「すごい! 休昭がそれらしくなってきた! ほれ、鏡!」
鏡を見せられた休昭は、顔を真っ赤にして、唐辛子をふたつ重ねたように真っ赤になっている唇を尖らせた。
「ばか、これでは真面目な話が、ただの笑い話になってしまうではないか!」
「もとより、おまえが女神、という時点で、すでに笑い話なのだよ。張将軍に負けない伝説をつくれ!」
「いやだ、そんな伝説! だいたい、馬季常さまも、張将軍も、すでにそれなりの地位のあるお方であったから、みな笑うだけで終わったのだ! 私のような、ただのびんぼう書生が女装したなら、単に同情と奇異のまなざしで見られるがオチ! 第一、父上が悲しまれるお姿が目に浮かぶ! やっぱりいやだ!」
と、この普段は大人しく、(本人の意思とは裏腹に)流されるだけ流されて、いつのまにやら、ろくでもない位置にいる青年は、今日もまた、こんなのはいやだといって泣くのであった。
「ううむ、たしかに幼宰さまは嘆かれるであろうな。ほかのことならばともかく、あのお方は休昭のことになると、目の色がかわる。大事な一人息子が、みなの笑いものになっているのを、みなと一緒になって笑えまい。というか、この芝居を企画したわたしが怒られる可能性がある」
しくしくと泣いている親友にほだされたか、そうつぶやく文偉に、偉度はうんざりして言った。
「わかっているのならば、おまえがすればよかろう、女神役。たしかに休昭は柔らかな顔立ちをしているが、女装が似合うかどうかというと、また別だ。顎の発達具合からすれば、おまえのほうが、化粧をすれば女に見えるぞ」
文偉は気味悪そうに言う。
「なんだ、偉度。おまえ、いつも人のこと、そんなふうに観察しているのか?」
「やかましい。忠告が必要そうであったから、教えてやっただけのことであろうが! それよりほれ、おまえも化粧をしてみるがいい!」
休昭ほど抵抗はなく、おそらく好奇心が勝っているのであろう。
文偉は意外に協力的に、みずから偉度に化粧をほどこしてもらう。
「ほんとうだ、女だ、女っぽい!」
と、泣いたために不気味に顔が崩れている休昭(現代のわれわれから見れば、その顔は、ピカソの『ゲルニカ』の泣く女にそっくりであった)は、目を輝かせる。
「よし、それではわたしが心栄えの立派な若者をやる。おまえは女神。それでよかろう!」
「よかろう、ってな、よいわけがなかろう!」
憮然として鏡を見て、文偉は言った。
たしかに文偉は白粉をはたき、紅をさせば、休昭よりは綺麗にみえたけれど、綺麗、というだけで、女らしさとは程遠いのであった。
偉度もうなずく。
「たしかに顔かたちは悪くないのに、たとえ女装させても、衆目は納得せぬぞ。これは単なる化粧の好きな変な男だ」
「どこが悪いのであろう?」
偉度は、化粧をして、顔ばかり雅やかになった文偉を、頭からつま先までじろりと見下ろす。
「うむ、雰囲気だな。休昭が、ろくに化粧もしなくとも女らしく見えたのは、その性格が女らしかったからだ。だが、文偉は、顔は女顔ともいえるが、性格が男丸出し。だから、これっぽっちも女らしくないのだ」
休昭は、じっとりと偉度を睨みつける。
「偉度、どさくさにまぎれてすごい悪口を言っていないか。つまり、わたしは女々しいと。きみ、言っておくが、この狭い部屋に、二対一だぞ」
よほど傷ついたのか、泣いて開き直ったのか、めずらしく凄んでくる休昭に、偉度は鼻を鳴らして言った。
「二人だろうと二十人だろうと、おまたち程度ならば、怖くともなんともない。瞬殺だ」
そうしてにやりと笑うと、なにやら説得力があったらしく、ふたりは、う、と呻いて偉度から距離を置いた。
やれやれ、ばか坊ちゃん。もともと住む世界が違うのだ。こうして三人でいること自体が、おかしなことなのだぞ。
またもや泣きそうな顔になっている休昭に、文偉は化粧した顔のまま、宥める。
「まあまあ、そう気を尖らせるな。おまえがそれほど嫌なら、女神役はわたしが代わってやるさ。台詞を覚えなおさねばならぬが、たいした手間ではあるまい。うちの伯父は、幼宰さまのように、わたしが女装をしても怒らぬであろう。むしろ、腹を抱えて大笑いするであろうさ」
「文偉―」
と、別な意味で泣きそうになっている休昭を見て、文偉はからからと笑っている。
このさわやかさ。
軍師ならば微笑ましく思うのであろうが、偉度は嫉妬もあり、苛立ちしか感じない。
