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はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 14

2021年03月14日 10時25分40秒 | 風の終わる場所


嵐のようにつよい感情に呑まれつつも、趙雲は、それでも劉封に自分がとどめをさすことは出来なかった。
劉禅もそうだが、劉封も、少年の時からよく知っている。
この青年がこれほどに曲がってしまったのは、かれ自身の資質に問題があるだけではない。
この青年は、とことん運が悪いのだ。
哀れだとおもったとたんに、殺意も、かろうじて抑えられるまでに減った。
趙雲が劉備に報告することをおそれ、劉封は、どこぞへ逐電するかもしれない。
それでもいい。
むしろ、そのほうがよい、とさえ趙雲はおもった。
やはり知っている者の死は、つらい。

そうして、趙雲が、村長の屋敷から出ようと踵を返すと、劉封の言葉が追いかけてきた。
「趙子龍、俺は、かれらの言葉が間違っているとはおもわない!」
「なんだと?」
「たった一人の犠牲でよいのだと、かれらは言っているのだ。たった一人だぞ! それで、もう戦乱の世を終わらせることができるのだ!」
趙雲は振り返ると、血まみれの口を押さえつつ、激情に駆られている青年を一喝した。
「たわけめ、甘言に乗せられたか! たった一人ですべてが済むものか。やつらは軍師を除いたあと、蜀を併呑するつもりであろうが、主公はたやすく魏の前に頭を下げるお方ではない!」
「いいや、父上とて、劉括を見たら、心を変える。劉括は、まちがいなく養父の御子。顔を見ればわかる。実の子を、漢王朝の帝位につけることができるのだぞ。父上の志は果たされるではないか! おまえは、他人である軍師のために、養父が、おのれが子を旗頭にしている魏と戦うとおもうか?」
「愚かな…」
「なぜ、この策が駄目だと決め付けるのだ? 父上の御子さえ、帝位を襲ってしまえばよいのだ。曹操はもう年だ。曹操は、老齢にさしかかったにもかかわらず、いまだに後継を指定しかねている。おそらく、なんらかの形で、曹一族は紛糾するにちがいない。その機を狙って、俺たちは魏に屈したように見せかけ、曹一族に反旗を翻すのだ!」
「紛糾しなかったら?」
「させればいいじゃないか」
劉封は、心当たりでもあるのか、にやりと訳知り顔の笑みを浮かべて見せる。
趙雲は、知らないあいだに策謀の味をおぼえていた青年を、薄気味わるく見下ろした。
もともと、あまり仲がよくなかった、というのもあり、その身辺がどうなっているのか、関心をよせてこなかった。
が、知らぬあいだに、この青年の周囲には、どうやら悪知恵ばかりが働く連中が、集まってしまっているようだ。 
朱に交われば赤くなる。
劉備は悪を断固として拒否できる、つよい意志と判断力に恵まれているが、この青年は、養父から、その姿勢を学べなかったらしい。
もしかして、こいつは、俺の想像以上に、魏とつながりがあるのではないか…?

疑念にかられる趙雲をよそに、劉封は得意になって長舌をつづける。
「魏には、自分たちが有利になる策だと、油断させておけばいい。 最終的な勝利は我らが掴む。いまよりずっと、天下が近くなるぞ! なにせ父上の御子が帝になるのだからな! 
魏は、孔明が死にさえすれば、我らを許す、と言っているのだ。軍師の死は、無駄にはならぬ。俺たちの格好の隠れ蓑となってくれるのだからな。我らはひたすら待っていればよいのだ。そして機を狙って策を成功させれば、劉氏は甦ることができる。天下のため、いや、おまえの仕える劉氏の繁栄のため、ここは見逃せ。成都に帰るのだ!」
趙雲は、ふたたび暴れたがる拳を、叱りつけるようにぎゅっと握り、きつく劉封をにらみつけた。
「だれに唆されたのかはしらぬが、おまえは甘い。おまえのような浅慮者のおも惑なぞ、あの大国は、木の葉を車輪で踏み潰すかのように、たやすく砕いてしまうであろう。それに、俺は、たとえ蜀の全員が降伏しようと、降伏などせぬ。一人でも戦う」
「愚かな…劉氏の繁栄をかんがえろ。そうしたら、おまえは反対なぞ出来なくなるぞ。ほんとうに劉氏のことをかんがえているのは、この俺だ。血がすべてではなかろう。悪いことは言わぬ。俺に付け! 劉氏あってこその漢王朝、そして民だ。負け犬にならぬうちに、俺と組むのだ」
「その劉氏とて、股肱の臣がいなければ、なにもできぬ身ではないか」
「ふん、いよいよ本音を出したな、この忠義面をした叛徒めが!」
「なんだと?」
趙雲が顔色を変えたことで、劉封は得意になり、血まみれの顔を悪鬼のように歪ませて、笑った。
「おまえは、忠義の士などではない、趙子龍。俺の話を聞けないことが、その証拠だ! おまえの怒りは、俺が軍師を魏に売ったから、そこまではげしくなっているのだ。おまえは、ほんとうは、父上よりも孔明のほうがずっと大事なのだ。
父に忠誠を尽くしているフリをして、おまえはとっくの昔に父上の家臣を辞めて、孔明の子分に成り下がっているのだ! そのおまえが、俺の話などまともに聞けようはずがない!」
「………」
趙雲は、言葉を発しようとした。
しかし、なにも言うことが出来ないおのれに、まず愕然とした。
その様子を見て、ますます劉封は陰湿な笑みを浮かべる。
「地の果てでも、どこへでも、好きなところへ追いかけていくがいい! おまえが終風村につく頃には、首だけになった軍師が、おまえを出迎えてくれるだろうさ!」
趙雲は、動揺を押し隠しつつ、劉封の甲高い嘲笑を背に、村長の屋敷を出た。





畑を突っ切るようにしてつづく村の道をたどり、最初に馬をつないだ陳家へともどる。
畑のあちこちで、虫の声がしている。
寂しげな雉の声が、けん、けん、と夜闇に響いていた。
「顎を砕いたかと」
と、偉度が後ろから追いかけながら、言う。
「俺の一存で処罰はできぬ」
答えつつ、趙雲は、口を利きたくない気分であったので、ますます足を速めた。
おもいもかけない反撃を受けた、とおもっていた。
忠義の士ではない、と言い切られたとき、とっさに言い返すことのできなかった自分が理解できなかった。
劉封の、魏の策の裏を掻こうとする劉封のかんがえには、一理ある。
うまくいけば、天下はふたたび劉氏のものになるだろう。
孔明さえ犠牲になれば…
「駄目だ」
おもわず口に出して、追いついてきた偉度に顔をのぞかれる。
しかし構わず、趙雲は歩いた。
そんな天下に意味はない。
諸葛孔明という人間一人に責任を負わせ、まるで祭壇にささげた生贄のようにして、屠るなど、させてはならぬ。
だが、奥のほうから、劉封の声、そして御者の声がささやいてくる。
たった一人の犠牲で天下が安んじる。
天下のため、劉氏の繁栄のため。
諸葛孔明さえ死ねば。
乱世が、終わるというのか。
ありえない。
………いや、なにがありえない、というのだ? 
乱世が終わる、ということか? 
劉封が狙う曹一族の滅亡か? 
劉備の子が帝位を襲う、ということか?
どんどん心の中を問い詰めていくと、おもいもかけない恐ろしいものが引き出されてしまいそうで、趙雲はぞくりと身を震わせた。
しかし、胸にある物は、まちがいなく、自分の本心であった。
いまは見ないほうがいい。
なすべきことをするのだ。

「まったく、認めておしまいになればよいものを」
「なにをだ?」
苛立ちもあらわに趙雲が尋ねると、偉度が、闇のうしろで、鼻で笑ったのがわかった。
「気づいてらっしゃらないのであれば結構。ならば、一生、気づかないでいなさい」
「いちいち、意味ありげな言葉を吐くやつだな」
「性分なもので」
それきり偉度は黙り込み、趙雲も言葉を発しなかった。





時間を、ふたたび広漢の終風村に合わせる。

孔明は、変わらず欄干の外をながめていた。
試しに、天蓋を引っ張って、紐を作ってみたけれども、やはり地上に届くには短すぎるものとなった。
とはいえ、無理に下に届くように作るのは、あの舞の達者な青年が言うとおり、材質的に無理がある。
孔明の体重に耐えられるような布ではない。

