屋の隅で白い衣を被ったまま、力ない様子で膝をかかえてつくねんとしており、偉度は偉度で、甥とやらが来たならば、すぐに部屋を出るつもりであった。
この二人が嫌いではない。
孔明が、この二人を好きだからだ。
偉度は四六時中孔明という人間を観察しているので、表立ってはけっして好悪の感情をあからさまにしない青年軍師の、ほんのちいさな感情のひだまで読み取ることができる。
孔明は、この聡明で素朴で実直で、それでいて不思議と…たとえは悪いがこんにゃくのように、するり、するりと世の悪や誘惑をすり抜けて、のびのびと過ごしている二人を好ましく思っているようであった。
きっと、あの人の襄陽時代もこのような呑気なものであったのだろう。
天下を論じ、夢を見、ときに悶々と悩み、友と衝突し…それでも後ろ暗さの欠片もない、うらやましいほどの夏の太陽のような、まぶしく熱にあふれたときを過ごしたのだ。
青春と聞くと、それだけでたいがいの者は、気恥しさと懐かしさの入り混じった感情にとらわれるようであるが、偉度の場合は、まるで神仙の世界のなにかの道具と同じくらい、ぴんとこないものであった。
偉度は繁華街へ足を向けるのが嫌いだ。自分と同じ眼差しを、雑踏の中に見つけるのが嫌いだ。
だけれど、左将軍府には、自分と同じ眼差しをもつ者がない。どれもみんな、世の中を真っ直ぐに見つめようと気概にあふれた、清い目をしている。
劉備は、周りにあつまっているのが、どうも真面目な一辺倒すぎる。孔明は、器量がちょいとばかり狭いのじゃねぇか、などと心配をしているようだが、孔明は劉備ほどに、心の芯がつよくできていない。まだ鍛えられきっていない鉄と同じなのだ。
自分だけならまだしも、魏延や糜芳みたいなのがうろうろしてみるがいい。一ヶ月ともたず、左将軍府はぴりぴりした嫌な空気に包まれてしまうだろう。
もっとも、それを治めるのも器量というものなのであろうが、孔明はまだ若いのだ。これから力をつけていく段階なのである。
自分だけでいいのだ。そう、あのひとはまだ、自分だけのものであればいい。
とっとと甥とやらがこないだろうか。じっとしていると、ろくなことを考えない。
其の間も、文偉はよほどヒマなのか、がらん、ごろんと鐘を鳴らし、最後には節をつけて、調子外れた歌まで唄いだす始末。
それを遮るように、偉度は尋ねた。
「なあ、希望の鐘などという名前がついているが、なぜそのような名前なのだ?」
「さあて、爺さんの話だと、さんざん脅されたやつが、『是、判りました』と答えて、ようやく解放してもらえる、その合図がこの鐘の音だったからだと聞いたが」
ぞっとしない話だと思いつつも、しかしあの宿直の爺さんは、孔明が左将軍府の主となってから、雇った人間ではなかったか、と偉度は思い出していた。前任のだれかから聞いたのであろうか。
「しかし、甥とやらは遅いな。爺さん、泡を食って、甥っ子の家によるのを忘れたのじゃないだろうか」
文偉がぼやくと、それまで膝を抱えてつくねんとしていた休昭が、ぽつりと言った。
「子供か。無事に生まれるとよいな」
「ああ、お前のところは母上が、おまえを産んですぐに亡くなったのだったな」
文偉の言葉に、休昭はこくりと寂しそうに肯く。
「だから、どんなお方か、顔すらわからぬ。父上は、わたしは母上にそっくりだと言うのだが」
「たしかに、おまえは頑固なところ以外は、あまり幼宰さまに似ておらぬな。伯父に聞いたが、お美しいお方だったそうだぞ」
「うん、それは父も言っていた。お前のところは、たしか、弟か妹を産んだ直後に亡くなられたのだったな」
「ああ。そもそも、懐妊が決まったときから具合がわるくて、産婆からも堕胎を進められていたほどだったらしいのだ。それでも産みたいといって、結局、出血がひどくて、弟ともども亡くなってしまわれた。母上の横で、父上が泣きもせず、なにも言わずに背中を丸めて、じっとされていたのを今でも覚えているよ。
