※
客館の外は風が強く吹いている。
「今日は寒うございますから、綿入りの布団をもう一枚、足しましょう」
といって、客館の主人が寝室に布団を入れなおしてくれた。
風が上空でうなり、その風にあおられて木々の葉と葉がこすれる音は、孔明が眠りにつくまでつづいた。
外の木立のざわざわと騒ぐ声をうるさいと思う者もいるだろうが、孔明はその音を聞くとふしぎとこころが落ち着く。
孔明は、明日はこの柴桑《さいそう》から出立なのだと思い出し、めまぐるしいこの数日の結果、こうして枕を高くして眠れていることをありがたく思った。
孫権への説得が成功し、同盟は成った。
都督の周瑜があまりこちらを好意的に見ていないことは気になったが、かれがいますぐ自分たちを害なす可能性は低い。
とりあえず、すべてはうまくいったと言っていいだろう。
兄の諸葛瑾にも会えたし、満足だ。
明日は柴桑を出立し、長江をさかのぼって、北の樊口へむかう。
そこで、夏口から出てきているはずの劉備たちと合流する予定だ。
劉備には、同盟は成ったという知らせはもう届いているはずで、かれらの喜んでいるだろうさまを想像すると、孔明もまた、顔がにやける。
すべてがうまくいった。
あまりに順調なので、怖くなるほどであった。
この客館とも今日でお別れか。
そう思いながら、布団にもぐりこむ。
趙雲や胡済《こさい》もそれぞれの部屋でぐっすりと眠っているはずだ。
綿入りの布団を二重にしてもらったからか、その重さがちょうどいい。
布団にくるまれていると、すぐに眠くなってきた。
閉じられた窓の外では、風が騒ぎつづけている。
風の嘆くような音と、木立のざわめきと、それから不定期に聞こえてくる鳥の声を子守歌にして、孔明は眠った。
夢は見なかった。
あまりに深い満足のなかでの、幸せなねむりだった。
※
どれだけ眠っただろう。
「軍師、軍師」
外から、趙雲が呼びかけてくる。
身体を引っ張るような眠気と戦いつつ、孔明は目を覚ました。
月明かりがないので、時間もはっきりわからなかったが、まだ真夜中だろう。
燭台の明かりをつけようと思ったが、火打石《ひうちいし》がどこにあるのか、暗すぎてわからない。
いや……
眠気から醒めた孔明の頭は、すぐに明敏にはたらきはじめた。
何者かが客館に侵入してきた可能性がある。
下手に明かりをつけて、自ら標的になるのは避けたほうがいいだろう。
「問題か」
孔明が布団から出て、衣桁《いこう》にかけてあったころもをはおりつつ聞くと、扉の向こうに控えているらしい趙雲が、言った。
「まずいことになったぞ」
「どういうことだ」
火でもかけられたのかと危ぶんで、鼻をすんすん動かしてみるが、とくになにかきな臭いにおいはしない。
風もごうごうと騒ぎ続け、木々のこすれ合う音もつづいているが、趙雲のほかに声をたてている者、いや、目覚めている者すらいないようだった。
扉をひらくと、ひゅうっと冷たい風が部屋に入って来た。
思わずぶるっと震えつつ、孔明は暗がりの中で趙雲が燭台を手に立っているのを見た。
「刺客か?」
「いや、そうではない。偉度《いど》がいなくなった」
「偉度が? どうして」
わからん、と言いつつ、趙雲は孔明を先導して、胡済の部屋に連れて行く。
ふたりのほかに目覚めたものはいまだにいない。
だが、孔明は気づいた。
あれほど聞こえてきた鳥の声が、しなくなっている。
胡済の部屋に行くと、なるほど人気はなくもぬけの殻だった。
衣服や沓《くつ》はもちろん、かれが持ってきたわずかな荷物もないし、愛用していた長剣もなくなっている。
燭台の明かりをたよりに、寝台のあたたかさを確かめるが、まだほんのりあたたかかった。
出て行ったとすれば、まだ遠くへ行っていないのだろう。
外の厠《かわや》に出ているという話ではなかろうと、孔明は趙雲の様子から察した。
「厠にはだれもいない。庭にもだ。だれかが偉度を外に呼び出したのだろう」
「なぜわかる」
おどろいて孔明が問うと、趙雲はこともなげに答えた。
「おれが目が覚めたのは鳥の声のせいだ。
あの雉のような鳴き声、おまえには聞こえなかったか?」
「いや、聞こえたよ。風がうるさくて鳴いているのかと」
「それにしても、あまりにはっきりと聞こえ過ぎていた。
おそらく、あれが偉度への何者かによる合図だったのだろう」
「だれかが偉度を外へ連れ出したと? なんのために」
「それはわからん」
趙雲は首を横に振る。
ねむりが中断されたためか、燭台のあかりに浮かぶ趙雲の顔は疲れているように見えた。
「どうしたらよい。外へ捜しに行こうか」
「いや、街の警羅に見つかると、かえって面倒だ。
朝になったら、魯子敬どのに連絡をとって、偉度を探してもらうことにしよう」
「見つかるかな」
「それもわからん。だいたい、あいつはどこへ行くつもりなのか」
つづく
客館の外は風が強く吹いている。
「今日は寒うございますから、綿入りの布団をもう一枚、足しましょう」
といって、客館の主人が寝室に布団を入れなおしてくれた。
風が上空でうなり、その風にあおられて木々の葉と葉がこすれる音は、孔明が眠りにつくまでつづいた。
外の木立のざわざわと騒ぐ声をうるさいと思う者もいるだろうが、孔明はその音を聞くとふしぎとこころが落ち着く。