おのれの性根の悪さを恨みつつ、偉度は文偉に言った。
「おまえのところは伯父上だけであったか。従兄どのは演芸大会やらには出ないのか」
「忙しくて無理であろうな。そういえば、このあいだ、ようやく長い休みを取れるようなので、温泉に行くのだと手紙にあったよ。家族でひっそりしているほうが、あのひとにはいいのだ。わたしのように、みんなと賑やかにしているほうが、楽しい人じゃないから」
「おまえは、みんなと馬鹿騒ぎをするのが好きなのか」
「偉度は嫌いか? わたしは好きだな。だって、一人ではないと思えるだろう」
「一人か。集団の中にいるときのほうが、むしろ己が異質と感じて、自分が一人なのだと思わぬか」
と言ってしまってから、偉度はしまったと思った。
どうもこの費文偉、本人にその気はないのだろうが、つい本音を漏らしてしまいたくなるところがある。
その呆れるほど明朗で素直な性格が、対峙する者をも素直にしてしまうのだろうか。
さて、なぜだと問われたら厄介だ、こういう内面的な話をぐずぐずするのは好きじゃない。
なにか話題を変えようと考えていると、意外にも、休昭が横から入ってきた。
「それは判るな。わたしも、賑やかな場は好きじゃない。きみみたいに話題が豊富じゃないし、みなを笑わせることもできない。気を使うばかりでひどく疲れるし、みんなが楽しそうにしているのに、自分だけ疲れてションボリしている、自分はみなと違うのではないかと、不安になるよ」
すこしちがうが、不安になる、という点では似ている。
偉度は、休昭にすこしだけ親近感をおぼえた。
「わたしは幼少の頃から、父上に大事にされすぎたからだろうか、他者とうまく繋がることができないのかもしれぬ。いつも父上の真似をして、こうしよう、ああしようとするのであるが、父上が素晴らしすぎて、なんというか、壁にぶつかるような感覚があるのだ。父上は超えられぬ。あの人のように、みなから慕われる官僚になるにはどうしたらよいのかと考えて…それで実は、芝居のことも乗ってみたのだ。でも、女装はヤッパリ嫌だ」
「なるほど、そういうことであったか、ならば、なおさら女神はわたしがやるべきだろう。どう思う、村人その一兼そのニ兼村長」
「どう思う、といわれても、休昭の内面のことであろう。わたしには、まあ、がんばれとしか言いようがないよ。よき父上がいてよかったではないか」
偉度は、父親に関する記憶のすべてを封じている。
嫌な思い出ばかりではなく、いい思いでも、ほんとうに砂粒ほどではあったけれど、あったのだ。
一緒に遊んでもらったこと、肩車をしてもらったこと、どれだけ楽しくてうれしかったか。
あの男、名も知らぬ男に殺されたあの男は、自分の息子が、あのとき一瞬でも、世界のすべての愛情を、父親を通して得たのだと知っていただろうか。
知っていてもなお、家門のためにと理由をつけて、自分を奈落の底に突き落としたであろうか。
あんな男には決してならないし、なろうとしても、そうなれるものではあるまい。
優しい感情が、どこかで壊れて根こそぎなくなってしまったのだとしか思えない。
『もしかしたら、おまえの父親も、程度こそちがえ、親か、あるいは他の大人に、似たような目に遭わされたのかも知れないぞ』
と、いつだったか、あのひとが言っていたことがあったな。
そう、めずらしく、孔明が裁定を下した裁判のあとであった。
博打で借金を方々にこさえ、先行きに不安をおぼえた男が、妻子を殺害し、自分も死のうとしたのだが、果たせなかった、という事件であった。
男に同情をする向きもあったが、孔明は処刑の判定を下した。
男が、最後まで、妻子はこれで苦しまずに済んだのであるから、死んでよかったのだといい続けたからである。
孔明は男の身辺を偉度に調べさせた。
偉度が調べたところによれば、やはり男の親も、博打狂いで借金をつづけており、しかもひどい酒乱で、妻を殴打しては鬱憤を晴らす毎日であったという。
親が曲がっていたから、子も曲がる。だから、自分の子も曲がるにちがいない。だから始末したのだ。良いことをしたのだ。これは親の過ちをこれ以上、ふやさないための孝行である。男はそういい続けて死んだ。
あの男…父も、祖父という人物に虐げられたことがあり、自分にも『家門を守る』ための犠牲を強いたのであろうか。
