※
嵐のようにつよい感情に呑まれつつも、趙雲は、それでも劉封に自分がとどめをさすことは出来なかった。
劉禅もそうだが、劉封も、少年の時からよく知っている。
この青年がこれほどに曲がってしまったのは、かれ自身の資質に問題があるだけではない。
この青年は、とことん運が悪いのだ。
哀れだとおもったとたんに、殺意も、かろうじて抑えられるまでに減った。
趙雲が劉備に報告することをおそれ、劉封は、どこぞへ逐電するかもしれない。
それでもいい。
むしろ、そのほうがよい、とさえ趙雲はおもった。
やはり知っている者の死は、つらい。
そうして、趙雲が、村長の屋敷から出ようと踵を返すと、劉封の言葉が追いかけてきた。
「趙子龍、俺は、かれらの言葉が間違っているとはおもわない!」
「なんだと?」
「たった一人の犠牲でよいのだと、かれらは言っているのだ。たった一人だぞ! それで、もう戦乱の世を終わらせることができるのだ!」
趙雲は振り返ると、血まみれの口を押さえつつ、激情に駆られている青年を一喝した。
「たわけめ、甘言に乗せられたか! たった一人ですべてが済むものか。やつらは軍師を除いたあと、蜀を併呑するつもりであろうが、主公はたやすく魏の前に頭を下げるお方ではない!」
「いいや、父上とて、劉括を見たら、心を変える。劉括は、まちがいなく養父の御子。顔を見ればわかる。実の子を、漢王朝の帝位につけることができるのだぞ。父上の志は果たされるではないか! おまえは、他人である軍師のために、養父が、おのれが子を旗頭にしている魏と戦うとおもうか?」
「愚かな…」
「なぜ、この策が駄目だと決め付けるのだ? 父上の御子さえ、帝位を襲ってしまえばよいのだ。曹操はもう年だ。曹操は、老齢にさしかかったにもかかわらず、いまだに後継を指定しかねている。おそらく、なんらかの形で、曹一族は紛糾するにちがいない。その機を狙って、俺たちは魏に屈したように見せかけ、曹一族に反旗を翻すのだ!」
「紛糾しなかったら?」
「させればいいじゃないか」
劉封は、心当たりでもあるのか、にやりと訳知り顔の笑みを浮かべて見せる。
趙雲は、知らないあいだに策謀の味をおぼえていた青年を、薄気味わるく見下ろした。
もともと、あまり仲がよくなかった、というのもあり、その身辺がどうなっているのか、関心をよせてこなかった。
が、知らぬあいだに、この青年の周囲には、どうやら悪知恵ばかりが働く連中が、集まってしまっているようだ。
朱に交われば赤くなる。
劉備は悪を断固として拒否できる、つよい意志と判断力に恵まれているが、この青年は、養父から、その姿勢を学べなかったらしい。
もしかして、こいつは、俺の想像以上に、魏とつながりがあるのではないか…?
疑念にかられる趙雲をよそに、劉封は得意になって長舌をつづける。
「魏には、自分たちが有利になる策だと、油断させておけばいい。 最終的な勝利は我らが掴む。いまよりずっと、天下が近くなるぞ! なにせ父上の御子が帝になるのだからな!