おもえば、父上の活力の源は、すべて母上だったのだな。あれから、馬車馬のように働くだけ働いて、体を壊して、母上が亡くなられてからすぐに、父上も倒れて、それきりだ。なんというか不思議なものでな、こういうと薄情に思われぬかもしれぬが、わたしは、父や母が死ぬのだということを、事前に気づいていたよ」
「ほう」
なんというのかな、といいながら、費文偉は手持ち無沙汰に鐘をがらんごろんと響かせながら、慎重に、言葉をひとつひとつ選びながら言う。
「死の気配というのだろうか。影、というのかな。家に、生き物みたいにそれが常に『いる』のだ。妖怪の類いとかではないぞ。気配があるだけで、なにをするでもない、恐ろしくもなんともないのであるが、こいつがいるからこそ、母上も父上も、間もなく亡くなられるのだな、と」
「それはわかるな」
思わず、偉度は口を挟んでいた。
淀んだ死の気配の中、どんどん真綿で首を絞められていく状況にあると知りながら、それでも劉琦を守るために死んだ男。
あの男の周囲にも、死の気配がつねに付きまとっていた。
もはやどうしようもなかった。
どうしようもできないことを知っていた。
ふと、がらごろと鐘を鳴らしつつ、文偉が水を向けてくる。
「そういえば、わたしは偉度のご家族のことを何も知らぬな。弟君がいるのであったっけ?」
「ああ、義陽で家を継いでいる。異腹でね、あれのほうが正嫡だったから」
と、偉度は嘘をついた。しかし抵抗感はない。
いつもついている嘘であったから、繰り返しているうちに、それが本当のように自分でも思えるようになってきていた。
それでは、と文偉がさらに言葉を継ごうとするので、すかさず偉度は遮った。
「おっと、父と母のことは言いたくない。そんなふうに人の詮索をしているより、おまえたちはこの隙にでも、せっせと芝居の練習をしたらよかろう」
「よかろう、ってな。おまえときどき、軍師にそっくりな口を利くから、こちらもどきりとするよ。まあいいや。休昭、どうする」
文偉に促された休昭は、気乗りのしない様子で、答えた。
「だが、宿直の甥とやらが来るまでは落ち着かぬ」
「ただぼんやり待っているよりは、よほど有意義だぞ。そうだ、偉度、おまえ、わたしたち以外の役をやってはくれぬか」
「なんだ、おまえたち二人だけの芝居ではないのか」
「うん、ほかの連中は、やれ酒の付き合いだ、女房が待っているだのと、なんやかやと理由をつけて帰ってしまったのだ」
「ふん、見たところ、休昭の女神役も、その要領のいいやつらに押し付けられたのだろう」
図星であったらしく、休昭は答えないまま、むっつりと黙り込んだ。
休昭や文偉にとっては世間話でも、偉度にとっては時に、薄氷の上を踏むような、嫌な作業になることがある。
自分では図太いほうだと思いこんでいたのだが、近頃はどうしたことか、過去と現在の感覚が、だんだん曖昧になって、どちら側にいた自分が本当だったのか、わからなくなってきているのだ。
刺客としての酷薄で容赦のない胡偉度か、孔明の有能な主簿としての冷徹な胡偉度か。
どちらにしろ、人に好かれる立場ではない。
そもそも、好きだと言ったことはあったけれど、それはあくまで手段だけの話であった。
此方の身体を餌に、相手を油断させるための、最初のとっかかり。
甘い言葉は、だれにでも耳障りが良いらしく、好んで聞きたがる。好きだの、えらいだの、立派だの、美しいだの、格好よいだの。
もちろん、偉度とて、そのお返し、とばかり、いろんな美辞麗句をもらったことがある。
だが、たった一言だけ、一度も、誰からも、もらったことがない言葉がある。
「愛している」
「は?」
ぎょっとして思わず声を上げると、かえってぎょっとした文偉と休昭が、偉度のほうを見た。
「なんだよ、おまえの出番じゃないぞ。ここは山場なのだから、『村人その一』は大人しく野良仕事をしているのだ。突っ込み不要!」