太陽は、徐々に西の空に傾き始めていた。

徐庶とともに、曹操と袁紹が対戦をした官渡へ、足を運んだことがある。
もちろん、物見遊山などではない。少年のころに染み付いた、『曹操は残虐きわまりない男』という印象が、果たして正しいのか、成長した目で確かめたかったのだ。
孔明にとって、曹操は、乱世を支える英雄のひとりではなく、乱世の大地に生じた、現在もなおつづいている『現象』であった。
明確な意おもを持つ、巨大な台風。
そんな印象がある。
司馬徳操の門人たちは、みな曹操を語りたがったが、孔明は、かれらの意見を聞いても、沈黙しているだけであった。
語る言葉が見つからなかったのである。
故郷を破壊した男だから、許せないから、批判するというのも感情的でぶざまにおもえたし、かといって、知った顔をして、意見を言う気にはなれなかった。
袁紹と覇権を争い、いよいよぶつかった、という話を聞いたとき、孔明もまた、世人と同じように、袁紹は曹操に滅ぼされるであろうとおもった。
いや、そう願っていた、というべきかもしれない。
しかし矢継ぎ早に伝えられる北からの情報は、おもいもかけない話ばかりであった。
最終的に曹操が勝ったと聞いたとき、孔明は、自分の予想が外れたことをひどく恥じた。
だれに吹聴していたわけでもないが、どこかで自分の分析力を、過剰に評価していたのだろう。
世間は、曹操の劇的な勝利に、みな一様におどろき、ある者などは、曹操こそ天下の大器、覇王の風ありと絶賛し、ある者は、これで漢王朝は、賊の手に落ちて、滅びるであろうと、世の無常をなげいた。

孔明の場合は、まるで自分が曹操に負けたかのような敗北感を感じていた。
居ても立ってもいられなくなり、渋る徐庶を説得して、戦の終わったあとの官渡へ行った。
官渡で孔明が見たものは、意外なものであった。

やはり、日が照っていた。
ほうぼうに、すでに腐り始めている兵士たちの死体があり、それを黙々と片づけている、近隣の農民たちの姿がある。
その周囲を、カラスがぎゃあぎゃあと騒がしく死肉をあさろうと狙っており、それを払うためと、なかば遊びの為に、子供たちが石を投げる。
奇妙な光景であった。
戦の直後の光景ならば、もっと酸鼻のきわまるものであっただろうが、孔明が足を伸ばしたときは、曹操は軍を引き下げたあとであった。
しかし、その、すでに日常を取りもどしつつある人々の姿を見たときに、唐突に、これが世の中なのだ、とおもった。
曹操が、あれほど残虐な行為をはたらいて、世間の評判を著しく落としたというのに、それでもなお、着々と覇権をひろげているのは、なぜか。
やはり、曹操は『正しい』からではないのか…いや、これも表現があたらない。
つまり、時代に適っているのではないか。
襄陽から、官渡に至る道のりは、決して平坦ではなかったけれど、曹操の軍が目を光らせている土地は、おどろくほど快適で、危険が少なかったのも事実だ。
徐州の大虐殺は、悪である。
それを指導したのは曹操である。
その事実は忘れてよいことではない。
だが、もっと大きな目で見れば、『曹操という人物を中心とした勢力』が成し遂げようとしているものは、天下にとって、よいことなのではないか。
自分は、感情にとらわれすぎて、曹操を中心とした勢力の本質を、なにも見ていなかったのではないか。

そうして孔明は、それまでの姿勢をあらためて、だれよりも熱心に魏の動きを見るようになった。
曹操の家臣たち、かれらを曹操がどう使い、かれらが曹操をどう扱っているか、かれらのかんがえ、かれらの行動、そして聞こえてくる、醜聞めいた政争劇等々…
曹操は、帝を廃して、自分を帝位につけようとしている、漢賊だ、という風評が主流になりつつあったが、孔明はそれには与しなかった。
そんなに単純な野望を抱いている男ではない。
曹操は、世の中を自分の好みに変えるために、躍起になっているのではない。
曹操は、漢という国に染み付いた穢れをすべて祓い、まったく新しい国を作ろうとしているのだ。
自分の優秀さを誇るためではない。
薄っぺらな野望で曹操は動いていない。
後世のことをも視野にいれ、この男は動いている。
乱世を、自分の代で終わらせて、民を安寧にみちびくこと。

あくまで漢への回帰をねらう孔明と曹操とでは、理想とする行く末に違いがある。
が、そこに至るまでの動機や、おも考は、実によく似通っていた。
それに気づいたとき、孔明は結論した。
北は、曹操がいるから、もうよい。
天下には、人が足りない。
人が足りないのに、土地が広すぎる。
この全土に飛び火した戦火を消し止めるには、ひとつの勢力にすべてを任せるには無理がある。
自身があまりに優秀すぎるので、曹操は、すべてを自分で行う傾向がある。
そのために曹操ひとりに権力が集中し、領土が拡大すればするほど、その動きが鈍くなっている。
おそらく、曹操一代で、天下を統一させることはできないであろう。
ならば、曹操の手の届かない土地は、自分が治めようではないか。

このひそやかな野望を語ったことはない。
野望、あるいは大望、というべきであろうか。
この大望の果てに生まれたのが、天下三分の計である。
この策の下地になった、孔明の想いに気づく者はいない。
孔明が慎重に隠してきたからだ。
知られぬまま、ここで死ぬというのは、あるいは幸せなことかもしれない。
劉備の忠臣…言い換えるならば、漢王室への忠を最後まで貫いた者として死ねるのだから。

太陽が沈むのと共に、死がやってくる。
おのれの死を完全に否定して物事をかんがえているためか、それとも、この期に及んで現実逃避か、孔明は、いままでになく死が迫っているこの状況において、ずいぶん冷静に対処できている自分の心をもてあましていた。
まるで自分が二つに裂かれてしまったようである。
やはり、血というのは強いのだろうか。
劉氏の血? 
ふざけているではないか。
あんな、右も左もわからぬ子供を操って、傀儡政治を行うから、邪魔者は死ね、という。
劉氏の血さえ引いていれば、どれだけ無能であろうと帝位を取れるこの理不尽さ!

なにを言っているのだろう、いよいよ錯乱か? 
劉氏のだれが帝位にあろうと関係がない。
かれらは象徴であればよい。万民が仰ぎ見て、安堵できる大きな存在であればよいのだ。
皇帝は、民にとっての太陽のようなもの。
自分はその手足であればよい。

だが、手足がもがれようと、人は生き残ることができる。

孔明は、大きく息を付き、自分を叱るようにして、どん、と欄干を叩いた。
こんな袋小路のようなおも考にはまって、落ち込んでいる場合ではない。
逃げるのだ。
どんな形であろうと逃げるのだ。

孔明は、さきほど作った紐を見た。
そして、首括り用の絹の糸束を見る。
いちかばちかだ。
どうせ死ぬなら、あきれるほど不様に、生への執着をみせて、死んでやろうではないか。
自分が、いまここに生きているのは、徐州で死んだ民の代表として、虐げられてもなお、前へ歩こうとする、民の代表としての自負があるからだ。
新帝とやらに、民の誇りというものを見せてやろうではないか。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載日2005/05/11)

風の終わる場所 13

2021年03月07日 07時54分18秒 | 風の終わる場所
さて、ふたたび時間をさかのぼる。

広漢までの道程で、日をまたぎ、昼夜をとわず、趙雲は馬を走らせた。
しかし、さすがの愛馬もばててきた。
少し休ませねばならない。
焦る気持ちをおさえつつ、道のそばの人家を探した。
食糧は持ってきていたから、水を分けて欲しかったのである。
人家の明かりが見えたので、近くへ行ってみると、ちょうどよい具合に、豪農の屋敷であるようだ。
扉を叩くと、すぐに家人が出てきた。
厨で夕飯の支度をしているのか、よい香りがただよってくる。
家人は趙雲を見るなり、相好を崩して、中へと招き入れる。
夕飯の支度をするには、遅すぎる時間だな、とおもいつつ、趙雲は招かれるまま、門をくぐった。
立派な構えの屋敷の中では、忙しそうな家人が、右往左往しているのが目につく。
客であろうか、と趙雲が尋ねようとしたところ、家人が主人を連れてきた。