魏は、孔明が死にさえすれば、我らを許す、と言っているのだ。軍師の死は、無駄にはならぬ。俺たちの格好の隠れ蓑となってくれるのだからな。我らはひたすら待っていればよいのだ。そして機を狙って策を成功させれば、劉氏は甦ることができる。天下のため、いや、おまえの仕える劉氏の繁栄のため、ここは見逃せ。成都に帰るのだ!」
趙雲は、ふたたび暴れたがる拳を、叱りつけるようにぎゅっと握り、きつく劉封をにらみつけた。
「だれに唆されたのかはしらぬが、おまえは甘い。おまえのような浅慮者のおも惑なぞ、あの大国は、木の葉を車輪で踏み潰すかのように、たやすく砕いてしまうであろう。それに、俺は、たとえ蜀の全員が降伏しようと、降伏などせぬ。一人でも戦う」
「愚かな…劉氏の繁栄をかんがえろ。そうしたら、おまえは反対なぞ出来なくなるぞ。ほんとうに劉氏のことをかんがえているのは、この俺だ。血がすべてではなかろう。悪いことは言わぬ。俺に付け! 劉氏あってこその漢王朝、そして民だ。負け犬にならぬうちに、俺と組むのだ」
「その劉氏とて、股肱の臣がいなければ、なにもできぬ身ではないか」
「ふん、いよいよ本音を出したな、この忠義面をした叛徒めが!」
「なんだと?」
趙雲が顔色を変えたことで、劉封は得意になり、血まみれの顔を悪鬼のように歪ませて、笑った。
「おまえは、忠義の士などではない、趙子龍。俺の話を聞けないことが、その証拠だ! おまえの怒りは、俺が軍師を魏に売ったから、そこまではげしくなっているのだ。おまえは、ほんとうは、父上よりも孔明のほうがずっと大事なのだ。
父に忠誠を尽くしているフリをして、おまえはとっくの昔に父上の家臣を辞めて、孔明の子分に成り下がっているのだ! そのおまえが、俺の話などまともに聞けようはずがない!」
「………」
趙雲は、言葉を発しようとした。
しかし、なにも言うことが出来ないおのれに、まず愕然とした。
その様子を見て、ますます劉封は陰湿な笑みを浮かべる。
「地の果てでも、どこへでも、好きなところへ追いかけていくがいい! おまえが終風村につく頃には、首だけになった軍師が、おまえを出迎えてくれるだろうさ!」
趙雲は、動揺を押し隠しつつ、劉封の甲高い嘲笑を背に、村長の屋敷を出た。
※
畑を突っ切るようにしてつづく村の道をたどり、最初に馬をつないだ陳家へともどる。
畑のあちこちで、虫の声がしている。
寂しげな雉の声が、けん、けん、と夜闇に響いていた。
「顎を砕いたかと」
と、偉度が後ろから追いかけながら、言う。
「俺の一存で処罰はできぬ」
答えつつ、趙雲は、口を利きたくない気分であったので、ますます足を速めた。
おもいもかけない反撃を受けた、とおもっていた。
忠義の士ではない、と言い切られたとき、とっさに言い返すことのできなかった自分が理解できなかった。
劉封の、魏の策の裏を掻こうとする劉封のかんがえには、一理ある。
うまくいけば、天下はふたたび劉氏のものになるだろう。
孔明さえ犠牲になれば…
「駄目だ」
おもわず口に出して、追いついてきた偉度に顔をのぞかれる。
しかし構わず、趙雲は歩いた。
そんな天下に意味はない。
諸葛孔明という人間一人に責任を負わせ、まるで祭壇にささげた生贄のようにして、屠るなど、させてはならぬ。
だが、奥のほうから、劉封の声、そして御者の声がささやいてくる。
たった一人の犠牲で天下が安んじる。
天下のため、劉氏の繁栄のため。
諸葛孔明さえ死ねば。
乱世が、終わるというのか。
ありえない。
………いや、なにがありえない、というのだ?
乱世が終わる、ということか?
劉封が狙う曹一族の滅亡か?
劉備の子が帝位を襲う、ということか?