「ああ、わかった。『村人その一』は、真となりで濡れ場が展開されようとしているのに、まったくそれと気づかぬように、農作業をしている間抜けなフリをしていればよいのだろう。ぼんやり度が過ぎていたよ。すまぬ」
「まったく、おまえ、わたしたちのことを、ずいぶん棒読みだの、大根だのけなしていたが、おまえだってまるでダメじゃないか」
「当たりまえだろう。芝居に出るのはわたしではないのだ。それと文偉、おまえ、まともに誰かに愛を告白したことがないだろう。全然気持ちがこもっていないから、山場どころか、ここで客は呆れてみな眠りだすぞ」
「言ってくれるではないか。するとおまえは、そう言うことを、言ったことが…」
と、しばらく文偉は、いつもの冷笑的な笑みを浮かべる、地味にはしているものの、秀麗な顔立ちをしている、どこか色気さえ感じさせる偉度を見つめていた。
が、やがてぼそりとつぶやいた。
「ありそうだな。たっぷり」
ふん、ばか坊ちゃんども。年季が違う、と心でつぶやき、偉度は鼻を鳴らした。
「だいたい、そんなどこかの布団みたいな布だけを被った男に、色っぽい台詞を言おうとするのが間違っておるのだ。休昭、化粧しろ」
はあ? といいつつ、休昭は小動物並みに危険を察知し、元刺客(一応現役でもあるが)の偉度の前から、すばやく後ずさった。
しかし文偉は大いにうなずく。
「よくぞ言ってくれた。実はちゃんと白粉やら紅やら、一式全部持ってきてあるのだよ。それなのに、こいつが嫌がるものだから。ほら、偉度もこう言っているのだ。覚悟を決めて、女神になりきれ! 芝居を甘く見てはならぬ。そんなことでは、とてもではないが、お客様を満足させることはできないぞ!」
「わたしは、本職の俳優ではないのだぞ!」
せまい部屋で、しかも孔明よりもなおとろい、と評判の高い休昭は、あっさり文偉に捕まって、偉度の手により、手早く化粧が施された。
その慣れた手並みに、おおー、と文偉が感嘆の声を挙げる。
つづく……
休昭は、部屋の隅で白い衣を被ったまま、力ない様子で膝をかかえてつくねんとしており、偉度は偉度で、甥とやらが来たならば、すぐに部屋を出るつもりであった。
この二人が嫌いではない。
孔明が、この二人を好きだからだ。
偉度は四六時中孔明という人間を観察しているので、表立ってはけっして好悪の感情をあからさまにしない青年軍師の、ほんのちいさな感情のひだまで読み取ることができる。
孔明は、この聡明で素朴で実直で、それでいて不思議と…たとえは悪いがこんにゃくのように、するり、するりと世の悪や誘惑をすり抜けて、のびのびと過ごしている二人を好ましく思っているようであった。
きっと、あの人の襄陽時代もこのような呑気なものであったのだろう。
天下を論じ、夢を見、ときに悶々と悩み、友と衝突し…それでも後ろ暗さの欠片もない、うらやましいほどの夏の太陽のような、まぶしく熱にあふれたときを過ごしたのだ。
青春と聞くと、それだけでたいがいの者は、気恥しさと懐かしさの入り混じった感情にとらわれるようであるが、偉度の場合は、まるで神仙の世界のなにかの道具と同じくらい、ぴんとこないものであった。
偉度は繁華街へ足を向けるのが嫌いだ。自分と同じ眼差しを、雑踏の中に見つけるのが嫌いだ。
だけれど、左将軍府には、自分と同じ眼差しをもつ者がない。どれもみんな、世の中を真っ直ぐに見つめようと気概にあふれた、清い目をしている。
劉備は、周りにあつまっているのが、どうも真面目な一辺倒すぎる。孔明は、器量がちょいとばかり狭いのじゃねぇか、などと心配をしているようだが、孔明は劉備ほどに、心の芯がつよくできていない。まだ鍛えられきっていない鉄と同じなのだ。
自分だけならまだしも、魏延や糜芳みたいなのがうろうろしてみるがいい。一ヶ月ともたず、左将軍府はぴりぴりした嫌な空気に包まれてしまうだろう。
もっとも、それを治めるのも器量というものなのであろうが、孔明はまだ若いのだ。これから力をつけていく段階なのである。