篤実そうな丸顔に、立派などじょう髯を生やした主人は、婚礼のときにしか着ないであろう、あまり似合っていない派手な礼装でもって、丁寧に趙雲に礼を取る。
慶事でもあったのだろうか。
家人たちはみな、こちらに温かい笑みを浮かべてきて、この歓迎ぶりがかえって恐ろしいほどだ。
「いま、お達しの通り、わが家でも豚を屠っております」
と、前置きもなしに主は言った。
どうやら、趙雲と偉度を、だれかと勘ちがいしているようだ。
「すぐに焼き立てをお持ちいたしますゆえ、公子には、もう少々お待ちくださいとお伝えくださいませ。あと、この豚を献上したのは、陳でございます、陳、陳ですぞ? ゆめゆめこの名をお落としになされませぬよう」
趙雲と偉度は顔を見合わせた。
「すまぬが、貴殿は人違いをされておる。それがしの名は翊軍将軍・趙子龍。こちらは軍師将軍・諸葛孔明の主簿、胡偉度だ。急用があって、広漢へ向かっているのであるが、水を分けてもらおうと寄ったのだ」
陳は人間が出来ているらしく、それでも失望の色は浮かばせなかった。
ものめずらしそうに、趙雲と偉度を交互に見る。
「諸葛孔明さまのご尊名は、つねづね拝聴しております。そちらのご配下の方でいらっしゃる? なればやはり、歓迎いたしましょう。これ、このお二方を客間へ」
と、陳が家人に命令しようとするのを、趙雲は留めた。
「お待ちを。貴殿はさきほど、われらをどなたと間違われたのか?」
「はあ、劉公子の部将の方かと。貴方様がずいぶんご立派なお方なのでついつい。将軍様とは知らず、ご無礼をいたしました」
お世辞も忘れないところが、世渡り上手だ。
苦笑しつつ、趙雲はさらに尋ねた。
「劉公子というと、劉封どののことかとおもわれるが、この村に滞在されているのか?」
「左様でございます。広漢へむかわれる途中であったのが、なにやら奥の歯が、虫歯になって、公子が寝込まれてしまわれたとか。そこでこの村でお休みなられると」
「虫歯?」
趙雲は、一帯にただよう馥郁とした薫りに鼻をひくつかせつつ、開いた門の向こうに見える、ひときわ明るく篝火が灯された一角を見た。
「あちらは村長の屋敷でございまして、なにせ大勢でいらっしゃいましたので、あちらの家だけでは手が足りず、わたくしめもお手伝いをさせていただいている、というわけでございます」
「イナゴだな…」
「は、なにか仰いましたか?」
陳が怪訝そうにするのも構わず、趙雲は礼を言って、陳家を出た。
と、門の横に、荒い息をしている者が馬と一緒になってへばっており、見ると文偉であった。
趙雲を見送りにきた陳は、文偉の様子にぎょっとしたようだが、趙雲は、これは費家の跡取りであるから、もてなしてやって欲しい、と頼み、村長の屋敷へと向かった。





あたりは暗かったものの、村長の家があまりに明るく賑やかであったので、案内がなくても、趙雲と偉度はまっすぐそこへ向かうことができた。
見ると、村長の家では、劉封の近衛たちが酒宴に興じており、まともに近衛の役目を果たしているものは、一人もいない、という有様であった。
屋敷の周りには近衛兵たちが酔いつぶれ、めいめいが地べたに座り、好き勝手に騒いでいる。
もしも自分の部隊であったら、部隊長は鞭打ちのうえ、全員を一ヶ月の特別調練に送るところだ。
それでも酔ってご機嫌になった近衛兵は、村長の屋敷に入ろうとする趙雲を止めようとやってくる。
が、目が合った途端、近衛兵は顔を強ばらせ、一斉に引き下がった。
「劉副軍中郎将はいずこに?」
近衛兵たちは、みな劉封と同じ年の若者が大半である。
未来の蜀の主の近衛ということで、気が大きくなっているのだろう。
趙雲が睥睨すると、それまで賑やかだったものが、徐々に波紋が広がるように静かになっていった。
近衛兵の一人が、中に居られます、と亀のように首をひっこめつつ言った。

屋敷の中は、さらに乱れた有様となっていた。
家人たちは蜂のように忙しそうに屋敷を動き回り、近衛兵たちの応対に追われている。
みな、自分たちの饗宴に夢中になっており、趙雲の来訪にも気づかない。
さらに奥に入っていくと、村長とおもしき男が、愛想笑いを浮かべつつも、困りきった目をして、おろおろとしているのが目に入った。
見ると、鎧を脱ぎ捨て、大きく胸をはだけさせ、だらしのない姿をさらした劉封が、客間の中央で酒を煽りつつ、あきらかに村娘とわかる、若い娘たちばかりをはべらせて、酒を強要したり、あるいは妓女にするように体に触れようとしたりしている。
さらに、おぼつかない手で楽器に触れ、辛うじて音楽らしきものを奏でている娘に怒鳴るようにして命令をし、あるいは卑猥な冗談をぶつける。
部屋の中央では、着飾った娘に、舞をまわせたりしているのであるが、気の毒な村娘たちは、公子と、その近衛の傍若無人なふるまいに怯えて、どれも、いまにも泣きそうな顔をしているのであった。
そんなこともお構いなしに、劉封と近衛たちは、やんやと下世話な言葉で娘たちを囃し立て、もっと過激な見世物をと、横暴に要求している。
なかでも、すっかり出来上がっている劉封は、声高に言った。
「もっとしっかり腰を振って見せるがいい。もしも俺の目にかなったら、ともに成都に連れて行って、贅沢をさせてやるぞ。運がよければ、俺の妾の一人にしてやってもよい。俺を存分に楽しませてみせろ。未来の帝の義兄の妾となれるのだ。さあ、しけた面をしていないで、もっと派手にやってみせるのだ!」
その声にかぶせるようにして、低い場違いな声が響いた。
「未来の帝、というのは、当然、劉禅さまのことであろうな?」
趙雲の声は、鋭い刃のように、場の空気を両断した。
部将たちは仰天して腰を浮かせる。
娘たちは、驚いて、村長の周囲に駆け寄ると、みんなで集まってしまった。
うろたえる部将たちに、後ろからついてきた偉度が、嫣然とした笑みを浮かべながら、物騒なことを言う。
「わたしが刺客だったら、あんたたちのうちの三人くらいは、まちがいなく軽く首を落としていたね」
劉封は口をあんぐりと開けて、うめくように言う。
「趙…子龍。それと、軍師の主簿か? なぜここに?」
「歯痛のお見舞いだ」
言うと、趙雲は杯を手から離さず、ぼう然としている劉封の胸倉を掴み上げ、そのまま引っ張り上げた。
劉封は、さほど背の高くない青年だ。
趙雲が力づくで引っ張り上げると、ちょうど劉封の足は地面から浮く形となった。
「しばらく見ぬ間に、ずいぶん殊勝になったものではないか。劉家の家督をあきらめて、弟君を支える決意を固めたと見える」
劉封が、蛙のような声をあげて、怯えたまなざしで趙雲を見、酒臭い息を荒く吐き出す。
趙雲は苛立ちをこめて、その身を揺すった。
「いまの問いに答えよ。おまえのいま言った帝、とは、だれのことだ?」
「りゅ…りゅう…」
「劉括、ではないか」
劉封の目が、恐怖で見開かれた。それが答えであった。
「愚かな陰謀に加担したものだな」
趙雲は、このまま劉封の首をへし折ってやりたい凶悪な気分に駆られたが、あとあとのことをおもい、ぐっと我慢をした。
そうして、劉封を投げるようにして、乱暴に床に落とす。
痛みにうめく劉封を、趙雲は冷たく見下ろした。
「魏の細作は、文偉を始末するために成都に入った。しかし大人数なので目立つ。そこで、おまえはかれらが目立たぬよう、妓楼を借り切って、おのれの名を利用して、かれらを匿ってやった。
高級妓楼をおまえが利用できたのは、おまえが金をだしてくれたからではなく、魏がご親切に出資してくれたからだ。
それだけではなく、おまえは軍師の誘拐をも手伝った。そうして向かう先は広漢の終風村。ちがうか?」
「わるいが、こちらにも情報網というものが存在してね、あんたの分かりやすい行動のおかげで、すぐにカラクリがわかったよ」
偉度が口を挟む。
その揶揄するような口調に、部将たちが色めきたったが、まるで平然として、逆にかれらを見回す。
「おや、われらをここで始末して、口止めするか? だとしたら、村人も全員殺さねばなるまいね。そうしたら、さすがに太守が黙っておらぬぞ。
まったく、あんたがたは隠密行動って言葉を知らないのか? さっさと終風村に向かえばよかったのだ。そこでは、魏の仲間が、あんたたちを、もっと楽しく歓迎してくれただろうに」
「偉度、あまり挑発するな」
たしなめて、趙雲は、悔しそうに顔をゆがめる劉封を見下ろした。
「終風村にいるのは、何者だ? 陳羣か?」