どんどん心の中を問い詰めていくと、おもいもかけない恐ろしいものが引き出されてしまいそうで、趙雲はぞくりと身を震わせた。
しかし、胸にある物は、まちがいなく、自分の本心であった。
いまは見ないほうがいい。
なすべきことをするのだ。
「まったく、認めておしまいになればよいものを」
「なにをだ?」
苛立ちもあらわに趙雲が尋ねると、偉度が、闇のうしろで、鼻で笑ったのがわかった。
「気づいてらっしゃらないのであれば結構。ならば、一生、気づかないでいなさい」
「いちいち、意味ありげな言葉を吐くやつだな」
「性分なもので」
それきり偉度は黙り込み、趙雲も言葉を発しなかった。
※
時間を、ふたたび広漢の終風村に合わせる。
孔明は、変わらず欄干の外をながめていた。
試しに、天蓋を引っ張って、紐を作ってみたけれども、やはり地上に届くには短すぎるものとなった。
とはいえ、無理に下に届くように作るのは、あの舞の達者な青年が言うとおり、材質的に無理がある。
孔明の体重に耐えられるような布ではない。
太陽は、徐々に西の空に傾き始めていた。
徐庶とともに、曹操と袁紹が対戦をした官渡へ、足を運んだことがある。
もちろん、物見遊山などではない。少年のころに染み付いた、『曹操は残虐きわまりない男』という印象が、果たして正しいのか、成長した目で確かめたかったのだ。
孔明にとって、曹操は、乱世を支える英雄のひとりではなく、乱世の大地に生じた、現在もなおつづいている『現象』であった。
明確な意おもを持つ、巨大な台風。
そんな印象がある。
司馬徳操の門人たちは、みな曹操を語りたがったが、孔明は、かれらの意見を聞いても、沈黙しているだけであった。
語る言葉が見つからなかったのである。
故郷を破壊した男だから、許せないから、批判するというのも感情的でぶざまにおもえたし、かといって、知った顔をして、意見を言う気にはなれなかった。
袁紹と覇権を争い、いよいよぶつかった、という話を聞いたとき、孔明もまた、世人と同じように、袁紹は曹操に滅ぼされるであろうとおもった。
いや、そう願っていた、というべきかもしれない。
しかし矢継ぎ早に伝えられる北からの情報は、おもいもかけない話ばかりであった。
最終的に曹操が勝ったと聞いたとき、孔明は、自分の予想が外れたことをひどく恥じた。
だれに吹聴していたわけでもないが、どこかで自分の分析力を、過剰に評価していたのだろう。
世間は、曹操の劇的な勝利に、みな一様におどろき、ある者などは、曹操こそ天下の大器、覇王の風ありと絶賛し、ある者は、これで漢王朝は、賊の手に落ちて、滅びるであろうと、世の無常をなげいた。
孔明の場合は、まるで自分が曹操に負けたかのような敗北感を感じていた。
居ても立ってもいられなくなり、渋る徐庶を説得して、戦の終わったあとの官渡へ行った。
官渡で孔明が見たものは、意外なものであった。
やはり、日が照っていた。
ほうぼうに、すでに腐り始めている兵士たちの死体があり、それを黙々と片づけている、近隣の農民たちの姿がある。
その周囲を、カラスがぎゃあぎゃあと騒がしく死肉をあさろうと狙っており、それを払うためと、なかば遊びの為に、子供たちが石を投げる。
奇妙な光景であった。
戦の直後の光景ならば、もっと酸鼻のきわまるものであっただろうが、孔明が足を伸ばしたときは、曹操は軍を引き下げたあとであった。
しかし、その、すでに日常を取りもどしつつある人々の姿を見たときに、唐突に、これが世の中なのだ、とおもった。