だとしたら、自分がもし子ができたとして、自分はどうしてやれるだろう。
そう考えたとき、偉度は、自分は、結婚はしないし、子も作らないことを決めた。
いっそ宦官になってしまいたいとさえ望んだ。
そのほうが、悲劇が増えずにすむ。
それを孔明に告げると、いきなり横面をはたかれた。
『おまえは、父親の影に怯えて、そこで負けるのか。父親を憎むのであれば、とことんまで憎め。そして、打ち克ってみせるがいい! おまえの陥った境遇には同情する。しかし、かといって、おまえの犯した罪のすべてが消えるわけではない。おまえは、罪をつぐなう意識があるのか?』
ある、と偉度は言った。
父親も、樊城をめぐるいざこざも含めて、殺さなくていいもの、傷つけなくていいもの、過去には許しを請わねばならぬものが有りすぎた。
顔も名前も思い出せない者たち。彼らにどう償ってよいのかわからない。
自分がそもそも、父親と母に捨てられた『間違った子供』であったから、こんな間違ったことをするのだと、そう言い訳を繰り返し、罪もつぐなわずに生きるのかと、孔明は問うたのであった。
『もしも、心の底から罪をつぐないたいと思うのであれば、おまえの良心のすべてに賭けて、正しいと思うことのみを実行することにせよ。殺めた相手は生き返らぬし、傷つけた相手に謝ったところで、言葉だけではなにもならぬ。
己の身がいかに引き裂かれようと、辛かろうと、苦しかろうと、過去と戦え! 過去を葬るということは、過去を殺すこととは違うのだ。おまえがおまえである限り、過去は決して死ぬことはない。
お前の忌まわしき過去を生んだものを恨み、同じことばかりくりかえし思い出し、煩悶と苦しみ生きることを選ぶか、それとも、新たな苦しみに飛び込み、忌まわしき事実をすこしでもよき方向に流そうとするために、わたしと共に来るか、どちらかを選べ!』
ああ、そうだ。そこでついて行く、と言ったから、いまわたしはここにいるのだった。
なんだって死ぬことを考えたり、一人はさびしいなどと、考えたりしたのであったかな。
どうして、嫌なことばかりは鮮明に覚えていられるのに、よいことは忘れがちになってしまうのだろう。
つづく……
鏡を見せられた休昭は、顔を真っ赤にして、唐辛子をふたつ重ねたように真っ赤になっている唇を尖らせた。
「ばか、これでは真面目な話が、ただの笑い話になってしまうではないか!」
「もとより、おまえが女神、という時点で、すでに笑い話なのだよ。張将軍に負けない伝説をつくれ!」
「いやだ、そんな伝説! だいたい、馬季常さまも、張将軍も、すでにそれなりの地位のあるお方であったから、みな笑うだけで終わったのだ! 私のような、ただのびんぼう書生が女装したなら、単に同情と奇異のまなざしで見られるがオチ! 第一、父上が悲しまれるお姿が目に浮かぶ! やっぱりいやだ!」
と、この普段は大人しく、(本人の意思とは裏腹に)流されるだけ流されて、いつのまにやら、ろくでもない位置にいる青年は、今日もまた、こんなのはいやだといって泣くのであった。
「ううむ、たしかに幼宰さまは嘆かれるであろうな。ほかのことならばともかく、あのお方は休昭のことになると、目の色がかわる。大事な一人息子が、みなの笑いものになっているのを、みなと一緒になって笑えまい。というか、この芝居を企画したわたしが怒られる可能性がある」
しくしくと泣いている親友にほだされたか、そうつぶやく文偉に、偉度はうんざりして言った。
「わかっているのならば、おまえがすればよかろう、女神役。たしかに休昭は柔らかな顔立ちをしているが、女装が似合うかどうかというと、また別だ。顎の発達具合からすれば、おまえのほうが、化粧をすれば女に見えるぞ」
文偉は気味悪そうに言う。
「なんだ、偉度。おまえ、いつも人のこと、そんなふうに観察しているのか?」
「やかましい。忠告が必要そうであったから、教えてやっただけのことであろうが! それよりほれ、おまえも化粧をしてみるがいい!」
休昭ほど抵抗はなく、おそらく好奇心が勝っているのであろう。
文偉は意外に協力的に、みずから偉度に化粧をほどこしてもらう。
「ほんとうだ、女だ、女っぽい!」
と、泣いたために不気味に顔が崩れている休昭(現代のわれわれから見れば、その顔は、ピカソの『ゲルニカ』の泣く女にそっくりであった)は、目を輝かせる。