陳羣は魏の大物である。
御史中丞の陳長文。
曹操の智者のうちでも、知らぬもののない名家の人間であり、とくに世人のあいだでも、名声の高い男だ。
その大物が、堂々と蜀の地に入り込んでこられたのは、内部の手引きがあればこそだ。
そして、村人がごっそりと呉の細作と入れ替わっている終風村という、格好の隠れ場があり、しかも村の一帯は、盗賊たちの横行する無法地帯である。
魏の人間が嘲弄しているのが、目に浮かぶようであった。
おのれの主張ばかりして、劉備たちが必死で築き上げたものを、あっさり否定してみせる。
とても後継者にはふさわしくない器の持ち主である。
しかし敵からすれば、おおいにありがたい話だろう。
これが劉備の長子よと嘲い、その扱いやすさに呆れている姿も目に浮かんだ。

怒りのまなざしを向け続ける趙雲に、劉封が、唸るように言った。
「わたしがしたことは、『幼なじみ』を歓待したことだけだ」
「ほう、ならば、おまえはいま、どこに向かっているのだ?」
劉封は黙り込み、顔をそむけ、唇を噛んでいる。
だんまりを決め込むらしい。
しかし、趙雲は、劉封をゆっくり問い詰めているつもりはなかった。
時間がない。
腕を伸ばし、ふたたび劉封の胸倉を掴み上げ、そうして、したたかに、その頬を拳で殴りつけた。
ばき、と骨の折れる鈍い音がした。
村娘たちが一斉に悲鳴をあげる。
部将たちが、趙雲の振る舞いにいきり立ち、詰め寄ろうとする。
「鎮まれい!」
趙雲が大音声で呼ばわると、その場のものたちが、一斉にぴたりと口を閉ざした。
異様な静けさが村長の屋敷を包んだ。
視線という視線、すべてが趙雲に集まってくる。
そのどれもが、山林にひそむ虎を見るような、怯えたものであった。
劉封は、というと、床に投げ捨てられたと同時に、鼻と口を押さえて体を震わせている。
両方からそれぞれ血の筋が垂れて、地面にぽたぽたと雫を落としていた。
「此度のこと、俺が成都に帰ったなら、すぐさま主公にご報告申し上げる」
劉封は、おびえながらも、趙雲の言葉に、目をぱちくりとさせている。
趙雲は息を付き、しばしためらったあと、驚異的な忍耐力でもって、もう一度くりかえした。
「よいか、俺が成都に帰ったなら、だ」
劉封は、なにか口にしようとしたが、とつぜんむせ返り、言葉を発することができなくなった。
げえげえと口いっぱいにひろがる血を吐き出し、そして最後に、べえっ、と白いものを吐き出した。
折られた歯であった。
「よかったな、歯痛が治ったではないか」
冷たく言うと、趙雲は踵を返す。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出2005/05/11)

風の終わる場所 12

2021年02月28日 13時45分02秒 | 風の終わる場所


そうして、趙雲は、おもいもかけず胡偉度と二人旅をすることとなった。
とはいえ、もはや旅などとはいえない強行軍である。
互いに、もっとも足の速くて丈夫な馬を用意し、ほとんど取る物もとりあえず、という形で成都を出ようとすると、長星橋のところで、見慣れた青年が、旅装束に身を包み、やはり馬にまたがっていた。
「文偉、おまえもどこかへ出かけるのか」
旅装をしている文偉にそう問いかけると、文偉は、笠を取って、前置きもなしに、いつになく張り切った声で言った。
「わたくしも、お供をさせてください」
おもわず趙雲と偉度は顔を見合わせた。

孔明が魏の細作にさらわれた、という話を知っているのは、いまのところ法正と董和のみである。
趙雲が、騒ぎを大きくするのをきらい、とりあえず二人にしらせたのだ。
法正の判断により、劉備に知らせることは伏せることにした。
劉備はときどきひどく激情に駆られることがあるので、この報を聞けば、広漢に向けて軍を動かす、などと言い出すかもしれない。
趙雲としては、行動が大きくなればなるほど、かかる時間も増えてしまうので、それは避けたいとおもっていた。
最悪の場合は、もちろん軍を動かすことを自分から諸将に訴え、劉備をも動かす。
だが、いまは駄目だ。

董和は、趙雲と偉度に、二人だけで先に終風村に向かうことに対し、慎重であった。
あくまで二人は偵察で向かうのであり、二人での対処が無理と判断したら、早々に引き上げ、援軍を頼むようにと念を押した。
そして董和らしく、誓紙まで取った。
董和も、魏の対応について、疑問を持っているらしい。

たった一人が犠牲になれば、乱世は終わる。
耳のなかに、御者の言ったことばがいつまでも耳に残っている。
そうだろうか。
ほんとうにそんなことが可能なのだろうか。

文偉の真剣そのもののおもいつめた様子に、偉度はあきれて言った。
「まったくバカ坊ちゃん、遊びにいくのではないのだ。このあいだベソかいて帰って来たくせに、また恐ろしい目にわざわざ会いにいくという。
あんたの想い人はさっさと呉に帰ってしまったよ。わかったなら、家に帰って恋文でもしたためているのだね」
偉度の言葉に、文偉は、酢を頬にいっぱい頬張ったような顔をした。
「でも、居ても立ってもいられない。それに、予感がするのだ」
「どんな予感だ」
「あれからわたしもかんがえた。呉と魏は決裂し、呉の細作は故国へ帰っていった。しかし、魏がそれで黙っているだろうか。わたしがもし魏の人間ならば、報復の為に、呉を追いかけるとおもう。もしかしたら、芝蘭は捕らえられてしまったかもしれない」
偉度はあきれて首を振る。
「ああ、いやだいやだ。恋する男の妄想は、妙に筋が通っているだけに厄介だ。悪いがね、あんたとここで論戦を張っている暇はない。わたしたちがどこに行くのか、なぜ知っている」
「…あなた方が幼宰さまのお屋敷にいらしているときに、わたしも休昭の家に遊びに来ていたのだ。知らなかっただろう」
「なるほど。趙将軍、どうなさる?」
どうもこうもない。
文偉は体力に乏しい文官だ。
物見遊山ではあるまいし、付いて来られても、足手まといになるだけだ。
「文偉、帰れ」
それだけ言って、趙雲は文偉から離れると、長星橋を抜けて、一気に成都の郊外へと走り出した。
偉度もそれにつづけてやってくる。
「おや、ついて来ますよ。なかなか根性がある」
ちらりと後方を振り返ると、馬を必死で励ましつつ、懸命に追いついてこようとする文偉の姿があった。
健気なのは認めるが、しかし、いまはその想いに応えている暇はない。
趙雲と偉度は南東に向けて、ひたすら馬を走らせた。






部屋の中は、脱出に使えそうな道具は、徹底して、なにもない。
もちろん、山奥の村の楼閣に、隠し扉などという、気の利いたものはない。
それはそうだろう。
自分が逆の立場だったら、なにもない部屋に閉じ込める。
孔明の手には、いま、陳長文が、自害を促すために残していった短剣がある。
これを使って、なんとかできないだろうか。
そう、天蓋を引き裂き、繋いで、紐にする、とか。
首を括るために用意された絹の糸束が、役に立つ。