曹操が、あれほど残虐な行為をはたらいて、世間の評判を著しく落としたというのに、それでもなお、着々と覇権をひろげているのは、なぜか。
やはり、曹操は『正しい』からではないのか…いや、これも表現があたらない。
つまり、時代に適っているのではないか。
襄陽から、官渡に至る道のりは、決して平坦ではなかったけれど、曹操の軍が目を光らせている土地は、おどろくほど快適で、危険が少なかったのも事実だ。
徐州の大虐殺は、悪である。
それを指導したのは曹操である。
その事実は忘れてよいことではない。
だが、もっと大きな目で見れば、『曹操という人物を中心とした勢力』が成し遂げようとしているものは、天下にとって、よいことなのではないか。
自分は、感情にとらわれすぎて、曹操を中心とした勢力の本質を、なにも見ていなかったのではないか。
そうして孔明は、それまでの姿勢をあらためて、だれよりも熱心に魏の動きを見るようになった。
曹操の家臣たち、かれらを曹操がどう使い、かれらが曹操をどう扱っているか、かれらのかんがえ、かれらの行動、そして聞こえてくる、醜聞めいた政争劇等々…
曹操は、帝を廃して、自分を帝位につけようとしている、漢賊だ、という風評が主流になりつつあったが、孔明はそれには与しなかった。
そんなに単純な野望を抱いている男ではない。
曹操は、世の中を自分の好みに変えるために、躍起になっているのではない。
曹操は、漢という国に染み付いた穢れをすべて祓い、まったく新しい国を作ろうとしているのだ。
自分の優秀さを誇るためではない。
薄っぺらな野望で曹操は動いていない。
後世のことをも視野にいれ、この男は動いている。
乱世を、自分の代で終わらせて、民を安寧にみちびくこと。
あくまで漢への回帰をねらう孔明と曹操とでは、理想とする行く末に違いがある。
が、そこに至るまでの動機や、おも考は、実によく似通っていた。
それに気づいたとき、孔明は結論した。
北は、曹操がいるから、もうよい。
天下には、人が足りない。
人が足りないのに、土地が広すぎる。
この全土に飛び火した戦火を消し止めるには、ひとつの勢力にすべてを任せるには無理がある。
自身があまりに優秀すぎるので、曹操は、すべてを自分で行う傾向がある。
そのために曹操ひとりに権力が集中し、領土が拡大すればするほど、その動きが鈍くなっている。
おそらく、曹操一代で、天下を統一させることはできないであろう。
ならば、曹操の手の届かない土地は、自分が治めようではないか。
このひそやかな野望を語ったことはない。
野望、あるいは大望、というべきであろうか。
この大望の果てに生まれたのが、天下三分の計である。
この策の下地になった、孔明の想いに気づく者はいない。
孔明が慎重に隠してきたからだ。
知られぬまま、ここで死ぬというのは、あるいは幸せなことかもしれない。
劉備の忠臣…言い換えるならば、漢王室への忠を最後まで貫いた者として死ねるのだから。
太陽が沈むのと共に、死がやってくる。
おのれの死を完全に否定して物事をかんがえているためか、それとも、この期に及んで現実逃避か、孔明は、いままでになく死が迫っているこの状況において、ずいぶん冷静に対処できている自分の心をもてあましていた。
まるで自分が二つに裂かれてしまったようである。
やはり、血というのは強いのだろうか。
劉氏の血?
ふざけているではないか。
あんな、右も左もわからぬ子供を操って、傀儡政治を行うから、邪魔者は死ね、という。
劉氏の血さえ引いていれば、どれだけ無能であろうと帝位を取れるこの理不尽さ!
なにを言っているのだろう、いよいよ錯乱か?