「よし、それではわたしが心栄えの立派な若者をやる。おまえは女神。それでよかろう!」
「よかろう、ってな、よいわけがなかろう!」
憮然として鏡を見て、文偉は言った。
たしかに文偉は白粉をはたき、紅をさせば、休昭よりは綺麗にみえたけれど、綺麗、というだけで、女らしさとは程遠いのであった。
偉度もうなずく。
「たしかに顔かたちは悪くないのに、たとえ女装させても、衆目は納得せぬぞ。これは単なる化粧の好きな変な男だ」
「どこが悪いのであろう?」
偉度は、化粧をして、顔ばかり雅やかになった文偉を、頭からつま先までじろりと見下ろす。
「うむ、雰囲気だな。休昭が、ろくに化粧もしなくとも女らしく見えたのは、その性格が女らしかったからだ。だが、文偉は、顔は女顔ともいえるが、性格が男丸出し。だから、これっぽっちも女らしくないのだ」
休昭は、じっとりと偉度を睨みつける。
「偉度、どさくさにまぎれてすごい悪口を言っていないか。つまり、わたしは女々しいと。きみ、言っておくが、この狭い部屋に、二対一だぞ」
よほど傷ついたのか、泣いて開き直ったのか、めずらしく凄んでくる休昭に、偉度は鼻を鳴らして言った。
「二人だろうと二十人だろうと、おまたち程度ならば、怖くともなんともない。瞬殺だ」
そうしてにやりと笑うと、なにやら説得力があったらしく、ふたりは、う、と呻いて偉度から距離を置いた。
やれやれ、ばか坊ちゃん。もともと住む世界が違うのだ。こうして三人でいること自体が、おかしなことなのだぞ。
またもや泣きそうな顔になっている休昭に、文偉は化粧した顔のまま、宥める。
「まあまあ、そう気を尖らせるな。おまえがそれほど嫌なら、女神役はわたしが代わってやるさ。台詞を覚えなおさねばならぬが、たいした手間ではあるまい。うちの伯父は、幼宰さまのように、わたしが女装をしても怒らぬであろう。むしろ、腹を抱えて大笑いするであろうさ」
「文偉―」
と、別な意味で泣きそうになっている休昭を見て、文偉はからからと笑っている。
このさわやかさ。
軍師ならば微笑ましく思うのであろうが、偉度は嫉妬もあり、苛立ちしか感じない。
おのれの性根の悪さを恨みつつ、偉度は文偉に言った。
「おまえのところは伯父上だけであったか。従兄どのは演芸大会やらには出ないのか」
「忙しくて無理であろうな。そういえば、このあいだ、ようやく長い休みを取れるようなので、温泉に行くのだと手紙にあったよ。家族でひっそりしているほうが、あのひとにはいいのだ。わたしのように、みんなと賑やかにしているほうが、楽しい人じゃないから」
「おまえは、みんなと馬鹿騒ぎをするのが好きなのか」
「偉度は嫌いか? わたしは好きだな。だって、一人ではないと思えるだろう」
「一人か。集団の中にいるときのほうが、むしろ己が異質と感じて、自分が一人なのだと思わぬか」
と言ってしまってから、偉度はしまったと思った。
どうもこの費文偉、本人にその気はないのだろうが、つい本音を漏らしてしまいたくなるところがある。
その呆れるほど明朗で素直な性格が、対峙する者をも素直にしてしまうのだろうか。
さて、なぜだと問われたら厄介だ、こういう内面的な話をぐずぐずするのは好きじゃない。
なにか話題を変えようと考えていると、意外にも、休昭が横から入ってきた。
「それは判るな。わたしも、賑やかな場は好きじゃない。きみみたいに話題が豊富じゃないし、みなを笑わせることもできない。気を使うばかりでひどく疲れるし、みんなが楽しそうにしているのに、自分だけ疲れてションボリしている、自分はみなと違うのではないかと、不安になるよ」
すこしちがうが、不安になる、という点では似ている。
偉度は、休昭にすこしだけ親近感をおぼえた。
「わたしは幼少の頃から、父上に大事にされすぎたからだろうか、他者とうまく繋がることができないのかもしれぬ。いつも父上の真似をして、こうしよう、ああしようとするのであるが、父上が素晴らしすぎて、なんというか、壁にぶつかるような感覚があるのだ。父上は超えられぬ。あの人のように、みなから慕われる官僚になるにはどうしたらよいのかと考えて…それで実は、芝居のことも乗ってみたのだ。でも、女装はヤッパリ嫌だ」
「なるほど、そういうことであったか、ならば、なおさら女神はわたしがやるべきだろう。どう思う、村人その一兼そのニ兼村長」