さっそく天蓋をはがしにかかった孔明であるが、そこへ、扉がすっと開いた。
同時にぷんと食欲をそそるよい香りがする。
食事が運ばれてきたらしい。
今日中に死ね、と言っている相手に対し、ご馳走を用意する、というのも皮肉ではないか。
陳長文というのは残酷な男だ。
心の中で悪態をつきつつ、見ると、配膳の男は、馬光年や陳長文ではなく、小柄で、風采のあがらぬ青年であった。
一人であったが、孔明に人質に取られることを恐れているのか、腰に立派な剣を携えている。
着物から見える腕の太さからいって、なかなか力の強そうな男だ。
「その布は、脆いので、貴方様が体重をかけたら、すぐに千切れてしまうでしょう」
と、青年は、口元に笑みを浮かべながら言った。
よい声をしているな、というのが、孔明の第一印象であった。
「寝具は同じ材質を使っておりますので、どれを紐にしようと同じこと。補強をするために多く布を取れば、下にたどり着くまでの長さにはならない。無理に紐を作って逃げようとしても、途中で切れて、墜落死。眠れる龍とまで評された貴方様には、ふさわしくない最後となりましょう。ならば、ご立派な最後を選ばれよ」
「立派な最後か。生きようともがくことは、不様だろうか。火花のように鮮やかな最後で散るよりも、ブタになってもしぶとく生き残り、天寿をまっとうしたほうが、ほんとうは尊いことなのではないかとおもうのだが」
青年はこの言葉を聞くと、ちいさく声をたてて笑い、食事の膳を、ちいさな卓へと運ぶ。
そして、さきほど陳長文が置いていき、すぐさま孔明が破壊した毒入りの瓶でよごれた壁を見た。
「お噂以上に、貴殿は凶暴な御仁のようだ」
「活発と言い直していただこう」
青年は、はじめて部屋に入ってきたのか、めずらしそうに周囲を見回し、最後に、文机のうえに手付かずになっていた文庫を見た。
「手紙くらいはお書きなされ。なにかひとことでも、ご一族に遺されないと、かえって恨まれますぞ」
余計なお世話だ、とおもいつつ、孔明は青年の言葉を無視して、欄干から外をながめた。

天蓋の布が脆い、という男の言葉がほんとうだとして、無理に束ねてもこの高さ、下まではとうてい届かないだろう。
だから見張りがいないのだ。
このすぐ下の部屋はどうなっているのだろう。
そのおもいに答えるかのように、すぐ下で、甲冑のものとおぼしき金属音が聞こえてきた。
武装した兵卒が、下で動きまわっている音だ。
楼閣のすぐ下は地面になっていて、砂地の道になっており、ぐるりと土塀が周囲をかこっている。
塀の外はすぐに崖になっており、崖の先には、青々とした木々が、雲のおだやかに流れる青空のもと、風にそよいでいる。
それが果てしなく、地平のかれ方まで続いているのだ。
声を枯らして助けを呼んだとしても、かえってくるのは、こだまばかり。

「貴殿には、たしか、呉に仕官している兄上がおられたはず。そちらに手紙を書かなくてよろしいのですか」
「書くことがない」
孔明はキッパリ言うと、青年は、さらに愉快そうに笑った。
その声につられて孔明が振り返ると、青年は丁寧に、卓の上に膳を配している。
孔明は、その手を見た。
あまり風采のあがらぬ男であるが、手は意外に細長く、うつくしい指をしていた。
「冷めてしまうまえにお食べなさい。だいじょうぶ、毒など入っておりませぬ。もしもお疑いならば、わたくしと半分に分けてたべる、というのは如何か」
「腹が減っては、戦はできぬ、と申す。いただこう」

孔明が素直に卓についたので、青年は畏まって、一歩下がる。
孔明がおどろいたことに、用意された食事は、いずれも蜀の料理ではなく、孔明の故郷である徐州の料理をできうる限り再現したものであった。
心づくしの最後の食事、というわけである。

「兄上と仲がお悪いとは、初耳でございますな。たしか、異腹の兄弟であるのでしたか…羹は熱いのでお気をつけて」
「大事無い、ちょうどよい熱さだ…よくご存知だな。どこにでもある話であろうが、父と叔父はわたしを家長にと遺言された。しかし、兄上はそれを承服されず、いまだにそれを引きずっておられる」
「兄上からすれば、そうおもわれることでしょう。なにゆえ、長男たる自分が健在であるのに、なぜ弟が、と。しかし、仲直りはされたのでは?」
「これからする予定だ。兄上は、わたしが家長の器ではないとおもわれておる。勘気を解くために、いろいろやってみたが、駄目だった。ならば、兄上が納得するような器に、わたし自身を変えればよい。世人が認める男になれば、兄上も納得されようから」
「なるほど、前向きですな。だから貴殿は、劉禅どのに肩入れをされているのでは?」
孔明は、箸を止めてかんがえ込み、それから首を振った。
「いいや。わたしはわたし、若君は若君だ。わたしには兄上が試練であるように、若君には、劉封どのという試練がある。似た試練をもつ者として、もちろん同情はあるが、わたしが若君に肩入れをするのは、同情からではない。
しかし、ずいぶんわたしのことを気にかけてくれるものだな、日が落ちたなら、処刑してしまおうとかんがえている男だというのに。貴殿も、なにか兄弟同士の確執で、悩んでおられるのかね、偽の配膳係」
ほう、と配膳係は眉をしかめた。
孔明は羹をすすりつつ言う。
「水仕事を生業にする者にしては、貴殿の手はあまりに手入れが良すぎる」
「見た者すべてに、『偽者』と言いがかりをつけているのではないのですかな。長文が怒っておりましたよ」
『長文』、か。
「それは失礼、あとでお会いする機会があれば、謝らねばなるまい。ところでニセモノ氏、わたしが食事を終えるまで、そこにいるつもりかね」
するとこれといった特徴のない風貌の男は、腰の剣を手にした。
孔明は、咄嗟に、体を硬くした。
こいつは処刑人か。
しかし、青年は、孔明の様子に頓着するふうでもなく、剣を腰から外すと、深々と孔明に礼を取る。
「たしかにわたくしは配膳係ではございません」
「では、何者かね」
「いまから、舞いをお見せいたします」
そう言うと、青年は袖の始末をして、それから、朗々とした声で歌いながら、見事な舞いを披露しはじめた。
驚いたことに、その口にした歌は、梁父の吟であった。

「歩して斉の城門を出で
 遥に望む 蕩陰の里
 里中に三墳有り
 塁塁として正に相い似たり
 問う是れ誰が家の墓ぞ…」

見事な舞であった。
青年が、どん、と床を踏み鳴らすたびに、あざやかに、幼い頃の徐州の思い出が甦ってくる。
まだ苦しみも悲しみも知らなかった、穏やかな頃の記憶だ。
すべてが終わったとき、孔明は袖で涙をぬぐい、目の前の青年に賞賛の拍手を送った。

「見事であった。これほど見事な男舞を舞える者は、天下にそうはおるまい」
「剣を奪って、わたしを人質に取ることも忘れるほど、でございますか」
青年に言われて、初めて孔明は、そうすることもできたな、とおもった。
だが、すぐに苦笑を浮かべて首を振る。
「甘いといわれるかも知れぬが、これほど見事な芸者に野蛮な振る舞いはできぬ」
青年は、にっこりと嬉しそうに笑うと、ふたたび孔明に礼を取った。
「この舞が、貴方様の最後の慰めになればとおもい、心より舞わせて頂きました」
「ありがとう。しかし、これが最後にはならぬ」
青年は袖から顔をあげ、孔明を見る。
「逃げると仰る?」
「そうだ。貴殿の舞で、故郷の琅邪をおもい出していた。気候のよい、美しいところだ。そこには父がいて、姉たちがいて、弟がいて、幼なじみがいた。わたしは毎日、子犬のようにあちこちを跳ねまわって遊んでいたよ」
「帰りたいとはおもわれませぬのか」
「おもう。天下を安んじることができたなら。だが、ふたたび同じ光景を見ることはできまい。だれもわたしの周りからいなくなってしまった。わたしの故郷を破壊したのは、貴殿らの主君、曹操だ」
「故郷の仇を討つ、と?」
青年に指摘され、孔明は首を振った。

曹操による大虐殺のために、徐州での生活は完全に破壊されてしまった。
その後の流転の生活、荊州に至るまでの恐怖、どれも忘れたことなどない。
だが、それが曹操に仕えなかった理由ではない。