自分だけでいいのだ。そう、あのひとはまだ、自分だけのものであればいい。
とっとと甥とやらがこないだろうか。じっとしていると、ろくなことを考えない。
其の間も、文偉はよほどヒマなのか、がらん、ごろんと鐘を鳴らし、最後には節をつけて、調子外れた歌まで唄いだす始末。
それを遮るように、偉度は尋ねた。
「なあ、希望の鐘などという名前がついているが、なぜそのような名前なのだ?」
「さあて、爺さんの話だと、さんざん脅されたやつが、『是、判りました』と答えて、ようやく解放してもらえる、その合図がこの鐘の音だったからだと聞いたが」
ぞっとしない話だと思いつつも、しかしあの宿直の爺さんは、孔明が左将軍府の主となってから、雇った人間ではなかったか、と偉度は思い出していた。前任のだれかから聞いたのであろうか。
「しかし、甥とやらは遅いな。爺さん、泡を食って、甥っ子の家によるのを忘れたのじゃないだろうか」
文偉がぼやくと、それまで膝を抱えてつくねんとしていた休昭が、ぽつりと言った。
「子供か。無事に生まれるとよいな」
「ああ、お前のところは母上が、おまえを産んですぐに亡くなったのだったな」
文偉の言葉に、休昭はこくりと寂しそうに肯く。
「だから、どんなお方か、顔すらわからぬ。父上は、わたしは母上にそっくりだと言うのだが」
「たしかに、おまえは頑固なところ以外は、あまり幼宰さまに似ておらぬな。伯父に聞いたが、お美しいお方だったそうだぞ」
「うん、それは父も言っていた。お前のところは、たしか、弟か妹を産んだ直後に亡くなられたのだったな」
「ああ。そもそも、懐妊が決まったときから具合がわるくて、産婆からも堕胎を進められていたほどだったらしいのだ。それでも産みたいといって、結局、出血がひどくて、弟ともども亡くなってしまわれた。母上の横で、父上が泣きもせず、なにも言わずに背中を丸めて、じっとされていたのを今でも覚えているよ。
おもえば、父上の活力の源は、すべて母上だったのだな。あれから、馬車馬のように働くだけ働いて、体を壊して、母上が亡くなられてからすぐに、父上も倒れて、それきりだ。なんというか不思議なものでな、こういうと薄情に思われぬかもしれぬが、わたしは、父や母が死ぬのだということを、事前に気づいていたよ」
「ほう」
なんというのかな、といいながら、費文偉は手持ち無沙汰に鐘をがらんごろんと響かせながら、慎重に、言葉をひとつひとつ選びながら言う。
「死の気配というのだろうか。影、というのかな。家に、生き物みたいにそれが常に『いる』のだ。妖怪の類いとかではないぞ。気配があるだけで、なにをするでもない、恐ろしくもなんともないのであるが、こいつがいるからこそ、母上も父上も、間もなく亡くなられるのだな、と」
「それはわかるな」
思わず、偉度は口を挟んでいた。
淀んだ死の気配の中、どんどん真綿で首を絞められていく状況にあると知りながら、それでも劉琦を守るために死んだ男。
あの男の周囲にも、死の気配がつねに付きまとっていた。
もはやどうしようもなかった。
どうしようもできないことを知っていた。
ふと、がらごろと鐘を鳴らしつつ、文偉が水を向けてくる。
「そういえば、わたしは偉度のご家族のことを何も知らぬな。弟君がいるのであったっけ?」
「ああ、義陽で家を継いでいる。異腹でね、あれのほうが正嫡だったから」
と、偉度は嘘をついた。しかし抵抗感はない。
いつもついている嘘であったから、繰り返しているうちに、それが本当のように自分でも思えるようになってきていた。
それでは、と文偉がさらに言葉を継ごうとするので、すかさず偉度は遮った。
「おっと、父と母のことは言いたくない。そんなふうに人の詮索をしているより、おまえたちはこの隙にでも、せっせと芝居の練習をしたらよかろう」
「よかろう、ってな。おまえときどき、軍師にそっくりな口を利くから、こちらもどきりとするよ。まあいいや。休昭、どうする」