劉氏のだれが帝位にあろうと関係がない。
かれらは象徴であればよい。万民が仰ぎ見て、安堵できる大きな存在であればよいのだ。
皇帝は、民にとっての太陽のようなもの。
自分はその手足であればよい。
だが、手足がもがれようと、人は生き残ることができる。
孔明は、大きく息を付き、自分を叱るようにして、どん、と欄干を叩いた。
こんな袋小路のようなおも考にはまって、落ち込んでいる場合ではない。
逃げるのだ。
どんな形であろうと逃げるのだ。
孔明は、さきほど作った紐を見た。
そして、首括り用の絹の糸束を見る。
いちかばちかだ。
どうせ死ぬなら、あきれるほど不様に、生への執着をみせて、死んでやろうではないか。
自分が、いまここに生きているのは、徐州で死んだ民の代表として、虐げられてもなお、前へ歩こうとする、民の代表としての自負があるからだ。
新帝とやらに、民の誇りというものを見せてやろうではないか。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載日2005/05/11)
嵐のようにつよい感情に呑まれつつも、趙雲は、それでも劉封に自分がとどめをさすことは出来なかった。
劉禅もそうだが、劉封も、少年の時からよく知っている。
この青年がこれほどに曲がってしまったのは、かれ自身の資質に問題があるだけではない。
この青年は、とことん運が悪いのだ。
哀れだとおもったとたんに、殺意も、かろうじて抑えられるまでに減った。
趙雲が劉備に報告することをおそれ、劉封は、どこぞへ逐電するかもしれない。
それでもいい。
むしろ、そのほうがよい、とさえ趙雲はおもった。
やはり知っている者の死は、つらい。
そうして、趙雲が、村長の屋敷から出ようと踵を返すと、劉封の言葉が追いかけてきた。
「趙子龍、俺は、かれらの言葉が間違っているとはおもわない!」
「なんだと?」
「たった一人の犠牲でよいのだと、かれらは言っているのだ。たった一人だぞ! それで、もう戦乱の世を終わらせることができるのだ!」
趙雲は振り返ると、血まみれの口を押さえつつ、激情に駆られている青年を一喝した。
「たわけめ、甘言に乗せられたか! たった一人ですべてが済むものか。やつらは軍師を除いたあと、蜀を併呑するつもりであろうが、主公はたやすく魏の前に頭を下げるお方ではない!」
「いいや、父上とて、劉括を見たら、心を変える。劉括は、まちがいなく養父の御子。顔を見ればわかる。実の子を、漢王朝の帝位につけることができるのだぞ。父上の志は果たされるではないか! おまえは、他人である軍師のために、養父が、おのれが子を旗頭にしている魏と戦うとおもうか?」
「愚かな…」
「なぜ、この策が駄目だと決め付けるのだ? 父上の御子さえ、帝位を襲ってしまえばよいのだ。曹操はもう年だ。曹操は、老齢にさしかかったにもかかわらず、いまだに後継を指定しかねている。おそらく、なんらかの形で、曹一族は紛糾するにちがいない。その機を狙って、俺たちは魏に屈したように見せかけ、曹一族に反旗を翻すのだ!」
「紛糾しなかったら?」
「させればいいじゃないか」
劉封は、心当たりでもあるのか、にやりと訳知り顔の笑みを浮かべて見せる。
趙雲は、知らないあいだに策謀の味をおぼえていた青年を、薄気味わるく見下ろした。
もともと、あまり仲がよくなかった、というのもあり、その身辺がどうなっているのか、関心をよせてこなかった。
が、知らぬあいだに、この青年の周囲には、どうやら悪知恵ばかりが働く連中が、集まってしまっているようだ。
朱に交われば赤くなる。
劉備は悪を断固として拒否できる、つよい意志と判断力に恵まれているが、この青年は、養父から、その姿勢を学べなかったらしい。
もしかして、こいつは、俺の想像以上に、魏とつながりがあるのではないか…?
疑念にかられる趙雲をよそに、劉封は得意になって長舌をつづける。
「魏には、自分たちが有利になる策だと、油断させておけばいい。 最終的な勝利は我らが掴む。いまよりずっと、天下が近くなるぞ! なにせ父上の御子が帝になるのだからな!