「曹操のしたことは、許されることではない。だが、わたしはそこにこだわっていない」
「ならば、なぜ曹操を拒まれる?」
「北は曹操だけでよいからだ」
青年は、意味が飲み込めなかったのか、眉根を寄せて、かんがえ込む。
しかし、孔明はそれ以上、おしゃべりに興じるつもりはなかった。
見事な舞を披露されたことで、いささか、らしくもなく感傷的になっていたらしい。
「食事をどうもありがとう。夕刻まで時間がないので、一人にしてほしい」
「こう申し上げるのはおかしいかもしれませぬが、お気を落とされますな。貴方様が亡くなられたあとは、劉括さまが天下に平和をもたらすことでしょう」
「そうおもうか?」
その問いに、青年は答えることなく、部屋を去っていった。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出 2005/05/19)

風の終わる場所 11

2020年12月12日 10時02分02秒 | 風の終わる場所
さて、少々時間をさかのぼる。

趙雲は、孔明を迎えにいくべく、出立の支度をすると、その屋敷に向かった。
しかし諸葛家の門番は、趙雲の姿を見て、怪訝そうに眉をしかめた。
「軍師は、趙将軍の自邸にお泊りになったのでは?」
「なんだと?」
「ゆうべ、趙将軍のところから、使いが参りまして…」
と、みなまで言わず、門番の顔色が変わった。
同時に、趙雲の心臓が跳ねた。
まさか。
門番は、やはりこれも偉度によって躾けられた家人であったから、察しのいいところで、自分たちが失態をしたことに気づいたのだ。
そうして、怯えた声で尋ねてくる。
「軍師は、そちらにいらっしゃらなかったのですか?」
「おらぬ。使いというのは、何者だ?」
「いつもの男でございました」
いつもの男、というのは、荊州時代から趙雲が使っている男である。
その男、そういえば、今日は姿を見ていない。
そしてさらに、孔明の馬車を引いていた御者も、屋敷にもどっていないという。
孔明のすべてを理解しているわけではないが、家人に嘘をついてまで、泊まりに行く先があるとはおもえない。
焦る気持ちを抑えつつ偉度に連絡を取ると、さすがに行動がはやく、偉度は成都を出ようとしていた御者と、趙雲の家の家人を捕まえて、屯所へ引っ立ててきた。
屯所に駆けつけると、すでに二人はすべてを吐いたあとであった。

趙雲の顔を見るなり、偉度は前置きもなしに早口で、二人を罵る。
「呆れるじゃありませんか。たった一晩で、こいつら揃って気がちがってしまったらしい。こいつら、魏にそそのかされて、軍師を攫って、連中に渡した、というのですよ。
呆れたことに、連れて行った場所はどこだとおもいます? 広漢の、終風村だというのです」
と、偉度は捕縛した二人を軽蔑しきったまなざしで見下ろす。
捕縛した二人は、趙雲が連絡をうけて駆けつけたときには、すでに拷問を受け、洗いざらい白状したあとであった。
もしも孔明がこの場にいたならば、短慮な真似はするなといって、偉度をきつく叱ったであろう。
情報を素早く引き出せたことを評価しつつも、趙雲は、孔明がいなくなった途端に、これかといささか危うさをおぼえた。

「さあ、将軍に、わたしたちにした話をくりかえすのだ」
裏切った仲間には、容赦はしない、という思考は、偉度の精神に沁みこんでいるようである。
偉度が言うと、かつて仲間であったはずの御者は、のろのろと口を開く。
「俺たちは、天下を救うために、やむを得ずそうしたのだ。あらたな帝をむかえ、漢王朝を再興させるためには、犠牲はやむを得ぬ」
「わけがわからぬ。正気か?」
趙雲が苛立ちの籠もったまなざしを偉度に向けると、偉度は、肩をすくめてみせた。
「まったく、あなたまでおのれを見失ってどうするです。さあ、続きを」
「戦乱の世を終わらせるために、曹公はいまの帝を廃し、あらたに劉氏の帝を迎えることを決められた。しかしそうなれば、皇叔たる主公も黙っておられぬ。またあらたな火種となるであろう。
そこで曹公は、ひそかに育てられていた、主公の長子の劉括さまに、帝位についていただくことを決められたのだ」
「主公の長子だと? 若君のほかに、お子がいて、それがあろうことか、曹操の手元で育てられていた、というのか」
「本来は殺されるところであったのを、陳長文が助けて養育していたのだと聞いた。御年十二になられる、実に聡明な御子だという。曹公は主公の御子を帝につけることで、魏と蜀の融和をはかろうとされているのだ」
「そこで、なぜ犠牲が必要で、おまえたちは軍師を略取せしめたのだ?」
「軍師は、劉括さまの母上を、新野にて捕らえ、処刑したからだ。曹公は、新帝を即位させられるにあたり、我らのこれまでのことは水に流す、ともに来朝し、帝をお助けせよと仰っておられる。だが、帝の母上を殺した者だけは、許すことができぬ、と。
しかし、主公は軍師を厚く信頼しており、この話を持ちかければ、きっとそのようなことはできぬと、曹公のお話自体を蹴る危険性があった。そこで仕方なく、軍師を捕らえ、新帝の母を処刑した罪で処断してから、主公にお知らせすることになったのだ」
「新野で、軍師が母親を処刑? なにかの間違いではないか。あるいは人違いだ。軍師が、たやすく人を処断するとはおもえぬ」
しかし、顔が腫れ上がった御者は、趙雲の問いに首を振った。
「軍師は非情なお方だ。ご母堂が、身分が低いうえに、曹公に仕えていることを知ると、夫に会いに来たところを捕らえ、新野を探っていた細作だと言って、処刑されたのだという」
「そのような話は聞いたことがない」
すぐさま趙雲は否定する。
すると、男も負けじと食い下がる。
「なぜお分かりになる! 四六時中、軍師のそばにいたというのならともかく、軍師のすべてを貴殿が把握しておられるというのか」
「そうだ」
これもまたきっぱり言ってのけると、趙雲は偉度に、表に出るようにと目で知らせた。
その背中に、御者が言葉を浴びせてくる。
「たった一人! たった一人の男が犠牲になれば、乱世が終わり、みなが助かるのだ! これ以上の血を流すことなく、すべてが終わるのだぞ。たった一人の男の命を惜しみ、天下を安んじることのできる機会を、みすみす捨てる、というのか!」





外に出ると、あきれるほど平和なことに、空は晴れ、ゆるやかな風が吹き、それにのって、白い蝶がひらひらと舞っていくのが見えた。
男たちのした話があまりに荒唐無稽でおもいがけなかったために、趙雲は、部屋の外にはいつもの平和な光景があることを、ありがたくおもった。
偉度は、おのれの失態に恥じ入っているのだろう。
それを誤魔化すためでもないだろうが、わざとぶっきらぼうに嘆いてみせる。
「やれやれ、あいつは、わたしなどよりずっと年長で、世間というものをよく知っております。分をわきまえた男だとおもっていたのに、あんなたわ言にたやすくひっかかり、恩人をあっさり敵に売るとは。これだから、人なんてものは、信用しちゃいけない」
「おまえ、それを軍師の前で言うなよ」
わかっています、と偉度は言って、大きく息を整えた。
悪態をついていても、本意ではないのだろう。
「さて、あれだけ言い切ったからには、軍師が新帝の劉括とやらの母親を殺した、なんて話はでまかせと見てよろしいのですね?」
「同じ罪人を処罰するにも、軍師は、女は罪を軽くする傾向がある。新野でも罪人の裁定はしていたが、もしも処刑せねばならぬほどの罪状を犯した女がいたとしたら、それは俺もおぼえているはずだ」
「あなたがしらないところで、そんなことがあったのかもしれない」
「ない。有り得ない…いや、女を処刑したといえば、一度だけ、曹操の刺客が忍び込んだときがあった」

おのれで口にだし、趙雲は電光に打たれたようにおもった。
あの女、むかし袁紹のもとに身を寄せていた劉備の情けを受けたと言っていた。
もし、その女のことを指すのなら?
様子のかわった趙雲を見て、偉度が小首をかしげて、どうしたのかと尋ねてくる。
趙雲は、かつて新野で起こった事件のあらましを話して聞かせた。