「どう思う、といわれても、休昭の内面のことであろう。わたしには、まあ、がんばれとしか言いようがないよ。よき父上がいてよかったではないか」
偉度は、父親に関する記憶のすべてを封じている。
嫌な思い出ばかりではなく、いい思いでも、ほんとうに砂粒ほどではあったけれど、あったのだ。
一緒に遊んでもらったこと、肩車をしてもらったこと、どれだけ楽しくてうれしかったか。
あの男、名も知らぬ男に殺されたあの男は、自分の息子が、あのとき一瞬でも、世界のすべての愛情を、父親を通して得たのだと知っていただろうか。
知っていてもなお、家門のためにと理由をつけて、自分を奈落の底に突き落としたであろうか。
あんな男には決してならないし、なろうとしても、そうなれるものではあるまい。
優しい感情が、どこかで壊れて根こそぎなくなってしまったのだとしか思えない。
『もしかしたら、おまえの父親も、程度こそちがえ、親か、あるいは他の大人に、似たような目に遭わされたのかも知れないぞ』
と、いつだったか、あのひとが言っていたことがあったな。
そう、めずらしく、孔明が裁定を下した裁判のあとであった。
博打で借金を方々にこさえ、先行きに不安をおぼえた男が、妻子を殺害し、自分も死のうとしたのだが、果たせなかった、という事件であった。
男に同情をする向きもあったが、孔明は処刑の判定を下した。
男が、最後まで、妻子はこれで苦しまずに済んだのであるから、死んでよかったのだといい続けたからである。
孔明は男の身辺を偉度に調べさせた。
偉度が調べたところによれば、やはり男の親も、博打狂いで借金をつづけており、しかもひどい酒乱で、妻を殴打しては鬱憤を晴らす毎日であったという。
親が曲がっていたから、子も曲がる。だから、自分の子も曲がるにちがいない。だから始末したのだ。良いことをしたのだ。これは親の過ちをこれ以上、ふやさないための孝行である。男はそういい続けて死んだ。
あの男…父も、祖父という人物に虐げられたことがあり、自分にも『家門を守る』ための犠牲を強いたのであろうか。
だとしたら、自分がもし子ができたとして、自分はどうしてやれるだろう。
そう考えたとき、偉度は、自分は、結婚はしないし、子も作らないことを決めた。
いっそ宦官になってしまいたいとさえ望んだ。
そのほうが、悲劇が増えずにすむ。
それを孔明に告げると、いきなり横面をはたかれた。
『おまえは、父親の影に怯えて、そこで負けるのか。父親を憎むのであれば、とことんまで憎め。そして、打ち克ってみせるがいい! おまえの陥った境遇には同情する。しかし、かといって、おまえの犯した罪のすべてが消えるわけではない。おまえは、罪をつぐなう意識があるのか?』
ある、と偉度は言った。
父親も、樊城をめぐるいざこざも含めて、殺さなくていいもの、傷つけなくていいもの、過去には許しを請わねばならぬものが有りすぎた。
顔も名前も思い出せない者たち。彼らにどう償ってよいのかわからない。
自分がそもそも、父親と母に捨てられた『間違った子供』であったから、こんな間違ったことをするのだと、そう言い訳を繰り返し、罪もつぐなわずに生きるのかと、孔明は問うたのであった。
『もしも、心の底から罪をつぐないたいと思うのであれば、おまえの良心のすべてに賭けて、正しいと思うことのみを実行することにせよ。殺めた相手は生き返らぬし、傷つけた相手に謝ったところで、言葉だけではなにもならぬ。
己の身がいかに引き裂かれようと、辛かろうと、苦しかろうと、過去と戦え! 過去を葬るということは、過去を殺すこととは違うのだ。おまえがおまえである限り、過去は決して死ぬことはない。
お前の忌まわしき過去を生んだものを恨み、同じことばかりくりかえし思い出し、煩悶と苦しみ生きることを選ぶか、それとも、新たな苦しみに飛び込み、忌まわしき事実をすこしでもよき方向に流そうとするために、わたしと共に来るか、どちらかを選べ!』
ああ、そうだ。そこでついて行く、と言ったから、いまわたしはここにいるのだった。
なんだって死ぬことを考えたり、一人はさびしいなどと、考えたりしたのであったかな。
どうして、嫌なことばかりは鮮明に覚えていられるのに、よいことは忘れがちになってしまうのだろう。
つづく……