文偉に促された休昭は、気乗りのしない様子で、答えた。
「だが、宿直の甥とやらが来るまでは落ち着かぬ」
「ただぼんやり待っているよりは、よほど有意義だぞ。そうだ、偉度、おまえ、わたしたち以外の役をやってはくれぬか」
「なんだ、おまえたち二人だけの芝居ではないのか」
「うん、ほかの連中は、やれ酒の付き合いだ、女房が待っているだのと、なんやかやと理由をつけて帰ってしまったのだ」
「ふん、見たところ、休昭の女神役も、その要領のいいやつらに押し付けられたのだろう」
図星であったらしく、休昭は答えないまま、むっつりと黙り込んだ。
休昭や文偉にとっては世間話でも、偉度にとっては時に、薄氷の上を踏むような、嫌な作業になることがある。
自分では図太いほうだと思いこんでいたのだが、近頃はどうしたことか、過去と現在の感覚が、だんだん曖昧になって、どちら側にいた自分が本当だったのか、わからなくなってきているのだ。
刺客としての酷薄で容赦のない胡偉度か、孔明の有能な主簿としての冷徹な胡偉度か。
どちらにしろ、人に好かれる立場ではない。
そもそも、好きだと言ったことはあったけれど、それはあくまで手段だけの話であった。
此方の身体を餌に、相手を油断させるための、最初のとっかかり。
甘い言葉は、だれにでも耳障りが良いらしく、好んで聞きたがる。好きだの、えらいだの、立派だの、美しいだの、格好よいだの。
もちろん、偉度とて、そのお返し、とばかり、いろんな美辞麗句をもらったことがある。
だが、たった一言だけ、一度も、誰からも、もらったことがない言葉がある。
「愛している」
「は?」
ぎょっとして思わず声を上げると、かえってぎょっとした文偉と休昭が、偉度のほうを見た。
「なんだよ、おまえの出番じゃないぞ。ここは山場なのだから、『村人その一』は大人しく野良仕事をしているのだ。突っ込み不要!」
「ああ、わかった。『村人その一』は、真となりで濡れ場が展開されようとしているのに、まったくそれと気づかぬように、農作業をしている間抜けなフリをしていればよいのだろう。ぼんやり度が過ぎていたよ。すまぬ」
「まったく、おまえ、わたしたちのことを、ずいぶん棒読みだの、大根だのけなしていたが、おまえだってまるでダメじゃないか」
「当たりまえだろう。芝居に出るのはわたしではないのだ。それと文偉、おまえ、まともに誰かに愛を告白したことがないだろう。全然気持ちがこもっていないから、山場どころか、ここで客は呆れてみな眠りだすぞ」
「言ってくれるではないか。するとおまえは、そう言うことを、言ったことが…」
と、しばらく文偉は、いつもの冷笑的な笑みを浮かべる、地味にはしているものの、秀麗な顔立ちをしている、どこか色気さえ感じさせる偉度を見つめていた。
が、やがてぼそりとつぶやいた。
「ありそうだな。たっぷり」
ふん、ばか坊ちゃんども。年季が違う、と心でつぶやき、偉度は鼻を鳴らした。
「だいたい、そんなどこかの布団みたいな布だけを被った男に、色っぽい台詞を言おうとするのが間違っておるのだ。休昭、化粧しろ」
はあ? といいつつ、休昭は小動物並みに危険を察知し、元刺客(一応現役でもあるが)の偉度の前から、すばやく後ずさった。
しかし文偉は大いにうなずく。
「よくぞ言ってくれた。実はちゃんと白粉やら紅やら、一式全部持ってきてあるのだよ。それなのに、こいつが嫌がるものだから。ほら、偉度もこう言っているのだ。覚悟を決めて、女神になりきれ! 芝居を甘く見てはならぬ。そんなことでは、とてもではないが、お客様を満足させることはできないぞ!」
「わたしは、本職の俳優ではないのだぞ!」
せまい部屋で、しかも孔明よりもなおとろい、と評判の高い休昭は、あっさり文偉に捕まって、偉度の手により、手早く化粧が施された。
その慣れた手並みに、おおー、と文偉が感嘆の声を挙げる。
つづく……