孔明は、明日はこの柴桑《さいそう》から出立なのだと思い出し、めまぐるしいこの数日の結果、こうして枕を高くして眠れていることをありがたく思った。
孫権への説得が成功し、同盟は成った。
都督の周瑜があまりこちらを好意的に見ていないことは気になったが、かれがいますぐ自分たちを害なす可能性は低い。
とりあえず、すべてはうまくいったと言っていいだろう。
兄の諸葛瑾にも会えたし、満足だ。
明日は柴桑を出立し、長江をさかのぼって、北の樊口へむかう。
そこで、夏口から出てきているはずの劉備たちと合流する予定だ。
劉備には、同盟は成ったという知らせはもう届いているはずで、かれらの喜んでいるだろうさまを想像すると、孔明もまた、顔がにやける。
すべてがうまくいった。
あまりに順調なので、怖くなるほどであった。
この客館とも今日でお別れか。
そう思いながら、布団にもぐりこむ。
趙雲や胡済《こさい》もそれぞれの部屋でぐっすりと眠っているはずだ。
綿入りの布団を二重にしてもらったからか、その重さがちょうどいい。
布団にくるまれていると、すぐに眠くなってきた。
閉じられた窓の外では、風が騒ぎつづけている。
風の嘆くような音と、木立のざわめきと、それから不定期に聞こえてくる鳥の声を子守歌にして、孔明は眠った。
夢は見なかった。
あまりに深い満足のなかでの、幸せなねむりだった。
※
どれだけ眠っただろう。
「軍師、軍師」
外から、趙雲が呼びかけてくる。
身体を引っ張るような眠気と戦いつつ、孔明は目を覚ました。
月明かりがないので、時間もはっきりわからなかったが、まだ真夜中だろう。
燭台の明かりをつけようと思ったが、火打石《ひうちいし》がどこにあるのか、暗すぎてわからない。
いや……
眠気から醒めた孔明の頭は、すぐに明敏にはたらきはじめた。
何者かが客館に侵入してきた可能性がある。
下手に明かりをつけて、自ら標的になるのは避けたほうがいいだろう。
「問題か」
孔明が布団から出て、衣桁《いこう》にかけてあったころもをはおりつつ聞くと、扉の向こうに控えているらしい趙雲が、言った。
「まずいことになったぞ」
「どういうことだ」
火でもかけられたのかと危ぶんで、鼻をすんすん動かしてみるが、とくになにかきな臭いにおいはしない。
風もごうごうと騒ぎ続け、木々のこすれ合う音もつづいているが、趙雲のほかに声をたてている者、いや、目覚めている者すらいないようだった。
扉をひらくと、ひゅうっと冷たい風が部屋に入って来た。
思わずぶるっと震えつつ、孔明は暗がりの中で趙雲が燭台を手に立っているのを見た。
「刺客か?」
「いや、そうではない。偉度《いど》がいなくなった」
「偉度が? どうして」
わからん、と言いつつ、趙雲は孔明を先導して、胡済の部屋に連れて行く。
ふたりのほかに目覚めたものはいまだにいない。
だが、孔明は気づいた。
あれほど聞こえてきた鳥の声が、しなくなっている。
胡済の部屋に行くと、なるほど人気はなくもぬけの殻だった。
衣服や沓《くつ》はもちろん、かれが持ってきたわずかな荷物もないし、愛用していた長剣もなくなっている。
燭台の明かりをたよりに、寝台のあたたかさを確かめるが、まだほんのりあたたかかった。
出て行ったとすれば、まだ遠くへ行っていないのだろう。
外の厠《かわや》に出ているという話ではなかろうと、孔明は趙雲の様子から察した。
「厠にはだれもいない。庭にもだ。だれかが偉度を外に呼び出したのだろう」
「なぜわかる」
おどろいて孔明が問うと、趙雲はこともなげに答えた。
「おれが目が覚めたのは鳥の声のせいだ。
あの雉のような鳴き声、おまえには聞こえなかったか?」
「いや、聞こえたよ。風がうるさくて鳴いているのかと」
「それにしても、あまりにはっきりと聞こえ過ぎていた。
おそらく、あれが偉度への何者かによる合図だったのだろう」
「だれかが偉度を外へ連れ出したと? なんのために」
「それはわからん」
趙雲は首を横に振る。
ねむりが中断されたためか、燭台のあかりに浮かぶ趙雲の顔は疲れているように見えた。
「どうしたらよい。外へ捜しに行こうか」
「いや、街の警羅に見つかると、かえって面倒だ。
朝になったら、魯子敬どのに連絡をとって、偉度を探してもらうことにしよう」
「見つかるかな」
「それもわからん。だいたい、あいつはどこへ行くつもりなのか」
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます!(^^)!
ブログ村およびブログランキングに投票してくださったみなさまも、どうもありがとうございました!
みなさまが閲覧してくださっていると思うと、やる気も倍増です!!
原稿がだいぶたまってきたので、休んでいる土日のうち、日曜日も更新日にするか、検討しています。
なんでかというと、やはり二日も休むと、日曜日だけではなく月曜日もお客さんが集まりづらい様子なので……
余裕があるうちにどんどん先へ進めるという意味でも、背水の陣を敷いたほうがいいのかなあ、とチラッと思ったり。
ハッキリ決まりましたら、またご連絡いたしますね!
ではでは、次回をおたのしみにー(*^▽^*)