魏は、孔明が死にさえすれば、我らを許す、と言っているのだ。軍師の死は、無駄にはならぬ。俺たちの格好の隠れ蓑となってくれるのだからな。我らはひたすら待っていればよいのだ。そして機を狙って策を成功させれば、劉氏は甦ることができる。天下のため、いや、おまえの仕える劉氏の繁栄のため、ここは見逃せ。成都に帰るのだ!」
趙雲は、ふたたび暴れたがる拳を、叱りつけるようにぎゅっと握り、きつく劉封をにらみつけた。
「だれに唆されたのかはしらぬが、おまえは甘い。おまえのような浅慮者のおも惑なぞ、あの大国は、木の葉を車輪で踏み潰すかのように、たやすく砕いてしまうであろう。それに、俺は、たとえ蜀の全員が降伏しようと、降伏などせぬ。一人でも戦う」
「愚かな…劉氏の繁栄をかんがえろ。そうしたら、おまえは反対なぞ出来なくなるぞ。ほんとうに劉氏のことをかんがえているのは、この俺だ。血がすべてではなかろう。悪いことは言わぬ。俺に付け! 劉氏あってこその漢王朝、そして民だ。負け犬にならぬうちに、俺と組むのだ」
「その劉氏とて、股肱の臣がいなければ、なにもできぬ身ではないか」
「ふん、いよいよ本音を出したな、この忠義面をした叛徒めが!」
「なんだと?」
趙雲が顔色を変えたことで、劉封は得意になり、血まみれの顔を悪鬼のように歪ませて、笑った。
「おまえは、忠義の士などではない、趙子龍。俺の話を聞けないことが、その証拠だ! おまえの怒りは、俺が軍師を魏に売ったから、そこまではげしくなっているのだ。おまえは、ほんとうは、父上よりも孔明のほうがずっと大事なのだ。
父に忠誠を尽くしているフリをして、おまえはとっくの昔に父上の家臣を辞めて、孔明の子分に成り下がっているのだ! そのおまえが、俺の話などまともに聞けようはずがない!」
「………」
趙雲は、言葉を発しようとした。
しかし、なにも言うことが出来ないおのれに、まず愕然とした。
その様子を見て、ますます劉封は陰湿な笑みを浮かべる。
「地の果てでも、どこへでも、好きなところへ追いかけていくがいい! おまえが終風村につく頃には、首だけになった軍師が、おまえを出迎えてくれるだろうさ!」
趙雲は、動揺を押し隠しつつ、劉封の甲高い嘲笑を背に、村長の屋敷を出た。
※
畑を突っ切るようにしてつづく村の道をたどり、最初に馬をつないだ陳家へともどる。
畑のあちこちで、虫の声がしている。
寂しげな雉の声が、けん、けん、と夜闇に響いていた。
「顎を砕いたかと」
と、偉度が後ろから追いかけながら、言う。
「俺の一存で処罰はできぬ」
答えつつ、趙雲は、口を利きたくない気分であったので、ますます足を速めた。
おもいもかけない反撃を受けた、とおもっていた。
忠義の士ではない、と言い切られたとき、とっさに言い返すことのできなかった自分が理解できなかった。
劉封の、魏の策の裏を掻こうとする劉封のかんがえには、一理ある。
うまくいけば、天下はふたたび劉氏のものになるだろう。
孔明さえ犠牲になれば…
「駄目だ」
おもわず口に出して、追いついてきた偉度に顔をのぞかれる。
しかし構わず、趙雲は歩いた。
そんな天下に意味はない。
諸葛孔明という人間一人に責任を負わせ、まるで祭壇にささげた生贄のようにして、屠るなど、させてはならぬ。
だが、奥のほうから、劉封の声、そして御者の声がささやいてくる。
たった一人の犠牲で天下が安んじる。
天下のため、劉氏の繁栄のため。
諸葛孔明さえ死ねば。
乱世が、終わるというのか。
ありえない。
………いや、なにがありえない、というのだ?
乱世が終わる、ということか?
劉封が狙う曹一族の滅亡か?
劉備の子が帝位を襲う、ということか?