「なるほど。さすがに新帝の母が刺客だった、なんて事実は公にできないから、軍師を悪者に仕立て上げているわけか。軍師をさらった理由がわかったところで、なんだって陳長文ともあろう者が、こんな無茶な策謀をめぐらせているのでしょうね。それに、曹操が、憎い敵の子を帝位につけてやる、なんて慈善事業をするとおもいますか」
「有り得ぬ。もし本心だとしたら、曹操は狂ったにちがいない」
ほんとうであれば喜ばしいことだが、趙雲は、曹操という男が、そんな感傷的な真似をするとはおもえなかった。
曹操は武芸や政務のみならず、文芸においても卓越した才能を示している。
おそらくこの世で、もっとも人間というものを冷静に見ている男だ。
だからこそ、新帝の即位、などという話は妄言にしか聞こえなかった。
ほんとうであったら、どれだけ素晴らしいか知れないが、いい話というのは、かならずどこかで人を裏切るものだ。

それが事実だと仮定して、まず、孔明を処断したのち、蜀は無血状態で魏に併呑される。
つづいて、赦す、赦すとはいいながら、馬超たちの立場は危うくなり、結局なんらかの罪をむりやり着せられて、刑場へ引っ立てられる。
そうしてあらかた粛清がおわったあと、魏と蜀の両方を手に入れた曹操は、新帝の後見人としてふたたび権力をふるい、残る呉を平らげるであろう。
結局、曹操が一番得をするのだ。
曹操が、最初に孔明を始末しようとしたのは正しい。
孔明は蜀においての要なのだ。
この要が壊れてしまえば、あとはみなバラバラになってしまい、曹操のおも惑どおりになるだろう。
だから捕らえた。
そして…

「かれらはすぐに軍師を殺さないでしょう」
「なぜわかる」
「曹操は、才能を持つものに厚い。相手がむしろ、曹操だったら幸運ですよ。もしこの策謀を曹操自身がめぐらせているのであれば、おそらく軍師を味方につけるべく、いろいろ懐柔策を用いるとおもうのです」
「金も女も役には立たぬぞ」
「しかし、命がきわめて危うい状況になったらどうです。あの方は、生きるのが大好きな人ですからね、ひとまず生きるためならば、案外、あっさり曹操の前に膝を折るかもしれない。そうして、仲間になったフリをして、わたしたちのことろへもどってくる」
偉度の推理に、趙雲は首を振った。
「軍師は、そのような変節漢のまねごとはせぬ。こと、相手が曹操となれば、全身全霊をかけて、おのれの誇りを見せようとするであろう」
自分で言って、ぞっとした。
孔明はもしかしたら、すでにこの世の者ではないのか?
「まあ、生きていることはたしかだ。もし殺すのが最初からの目的ならば、さっさとその場でそうしていただろうし、おそらく何か他に目的があるのでしょう。さて、こんなところでおしゃべりをしていても仕方がない。行きますよ。もしかしたら、途中で連中に追いつくかもしれない」
「広漢の終風村か…まちがいないのであろうな?」
すると、偉度はちらりと趙雲を見て、艶めいた笑みを浮かべる。
「確認している暇はありませぬ。しかし、どうもこの話は、もっといろいろ裏にあるような気がしてならないのです。根拠はなにもなく、勘なのですが」

つづく……

(サイト・はさみの世界 初掲載日 2005/05/19)

風の終わる場所 10

2020年12月09日 10時00分28秒 | 風の終わる場所
「わたしがここに連れてこられたのは、曹公のご命令か」
「いいえ。すべては我が一存のこと。曹公はなにもご存じない」
「なぜわたしを?」
陳長文は、ちらりと横にいる親子を見る。
成都では行商人に身をやつしていたが、いまはそれぞれ立派な風体をして、特に子供のほうは、まるで公子のように贅沢な衣裳をまとっていた。
愛嬌のある、かわいらしい子供である。
この場の緊迫した空気に、子供の背後に控えている男…父親ではあるまいと孔明は判断した…は畏まっているのに、子供は怖じることなく堂々としている。
劉禅と同じか、すこし年上だろう。
「天下の乱れを憂う士として、貴殿にどうしても話があったのだ。孔明どの…そうお呼びしてもよろしいだろうか…わたしはかつて徐州に身を寄せたこともあり、琅邪に足を向けたこともある。
なにより、以前は劉左将軍にお仕えしていたこともある。いろいろと、共通するところも多い」

陳長文が劉備に仕えていたのは事実だ。
しかし、その意見が聞き入れなかったために、劉備から離れて野に下り、呂布が滅ぼされると曹操に仕えた、という経歴の持ち主だ。
陳長文が魏のなかでも重鎮に上りつめたこともあり、遠慮をして過去を語る者は少ないが、劉備が陳長文を重用しなかったのは、その徹底した現実主義が、肌に合わなかったからだ、と評する者もいる。

そうであろうな、と本人を見て、孔明はおもった。
おおよそ、夢や志のために身を犠牲にしたり、あるいは一族を犠牲にしたりするような身の処し方はできない性質だろう。
だが…

「曹公の命令でないというのなら、わたしを攫ったのは、貴殿の指揮か」
「そうだ」
陳長文は重々しく肯いたが、その言葉に嘘が含まれていることに、孔明はすぐに気づいた。
陳長文はどこか納得していない顔をしている。
それは、孔明が想像していた以上に若かったから、などという単純な理由ではなく、この状況そのものに納得していないようだ。
「わたしは蜀の代表として、貴殿らに召喚を受けた、ということか。
白羽の矢が立ったのは光栄であるが、貴殿らの用件をお聞かせ願いたい。もしも我が意に添わぬような話なのであれば、早急に成都に帰らせていただく。なにせ忙しい身なのでね」
孔明の強がりに、陳長文は苦笑をする。
その顔は、まるで駄々っ子のわがままに困っている父親のようであった。
「帰る必要はない。ここは蜀だ」
「なに?」
「ここは、貴殿が向かおうとしていた、広漢の終風村だ。貴殿の用事なら、我らが済ませよう」
と、陳長文は子供の後ろにひかえる男に促した。
「広漢を『荒らしまわった』盗賊の首領・馬光年だ」

鋭敏な孔明は、陳長文のいわんとすること、魏の思惑をすぐに見破った。
魏は、李巌の焦りと野望につけ込んで、広漢に細作を忍び込ませ、盗賊を組織させ、近隣を荒らしまわらせた。
そうして、広漢を無法地帯にすることで、劉備の名声を落とさせた。
ところが、盗賊の所業にたまりかねた終風村の村人たちが動いたことで、呉の細作が動いてしまう。
魏としては、呉に介入されるのは厄介だった。
そこで手を組むことをもちかける。
おそらく、頃合を見て、かれらも始末するつもりだったにちがいない。
さらにそこへ、費家より文偉がやってくる。
文偉が戸籍のことに触れたことで、馬光年は、策が破綻するのを恐れ、呉の細作の芝蘭が止めるのも聞かず、文偉を殺すことに躍起になる。
ところが、それがきっかけで、呉は魏に不信を抱き、敵に回った。
そのために、魏は大胆に動き回らざるを得なくなった。
だが、目的はなんだ? 
この大掛かりなしかけの動機は?

「貴殿には隠し事はせぬ。真実をすべて明かそう」
「貴殿は何者だ?」
陳長文は眉をしかめて孔明を見る。
孔明はつめたく陳長文を見下ろした。
かぎりない憎悪でもって。
「陳長文といえば、天下に知らぬものはない高潔の士として知られているはずであるが、貴殿は下劣な策で、わが国の民を危険に晒し、悲嘆を味あわせた。斯様な男が、まこと陳長文とはおもえぬ」
「私が偽者だというのかね」
「貴殿がまこと陳長文という証左をみせるがよい。私は、正体のわからぬ無礼者には頭を下げぬ」
それまで、堂々としていた陳長文の表情が、あきらかに不快を大きく表にあらわした。
孔明はそれを見届けると、踵を返して欄干に立つ。
「終風村か。なかなかよいところではないかね。だが、ここは蜀の地、われらが所領。細作ごときが、いつまでもうろついてよきところではない」
「私が、細作だというのか!」
「呉か魏かは知らぬが、下手な芝居はよすがよい」
「愚かなり、諸葛亮! その目は節穴か!」
「さて、人を見る目はあるつもりだがな。このようにわたしを薬で眠らせ、終風村に連れてきたくせに、真実もなにもあったものではない。
おまえたちの呼ぶ真実とは、おそらくひどく軽く、小汚いものであろうな」