どんどん心の中を問い詰めていくと、おもいもかけない恐ろしいものが引き出されてしまいそうで、趙雲はぞくりと身を震わせた。
しかし、胸にある物は、まちがいなく、自分の本心であった。
いまは見ないほうがいい。
なすべきことをするのだ。
「まったく、認めておしまいになればよいものを」
「なにをだ?」
苛立ちもあらわに趙雲が尋ねると、偉度が、闇のうしろで、鼻で笑ったのがわかった。
「気づいてらっしゃらないのであれば結構。ならば、一生、気づかないでいなさい」
「いちいち、意味ありげな言葉を吐くやつだな」
「性分なもので」
それきり偉度は黙り込み、趙雲も言葉を発しなかった。
※
時間を、ふたたび広漢の終風村に合わせる。
孔明は、変わらず欄干の外をながめていた。
試しに、天蓋を引っ張って、紐を作ってみたけれども、やはり地上に届くには短すぎるものとなった。
とはいえ、無理に下に届くように作るのは、あの舞の達者な青年が言うとおり、材質的に無理がある。
孔明の体重に耐えられるような布ではない。
太陽は、徐々に西の空に傾き始めていた。
徐庶とともに、曹操と袁紹が対戦をした官渡へ、足を運んだことがある。
もちろん、物見遊山などではない。少年のころに染み付いた、『曹操は残虐きわまりない男』という印象が、果たして正しいのか、成長した目で確かめたかったのだ。
孔明にとって、曹操は、乱世を支える英雄のひとりではなく、乱世の大地に生じた、現在もなおつづいている『現象』であった。
明確な意おもを持つ、巨大な台風。
そんな印象がある。
司馬徳操の門人たちは、みな曹操を語りたがったが、孔明は、かれらの意見を聞いても、沈黙しているだけであった。
語る言葉が見つからなかったのである。
故郷を破壊した男だから、許せないから、批判するというのも感情的でぶざまにおもえたし、かといって、知った顔をして、意見を言う気にはなれなかった。
袁紹と覇権を争い、いよいよぶつかった、という話を聞いたとき、孔明もまた、世人と同じように、袁紹は曹操に滅ぼされるであろうとおもった。
いや、そう願っていた、というべきかもしれない。
しかし矢継ぎ早に伝えられる北からの情報は、おもいもかけない話ばかりであった。
最終的に曹操が勝ったと聞いたとき、孔明は、自分の予想が外れたことをひどく恥じた。
だれに吹聴していたわけでもないが、どこかで自分の分析力を、過剰に評価していたのだろう。
世間は、曹操の劇的な勝利に、みな一様におどろき、ある者などは、曹操こそ天下の大器、覇王の風ありと絶賛し、ある者は、これで漢王朝は、賊の手に落ちて、滅びるであろうと、世の無常をなげいた。
孔明の場合は、まるで自分が曹操に負けたかのような敗北感を感じていた。
居ても立ってもいられなくなり、渋る徐庶を説得して、戦の終わったあとの官渡へ行った。
官渡で孔明が見たものは、意外なものであった。
やはり、日が照っていた。
ほうぼうに、すでに腐り始めている兵士たちの死体があり、それを黙々と片づけている、近隣の農民たちの姿がある。
その周囲を、カラスがぎゃあぎゃあと騒がしく死肉をあさろうと狙っており、それを払うためと、なかば遊びの為に、子供たちが石を投げる。
奇妙な光景であった。
戦の直後の光景ならば、もっと酸鼻のきわまるものであっただろうが、孔明が足を伸ばしたときは、曹操は軍を引き下げたあとであった。
しかし、その、すでに日常を取りもどしつつある人々の姿を見たときに、唐突に、これが世の中なのだ、とおもった。
曹操が、あれほど残虐な行為をはたらいて、世間の評判を著しく落としたというのに、それでもなお、着々と覇権をひろげているのは、なぜか。
やはり、曹操は『正しい』からではないのか…いや、これも表現があたらない。
つまり、時代に適っているのではないか。
襄陽から、官渡に至る道のりは、決して平坦ではなかったけれど、曹操の軍が目を光らせている土地は、おどろくほど快適で、危険が少なかったのも事実だ。
徐州の大虐殺は、悪である。
それを指導したのは曹操である。
その事実は忘れてよいことではない。