言いつつ、孔明は欄干を見下ろした。
あいかわらず人の気配はない。
ここからは人家が見えないから、おそらく村の外れにある建物なのだろう。
終風村の規模はわからないが、魏の細作、あるいは兵士たちが、そこかしこに息を潜めているにちがいない。
おそらく、自分を監視するために。

孔明は、背後にいるこの男が、細作の化けた者などとは、微塵もおもっていなかった。
もし偽者であるならば、陳長文の名を持ち出すことの意味がわからない。
自分を寝返らせるためならば、こんなやり方は逆効果だし、まったく面識のない陳長文を使者に出すよりは、徐庶を出したほうが効果的だと、かれらは知っているはずだ。
孔明と徐庶は、いまだに手紙でやりとりを続けている。
それを魏は掌握しているからである。
狙いが自分ではないとすると、かれらはなにを企んでいるのだろう。

「そこから飛び降りて、鳥のように成都に帰られたら如何か。止めはせぬ」
と、怒りの余韻をなんとか宥めている風情の陳長文は、大きく息をつきながら言った。

なるほど、これで決定した。
狙いはわたしではない。
だが、いい傾向ではないことはたしかだ。
狙いが自分でないとして、なぜここに連れてこられたのか。
そして、なぜ自由にさせている?

「できることならばそうしておりますよ。ところで陳御史中丞、貴殿らの用件をお聞かせいただきましょう」
「食えぬ男だな。おのれが虜になっている状況が、わかっておるのかね」
孔明は沈黙した。
分からないことに迂闊に返事をするべきではない。
「では、時間がないので、早速、最初の話にもどさせてもらうとしよう。前置きは無しだ。貴殿は、伝聞とはちがって、ずいぶん短気な男らしいからな」
「まさか、その話が天下のため、というものではないでしょうな」
孔明は欄干を背もたれにして、山風に髪をなぶらせて陳長文を見た。
わずかな仕草の差も見逃してはならない。
この男の、魏の意図がどこにあるのか見極めなければ。
「時間がないので、よく聞きたまえ。我らは蜀との平和的な統合を目指しているのだ。我らはあまりに長いあいだ、互いに互いの苦しみを増すことに時間も人も費やしてきたとおもわぬか。
民は疲弊し、大地は荒れ果てておる。そのことに、曹公も深く憂いておられる。それは、貴殿の主公も同じであろう。もし、天下万民の納得しうる形での統合が可能になったら、どうかね」
「もはやこれだけ事態が複雑化したなかで、だれもが納得する統合など有り得ぬ。われらは曹操の前には膝は屈せぬぞ」
「有り得ないなどと、なぜ決め付けるのかね」
言いつつ、陳長文は、それまで控えてきた子どもを手招き、側に呼び寄せた。
「この子をよく見たまえ」
言われるまま、孔明は少年を見た。
曹操の息子の一人だろうか。
孔明が目を向けると、その少年は、孔明と陳長文の会話は聞こえていただろうに、人懐っこい笑みを浮かべた。

孔明は、まさか、とその顔を凝視した。
その少年は、育ち盛りであったから、そのうち手足も伸びるであろうとおもわれる。
もし手足が長く伸びきって、顔に男らしさが宿ってきたら…あの特徴的な耳は似なかったけれども、きっと、そっくりになるのではないか。

「劉左将軍の長子であられる。御名は括と申される」
「長子?」
「左様。かつて劉左将軍が袁紹に身を寄せていた際に、寵愛した女人が産み落とされた子である。
曹公は、天下の乱れに憂いたためと、この括さまの明敏かつ稀な大器に感動されて、ついに、この劉姓たる括さまに、漢王朝の帝位についていただくことをご決心なされたのだ。
そこで、貴殿らには、括さまが帝位におつきあそばされる際には、すみやかにその臣となり、洛陽に来朝いただきたい」

あまりの話に、孔明は呆然とした。
同時に、陳長文が嘘をついていることを確信した。
これだけの大きな話を、陳長文ひとりの一存で動かせるはずがない。
曹操が、おのれの築き上げてきたものを、簡単に他人に譲るはずがないのだ。
まして、これほどの天下の乱れを、ある意味だれよりも嫌った曹操という男が、その原因をつくった漢王朝を利用こそすれ、いまさら敬う真似をするはずがない。
曹操も本心のところでは、おもっているはずだ。
いまの状況で、天下はひとつになれはしない、と。

「なぜわたしにこの話をするのです? 正式な使者を立て、まずは劉左将軍にお話をするのが筋というものでしょう」
「劉左将軍にお話をする前に、貴殿にどうしても話をする必要があったからだ」
陳長文は、またも少年を促した。
すると、劉備の長子という少年は、ふところより、何かを取り出し、孔明に向けて差し出した。
外から差し込む光が、少年の手に持つものを鈍く光らせる。
風が吹き、それについた小さな鈴が、揺れて、ちりん、と鳴った。
銀の櫛であった。
「劉括さまのご母堂は、新野において、貴殿によって処刑された」
孔明は、銀の櫛を凝視したまま、陳長文の声を聞いていた。

軍師になったばかりのときに、刺客に命を狙われたことがある。
その刺客こそが、劉括の母というのか。
孔明は劉括の表情を読もうとしたが、おのれの母の仇である孔明をみるまなざしには、なんの表情も浮かんでいない。
孔明は、自分に杯を差し出してきた際の、少年の様子をおもい出していた。
劉禅より年上のはずなのに、たどたどしい口調、ぎこちない仕草。
そうして、あまりに状況を把握していない、この朗らかさ。
ぞっと孔明の背筋に戦慄が走った。
明敏が聞いて呆れる。
この少年は、だれかの助けがない限り、ふつうの生活もおぼつかない者だ。
周囲のことがなにもわからないことをいいことに、利用しようとするその性根が恐ろしい。

孔明は少年に同情したが、不意に少年は孔明に言った。
「余は貴殿を許さぬ」
しかし、そのまなざしには憎しみも嫌悪もない。
ただ、諸葛孔明にはこう言えと、教えられているだけなのだろう。
そうして孔明は、さきほどから陳長文が、くどいほどに『時間がない』と言っている理由について、理解した。
時間がないのは、かれらに時間がないのではなく、孔明に時間がないのだ。
「我らは、劉括さまを主君と仰ぐならば、蜀の臣のこれまでの行状をすべて許す。だが、未来の帝の母を処刑した貴殿だけは、このままにしておくわけにはいかぬ。
しかし、貴殿の名声と、劉左将軍に見せた忠節に鑑み、罪人のごとく引っ立てて、処刑することはせぬ。その代わり、貴殿に死を選ばせてやろう」
そして、後ろに控えていた馬光年が差し出した盆の上には、三つのものが載っていた。
白絹の糸束、短剣、鴆毒であろう液体の入った瓶。
こみ上げてくる怒りを抑えつつ、孔明は言った。
「慈悲深いことよ。どれでも好きな方法を選べ、というのかな」
「貴殿には今日一日の猶予を差し上げよう。もし決心がつかないというのであれば、今宵、日が落ちたあと、貴殿は我が手にて処刑する。
お逃げになろうとはかんがえますな。呉の細作どもは、みんな国へもどっていきましたので、このあたりには我らしかおりませぬ」
陳長文は馬光年より盆を受け取ると、小さな卓に載せて、それから淡々と言う。
「心残りはさぞあろうが、これも運命とあきらめられるがよい。書をしたためることは許すゆえ、いまのうちに遺言でも書いておくのだな。
自害の決意がついたなら、わが部下が表に控えておるゆえ、言うがよい。最後に食べたいものがあれば、それもできうる限り用意させよう」
孔明はそれには返事をせず、陳長文をきつくにらみつけた。
だが陳長文は動じず、さも自分は悪くない、とでも言いたげな顔をして、部屋から去っていった。





だれもいなくなるや、孔明は盆を掴み、壁におもい切り、三つの道具を叩きつけた。
壁に、毒のつくった汚いしみが広がっていく。
孔明は、はげしい怒りに捕らわれていた。
魏に対してもそうであったし、やすやすと、その手に落ちた自分が許せなかった。
そうして、欄干から太陽を見上げる。
まだ日が落ちるまでには、時間がある。
かんがえるのだ。
ここから脱出する方法を。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載・2005/05/19)

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