だが、もっと大きな目で見れば、『曹操という人物を中心とした勢力』が成し遂げようとしているものは、天下にとって、よいことなのではないか。
自分は、感情にとらわれすぎて、曹操を中心とした勢力の本質を、なにも見ていなかったのではないか。
そうして孔明は、それまでの姿勢をあらためて、だれよりも熱心に魏の動きを見るようになった。
曹操の家臣たち、かれらを曹操がどう使い、かれらが曹操をどう扱っているか、かれらのかんがえ、かれらの行動、そして聞こえてくる、醜聞めいた政争劇等々…
曹操は、帝を廃して、自分を帝位につけようとしている、漢賊だ、という風評が主流になりつつあったが、孔明はそれには与しなかった。
そんなに単純な野望を抱いている男ではない。
曹操は、世の中を自分の好みに変えるために、躍起になっているのではない。
曹操は、漢という国に染み付いた穢れをすべて祓い、まったく新しい国を作ろうとしているのだ。
自分の優秀さを誇るためではない。
薄っぺらな野望で曹操は動いていない。
後世のことをも視野にいれ、この男は動いている。
乱世を、自分の代で終わらせて、民を安寧にみちびくこと。
あくまで漢への回帰をねらう孔明と曹操とでは、理想とする行く末に違いがある。
が、そこに至るまでの動機や、おも考は、実によく似通っていた。
それに気づいたとき、孔明は結論した。
北は、曹操がいるから、もうよい。
天下には、人が足りない。
人が足りないのに、土地が広すぎる。
この全土に飛び火した戦火を消し止めるには、ひとつの勢力にすべてを任せるには無理がある。
自身があまりに優秀すぎるので、曹操は、すべてを自分で行う傾向がある。
そのために曹操ひとりに権力が集中し、領土が拡大すればするほど、その動きが鈍くなっている。
おそらく、曹操一代で、天下を統一させることはできないであろう。
ならば、曹操の手の届かない土地は、自分が治めようではないか。
このひそやかな野望を語ったことはない。
野望、あるいは大望、というべきであろうか。
この大望の果てに生まれたのが、天下三分の計である。
この策の下地になった、孔明の想いに気づく者はいない。
孔明が慎重に隠してきたからだ。
知られぬまま、ここで死ぬというのは、あるいは幸せなことかもしれない。
劉備の忠臣…言い換えるならば、漢王室への忠を最後まで貫いた者として死ねるのだから。
太陽が沈むのと共に、死がやってくる。
おのれの死を完全に否定して物事をかんがえているためか、それとも、この期に及んで現実逃避か、孔明は、いままでになく死が迫っているこの状況において、ずいぶん冷静に対処できている自分の心をもてあましていた。
まるで自分が二つに裂かれてしまったようである。
やはり、血というのは強いのだろうか。
劉氏の血?
ふざけているではないか。
あんな、右も左もわからぬ子供を操って、傀儡政治を行うから、邪魔者は死ね、という。
劉氏の血さえ引いていれば、どれだけ無能であろうと帝位を取れるこの理不尽さ!
なにを言っているのだろう、いよいよ錯乱か?
劉氏のだれが帝位にあろうと関係がない。
かれらは象徴であればよい。万民が仰ぎ見て、安堵できる大きな存在であればよいのだ。
皇帝は、民にとっての太陽のようなもの。
自分はその手足であればよい。
だが、手足がもがれようと、人は生き残ることができる。
孔明は、大きく息を付き、自分を叱るようにして、どん、と欄干を叩いた。
こんな袋小路のようなおも考にはまって、落ち込んでいる場合ではない。
逃げるのだ。
どんな形であろうと逃げるのだ。
孔明は、さきほど作った紐を見た。
そして、首括り用の絹の糸束を見る。
いちかばちかだ。
どうせ死ぬなら、あきれるほど不様に、生への執着をみせて、死んでやろうではないか。
自分が、いまここに生きているのは、徐州で死んだ民の代表として、虐げられてもなお、前へ歩こうとする、民の代表としての自負があるからだ。
新帝とやらに、民の誇りというものを見せてやろうではないか。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載日2005/05/11)